降車できたのは運が良かったと言っていい。何しろ列車が止まって数秒経ってもリンウェルは夢の中にいたのだ。もうそろそろ着く頃だと感覚で分かってはいても、問答無用で襲ってくる睡魔には勝てなかった。苦手な早起きに加えて一人きりの退屈な旅路では、轟音を上げて走る列車すら心地よい揺りかごに思えた。
改札を出て駅舎の外に出れば、一つの濁りもない青空が広がっている。それは普段目にしているものと同じはずなのに、こちらの方がずっと澄み渡って見えるのは、生まれ育った場所という贔屓目のせいに違いない。
「ううー……ん」
リンウェルはぐぐっと大きな伸びをして凝り固まった肩を解し終わると、辺りをきょろきょろと見回した。ここが生家から最寄りの駅であるとはいえ歩いて辿り着くのは些か無謀というもので、バスにしたってこんな田舎町ではラッシュの朝と夕方に数本走っている程度に過ぎない。列車の到着時刻に合わせて家族に迎えを頼んでいたのだが、それらしい車は見当たらずリンウェルは動揺する。
(時間、間違ってたかな)
スカートのポケットに入れっぱなしだった端末を取り出そうとして、ふと自分を呼ぶ声に気づいた。
「おーい、リンウェルー」
その声の方を見やれば、家族でないにしろやはり見慣れた男が車から降りてくるところだった。
「ロウ!」
思わず駆け寄ると、ロウも端末を手にこちらへと向かってくる。
「連絡、見なかったのかよ」
「え? そんなのあった?」
覚えのないことにリンウェルが首を傾げると、ロウは少し呆れながら嘆息する。
「まあいいや、乗れよ」
ロウが示したのは黒の大型SUVで、主にロウの父親が乗っているものだ。数年前に買い換えて、リンウェルも何度も乗せてもらったことがある。
「え、これ、ロウが運転してきたの?」
「じゃなきゃどうやってここに来たんだよ」
確かに運転席にも後ろにも他に人影はない。
不審がるリンウェルをよそに、ロウは既に荷物を積み終えて運転席へ向かっていた。早くしろよと言わんばかりの視線を投げられて、リンウェルは戸惑う。
「えーと、これどっち乗ったらいいの?」
「好きなほうでいい」
判断すらこちらに投げられてしまい、リンウェルは数秒彷徨わせた手を助手席のドアへ掛けた。
駅を出て数分も経たないうち、辺りは田園風景と化した。
リンウェルが今住んでいる街とは大違いであるが、こちらの方がなじみ深くどこか落ち着く。
「結構時間かかったろ」
「まあね。朝5時に家出たのに、着くのはお昼過ぎちゃうもん」
地元が田舎町であることは自覚していたが、これだけ離れていると頻繁に帰ろうという気にもなれない。航空機に特急列車という交通費だけで少なくともひと月分の食費は消えるだろう。この半年は大学の雰囲気に慣れるので手いっぱいでバイト先も見つけられていない。拝むほどありがたい仕送りをただ指定席に座っているだけの半日に換えてしまうのは少し、というかかなり勿体ない。
「いいよなぁ、学生は。俺なんか夏休みもないぜ」
ロウにはどうやら、この週のど真ん中から大きな荷物を抱えて帰ってくる様が相当悠長なものに見えたらしい。言葉の端に少しの皮肉を感じてしまったのは自分にもうっすらとその覚えがあるからなのだろうか。とはいえ将来のためにと決めた進路を怠け者扱いされては堪らない。
「私は勉強しに行ってるの。ロウはそんなの嫌でしょ」
「ぜってー無理」
ほら見たことかと肘で軽く小突いてやれば、ロウが小さく笑ったのが分かった。
フロントガラスを眺めるふりをして、リンウェルはロウの横顔を盗み見る。しばらくぶりの再会とはいえ、ハンドルに手を掛けるその姿は知らない男の人のようにも見えた。肩までたくし上げたTシャツの袖から伸びる腕も、なんだか数段たくましくなった気がする。
誰もいない交差点で信号が赤に灯ると、ふと視線がかち合った。凝視してしまっていたことを隠すようにリンウェルは口を開く。
「そ、そういえば免許、取ってたんだっけ」
「今さら何言ってんだよ。春休みに教習所通ってただろ」
そう言われてみればそうだったかもしれない。あの頃は自分の大学受験や住まい探しやらで忙しく、そんな世間話も右から左だった。
「こんな田舎じゃ車持ってねえと仕事にならねーからな」
これは親父の車だけど、と付け加えてロウは再びハンドルを切る。明らかに慣れたその動作から、ほぼ毎日繰り返している動作なのだろうなという察しはついた。
