〈白い〉シリーズその3(終)。二人がくっつくまで、そしてその後。

白い翼

かつてはアルフェンたちと世界をともに巡っていたとはいえ、その時と今とでは大きく状況は違う。
レナに支配されていた時のように兵士があちこちを見張っているとかそういった脅威はもうなくなったのだが、相変わらず”はぐれ”たちはその辺をうろついているし、遺跡の残る場所なんてのは大体たどり着くための道も険しい。
ロウが心配したのはリンウェルの体力のことだ。ロウは元々各地を渡り歩く形で住民の依頼を受けていたがそのほとんどは力仕事だ。だから以前旅をしていた時よりも筋力も体力もついた。自分で実感できるほどなのだから間違いない。
一方でリンウェルはヴィスキントで研究を中心とした生活をしていたはずだ。顔を合わせたのは数か月に一度ほどとはいえ会うのは毎回研究棟の中で、本人も「最近あまり外に出てないかも」なんてのんきに言っていたのを覚えている。
そんなリンウェルが以前みたいに旅ができるのだろうか。辛いからやっぱり帰る、なんて言い出したらどうしたものかとあらぬ心配をロウはしていた。

結果から言えばそれは意外な形で裏切られることになった。
まず、リンウェルは強かった。戦闘において一切の無駄がない。確実に攻撃を当て、敵を粉砕する。
本人曰く、旅の計画を始めてから研究の合間の時間を見つけてはヴィスキントの修練場に通ったのだそうだ。ただ修練を積むだけでなく、どの距離どのタイミングで術を放てば効果的なのかを徹底的に訓練したのだという。「ロウに任せてばかりいられないでしょ」とリンウェルは言うが実際ロウが片づけるのはリンウェルが強大な一撃を放った後に残ったほとんど虫の息のズーグルばかりで、それを葬ったところでロウには少しの格好のつけようもなかった。
リンウェルは効率的に敵を狩る術を身に着けただけでなく、己の体力の低さもきちんとわきまえていた。「大事なのは続けることだから」と決して無理はしない。前日の夜にはロウと相談して次の日のルートをおおよそ決定し、その通りに進む。急遽天候が悪くなったり、道が崩れていたりしたときは引き返して時間がかかってもできるだけ安全で確実な道を選んだ。
道中ロウが依頼を受けることになっても二人での基本行動は変わらない。寧ろズーグル討伐なんかは攻略が早くなってかなり助かっている。その分商隊の警護なんかは受けづらくなったが、自分たちの進むルートと重なればついでにと手伝うこともあった。

「この旅、あんまり不便ないよね」
まったく同じことを考えていたので、心を読まれてしまったのかとロウは一瞬冷や汗をかいた。
リンウェルは昼食用にと串焼き肉を火にかけている。その手元では小さなナイフを動かし、真っ赤なリンゴをウサギの形に変えていた。先ほど出会った商人から仕入れた新鮮なやつだ。
「だって食料に困ったことないし」
リンウェルが言ったのはそういう意味だったらしい。
「旅先で飢え死には勘弁だな」
「旅先でなくても嫌だよ!」
言われてみればそうかとロウは軽率な返しをした自分に反省する。

二人が休憩を取っているのはミハグサールの南側。首府ニズからさらに南方へと向かった地域にある野営ポイントだ。といってもそれ自体はまだ作られて間もないもので、おそらく住民の住める地帯を探しに来たどこかの隊が使用したものだろう。だが周辺に人の住んでいる気配はなく、まだ開拓も進んでいないので”はぐれ”も多い。先ほど辺りをうろつく何匹かのウルフをリンウェルと一掃したところだ。
「遺跡はもう近いのか?」
「うん、多分そんなに離れてないよ」
今回の目的は古代の遺跡の内部調査だ。ニズでそんな風な建物を見たという商人がいた。話を聞いたリンウェル曰く、まだほとんど知られていない遺跡の一つではないかという話だ。
「あー楽しみ!まだ人が入っていないかと思うと、どんな発見があるか……ふふふ」
「罠だらけのダンジョンだったりしてな」
「可能性はあるね。ロウに先に進んでもらお」
「人を囮にすんな」
リンウェルは遺跡が近づくと機嫌が良くなる。いつもは機嫌が悪いのかといえばそうではないが、軽く済ますはずの昼食に貴重な牛肉を出すくらいには今日の彼女は高揚しているみたいだ。
ロウが頭の後ろで手を組み空を仰ぐと肉の焼けるいい匂いがする。その元を辿っていくとリンウェルが鼻歌交じりに串をひっくり返しているところだった。

