風がふわりと頬を撫ぜる。花が乗っかっていたのかと思うほどの甘い香りに思わず振り返るが、出どころと思われるそれらしきものは見当たらない。
自分の勘違いであったかと思って、ロウが再び正面に顔を戻すと、今度は右横、正しくはそのやや下方向から視線を感じた。
「また女の人見てたでしょ」
リンウェルの詰るような言い方で、先ほどの香りが香水の類であったことにロウは初めて気が付く。
「違うって。いい匂いがしたんだよ、花の」
誤魔化さずに正直に言えば、リンウェルはふうん、と一瞬納得した様子を見せたが、何の言い訳にもなっていないことに気付くと「結局見てたんじゃない!」と声を上げた。
買い物の帰り道。二人が抱えている荷物のそのほとんどがリンウェルのもので、ロウは両手に大きな紙袋を抱えている。中身はリンウェルが使う食材が9割と、残りがロウ用のグミだ。
「もう、美人だとすぐ目が行くんだから」
拗ねたようにリンウェルは言うが、自分が女性を見ることで何が困るというのだろうとロウは思う。別に声を掛けるわけでもないし、リンウェル自身に迷惑が掛かるようなことなんて何もないと思うのだが。
「へえ、美人だったのか。よく見ときゃよかったな」
とはいえ美人と聞けば興味が湧くのが男という生き物だ。できればこのヴィスキントにいる美人ならできるだけ把握しておきたい。目の保養は多いほど良いというものだ。
「え、顔見てなかったの? 髪が長くて、整った顔立ちの人」
「まじかよ」
聞けば聞くほど惜しいことをした。目に浮かぶような艶姿に、いい匂いがするオプション付き。極上の一級美人だったに違いない。
「いいなぁ、私もあんなキレイな髪だったらなぁ」
そう言いながら、リンウェルは自身の顔に掛かる前髪をくるくると指で弄ってみせた。
旅をしていた頃からやや伸びたそれは、絹織物のようだとは言わないが、艶があって健康的で充分魅力的だ。
「お、お前の髪もそんな悪くねえじゃん? 黒いし、いっぱいあって」
惜しむとすれば、ロウがそれを真っ正面と向かって本人に伝えてやれないところだろう。
到底誉め言葉とはとれないそれを、もごもごと口に含んだまま言ってみても、リンウェルからは「なにそれ」と白い目で見られるだけで、正直言わない方がまだ良かったのかもしれない。
「シオンの髪色いいよね、花みたいで。サラサラだし、羨ましい。キサラの髪も綺麗だと思う。見た目よりもふわふわなんだよ」
嬉々として話すリンウェルを見れば、この辺りの感性は女性特有のものなんだろうなとロウは思う。確かに髪の毛が美しい女性は魅力的ではあるが、同性のものまで気にしたことはなかった。自分の髪の毛だって、伸びてきたから少し切るかとか、乾かすのが面倒だとか、あまりいいものに捉えたことはない。多少お洒落はしてみても、それをアルフェンたちに指摘されたこともなかった。
「シオンはお母さんとかお父さんもあの髪色なのかな。でもネウィリは違う色だった気もするし……キサラとミキゥダだって金髪と黒髪で全然違うよね。不思議」
「俺のはどっちかっつうとお袋寄りだな。親父と髪質は同じだけどよ」
「私は両親とも黒髪だから。金髪とかちょっと憧れるんだけどな」
そう言われてもリンウェルの金髪姿は、ロウにはなんだか想像がつかなかった。特に変わった髪色でないにしろ、あのシスロデンにいた頃を思い出せば、忍んで生きるには少し目立ちすぎるような気もする。
――自分とリンウェルの子だったら、どんな髪色になるだろう。
一瞬だけ頭に過った考えを振り払うように、ロウは頭をぶんぶんと振る。
恋人でもないのにそんな風に考えてしまうのは、心も体もまだうら若い青少年として致し方ないということにしておきたい。
宮殿からほど近いリンウェルが住む部屋の前まで来ると、ロウはようやく一息つくことができた。
「ありがと、助かっちゃった」
「まあ来週は手伝えないからな」
明日から〈紅の鴉〉の手伝いでカラグリアに向かうことが決まっているロウは、2週間ほどヴィスキントを空ける。これまでも頻繁にリンウェルの買い出しに付き合ってはいたものの、しばらくはそれができない。ならばある程度日持ちするものは一気に買ってしまおう、というリンウェルの提案に乗ったわけだが、別にそれで自分が得することなど一つもないなと気づいたのは食材の入った重たい袋を持たされた時だった。それでも想いを寄せている相手に頼られるのは悪い気分でなく、むしろ一緒に居られる時間が増えたなどと考えてしまっているあたり重症だ。
「きちんと飯食えよ。夜更かしもほどほどにな。それから……」
「夜道は一人で歩くな、でしょ。わかったから。ロウの方こそ、ケガしないでよね」
「おう」
紙袋の奥底で半分潰れかけていたグミを受け取って、ロウはリンウェルと別れた。
2週間は長い。見たい顔を見ることができないなら、なおさらそう感じるだろう。
今回の手伝いは“はぐれ”の討伐だと聞いている。移動や作戦会議を除いて、実質討伐にかける期間は多く見積もって7日前後と言ったところか。
いや、5日だ。5日でケリをつけて、ヴィスキントに戻ってきてやる。
