(10日、かぁ)
目の前で口いっぱいにローストチキンを頬張るロウを見ながら、リンウェルは自分にも聞こえないくらいの小さなため息をつく。ロウは勿論そんな様子のリンウェルには一切気が付いていないようで、肉なら何でもいいくせに「70点だな」とか勝手な評価を付けていてそれが余計にリンウェルの機嫌を悪くした。
ロウは明日の早朝ヴィスキントを発つ。シスロディアの〈銀の剣〉からズーグル討伐に参加してほしいとロウに依頼があったのだ。
ダナとレナが一つになってから2年以上が経った今でもこういった依頼は絶えない。レナが元々持ち込んだズーグルの中で一体どれほどの数が”はぐれ”化したのかはわからないが、いくら狩ってもその数は減っているようには感じられず、街道付近を通っていた商隊が襲われたなんて噂も耳にする。そういった事故を防ぐため討伐隊が定期的に派遣されているらしいが、今回はギガント級のズーグルが目撃されたとかでかなり大規模な隊が組まれることになり、そのメンバーとしてロウにも声がかかったのだ。
期間にして10日前後の日程になるそうだがリンウェルはそこまで心配していない。以前は敵にむやみに突っ込んでは傷だらけになっていたロウも今では無傷で帰ってくることのほうが多い。被弾を減らすというよりこれまでの経験から相手の動きを正確に予測して攻撃できるようになってきたのだ。体つきもさらにたくましくなり、それでいて前よりも機敏に動き回るのだから「筋肉は裏切らない」というロウの言葉と努力は実を結んだことになる。
リンウェルのため息の理由はもっと単純で自分勝手なものだ。それが自分でもよくわかっているし、もうどうにもならないものだとも理解しているので出立を控えたロウに敢えて伝えることもない。
「じゃあ……」
いつものように家の前まで送ってもらってリンウェルはロウの手を離す。あとはその手を上にあげてまたね、と言うだけなのになかなかそれができない。ロウの目を見れば隠した気持ちが溢れて困らせてしまいそうで、視線は宙を彷徨ったままだ。
「帰ってきたら、また飯行こうぜ」
「うん」
「それまで風邪引くなよ。本読んだまま寝落ちもやめろ」
「もう、わかってるってば」
ロウのお決まりの小言につい口を尖らせてしまう。風邪なんてほとんど引かないし。最近はしっかり布団に入って眠っている。ロウはそれをわかっていてこんなことを言うのだ。それでも心配なんだと言われれば文句は言えないし、実際気にかけてくれることは嬉しい。
ただ、今リンウェルが欲しいと思っているのはそんな言葉ではないのも事実で、なかなか素直になれないまま別れの時間が迫っていた。
「リンウェル」
ふと名前を呼ばれて顔を上げると、ロウの左手が伸びてきてリンウェルの前髪に触れた。徐々に近づいてくるロウの顔に驚いて思わず目をぎゅっと閉じる。
(――もしかして、これって……)
「髪に葉っぱついてたぞ」
え、と思って目を開けるとロウが指で枯葉を遊んでいて、どこでつけてきたんだよ、なんて言いながら笑っている。無邪気な笑顔と対照的なことを考えていた自分がたまらなく恥ずかしくなってきてリンウェルの顔に一気に熱が上った。
「~~もうっ!」
「な、なんだよ急に」
「なんでもないよ!なんでもない!」
リンウェルは邪念ごと頭を強く振って否定すると、赤くなった頬に気づかれないように前髪を整えて「ヘマしないでよね!」とようやくロウを見送ったのだった。
家のドアを閉めると、リンウェルはまだ熱い顔を抑えながら再び小さなため息をつく。
(――今日もおあずけだったな)
そっと唇に触れると胸がぎゅうっと締め付けられるような気持ちがした。
ロウと恋仲になって一か月足らず。世間で言う”恋人同士”になったばかりのまだまだ甘い時期だ。とはいえ背中を預けて戦う仲間だった時間の方が長い二人はその歩みも比較的ゆっくりで、手を繋ぐ以上のことはまだしていない。
幸せを噛み締めながらもその先に進みたい気持ちもあるリンウェルはいまだ進展しない二人の関係にヤキモキする日々を送っていた。今日だって帰り際にあんな風にされてついにキスされてしまうかも、なんて期待したがロウの方はそんな予定は無かったのか全く甘い雰囲気にはならず、結局いつも通りの別れになってしまった。
明日から10日も会えないのに。
10日、と何度もリンウェルは繰り返してみるが当然それは減ったりはしない。
付き合う前もそのあともほぼ毎日顔を合わせていたロウと突然10日も会えなくなるなんて思ってもいなかった。その間の寂しさはどれほどだろう。明日から訪れるであろう空虚はリンウェルには想像もつかない。
それを埋めてくれる何かが欲しかったのだと思う。
例えば――キスのような。
寝る準備を済ませてリンウェルはベッドに向かった。布団に入ると枕元にあった読みかけの本に手を伸ばす。アウテリーナ宮殿の図書の間から借りた今流行りの恋愛小説だ。
この本自体はもう読み終えているのだが栞が挿んであるページの章をリンウェルは何度も読み直している。主人公の女性が恋人の男性と初めてのキスをする場面だ。小説ではかなりロマンチックな雰囲気の中でのやり取りが描かれていて、読むたびにこちらまでドキドキしてしまう。
一通りを読み終えるとリンウェルはぼんやりと天井を見上げた。
――キスってどんな感じなんだろう。
例えばここにロウがいて、小説みたいに見つめられて顔が近づいてきたら……。
やっぱり目は閉じるべき?どんなタイミングで?