幼い頃に同じような光景を見た気がする。
お袋が台所に立って料理をしていた。その表情は柔らかくて、どこか幸せそうで。
その姿がぼんやりとリンウェルに重なる。

こんな風にリンウェルを見てしまうことにロウは初めこそ罪悪感を抱いたが、今となってはもうどうしようもないと観念している。寧ろ想像するくらい許してほしいと開き直りすらしている。
ヴィスキントを出てからここまできっと想いを伝えるチャンスは何度もあっただろう。ロウがそれをしなかったのは、ひとえにこれから続くはずの旅路を途切れさせたくなかったからだ。これはリンウェルの夢でもあって、それを変な形で終わらせたり気まずいものにしたくないという気持ちが強い。
リンウェルを応援したい。以前彼女が俺を見守ってくれていたように。
そんな風に体のいい理由をそれらしく並べてみるが、結局は自分の勇気の無さを強調することにしかならない気もする。怖いのだ、何かを変えることが。誰だって心地よい風に吹かれていたい。わざわざ嵐が吹き荒れる道に入っていきたいとは思わないだろう。
情けない、と小さな溜息をついたところでロウの目の前にすっと皿が差し出される。香ばしい香りの串焼き肉と、三つ並んだウサギリンゴ。
「はい、おまたせしました~」
ロウの気持ちをつゆほども知らない彼女がウエイトレスよろしく畏まるのを見て、そういうとこなんだよなあとロウは思った。


「あれ、フルルは?」
「フルルなら先に遺跡の方見てくるって飛んでいったよ」
この旅にはフルルも同行している。あれから少し成長したフルルはリンウェルのフードに隠れるというわけにもいかないので、基本は飛んで付いてきている。これがまたとても役立っていて、どうしても二人だとすべての方向に気を付けて進むことができないため、フルルは空から危険が迫っていないか注視してくれているのだ。それでも長時間飛んで疲れたときはロウの肩で羽を休めたりもしているが、あの頃よりも一回りも二回りも大きくなったフルルはなかなかに重たく、肩の狼側に居られるとロウが傾いてしまうほどだ。それを見てリンウェルがあまりに楽しそうに笑うものだから、ロウはまあいいかと振り払うでもなくそのままにしている。

遺跡に付くと入口らしい門の上でフルルが待っていた。その様子を見るにどうやら心配していたような危険はないらしい。
「よーし!まずは大きさの確認から!」
鼻息を荒くしてリンウェルが意気揚々と道を進んでいく。ロウはというと食料などの作業に必要ない荷物をすべて持たされ、かつ安全な休憩場所を探しつつその背を追っていく。もはや完全なる小間使いだが、これは以前リンウェルと行っていたフィールドワークでも同じようなことをさせられていたので今更文句のつけようもない。
門の先に進むと石造りの大きな建物のようなものがあって、中に入るための珍しく入口も確保されていた。これまでもいくつか遺跡は見てきたが、大抵災害で崩れた瓦礫を掻きわけるか盗賊が無理やり開けたような穴から侵入することが多かった。今回は本当に人の手が入っていないのかもしれない。
建物に入ってすぐの場所にロウは荷物を置いた。思っていた以上に広い空間で、地面もしっかりしている。足場が崩れるということもなさそうだ。転がった岩を椅子代わりにすれば軽く休憩も取れるだろうと思ったが、岩だろうと草だろうと勝手に動かすとリンウェルが怒るのでそれは許可を取ってから考えることにした。
リンウェルはというとその姿はなく、うわー!だとかすごーい!だとかそういった声だけが聞こえてくる。どうやらリンウェルのいた空間は壁で仕切られた部屋のようになっているらしく、ロウがそこを覗き込むと何かの割れた破片に夢中になるリンウェルの姿があった。
「当時の食器かなあ!意匠が凝ってる……貴族とか地位の高い人の部屋かも!」
半分くらいは独り言だとわかっているのでロウは何も言わないが、楽しそうなリンウェルを見るのは悪くない。夢中になりすぎるなよ、とだけ言ってロウは荷物番へと戻ることにする。この大きさの遺跡にさっきみたいな部屋がいくつもあるのかと考えたら今回の調査は長くなりそうだ。今のうちに飲み水でも確保しておくかとロウは二人分の水筒を持って外へと向かった。