そうしてまた、日常に戻るのだ。リンウェルがいる、何もない日常に。
ロウはそう心に決めると、自身の借りている部屋の方へと駆けていった。頬に感じる風が先ほどより心地よく感じられた。
◇
結果から言えば、ロウが戻ってくるまで3週間かかった。
移動や話し合いその他を含めてもロウが予想していたものとさほど差異は無かったのだが、想定外だったのは“はぐれ”たちの繁殖力だった。ある程度討伐しても次の日には数が増えているような有様で、なかなか思った通りに排除できなかったのだ。
とはいえその一体一体に大した力はない。早く帰りたいと強く願うロウの活躍も相まって、数日間の格闘の末、なんとか目的の土地を確保できたのだった。
時間はかかったが、参加した誰一人として大きいけがをすることもなかったというのは大きい。ネアズからの賛辞に加え、聞いていたよりもかなり多めの額の報酬も貰い、ロウはスキップ半分でヴィスキントに戻ってきたわけだが、誰よりも待ち望んだ少女との再会の瞬間、そのガルドが入った袋を思わず落としそうになった。
「あっ、ロウ。おかえり」
宮殿内のベンチに腰掛けながらこちらに手を振るリンウェル、とその横の男。
「聞いたよ、結構大変だったんだってね。ケガしなかった?」
「ああ、まあ、なんとかな」
話しているのはリンウェルなのに、隣に座る見知らぬ男から目が離せない。偶然そこに居合わせた人間というわけでもなさそうだ。
ロウの不審がる視線に気づいたのか、リンウェルは「あ、そうそう」と思い出したように声を上げる。
「彼はドレーク。最近友達になったんだ」
リンウェルの紹介に合わせて頭を下げる男は、歳は自分とさほど変わらないくらいで、闇に紛れるような深い紺色のローブを羽織っていた。
「ドレークもね、〈魔法使い〉なんだよ」
「まっ、〈魔法使い〉!?」
予期しなかった言葉につい大きな声を出してしまう。幸い辺りに人はまばらで、注目を集めることはなかったが、ロウの視線だけはさらに強くローブの男に注がれた。
「〈魔法使い〉って……お前の知り合いなのか?」
「ううん。私の一族とは違うみたい。住んでた地域も違うみたいだし」
ということはリンウェルの一族の他にもそういった生き残りが隠れて暮らしていたということだろうか。
「ドレーク、これが前話してたロウっていう……元仲間? 知り合い? みたいな」
「そうですか」
リンウェルの曖昧な表現に特段興味も見せず、ようやく男が発した声はやはり若さを感じさせるものであったが、その落ち着きはまるでずっと年上のようにも思えた。今まで伏せがちだった目をついにロウと合わせると、立ち上がってその手を差し出してくる。
「どうぞ、よろしくお願いします」
濃いグレーのその瞳には、確かに闘志が宿っていた。
◇
「〈魔法使い〉ってどういうことだよ」
ロウが詰め寄ったのはリンウェルではなく、このメナンシアでいまだ絶大な権力を持つ赤髪の男だった。
「俺がいない間に何があったんだよ。いきなり、そんな〈魔法使い〉とか……」
状況についていけないロウに、テュオハリムが手渡したのは数枚の紙で、そこには例の男についての記載があった。
「名はドレーク。年齢は18。2週間ほど前にトラスリーダ街道で“はぐれ”の暴走があった際に星霊術で撃退。農民らを助けるが、星霊術を使用しても目が〈光らない〉ことからダナ人であると判明。本人に話を聞いたところ、〈魔法使い〉の一族の生き残りだと名乗る」
「だああ、違うだろ! いや、何も違くはねえけど!」
淡々と記載内容を読み上げたテュオハリムに、ロウはつい声を上げる。奴が現れた経緯は理解したが、何故生き残りとやらが現れたのか、どうしてここにいるのか。
「そもそも生き残りがあいつの他にもいたなんて……」
そう口にはしながらも、よく考えてみればおかしいことでも何でもない。
リンウェルの先祖たちのように、ヘルガイムキルたちの魔の手を逃れて生きてきた一族が他にもいただけのこと。自分たちが世界中を旅しているときはたまたま出会わなかっただけで、未踏の地でひっそりと暮らしていたのかもしれない。
「随分と焦っているようだな」
テュオハリムの落ち着いた声で、ロウも少し我に返る。
そうか自分は焦っていたのかと思う反面、あんなに仲睦まじそうな様子を見せられたら焦りもするだろうと怒りさえ湧いてきそうだった。
「気になることがあるなら、リンウェルに直接聞けばいい」
「あいつ、最近ずっとそのドレークとかいう男と一緒にいるんだよ」
本人の目の前でずけずけと質問できるほど、ロウだって図々しくもない。少なくとも〈魔法使い〉が忍んで生きてきた連中だということはよく理解している。身近にそういった存在がいたからこその知識ではあるが。
「ならば、君も彼と交流を深めてみてはどうかね」
「はあ?」
ロウの素っ頓狂な声はおそらく廊下にまで響いたに違いない。
それもこれもテュオハリムが悪いのだ。ロウのリンウェルに対する気持ちを知りながらこんなことを言うのだから。
「奇しくも年が同じだろう。いかにも聡明そうな青年だったが、意外に話が合うかもわからん」
「いやいやいやいや」
