酒場にいるロウリンの話。

酔い潰されて

 むせかえるほどの煙草と酒精の匂い。ひとたび息を吸い込めば肺はそれらで満たされて苦しくもなる。飛び交う声は傍から聞いていればまさに無秩序といった感じで、誰と誰が会話できているかなんてさっぱりわからない。それを誰も気に留めないのはここが酒場で、宴の真っ最中だからだろう。
「おーいリンウェル、こっちにも酒くれるか!」
「こっちも空になっちまった! 追加だァ!」
「はいはい、ちょっと待ってー!」
 名指しで頼まれたリンウェルはそばにあった木箱から酒瓶を数本手に取ると、声が聞こえた方のテーブルへとそれらを運んでいく。リンウェルにはそのテーブルから指示を受けたという確証はなかったが、大体その周辺に持っていけば適当に足りないところへ回してくれるだろうと思い、テーブルを囲う数人に瓶を渡すと早々に酒場の中心から退散した。ここの匂いはまだ酒の飲めないリンウェルにはキツすぎる。
「にしても良い飲みっぷりだなあ」
「こんないい酒、残すわけにはいかねえからな!」
「いいねえ若いってのは。ほら兄ちゃん、もう一杯!」
 リンウェルが辺りに気を配るふりをしてちらりと目を遣るのは奥にある壁際のテーブルだ。そこでは最近酒を覚えた男が周りと一緒に楽しそうに杯を傾けていて、いつもよりも大きな笑い声を上げている。一房垂らした前髪が揺れるたびに少し赤くなった頬が覗き、陽気な笑顔を振り撒いている様はすでに出来上がってしまっているものと思われる。この様子では宿に戻れるのは日付が変わってからだろうなと小さなため息をついて、リンウェルは自分のために注文したオレンジジュースを一口だけすすった。

 〈銀の剣〉と共同で荷運びの警備任務を終えた後、ブレゴンから酒場で一杯やらないかと誘いを受けたのはシスロデンの宿に戻ろうかとロウと話していた時だった。どうやら今回の依頼主が結構な金持ちで、皆で飲んでくれと上質な酒をたんまり用意してくれたらしい。
 陽がすでに落ちていたのもあり、夕食代わりにもなるからと二つ返事で了承したロウに口を挟むこともできず、リンウェルがその後ろをついていくと酒場に集まった人数に驚いた。どう見ても”一杯やる”という規模ではない。酒場の椅子はその集団で埋まり、店はほとんど貸し切り状態と言ってもよかった。
 手が回らない給仕に手伝いを申し出たのはリンウェルの方だ。酔って好き勝手やっている大人たちに辟易したのもある。酒を自分がテーブルまで運ぶ旨を伝えると、給仕をしていた若い女性は何度も頭を下げて礼を言った。
 
「にしてもリンウェルもすっかり大人っぽくなって……。」
 そんな声が聞こえ始めたのはどこのテーブルからだったか。同じような話題が何度も繰り返されていたところにちょうどリンウェルが新たな酒瓶を持ち込んだ時だった。
「ああ、えらい別嬪さんになったなあ」
「や、やだなあ。そんなことないよ」
「いい人はいるのかい? なんならうちの息子と――」
「あ、お酒切らしてる。私倉庫から持ってくるね」
 話を遮ってリンウェルはそそくさとその場を後にする。そのまま倉庫につながる扉を開けると素早く中に入り、聞こえないようにふうと息をついた。
 こういった酒の席で絡まれるのがリンウェルは苦手だった。相手は酔っていても自分はそうではないし、冗談を言っているのかそうでないのかわからないからだ。こういう場合は適当に言葉を濁すに尽きると理解はしているがいつまでも笑顔を貼り付けて話を合わせていられるほどリンウェルは大人でもない。それでいて不快な顔をするわけにもいかないので、こうしてその場を離れたり外に出るなどして気分を入れ替えるようにしている。
 よし、とリンウェルが自分の頬をぺちんと叩いて顔を上げると、ふと後ろに気配を感じた。
 ばたん、と扉が閉じる音がしてリンウェルが振り向くと、さっきまで向こうに座っていたはずのロウがそこに立っていた。その顔は笑っているようにも、無表情にも見えて感情が掴めない。
「どうしたの? お酒?」
 今持っていくよ、とリンウェルが倉庫の奥に歩みを進めようとしたとき、その手をぐいと後ろに引かれる。
「別嬪さん、いい人はいるのかい?」
「!」
 ロウの言葉にリンウェルはびくりとする。まさかあのテーブルでの会話を聞かれていたなんて。
「あ、あれは……」
「酒の席でよくあるやつだよな」
 その声色は怒っているという訳ではなかった。寧ろ面倒だよなと同情しているようにも聞こえる。
 ではなぜこんなに強く腕を掴まれているのだろう。リンウェルには色々と見当がつかない。
 どうしたの、とおそるおそる聞こうとした唇にロウのそれが重ねられる。一瞬の出来事についていけず、ただそれを受け入れるばかりのリンウェルにロウは小さく笑った。
「お前は俺の物なのにな」
 次の瞬間、顎を掴まれたと思うと先ほどとは打って変わって乱暴な口付けが降ってきた。
 油断した隙間から舌の侵入を許すと上の歯列をなぞられ、続いて舌を絡め取られる。ぬるりとした感触に酒精の香りがしてリンウェルの頭の中は途端にぼやけていくような感覚に襲われた。
「んんっ……ふ……ぁ……っ」
 徐々に足りなくなる酸素を求めてロウの胸を叩くがびくともしない。寧ろ体を引き寄せられてぴったりとくっついた身体が熱い。
 誰かが扉のすぐそばを通る音がした。物音に気づいてここを開けられでもしたら――。
 そこまで考えて、かあっと顔が熱くなるのがわかるとリンウェルは一層ロウの胸を強く押し返す。
 そうして初めてロウの顔が離れると、リンウェルは奥の酒瓶を適当に数本掴み酒場の方へ出た。
「リンウェル、ちょうどよかった。こっちに酒回してくれ……って、どうした?顔赤いぞ」
「お、お酒の匂いで酔っちゃったかな」
 荒くなった呼吸をなんとか整えながらリンウェルはそれらしいことを言って笑って見せた。指摘された頬を隠したいが手は酒瓶で塞がってしまっている。
「まだリンウェルは酒の飲めないお子様だからなあ。座って休んどけよ」
 そう言って現れたロウはリンウェルの手から酒瓶を奪うと、それを手に宴の中へと戻っていく。まるで何事もなかったかのように。
 誰のせいよ、と聞こえない憎まれ口を叩こうとしてリンウェルがその背中を睨んだ瞬間、ロウの顔がこちらに向いた。べ、と赤い舌が小さく覗いたのを見てますますのぼる熱にリンウェルは声にならない声を上げたのだった。

終わり