ロウが戻ってくると、遺跡の奥のほうでリンウェルが壁の上を見上げて唸っているところだった。
その目線の先の天上には穴が開いており、その上にもさらに空間が広がっているようだ。
「なんだ、上に行きたいのか?」
「そうなんだけど、梯子も降りてないしどうしようかなって」
テュオハリムがいたときは蔦を伸ばしてもらっていたが、今はそういった芸当は使えない。
少し考えて、ロウはそれなら、とある方法を思いついた。
「お前あっちから走って来いよ。んで、俺が上にぎゅんって持ち上げるから」
「えっ?どういうこと?」
つまりは勢いをつけて掌の上に乗ったリンウェルをロウが上まで持ち上げるというかぶん投げるというかそういった方法だったのだが、それがリンウェルに伝わるまでは結構な時間がかかった。
私重いよ?とかロウは大丈夫?とか心配するリンウェルの背中をぐいぐいと向こうまで押しやってようやく本人をやる気にさせる。俺がなんのために鍛えてきたんだと言って聞かせてやりたかったが、確かにこういう用途は考えてなかったなと思い直して、とりあえずやってみなきゃわかんねえだろとロウは胸を叩いた。
「じゃあ、いくよ!」
「よし来い!」
リンウェルが加速して地を蹴り上げる。ロウが組んだ手にその体重が乗ったのを確認すると、全身をばねみたいに使って上へと押し上げた。
「おりゃあっ!」
時間にしたらそれはほんの一瞬だったが、ロウにはスローモーションのように映った。短冊みたいな服が目の前でぶわっと広がったなと思った時には、リンウェルはその天上の穴に吸い込まれていくように見えた。
「やった!ちゃんといけた!ありがとう!」
上から元気な声が聞こえてきて一安心する。
「気をつけろよ。ズーグルとか罠とかあるかもしれねえだろ」
「うん、わかってるー!」
「フルルルゥ」
いつの間にか戻ってきていたフルルもはしゃぐリンウェルを追いかけるようにしてその穴の向こうへと消えていった。その目は、リンウェルは任せろと言わんばかりだったが、ロウは上に登る手段を持ち合わせていない。いつもは共闘体制の二人だが、今回ばかりはその役目をフルルに一任することにした。

赤くなり始めた空を見て、ロウがそろそろ夕飯の支度でもするかと考えているとちょうどリンウェルが上から降りてきた。
「……降りるのは普通にできるのな」
「え、それはそうでしょ」
もしかしたら、「怖いから抱きとめて」なんて言われるのではないかと内心ドキドキしていたのに、こうもさらりと流されてしまってはもう何も言えない。
「どうだった?何か面白いもんは見つかったか?」
「うん、上も思ったより広くてスケッチするのに時間かかっちゃった」
パラパラとリンウェルが開いたページにはいくつもの絵が描かれている。壁に彫られている意匠や装飾品は建物が建てられた年代を推測するのにとても重要な要素なのだとリンウェルは言っていた。
絵なんて描いたこともないロウでもそのスケッチがとても上手いということはわかる。よくあの短時間でこれだけの絵を描いてこれるものだ。
「お前って、すごいよな」
「すごくないよ。全然」
なんとなくリンウェルの元気がないように見える。上の階に上がれてあんなに喜んでいたのに。
「どうかしたか?」
元気なくないか?と声をかけるが、そんなことないよとリンウェルは首を振った。何か理由があってもそれを口にしないところを見ると、聞かないほうがいいのかとも思ってロウは深く掘り下げないことにした。