確かに賢そうな顔はしていたが、テュオハリムは知らないのだ、あの目を。
あの目からは確かに自分を敵視しているような、そんな雰囲気が感じ取れた。それもリンウェルには気づかれないような立ち振る舞いで。奴が強さを求めるような武闘派でないなら、その理由となるのはたった一つだけだ。
「あいつ、リンウェルを狙ってやがる」
ロウの言葉に、テュオハリムはほう、とだけ口にする。そしてそのやわらかそうな赤髪を少しだけ揺らしてこう言った。
「ならばなおさら、仲良くしておくべきではないかね」
「敵を倒すには、まず敵を知ることからだ、ロウ」
◇
リンウェルは普段、宮殿内に設けられた研究員の集まるスペースに居る。
主にそこでは古代ダナの研究だとか、遺物についての討論が行われているらしかったが、そういったものに興味の薄いロウにはあまりなじみのない場所だった。
ところが例の男――ドレークはそういった小難しい話にも詳しいらしく、いつの間にか新たな仲間として受け入れられていた。その隣には楽しそうに笑うリンウェルの姿もあった。
そこで差を付けられてはたまらないと、ロウもリンウェルを見かけては話をするようにした。隣にドレークがいてもあまり気にせずに、むしろ世間話を振ることさえあった。
とはいえロウも仕事がある。ヴィスキントにいる今はキサラや兵士の手伝いをしたり、“はぐれ”の討伐を請け負ったりしていることが多い。それでなくても牧場では動物たちが待っていて、仕事が終わるまでは宮殿に居られる時間はあまりない。
休みを除けばリンウェルとゆっくり話ができるのは夕飯の時間くらいで、それくらいは自分を優先してくれるだろうと、ロウは高を括っていたのだが。
「今日の夕飯、ドレークも一緒でいい?」
特に何を気にするでもなくそう口にしたリンウェルの表情は、残酷なほど明るい。
じわじわと首を絞められるような苦しさから逃れるように、ロウはかろうじて「ああ」とだけ答えた。ここで理由を問うのは、己の心の狭さを示すようでなんとなく嫌だったのだ。
「ありがと。ドレーク、こっちの店とかあまり慣れてないから」
だからといってリンウェルが面倒を見る義理もないはずだと言いたい気持ちをぐっとこらえて、ロウは苛立ちごとそれをのみ込んでやる。自分も随分と大人になったと思うことで、なんとかその場をしのぐことができた。
図書の間にいたドレークを拾って3人が会場に選んだのは、値段も手頃で味も悪くないと評判のレストランだった。
この時期は夕飯時といえどまだ空は明るい。街灯に灯った火がぼんやり滲んで見え、一年の中でも街が美しく映える時期だ。
たまたま空いていたテラス席を選んだリンウェルは、少しはしゃいでいるようにも見えた。
「なんか、ちょっと楽しいかも」
リンウェルにとって年の近い友人は少ない。ロウはともかく、話も合う人となるともっと減るだろう。最近はシオンたちにも会えていないようで、こういった何気ない会食に気分が上がっているようだった。
「ロウはいつものお肉のやつでしょ? ドレークは何にする?」
有無を言わさず決めつけられてしまうくらいには、ここはリンウェルと通った店だ。ほかのどの料理に惹かれても、結局はそれを選んでしまっていた自分にも非はあるが、せめて少しくらいメニュー表を見せてくれてもいいだろう。
ロウの心の叫びも空しく、メニュー表は二人の間で惜しげもなくその詳細を明かしている。赤い表紙だけをこちらに向けて、まるで壁のように立ちはだかるそれにロウだって疎外感を感じずにはいられない。
「じゃあ私Aセットで」
「僕も同じのでお願いします」
「はい決まり。ロウ、店員さん呼んで」
なんで俺が、という文句も言えず、ロウは黙って右手を上げる。
これじゃただの使い走りみたいなものだと内心愚痴を垂れながら、半分、いやそれ以上リンウェルの言いなりになっている自分にも呆れた。これが惚れた弱みなのか、それとも単に己の弱さなのかはわからない。
ただせっかく今日ここまで来たのだから、何かドレークに関して一つでも情報を仕入れたいと思った。敵を倒すには敵を知れ。できれば情けない弱点みたいなものでよろしく頼むと、卑しい願望を密かに込めながら。
ロウの願いが届くことはなかった。少なくともこの会食においては、ドレークには欠点と言えるものが無かったのだ。
レストランに慣れていないと聞いたので、スプーンもフォークも使わない一族だったのかと作法についてはやや期待したが、元頭将に負けず劣らずの優雅さでそれを使いこなすものだからロウは思わず言葉を失った。
おまけに食べられないものもなく、むしろ肉や魚より野菜を好むときた。ロウもあの頃に比べればまだマシになったものの、いまだにニンジンや青臭い野菜は苦手だ。「ロウも見習いなよ」というリンウェルの言葉が今は重たくのしかかってくる。
「ロウ……さんは、武術の使い手だと聞きました。羨ましいです。僕は、運動はあまり得意ではないので」
突然ドレークから振られた話題に、ロウはそれが自分宛のものであると、一瞬気が付かなかった。咄嗟に放った「まあな」という上ずった声が、動揺を隠しきれていないようでやや恥ずかしい。