「仕事はどう? 楽しい?」
「楽しいわけあるかよ。親父に怒鳴られてばっかだぜ」
その光景が今にも目に浮かんでくるようで、リンウェルは思わず声を上げて笑ってしまう。
ロウは高校を卒業後、父親が経営している建設関係の会社に就職した。社長の息子という立場でありながら、ロウの父親が「社長を継ぐための経営論」などというものを学ばせるはずもなく、ロウは他の社員と同じく現場へと駆り出されている。主に肉体を酷使する職ではあるが、その方が自分には合っているとロウは言っていた。それは入社から数か月たった今も変わらないのだろう、先ほどの言葉からも悲壮感は感じられない。
「元気そうでよかった。今日は? 仕事お休み?」
「午後から休み取った。どっかの誰かの迎え頼まれたんだよ」
「え、もしかして、それってわたし?」
恐る恐るリンウェルが端末を取り出してメッセージを確認してみると、そこには確かにロウからの連絡が入っていた。その時はちょうど列車に揺られて船を漕いでいた頃だろう。
「ごめん。折角の貴重なお休みを……」
「親父も行ってやれって言ったんだよ。それに、そこは違うだろ」
「……あ、ありがとう」
ございます、と小さくなっていくリンウェルの声にロウはけらけらと笑った。
「もうすぐ着く」
リンウェルにだって分かりきったことを言いながら、ロウはこちら側の窓を少し開けた。入ってくる風はひんやりしていて、懐かしい香りを乗せている。
「気持ちいい~」
髪が乱れるのすら心地よくて、リンウェルはそれを一心に浴びる。
父親もドライブ好きとあって昔から車に乗るのが好きだった。飛行機や列車も嫌いではないが、車ほどの高揚感はない。今窓の外を流れていく景色だってもう何度も見た光景であるのに、どうしてこうも目が離せないのだろう。
それももうすぐ終わってしまう。もう少し味わっていたかったな、と思うと同時にリンウェルは思いついたことを口にする。
「ねえ、ロウって夜も運転できる?」
「あ? そりゃ出来るけど……」
「車は? 借りられる?」
「親父に聞けば……って、どうしたんだよ」
「夜、ドライブに行きたい!」
唐突なリンウェルの叫びにも似た願いに気圧されたのだろうか、それを聞いたロウはおう、と小さく頷くだけだった。
結局、二人と車の都合がついたのはそれから3日後のことだった。
娘の単なる帰省に親戚中を搔き集めたような宴会が開かれたのが初日の夜のこと。これは盛大なもてなしだぞとリンウェルは小さく期待したが、翌日からは特にもてはやされることもなくいたって普通の生活が始まった。それでも食事は用意されるし洗濯も手伝えはすれど自分ですべてをやる必要もない。親のありがたみを全身で感じながら、リンウェルは実家生活を満喫している。
「じゃあ、行ってくるね。ロウは明日も仕事らしいから、そこまで遅くはならないよ」
「そう。気を付けてね」
母に見送られ、自宅を後にする。ほんの十数メートルしか離れていないロウの家の前には、例の黒い車が停められており、ロウは既に運転席にいた。
「2分遅刻」
「ごめんって。じゃあ、行こっか!」
助手席に乗り込みながらリンウェルがシートベルトをすると、ロウは車を発進させる。夕方とはいえまだ真夏の最中だ、日が落ちてから時間は経っているが辺りはまだ明るい。
「ねえ、どこまで行くの?」
「コンビニ」
「えっ! すぐそこじゃん!」
「ちげえよ、飲みものとか欲しいだろ」
そっか、とリンウェルは納得して財布の準備を始める。
夕飯は済ませてきたとはいえ、確かに途中で喉が渇くかもしれない。逆に考えれば、飲みものが欲しくなるくらい、長い時間のドライブになる可能性があるということだ。一気に興奮が喉元まで込み上げてくるのを感じて、リンウェルは必死で口元に力を込める。緩み切ったそれを誤魔化すのに、咳払いまで登場するとは流石に予想もしていなかったが。
そうこうしているうちに最寄りのコンビニエンスストアに着くと、二人は飲料の調達を済ませた。
「ごめん、払ってもらっちゃって」
「いいんだよ。俺、社会人だからな」
今にも鼻を鳴らす音が聞こえてきそうな言い様にほんの少し腹も立つが、事実なので言い返すこともできない。レジ袋から買ったばかりのオレンジジュースを取り出して、感じた微量の不満を飲み込むようにリンウェルは一口つける。
「ロウは? 今飲む?」
「俺は後でいい」
特に興味もなさそうに答えるのがやはりおもしろくない。