リンウェルの機嫌は次第に戻っていった。夕食後のアイスクリームが効いたのか、先ほど見えていた小さな影はもうすっかり消えてしまっているように見える。
「明日はどうすんだ?まあもうすでに予定は狂っちまってるけど」
ロウがそう切り出すとリンウェルは忘れていたことを思い出したようにハッとして、本当にごめんと小さくなる。
本当なら遺跡のおおよその広さや部屋の数などを確認したら今夜にはニズに戻る予定だったのだ。
だが長期間人の入った形跡のない”新品の遺跡”にリンウェルのテンションは上がり続け、ついにはそういった計画も忘れてついつい調査に没頭してしまった。
「だって広いんだもん!こんなの全部見て回れないよ!」
「まあなんとなくこうなる気はしてたけどな」
ロウもそれを責める気など毛頭ない。こんな幸せそうに怒っているリンウェルを可愛いなとさえ思っている。
「今日はもうここで野営ね。それで、明日こそニズで宿泊」
「ルートは?今日来た道そのままでいいのか?」
「そうだね、戻ってみて本当に安全かどうか確かめようかな」
「了解」
リンウェルの遺跡調査には現場の下見の意味もあった。歴史的価値の高い遺跡だとわかれば改めて研究員が派遣される可能性もある。そのためにはここに辿り着くためのある程度のルートは確保しておかなければならない。他にもそれにかかる時間や日数の把握、必要な物資の検討なども調査に含まれている。さすがに頑張りすぎではと思うこともあったが、本人曰く「かかる時間も大体でいいし、必要なものも自分の主観だからそんなに大変じゃないよ」とのことでロウの心配はすうっと流されてしまうのだった。

大変じゃないというのもリンウェルの心が勝手に思っていることで、体の方はというと当然のごとく悲鳴を上げる。悲鳴といっても風邪を引いたり倒れたりということは無かったが、リンウェルはよく寝落ちた。
今夜も「もう少しだけ」と焚火を明かりに自分のスケッチを眺めていたが、いつの間に力尽きたのかそれを抱きしめるようにして眠りについていた。なんとなくそうなる気がしてロウも眠らずに星の見えるところで軽く体を動かしていたのだが、こうも無防備に眠られてはいよいよリンウェルの警戒心だとかそういったものを疑いたくなってくる。異性として見られていないといえばそうなのかもしれないが、もしここに他によろしくない輩がいたらどうだろう。いつだって襲う側には襲われる側の事情などまったくもって関係のないことなのだ。
「……俺でよかったな」
すうすうと寝息を立てるリンウェルに恨み言を吐いてみるが、当然返事はない。
まじまじとその寝姿を眺めてみるが、リンウェルの髪は肩にまで伸びていて年齢よりもずっと大人びて見えた。表情を覆うかのように垂らした前髪も今は小さな夜風に揺れてリンウェルの輪郭を撫でるだけで、彼女の愛しい寝顔を隠すものは何もなかった。
無意識にそれに触れようとした手を遮るようにどこからかフル、という声が聞こえてくる。
思わず手をひっこめて後ろを振り返ると、白くて丸い彼女の使い魔がもの言いたげにこちらを見つめていた。
「なんだよ、おどかすなよ」
フル!と広げた翼は何かを主張しているようで、その足元に目をやると紙切れのようななにかが落ちていた。拾い上げてみるとそれは少し厚い紙で、表面にはぺしゃんこになった花が貼り付けられている。上に開いた穴に黄緑のリボンが通されていて、自然のものではないとわかったがこれが一体何なのかロウには見当がつかない。使い古されてはいるがこの遺跡のものというほど古くもなくて、じゃあ誰かがここに落としていったものなのだろうか。そうであっても自分には持ち主を探すこともできないし、きっとそいつもこんな紙切れのことなど忘れているだろう。捨ておいても問題ないように思う。
「フル!フルル、フル」
そうはさせまいとまた何かを言い始めたフルルの動きをロウはよくよく観察してみた。
「フルル、フル」
「……リンウェル、……本?」
翼の指す先は相変わらず気持ちのいい寝息を立て続ける彼女で、確かにそれは胸に抱えた大きな本も示している。
そういえば、以前アルフェンたちと旅をしているときに本からなにかはみ出ていた気がする。確かにこういう形だったなとロウは納得し、これがリンウェルのものだという風にとったが、だったらなぜフルルはそれを自分に持ってきたのだろう。リンウェルのものというなら本人にそのまま返せばいいはずだ。
「フル」
こっちにこい、と言いたげにその翼を翻してフルルは遺跡の中へとロウを誘う。わけもわからずそのあとに続くと、フルルは崩れた壁岩の瓦礫の中で揺れる小さな花をロウに示した。
先ほどの紙に貼り付けられていた花と同じだと気づいて、ロウはハッとする。この花には見覚えがあった。リンウェルと旅をする前にミハグサールで見かけた花だ。岩ばかりだと思っていた道で、その隙間から草花が生えていた。植物もたくましいなと思ったところで、やけに大きなダナフクロウがリンウェルからの手紙を届けに現れた。ちょうどいいやとそれを手折り、ダナフクロウに持たせてやった――。
「これって、その時の花ってことか」
フル、とフルルは頷くと役目を終えたと言わんばかりに鼻を鳴らし、そのままロウの肩に止まる。
やけにそれが重たく感じられたが、それを振り払う気にもなれなくて甘んじることにした。