「なかなかの腕前だって、リンウェルさんから聞きました」
「……リンウェルから?」
「えっ、ちょっ!」
取り乱したリンウェルが水で口の中のものを流しこんで、調子を整える。その慌てようを見るに、ドレークの言葉はどうやら嘘ではないらしい。
「ち、違うから! わたしが見た中ではまあそこそこってだけで」
「そうでしたっけ? 相手がどんな武器でも対応できてる、って褒めてたじゃないですか」
「わー! やめてやめて!」
こんな風に耳まで真っ赤にしているリンウェルは珍しい。
ロウはにやけそうな口元を、肉を頬張ることでなんとか誤魔化すと、じわじわと込み上げてくる充足感に浸る。
リンウェルが、俺を陰で褒めてくれていた。
それだけで腹がいっぱいになる感じがして、敵の情報は何一つとして得られなかったが、それももうどうでもよくなった。腹を満たすきっかけをくれたのはほかでもない、敵本人だったのだが。
◇
宮殿内に設けられた研究者用のスペースは、元はと言えば来客用の広間だった。
他よりも広くつくられたそこは、どんな地位の者が訪れる予定だったかは知らないが大きいテーブルと椅子がいくつも置かれ、暖炉そばにはソファまで複数設置されている。
話の長い研究者たちが長時間議論をぶつけ合うには格好の場となっており、いつ覗いても必ず誰かしらの姿があった。
それが一人、また一人と増えていくと、当然彼らからは「手狭です」という声が上がってきた。これに対していちいち「如何しますか?」と問われてしまう煩わしさには、いまだ根強く残る元頭将の肩書を呪わねばなるまいとテュオハリムは思う。
元よりこのヴィスキントには研究所を建てる予定ではあった。目まぐるしく変わる双世界のことを思えば、そういった研究の最先端になる場が必要になってくる。
計画はあったものの、土地の確保や資金調達などは道半ばだ。他領の組織とも擦り合わせを行いたい。
本来ならば、自らをメナンシアの代表とするような真似は避けたいというのがテュオハリムの考えだ。もうダナもレナもない。元頭将などという地位も過去のものに過ぎない。
他領との交渉だって誰か他の者に任せておけばいい話なのだが、この研究所の設立に関しては、テュオハリムは自身の責任を重いものだと認識していた。現在このヴィスキントにいる研究者の半数は、テュオハリムがダエク=ファエゾルから連れてきた者たちなのだ。
彼らの能力は優れている。己の好奇心のおもむくままに研究に没頭し、ただそれだけを生きがいとして他の時間は身体の機能を停止させてきた連中だ、頭の回転も興味の移り変わりもとんでもなく速い。
研究の手伝いをした報酬として彼らにはこの地に降りてきてもらったわけだが、彼らは研究者としては優秀でも一人の人間としては何かが欠けていた。
具体的に言えば、こんな研究がしたいという案を出してもらった際の発言が不穏なものでしかない。植物とズーグルの融合だとか、完全に自我を持たない機械兵士の開発だとか、発想が斜め上というか、大股500歩ほど先を行っている。いずれそういったものが必要になる可能性があるやもしれないが、この生まれたての世界にはいかんせん早すぎるものが多い。中には人体実験を伴うものを提案してくる輩もいて、テュオハリムはその報告書に大きな赤バツ印を書いて返却してやった。
このように、優秀すぎる彼らには監視が必要で、それは自分以外にいないだろうとテュオハリムは思っている。幸い主霊石が無くとも、彼らを力でねじ伏せるだけの武力は備えている。
新研究所関連で例の広間に通ううち、テュオハリムの耳に入ってきたのは〈魔法使い〉の生き残りの噂だった。古代ダナの知識や遺物に詳しい彼は、研究者の間でもなかなかの評判らしい。
テュオハリムはまだ彼に直接会ったことはなかったが、リンウェルとも〈魔法使い〉同士仲良くしているらしく、それを聞く限りは微笑ましい。その様子に心中穏やかでない男がいることも知ってはいるが。
ところが聞こえてきたのはそんな気持ちのいい話ばかりではなかった。どこからともなく流れてきたのは、「光属性の将来も安泰だ」という声だ。
光属性、と聞いてテュオハリムが真っ先に思い浮かべたのは、他でもないリンウェルだった。
光属性の星霊力は至る所に在る。多くは光を発するものに存在していて、それを搔き集めていたのがシスロディアの頭将たちということになる。直近ではファルキリス家のガナベルトがそうだ。
光属性はダナ固有のものであるが、ダナ人を作り替えて生み出されたレナ人には扱うことができない。ガナベルトは主霊石を媒介とすることでそれを可能にしていたが、それが失われた今では不可能だろう。
だがこの世でただ一人、光属性の星霊術を扱うことのできる人間がいる。〈魔法使い〉の生き残りであるリンウェルだ。
彼女がそれを扱うことができるのは、もちろん受け継がれてきた手法や技術を叩き込まれたからに違いはないが、そもそもの〈魔法使い〉の血によるところがかなり大きい。
光属性はおろか簡単な星霊術も使えないダナ人同士では、その間に生まれた子が強力な星霊術使いになるという可能性は限りなく低い。300年以上に渡ってレナの支配を一方的に受け続けてきた過去を見れば明らかだろう。