息ってするのかな、止めるのかな。
でもロウの顔がこんな近くまで迫ってきたらドキドキしてそんなこと考えていられないかも。手を繋ぐだけでも緊張してるのに。
想像しただけでこんなに顔が熱い。きっと耳まで赤くなっている。
それでもきっと嫌じゃない。ロウだから、なんて本人には言えっこないけど。
ロウがいない日々はすごく長く感じられた。
ちょうど新しい遺物が発見されたとかでリンウェルを含めた研究メンバーたちには次から次へと新たな仕事が与えられた。ロウの出発を見計らったかのような忙しさにリンウェルは目を回しながらもタスクを必死にこなしていった。こうして仕事に没頭していれば10日なんてあっという間だと思ったのだ。ところが時間はなかなか思うように過ぎ去ってくれず、忙しいのにそれが長時間続いているような感覚に陥るというまさに地獄のような日々だった。
それでもロウとの約束は破るまいとリンウェルはきちんと食事も摂り、眠るときは必ずベッドに向かった。半ば意地でもあったがおかげで体調が悪いとも感じなかったし、日付の感覚を忘れることもなかった。それゆえに油断もしていた。まさか9日目にしてロウが帰ってくるとは予想していなかったのだ。
「え、どうしたの」
「どうしたのって、早めに仕事終わらせて帰ってきただけだぜ」
突然研究室に現れたロウを前にリンウェルは動揺していた。
明日は休みを取ってあったし、少しおしゃれしてロウを迎える予定だったのに。
予定外のことに慌てるばかりのリンウェルにロウは明らかに不機嫌だった。当然だ、久々に会えた恋人はおかえりとも会えてうれしいとも言わないのだから。
「なんか間が悪かったみたいだな。また出直すわ」
それでもこうしてあからさまに怒るのでなく一歩引いてくれるのもロウが昔より大人になったからだと思う。
でもそれじゃあだめだ。今までと変わらない。
「待って!」
思ったよりも大きな声が出て驚いたのはリンウェルも同じだったが、驚いて足が止まったロウを研究室に引きずり込むには充分だった。
「ロウ、違うの」
「違うって何がだよ」
「ロウに会えて嬉しい、本当に」
今となっては後付けのように聞こえるかもしれない。でもそれはまごうことなき本心だと、リンウェルは真っ直ぐロウを見て言う。
「ロウが出発してからロウのことばっかり考えちゃってて、今日が9日目だって数えたりもしてた。明日は久しぶりに会えるからお休みもとってあったしこないだ買った可愛い服着て、新しい髪飾りにしてロウにおかえりって言うつもりでいたの」
「だから今日急にロウが来てびっくりしちゃって。おかえりも言わないで、本当にごめん」
計画していたことを全部明かして謝罪したところでロウを傷つけてしまったことには変わりはない。
それでも気持ちは伝わったようで、ロウは頭を掻きながら少し考えた後ゆっくりと口を開く。
「お前の反応が薄かったのは正直ショックだったけど……そりゃそうだよな。準備できてないところに突然現れたら驚くよな、普通」
「俺も悪かった。勝手に自分の気持ち押し付けて、思い通りにならないからって拗ねて。ガキみたいだよな」
嘲るロウを止めるようにリンウェルはその手を握る。今まで何度も繋いだ手なのに今日は特別に感じた。
「ロウに会えて、ほんとに嬉しいの」
「わかったって」
ロウはそのままリンウェルの手を引いて胸に抱きとめる。遠くで聞こえる鼓動が心地良いなとリンウェルは思った。
「リンウェル」
「なに?」
「ただいま」
「おかえり」
おかえり、ともう一度小さく呟いてリンウェルはロウの胸にもう一度頭を摺り寄せた。
ふと、ロウの体が離れて左手がリンウェルの頬を撫でる。
ロウの瞳に自分が映ったと思うと、途端に心臓が大きな音を立て始めた。
あの時とは全く違う、そして確信にも近い。
あっと思った瞬間、ほんの一瞬にも満たない熱が唇に触れた。
ああこれがキスかと浸るにはあまりに短く切ない。
離れていくそれが惜しくて、リンウェルはたまらずロウの服を掴んでしまっていた。
「ロウ」
「な、なんだよ」
耳まで赤くしたロウは半分ほど逃げ腰になっている。
そんなのこっちだってそうだ。恥ずかしくってたまらない。
それでも嬉しさと愛おしさのほうが勝っているのだ。
「もう一回して」
「!」
今度はもう少し長く、なんて言えばロウはどんな顔をするだろう。
きっとこの様子じゃそれも叶えてはくれなさそうなので、その時はもう一度強請ろうとリンウェルは心に決めるのだった。
終わり