   ◇

リンウェルが一度研究棟に報告書を出したいというので、ニズを出た後はメナンシアを目指して北上することにした。かつては険しい山道が続く難所ではあったが頻繁に行き来する商隊のためと道の整備が行われ、今ではかなり往来がしやすくなった。それにはロウも”はぐれ”討伐隊の一員として参加しており、こうして皆が喜んでくれていることにロウ自身も達成感を感じていた。偶然にもその時のメンバーがロウの顔を覚えていて、彼が率いる馬車に乗せてもらえることになった。ニズからヴィスキントまでかかる時間を大幅に短縮できるとあって二人は勿論喜んだが、何日かかけて書き上げるはずの報告書はそのショートカットにより予定が大幅に狂ってしまうことになった。
久々のヴィスキント観光を楽しみにしていたのはリンウェルの方だったが、目的の報告書ができていないのだから仕方ない。今日一日はそれに専念して明日はヴィスキントを見て回る!とリンウェルは己を奮い立たせ朝から宿の部屋に籠りきっている。
街でも見てきたら、とリンウェルが勧めるのでロウは外に出はしたが、なんとなく気が向かない。頼まれた食材や物資の補充など最低限のことを終えるとさっさと部屋に戻り、夕飯の時間まで休むことにした。
靴を脱ぎ捨てベッドに横になるとロウは一気に脱力する。
ここでは誰の目にもつかないし、気を張る必要もない。遺跡だなんだとはしゃぐあの琥珀の目もない。

あれからずっと考えていた。あの花の意味を。
もしかしてとんでもなく貴重なものなのかとも思ったが、ミハグサールの中で何度も見かけたしリンウェルが興味を示さないことを見るとあの花の種類に何か理由があるわけではなさそうだった。
だとしたらなぜ。いや、もしかして。
そこまで考えるとあまりに自分の都合のいいように解釈している気がして勝手に脳内でストップがかかる。
勝手に盛り上がって、勝手に落ち込んで。恋ってこんなものかとロウは溜息をついた。
結局ロウはあの花のついた台紙をリンウェルに返せていない。フルルが持ってきたあの日の翌朝にでも渡せばよかったのにタイミングを逃してしまった。それからずっとポーチにしまったまま、今までロウの手元にある。
今返してしまおうとロウは思った。ベッドから体を起こして机の上のポーチを開くと、乱雑に詰め込まれたものが小さい雪崩のようになって机に散らばっていく。
その中にリンウェルからもらった手紙があった。全部で11枚のそれはどれもロウの宝物だ。
ああそうかとロウは思う。こんな単純なことなんだよな、と。
埋もれていた花のついた台紙を拾い上げると、ロウはリンウェルの部屋に向かった。