つまり、研究員らはもう一人の〈魔法使い〉の生き残りの出現により、リンウェルの光属性への適性が受け継がれる可能性を示唆しているのだ。二人の間に子が生まれることによって。
一体誰がそんなことを言い始めたのか。
憤慨する気持ちを抑え込んで、テュオハリムは自身の手をぐっと握り込む。
彼らはただその可能性があると口にしただけで、何か強硬手段を取ったわけでもない。人体実験も厭わない危険な連中であることを踏まえても、今は何も言うことはできなかった。
人と人が出会い、惹かれ合って結ばれること。それはどんな時も尊いものだ。
それに水を差すようなことは無粋であるし、無意味でもある。結局、その如何を決めるのは本人たちなのだから。
研究者たちが光属性の保護を謳ってリンウェルやもう一人の彼に危害を加えようとするならもちろん黙ってはいない。同じ感情を持つ人間として、それを無視するような真似はさせないだろう。
だが、今はただ見守ること以外に出来ることはない。
リンウェルがこれから誰と結ばれるかは、リンウェル自身が決めることだ。そこに関しては外野がとやかく言うことはできない。
先ほど掌に食い込ませた爪痕は、ひと時とはいえ苦難を共にした友への思い、いわば私情そのものだった。
若さゆえの不器用か、それとも不器用ゆえの空回りか。見ていて歯がゆくもなる彼の背中を押してやりたいとテュオハリムはいつも思う。鍛え上げられたその硬い拳を開いて、柔らかなものと繋がれるその瞬間を自分は待ち望んでいるのだ。
テュオハリムが広間を出ると、廊下にはリンウェルと話し込むロウの姿があった。
「お、大将。大将からも言ってやってくれよ、こいつまた夜更かしして目の下にものすごいクマ作ってやんの」
「ああもう! そういうこと言わないで!」
小鳥たちがさえずるようだとテュオハリムは思った。外界の恐ろしさも知らずに、餌も住処もただあるままに享受するだけの巣立つ前の小鳥。
それでいい。この若き鳥たちに重たい羽を背負わせるにはまだ早すぎる。
いずれ羽ばたこうとしたその時に自身の羽の重さに気付くのだろう。その時彼らがどんな選択をするのかはわからない。
せめて、各々巣立った世界が明るいものであるように、先を行く我々大人がその土台を拵えるべきなのだと、テュオハリムは強く思うのだった。
◇
ドレークが現れてひと月ほどが経っていた。
その日ロウは珍しく休みを貰い、トラスリーダ街道にある牧場へと足を運んでいた。
ロウはどういうわけか動物たちにはよく懐かれる。牛や豚、鶏など種類は関係ない、ロウが姿を見せると見張りの犬や猫までがその足元に擦り寄ってくるのだ。
「なんだよ、昨日も来たろ?」
呆れるロウのことなどいざ知らず、動物たちはその腕や足をべろべろと舐め始める。
「ほっほ、動物たちは今を生きているからな。昨日来たからとか、明日来るからとか、そんなのは関係ないんじゃ!」
ボグデルの言葉にうなずくように、動物たちのロウに対する愛情表現は加速する。
「うわっ、やめろって! くすぐったい!」
「ほっほっほ! いいのう、動物にはモテモテじゃ!」
嫌味なのかそうでないのか、その言葉は少しロウには刺さる。動物にいくらモテたって、好きな子にモテないと意味がない。
そのロウがモテたい相手といえば、相変わらず他の男と仲良くしている姿をちょくちょく見かける。分厚い本を挟み、二人でそれを眺める様子を見れば、とてもじゃないが間に入って行ける空気ではない。それに〈魔法使い〉同士話したいこともあるのかもしれないと思うと、そちらに向かおうとする足も止まってしまうのだった。
ドレークは悪い奴ではない。それはなんとなくロウも察しているところで、だからこそリンウェルを無理に引き剥がそうという気にもなれない。
一族が自分だけを残して滅ぼされ、必然的に同世代の友人や仲間たちからは遠くを歩くことになってきたリンウェルにとって、ドレークのような人間は貴重だろう。似た境遇に共通の趣味を持っている人間などそうそういない。
それに、とロウは唇を強く噛む。
リンウェルは、ドレークの隣ではよく笑っている。目を輝かせて、眩しいくらいに顔を綻ばせている。
自分と一緒にいる時のリンウェルはどうだろう。つまらなそうにため息をついているとか、暗い表情だとか、そんなのはまったくもって思い当たりはしないが、ドレークほどの笑顔を引き出せているのだろうか。この先だって、あれだけ笑わせてやれるのか自信がない。
しゃがみ込んだまま考え事を続けるロウの様子を見て、再び牧場内の動物たちが集まってきた。半ば頭突きのように寄せてくるその頭を、一頭一頭撫でながらロウは笑った。
「お前らは、今を生きてんだもんな」
きっとこいつらは今そうしたいと思ったから頭を擦り寄せてきた。単純で明快な愛情表現だ。
例えば明日、ドレークとリンウェルが交際を始めたらどうする。明日でなくても、この数時間後にもその可能性は充分あり得るわけだ。二人の気持ちがそうであるのは仕方ないとして、何よりも悔しいのは、自分のこの気持ちを何も伝えられないまま終わってしまうことだ。