気分を上げているのは自分だけなのかと小さく口を尖らせて、リンウェルは窓の外を眺めることにした。
立ち並ぶ街灯が次から次に流れていく。その頻度も少なくなってくると、いよいよ町を抜けたようだ。
「ねえ、窓開けていい?」
「おう」
リンウェルよりも先にロウが手元を操作すると、ひょおっと音を立てて風が舞い込んでくる。吸い込む間もなく身体に染みわたる夜の匂いは一瞬で過ぎ去っていくが、リンウェルはその余韻を余すことなく楽しんでいた。
「あーあ、内緒で抜け出してくればよかったかな」
強い風に紛れてリンウェルはそんなことを呟く。
「なんでだよ」
「だって、そっちの方がドキドキするじゃん」
今日は友達と遊びに行くような調子で見送られたが、家族に知られないよう夜中にこっそり家を抜け出すという行為に憧れてしまう。朝には何事もなかったかのようにベッドに戻り、何食わぬ顔でリビングに現れてみたいのだ。
「なんかちょっとオトナっぽくない?」
イタズラ顔でそう笑うリンウェルだったが、ロウは呆れた表情であのなあ、と溜息をついた。
「連絡もなしに夜中にお前がいなくなってんのに気づいたら大騒ぎだろ。お前の親父さんなら、うちにも駆け込んでくるぞ」
たしかに、とリンウェルは閉口する。それでロウもいないことに気づかれ、二人で長いお説教を食らうところまでがはっきりと見えた。
「こないだもそうだったけど、ちゃんと連絡に気ぃ配れ。社会人の基本だぞ」
「……わたしまだ学生だもん」
いずれはそうなるだろ、と言われてしまえばぐうの音も出ない。ロウから痛いところを突かれ、リンウェルは先ほどよりも大きく口を尖らせた。
大人みたいなことを言われるなんて想像もしていなかった。ロウなら「楽しそうだなそれ」と笑って同意してくれると思っていた。
リンウェルはその横顔を今度は堂々と見つめてみる。ハンドルに手を掛けて、あちこちミラーに目をやるロウはやはり知らない人に見えた。
「あ、さっき買ったやつくれ」
ドリンクホルダーに放置されていた缶のコーヒーは時間も経ってすっかりぬるくなっていた。リンウェルがタブを開けて手渡すと、ロウはそれを一気に半分ほど飲み干す。
「ブラックなんて飲むんだね」
自分はせいぜい微糖がいいところで、ミルク入りでないと正直飲む気がしない。
またお得意の「俺は社会人だからな」とでも返されるのかと思いきや、ロウは予想外にも舌をべっと出して文字通り苦い顔をしてみせた。
「うわ、マジだ。いつものノリで買っちまった」
「好きなんじゃないの?」
「好きじゃねえよこんな苦いの。朝コンビニ寄ったら眠気覚ましに飲むだけだ」
うげえ、と眉を寄せて缶に口をつける姿は、まるで子供が苦い薬を飲まされているみたいだ。
「ふふっ」
先ほどまでそれらしいことを言っていたロウが、コーヒー一つで子供に戻ってくるのがリンウェルには酷く可笑しく思える。同時に、まだロウも自分の手の届く範囲にいると知って安心もした。これ以上一人で遠くに行かれては困る。自分も一緒に連れて行ってくれないと。
「ちょっと! 向こうで花火上がってるよ!」
「あーもうそんな時期か」
遠くに見えるそれはどこかの街の夏祭りのフィナーレを飾るものだろう。打ち上げられる色とりどりの花火は統一感のない花束のようにも見えて、リンウェルは食い入るようにそれを見つめた。
「もっと近づくか?」
「ううん、いい」
今さら会場へと車を走らせたところで間に合うはずもない。それに今いるここが何よりも素敵な貸し切り会場だと思った。
ちょっと寄り道、と言ってロウが車を停めたのはたまたま見かけた自販機の傍だ。お口直しと言えば聞こえはいいが、要するに先ほどのコーヒーを上書きしたいらしく、ロウは甘い炭酸飲料を手に戻ってきた。
「すごい、花火まだやってるよ」
「結構金かかってんじゃねえ?」
夢の無いことを、と思いながら、自分もあの色はナトリウムかなと考えているあたり台無しだ。
「……今度花火行こうぜ」
「いいよ」
何の迷いもなくリンウェルはそう答えたが、問うた方は穏やかではなかったらしい。ふたりで、と小さく付け加えられると流石に雰囲気でその意味を察した。
いいよ、という返事を繰り返す代わりに、リンウェルはロウが買ってきた炭酸飲料のボトルを奪い取る。一度開けられたそれに躊躇うことなく口を付ければ、その甘さにかっと頬が熱くなるのを感じた。
終わり