「リンウェル、ちょっといいか」
ノックをするとドアの向こうで椅子を引く音がする。寝落ちてはいないようでひと安心するとそれに続いて、いいよ、という声が聞こえた。
ドアを開けると窓から太陽の光が差し込んでいて、その手前の机に向かうリンウェルの姿があった。その部屋はロウの部屋とはほとんど同じつくりなのだが、リンウェルの部屋のベッドにはしわが一つもついていない。もう日が傾きそうな時刻だというのに、本当に朝からずっと椅子に座りっぱなしだったのだ。
「もう報告書とかはいいのか」
あまり無理するなよとか、今日は休んだほうがいいとかそんな気遣いの言葉を紡ぐ余裕は今のロウにはない。自分の部屋を出る瞬間までは覚悟が決まっていたのに、ここに辿り着くたった数メートルの間にそんな覚悟はどこかへと飛んで行ってしまった。
「うん、今全部チェックし終わったところ」
リンウェルは疲れている風ではあったが元がこういう仕事のためか堪えている様子はない。寧ろ夕飯は何にする?とか明日は行きたいところがあるんだ、とか目を輝かせて言うものだからロウの方が気抜けしてしまった。
書類をとん、と机の上で均して立ち上がろうとするリンウェルにロウは反射的にあのさ、と声を掛ける。
「何?」
きょとんとするリンウェルに半分ぐらい、しまったと思いながらロウはさっき飛んで行った覚悟を再び腹の中で握りしめた。
「これ」
ロウが差し出したものにリンウェルの大きな瞳がさらに見開かれる。
「これ、私の……」
ロウのポーチの中で揉まれたそれは少ししわが寄っていたが、リンウェルはそんなこと気にも留めていないようだ。
「ロウが拾ってくれてたの?」
「俺じゃなくて、フルルがな」
「フルルが?」
首を傾げるリンウェルもまた、あの日自分が感じたような疑問を持っているのだろう。
でも今ならわかる。フルルは自分にリンウェルの気持ちを教えてくれようとしていたのだ。
「忘れてたんだけどさ、それって俺が送った花だろ」
違っていたら、と一瞬思ったが徐々に赤く染まるリンウェルの顔を見て間違いではないと一安心する。
「お前がそんな風にしてるって知らなくて……最初はこれがお前のだとは思わなくて捨てちまうところだったんだ。でもフルルが同じ花を見つけてきてさ」
そこでやっと思い出したんだと言うと、リンウェルは遅いよ、と小さく笑った。
「大事にしてくれて、ありがとな」
自然と体が動いた。俯き気味のリンウェルの髪に手をやると、日が当たっていたせいか思ったよりも熱い感触がする。すぐに我にかえって手を引くと、リンウェルがそれを追いかけるようにしてこちらを向いた。

「……好きだ」
零れ落ちるようにしてついた言葉は間違いなく自分のもので、そう自覚した途端心臓が胸を破りそうな勢いで音を立て始めた。
それでもこの何年にもわたる想いをたった3文字で済ませてなるものかと、頭の中の引き出しを片っ端からこじ開けて探してみるが適当なものはどこにも見当たらない。何か上手い言葉を言わねばと考えて考えて、考えて口に出た言葉はやっぱり「好きだ」の3文字だった。
なぜこんなに上手くいかないのかとしゃがみ込むロウの影の隣にもう一つ影が並ぶ。
「二回も言われちゃった」
同じように隣にしゃがみ込んだリンウェルは嬉しそうに笑うと、ロウの手を取って自分の掌を重ねた。
「私も好き。ロウが好き」
この数分ロウの頭を悩ませた言葉をリンウェルはさらりと言ってのける。あまりにもずるい、と心臓がまた激しく主張し始めて、リンウェルにだけはそれを聞かせてやるものかと一歩下がろうとするが、右手を人質に取られていて許されない。ならばと今度は立ち上がってみるが一緒に立ち上がってもリンウェルの手は相変わらずロウの手を捕らえたままだ。
「明日は初デートになるね」
自分で口にしたデートという言葉を反芻してリンウェルはまた恥ずかしそうに笑った。
「リンウェル」
「うん?」
「好きだ」
3回目が一番うまく言えたと思って、そのままリンウェルを胸の中に抱き留める。
可愛いとか愛おしいとかさっきまで思っていたはずなのに、リンウェルの感触が腕にした途端、もう頭の中は真っ白だ。
そういう言葉はこれから伝えていくとして、今はこれで勘弁してほしいと思った。