「今どうしたいか、だよな……!」
ロウは立ち上がると、土を蹴って走り出す。
「また明日来るからな!」
見送ってくれる動物たちに手を振ると、牛の尾が鞭のように揺れるのが見えた。
リンウェルは珍しく、一人で宮殿内のベンチに座っていた。
その手にはいつものように分厚い本が見え、肩にはそれを覗き込むフルルの姿もあった。水の音を聞きながら読書を楽しんでいるのか、口元は緩く弧を描いていて、ロウにはまるでそこだけ時間がゆっくり流れているようにも見えた。
「ロウ。珍しいね、こんな時間に」
「お、おう。今日は休みなんだよ」
声を掛けるタイミングを完全に見失ってしまっていたが、先に気配に気づいたのはリンウェルの方だった。
へえ、とリンウェルは本を閉じると、それを小脇に抱える。
「暇ならちょっと外出ない? 少し散歩したいんだ」
いいぜ、とロウが返事をする前に、リンウェルは外への扉に向かって歩き出していた。
その後ろを追いかけながら外に出れば、強めの風が髪を揺らす。
「今日、ドレークは?」
会話をしようと思ったはいいものの、自分の口から出たのはできるだけ避けたい人物の名前で、ロウは少し項垂れた。
「多分図書の間か、部屋の方じゃない? そういえば朝から会ってないな」
そういう日もあるのかとロウは思ったが、近くにいないのなら都合がいい。
「ド、ドレークはどうだ、元気でやってるか」
違う、これではまるで久々に会った知り合いの爺さんではないか。
ロウは自分の情けなさに頭を抱えるが、リンウェルはあまり気にしていないようだった。
「そうだね、ここでの暮らしにも随分と慣れてきたみたいだけど、まだ買い物とか難しいって言ってたよ。活気がありすぎて混乱するって言ってた」
「それはそうかもな。俺たちもはじめはかなりビビったし」
「値切るコツとか教えてあげたよ。こないだ買い物手伝ってもらった時に実演してみせたの」
――買い物?
ロウの眉がぴくりと反応する。
「ロウが帰ってくる前。うっかり食材切らしちゃって。ドレークが手伝うって言うから、家まで荷物運んでもらっちゃった」
それは俺の役目だろ! とロウは叫びたかったが、仕事で空けていた時にそれが叶うはずもない。
「そ、それで……もしかして家に」
「家の前までだよ。ロウと一緒!」
それを聞いてロウはやや安堵したものの、一緒と言われて喜んでいいものかどうなのか。
とりあえず、話を聞く限りは恋人になったとか、そういった進展はなさそうだ。
「でもドレーク、星霊術使うの苦手なんだって。そういう一族なのかなと思って詳しくは聞いてないんだけど」
星霊術が苦手、か。〈魔法使い〉の一族であれば、誰でも自衛の手段として、ある程度の術が使えるものかと思っていた。
「でもはじめここに来た時、星霊術でズーグルを焼いたんだろ?」
「あの時は人に危害が及ぶからってやむなく使ったって言ってたよ。加減に自信ないから室内とかでは絶対使わないんだって」
「へえ」
一口に〈魔法使い〉と言っても様々な奴らがいる。いやそれは〈魔法使い〉でなくても同じだ。アルフェンのように剣ができる奴もいれば、自分のように武術を得意とする奴もいる。逆に全く戦闘に参加はできなくとも料理ができる奴だったり足が速い奴もいたりする。
「ダナとかレナとか、ひとくくりにしてたみたいに、〈魔法使い〉もみんな同じわけないよな。人間ひとりひとり、それぞれ違うんだからよ」
言ってから、ロウはしまったと思った。
かつてダナとレナをひとくくりにして強い反発心を持っていたのは、他でもないリンウェルだった。
両親ともども一族をアウメドラに滅ぼされ、天涯孤独となった経緯を考えれば当然なのかもしれない。それでもシオンやテュオハリムとともに旅をする中で、その考えは徐々に変化していったとは思うが、あまり思い出したくないことかもしれなかった。
そんなロウの心配とは裏腹に、リンウェルはあっけらかんと言う。
「うん。〈魔法使い〉でも魔法が使えなくたっていいし、〈魔法使い〉でなくても魔法が使えてもいいよね。あ、レナの人は〈魔法使い〉じゃないけど」
「いつかダナ人もレナ人も、〈魔法使い〉も全部同じになればいいのにね」
リンウェルの口から出たからこそ、その言葉の重みがロウにはよくわかった。
スタートが全部【同じ】になればこそ、違いが映える。個性が出る。まだこの世界はスタートが同じではない。ダナとかレナとか、生まれによって差が設けられてしまっている。それがなくなれば、もっと様々な職種だとか仕事が生まれるはずだ。
そうだな、とロウが言おうとした瞬間、強い風が吹いた。この時期のメナンシアはこういった風が多い。
「すごい風!」
リンウェルが笑ってなびく髪をかき上げた瞬間、ロウから出たのは声ではなく、腕だった。
衝動的にその細い肩を掴んで、リンウェルの瞳を覗き込む。
「俺、お前のこと――」
出かけた台詞がロウを現実へと引き戻す。
みるみる上る熱と、腹の方へ降りていく言葉。
何故今なんだ、せめて言い終わってから戻って来たかった。
