「ごめんね、急に」
部屋に着いて上着を脱ぐなり、リンウェルはそんなことを言った。
「なに、いいんだ。私も今日は休暇だったからな」
「休暇なのにお邪魔してごめんねってこと。キサラはこの街の誰よりも忙しいんだから」
街で偶然出会ったリンウェルが部屋を訪ねてきたのは、まだ日も高い昼下がりのことだった。
キサラはタルカ池での釣りを終え、その釣果を家へ運んでいるところだった。釣り上げた魚たちをどう調理しようか探っている最中にふと声を掛けられたのだ。
世間話をしていると、何やら腹の虫が鳴る音が聞こえた。昼食は摂ったかと訊ねると、リンウェルは小さくなりながら横に首を振った。さっきまで〈図書の間〉にて本を読んでいて、食事を摂るのも忘れていたらしい。
「なら、うちで食べていくといい。私が何か作ろう。魚料理でよければだが」
「いいの!? 行く!」
きらきらと目を輝かせたリンウェルは大きく頷いた。皆で旅をしていたあの頃を思い出して、思わずふふっと笑みが零れた。
部屋をぐるりと見回してリンウェルは懐かしむように言った。
「キサラのお家来るの久しぶりだね。前はシオンもいたっけ。料理教わりに来たんだよね」
「そうだったな。最近はあまり時間が取れなくてすまないな」
日ごろからリンウェルからはよく声は掛けてもらっている。ただその日は一日訓練の日だったり、外せない会議があったりしてなかなか都合が合わせられないままだ。
「仕方ないよ、キサラが忙しいのは分かってるし。今日会えたのがラッキーなくらい」
「私は珍獣じゃないぞ。会うだけなら宮殿で顔を合わせているだろう」
「それはそうなんだけど、それとこれとは違うっていうか」
不満そうな表情を浮かべるリンウェルはいつもよりも幼く見えた。こういった顔はほかの人の前ではあまりして見せないのだろう。あの頃苦難を共にした自分たち以外には。
不意にリンウェルは立ち上がると、キッチンに立つキサラの隣に並んだ。そして可愛らしく首を傾げて言う。
「ねえ、キサラが料理してるところ見ててもいい? お魚どうやって捌くのかなって」
もちろんだ、とキサラは頷いた。「魚はコツと練習が必要だからな。なんなら今度教えようか?」
「うん、教えてほしい! ついでにおすすめの魚料理も!」
楽しみ! と声を上げるリンウェルはいつも通り、いや、いつも以上に無邪気に顔をほころばせて笑っていた。
そこでふと思い至る。
「何かあったのか?」
そう訊ねると、リンウェルは大きく目を見開いた。
「ど、どうして?」
「いや、なんとなくそう思ってな」
何をどう思ってのことかは自分でも言葉にできない。本当になんとなく、リンウェルが話したいことがあるんじゃないかと直感しただけだった。
少しの沈黙の後、リンウェルの視線が落ちた。
「……そういうつもりはなかったんだけど、でもやっぱり話したいことがあったのかも」
笑顔は苦笑いに変わり、やがて寂しそうな表情へと移っていく。リンウェルがこんな顔をする原因、理由になれるのは一人しかいない。
「ロウと何かあったのか」
リンウェルはううん、と首を振った。
「逆だよ、何もないの。最近会ってないんだ。仕事が忙しいのか違う理由かは分からないけど、そもそもメナンシアに来てないみたい」
リンウェル曰く、ここのところロウはヴィスキントに姿を見せていないらしい。これまでは仕事ついでだとか、たまたま近くを通りがかったからとか理由を付けてふらっと現れていたのに、急に音沙汰がなくなったのだとか。
「もともと連絡とかマメじゃないし、来るときも急だからあまり気にしてなかったんだけどね。でもほら、前は結構な頻度で顔見てたからこうも長く空くとなんていうか、違和感があるっていうか」
そんなふうにリンウェルは言うがその本心は言わずともわかる。その声色から、表情から痛いほど伝わってくる。
「キサラはさ、平気なの?」
リンウェルが言った。
「会わなくても寂しくない? 私たちよりずっと長いこと会ってないでしょ?」
誰に? なんて今更過ぎる問いだ。大きく澄んだ瞳でこうも真っすぐ見つめられてはもはや誤魔化しもきかない。
嘘もすぐに見抜かれてしまうだろうな。寂しくないのではなく、寂しいと口にしていないだけ。リンウェルはきっとそれに気づいている。
「そうだな……」
少しだけ考えて、
「寂しいと思う頻度は少ないかもしれない」
と答えた。
「どうして? 大人だから?」
そうじゃないと首を振る。
「寂しいより、会いたいと思う方が増えたんだ。例えば美味しい料理を食べたとして、それをあの人に伝えたいと思うことが増えた。次会った時の話題にしよう、なんて思ったりな」
次、今度。今はそういうふうに考えられるようになった。別に約束をしたわけではない。でもきっと、相手も同じ気持ちでいるはず。
「今会えないことを嘆くより、次会った時に楽しく過ごせるほうがいいだろう?」
「そっか……」
やっぱり大人だね、とリンウェルは小さく笑った。
「でも」
「でも?」
「それを聞いたら、ますます会ってほしくなっちゃったよ。今度私がテュオハリムを引っ張ってこようかな」
口をへの字に曲げて、リンウェルが言う。
「そのくらいしても罰は当たらないと思う」
「おいおい、一応あれでも領のまとめ役なんだ。私情で周りを振り回すわけにもいかないだろう」
「自分も幸せにできない人がほかの人を幸せになんてできないよ。より良い国を目指すならまずは自分を満たさないと」
もっともなようなことを言われ、つい苦笑した。固い思考の我々には到底思いつかないような考えだ。
完成した昼食を食べながらリンウェルが言った。
「でも羨ましいな。私も大人になりたい。平気な顔して待ってたい」
なるほど、リンウェルには私がそういうふうに見えているのか。どうやら私の忍耐も捨てたものではないらしい。
思わず笑みが零れそうになった。人間、いくら寂しさを紛らす術を身に着けたとしてもいつまでだって我慢できるわけじゃない。空腹を一時的に凌げたとして、一生何も食べないでいることはできない。
「リンウェルに一つアドバイスをやろう」
「アドバイス?」
リンウェルが小さく首を傾げる。
「どうしても我慢できなくなったら、こちらから会いに行くというのも一つの手だぞ」
「……!」
何かを言いかけたリンウェルに、キサラはそっと人差し指を唇に添えた。
聡いリンウェルはその意味をどう捉えただろう。言葉通りのアドバイスか、あるいは――。
いずれにしたって我々は自由なのだ。どこまでも泳ぎ続ける魚たちのように。大空をはばたく鳥たちのように。
会いたい人がいるなら、会いに行けばいい。自分を幸せにするために、その人を幸せにするために。
私たちはそれが叶う。その幸せは食事同様、よく噛み締めるべきものだと私は思う。
終わり