【エピローグ】

シスロディアの雪はいまだ溶けることはなくて、元々ここに住んでいたといっても寒いものは寒い。
今日だって朝から雪が降っていて、家の前の雪を片づけるのに二人で苦労した。
夜も降り続いて明日家から出られなくなったらどうしよう、なんてロウと話しながらリンウェルはシャベルを手に必死に雪を掻いた。
眠りにつく前に本を読むのは今も変わらない習慣だ。適当に本棚から直感で本を選び、なんとなく開いたページから読み始める。
「あっ」
リンウェルが捲った本からひらひらと落ちたのは一枚の栞だ。白い花の押し花が貼り付けられたそれは、あの時の思い出の一枚でリンウェルは今でもこうして本に挟んで使っている。
「懐かしい。この本に挿んであったんだ」
ふと気になって、リンウェルはその頃調査の傍らで付けていた旅の記録を開いた。
「ねえ、懐かしくない?」
先にシーツにくるまっていたロウがごろんとこちらに寝返りを打つ。体を起こして覗き込んだページには自分たちが歩いた大まかな道が記されていた。もともと白地図だったそれをリンウェルが埋めていったのだ。別のページには遺跡のことだけでなく、そこで食べた美味しいものや珍しい鉱石などの感想も挿絵付きで書いてある。
「懐かしいなーお前こんなの書いてたんだっけ?」
「途中からね。遺跡以外も楽しくなってきちゃって」
メナンシアを出てからミハグサールへ向かった後一度はヴィスキントに戻ってきたがそこで二人の関係性は大きく変わった。晴れて恋人同士になった二人だが、遺跡巡りの旅はそのまま続き数年を掛けて世界を巡ることになった。
一通りの夢を叶えたリンウェルはしばらくゆっくりしようかなとシスロディアに居を構えることにして、当然一緒に住むでしょ?とロウも巻き込んで今に至る。本当はロウから切り出すはずだったのにリンウェルがほぼ独断で決めてしまったというのはリンウェルは知らないことだ。
「旅生活、楽しかったね」
「まあな。俺は今のほうがいいけど」
ロウはリンウェルよりも旅暮らしが長い。宿に泊まることも多かったとはいえ、安心して眠れる今のこの日々は何よりもありがたいのだろう。
「ねえ、明日からどうする?」
リンウェルはロウの肩に頭を乗せて寄りかかる。相変わらず体温の高い彼はシスロディアの夜を過ごすには暖炉の次に必須だ。
「どうって?」
「だって私たち家族になるんだよ」
家族。最も身近な存在でありながら二人にはなかなか縁遠かった言葉だ。
お互い早くに失くしたそれを新しく一から構築しようだなんて、出会った頃の二人には想像もつかなかっただろう。だが今実際こうしている事実はまさに小説よりも奇なりだ。
「また旅にでも出るか?」
「さっき、こっちのほうがいいって言ったじゃない」
そこでロウは少し考えるような素振りを見せるが、すぐに諦めてリンウェルの肩に手を回す。
「何でもいいよ、お前がいれば」
ちゅ、と音を立てて額にキスをするとロウはリンウェルの手に自分の手を重ねた。
なんでもいい、か。
確かに今は何もいらないし、考えなくていいとリンウェルは思った。
この先は白紙で未確定。そのくらいのほうが面白いし楽だ。
じゃあ今はどうするかというと、無事に明日になるように祈るだけだ。
重なった手に指を絡めて、ぎゅ、と力を入れる。ロウもそれに応えたのを感じるとリンウェルはゆっくり目を閉じた。

終わり