リンウェルの肩にある手には、つい力が入る。
ここまで来たらもう、引き下がるわけにはいかなかった。
「俺が、近くで――」
守るから、なんて大それたことを言えば、「そんな必要ないから」と一蹴されてしまうだろうか。
ああでもないこうでもないと足りない頭で考えているうち、その足りない頭に向かって何かが飛んでくる。
「うおっ、いてっ! な、なんだぁ?」
ポロポロと落ちてくるのは小石だ。小指の先ほどのそれは次から次へとロウの後頭部に投げつけられる。
「痛い痛い! なんなんだよ!」
「フルーッ!」
どうやら犯人はリンウェルの使い魔のようで、ロウから数歩分離れた場所から、その真っ白な翼を器用に使って小石を打ち出していた。
「お、お前……! せっかくいいところだったのに……!」
「フル! フルルッフ!」
「遠隔攻撃まで身に着けやがって……」
ただ闇雲に髪の毛をむしっていたあの頃とは違い、自身も成長したのだとフルルは胸を張って見せる。だからってその攻撃対象を自分にするのはやめてほしいが。
ロウは、そこでリンウェルが何かぶつぶつと独り言をつぶやいていることに気付く。
「リンウェル?」
「もしかしたら、あり得るかも……」
納得したような表情は、何か一つの結論に達したようだった。
「ロウ、明日少し時間ある?」
確かめたいことがあるの、と目を見て言われたら、ロウはそのまま頷くことしかできなかった。
◇
リンウェルがドレークを連れ出したのはトラスリーダ街道を少し進んだ先だ。
昨日のうちに、「明日少しだけ星霊術見せてくれない?」とやや強引に約束を取り付けると、突然のことにもかかわらず、ドレークはただ微笑んで「わかりました」と言った。
「じゃあ、相手はあいつでいいかな」
リンウェルが示したのはシェルと呼ばれる貝型のズーグルだ。特段動きが速いとかそういうわけではないが、やや装甲が硬い。
「火属性が弱点だから。大丈夫、何かあったら私が何とかするよ!」
任せて、と胸を叩いてリンウェルはドレークの後ろに下がる。
シェルがこちらの敵意に気付く前に、ドレークは攻撃の構えを取った。
リンウェルにはその手元に集中していく星霊力がはっきりと感じ取れた。充分に練られたそれが、シェルに向かって飛んでいく。
一撃で仕留めるには足りず、ドレークはすぐさま二発目の用意をした。
だが、先ほどとは違い、手元には何も感じない。ドレーク自身も違和感に気付いているようではあったが、そのままシェルはこちらに向かって突っ込んでくる。
シェルに向かうはずのドレークの2発目は放たれることはなかった。
代わりに自分が放ったサンダーブレードがシェルを貫いたのを見て、リンウェルは静かに口を開く。
「ドレーク、〈魔法使い〉じゃないよね」
目の前の彼に対しての言葉のはずだったが、それは自分を納得させるためのものでもあった。
責めようとも咎めようとも思わなかった。嘘をつかれていたのは悲しかったが。
ドレークはその言葉を聞いてゆっくりとこちらに向き直る。
そして道の向こうからロウに連れられてやってくるもう一人の〈共犯者〉の姿を見て、ただ一言「すみません」と言った。
リンウェルはドレークの正体に気が付いていたわけではない。疑ってもいなかった。
自分が〈魔法使い〉であるとはいえ、他の一族のことは知らないし、ましてやそんな一族がいるとも思っていなかったのだから。
あのときのロウが言った「近くで」「遠隔攻撃」という言葉で、リンウェルは一つ仮定を立てた。自分が星霊術を使わずとも、誰かが遠くから攻撃すれば星霊術を使っているように見えるのではないか。
ロウには「近くで星霊術を使っている人がいたら、話しかけて集中力を削いでおいて」とだけ伝えておいた。案の定、近くにいたレナ人の兵士が該当したらしく、ロウのどうでもいい世間話によって見事に阻害されてしまったようだ。
ドレークはあの後、あっさりと自白した。
自分はただのダナ人で、星霊術が使えるように見せたのはレナ人の友人の協力によるものであること。本当はミハグサールの脱走者の集落で生まれ、各地を転々としながら逃げ隠れて生きてきたことなど、その振る舞いからは想像もつかない過酷な過去を打ち明けてくれた。知識が豊富であったのは、隠れ家を遺跡としていた時期があり、そこで文字をはじめとして歴史や過去の文化などを学んだのだという。
「一緒に暮らしていた人の中に物知りな方がいたんです」
「いつかこの暮らしから解放されたときのために、これだけは知っておきなさいって、色々と仕込まれました」
これだけというにはあまりにも膨大なその知識をドレークは見事に習得した。
世界が統一されてからは、その中心として名高いメナンシアを目指し、ヴィスキントに滞在するうち、レナ人の友人もできた。
図書の間でリンウェルを見かけたのもこの時期だ。リンウェルが〈魔法使い〉の一族の生き残りであるという噂を耳にして、この計画を思いついたのだという。
「こんな大事になるとは思いませんでした。〈魔法使い〉というのが、これだけの影響力を持っているなんて。本当に浅はかでした」
やわらかい表情ながらも、その声色にはやや悲壮感が感じられた。
〈魔法使い〉と聞いてちょっとした話題になるのは、ここがリンウェルのいるヴィスキントだからかもしれない。他領には星霊術を使えるというだけで恐れる人間が少なからずいることを考えれば、拒否されなかっただけ運が良かったと言えるだろう。
とはいえドレークが起こした〈騒動〉は、あくまで宮殿内の中、それも影響があったといえば研究者界隈だけのことで、生活を大きく揺るがすことはもちろんない。
これまでともに討論を重ねた研究者たちも驚きはしたが、誰一人として責めるようなことは言わなかった。これも彼の人徳によるものだろう。
気を落としたのは例のダエク=ファエゾルから来た研究者たちだった。待ち望んでいた光属性を残すための適合者が、実はそうではなかったと知って、その落ち込み様は目に見えて明らかだった。よく考えてみれば状況は彼が現れる前に戻っただけで、特に損をしたわけではないと気づくや否や、今では再び研究にいそしむ姿を見せている。
リンウェルはこの日、ドレークに呼び出されていた。
宮殿内の小さな庭園は、よく二人で遺物の話をした場所だ。
ベンチに座って待っていると、向こうから濃紺のローブ姿のドレークがやって来た。
「もうそんな恰好しなくていいのに」
「これは以前から着ているものです」
そうなの? と首を傾げるリンウェルに、ドレークは小さく笑う。
「僕は、〈魔法使い〉を名乗るずっと前から、図書の間であなたを見ていたんですけどね」
「え?」
心当たりのないことに、リンウェルは思わずどきりとする。
「リンウェルさん、僕が素性を偽ってまであなたに近づいた理由、わかりますか」
真っ直ぐにこちらを見つめる瞳にはもう澱んだものはなかった。
「僕は、あなたが好きです」
今度こそ嘘偽りのない言葉は、静かにリンウェルの耳に届く。
ただ、リンウェルもなぜか冷静だった。この状況においては確かに心拍数は上がっているはずなのに、こうも心が動かないことに自分でも驚いてしまう。
「ごめんなさい」
はっきりとそう口にすれば、ドレークはさっきまでと違い、一気にその表情を緩めた。
「わかっています。好きなんですよね、彼が」
「えっ」
「見ていればわかります、さすがにあれだけ熱い視線を向けられていたら」
先ほどまで微塵も感じていなかったリンウェルの中の動揺が、今ここに来て初めてフル稼働する。
気づかれていたなんて。必死に隠してきたはずなのに。
熱い視線というからには、自分はロウを目で追ってしまっていたのか。だとしたらそれは無意識で、しかもそれを他の人に、それも知り合って数週間の人に指摘されてしまうほどバレバレだったのかと思うと、リンウェルは身が縮こまる思いがした。
「厳密に言えば、言葉の端々に彼が覗いていたというか。どんな話題を振っても、必ず彼の存在がちらついていました。悔しかったです、自分と話しているときにほかの男の話が出てくるのは」
こう聞くと、なんて自分は残酷な女なのだろうと思えてくる。
ロウがほかの女性に視線を投げかけるだけで、それを咎めるようにしていた自分が情けないやら、酷いやらで合わせる顔がない。
「一つだけ教えてください。どうして僕では駄目なんですか。何か足りないところがありましたか」
それが縋るという風でもなく、ただ単に知っておきたいという気持ちからの言葉であることはリンウェルにもよく伝わっていた。
ドレークは優しかった。穏やかで、腹を立てることもよほどのことがない限りなさそうに見えた。食べ物に好き嫌いもないし、頭も良くて話していて楽しい。これといって悪いところは見当たらず、足りない要素も思い当たらない。
「特にそれはないんだけど……」
リンウェルが放った言葉に、ドレークは、はは、と笑う。
「悪いところがないのに勝てないなんて、これ以上の勝ち目もないってことですね」
「あ……」
そういうつもりで言った言葉ではなかったが、よく考えてみるとそういうことになる。
ある意味最も辛辣な返答を選んでしまったのかもしれないが、リンウェルに後悔はなかった。今更自分の気持ちを隠しようもない。「ロウが好きだからドレークとは付き合えない」という答えが、覆ることはないからだ。
「でもなんだか分かる気がします、リンウェルさんが彼に惹かれる理由が」
「彼にはなんだか不思議な魅力がある。素性の知れない僕にも気を遣って話し掛けてくれる人ですし」
ロウが人懐こいとか、慕われるというのはそういうところなのだろう。
誰にでも平等に接することのできるロウは、メナンシアの兵士の間でも評判がいいと聞く。〈紅の鴉〉や〈銀の剣〉から頻繁に依頼が入るのも、戦闘の腕を買われているだけが理由ではないはずだ。
野菜がいまだに苦手だったり、デリカシーのないことを言ったりすることもあるが、そういうところも含めて、リンウェルはロウを想っている。
ただの相槌さえ傷口に塩を塗り込むようなことになりかねない今は、リンウェルはただ微笑むことしかできなかった。
「これから苦労されるかもしれませんが、覚悟はありますか」
この流れで苦労、覚悟といった言葉を掛けられる心当たりがあるとしたら、〈魔法使い〉の血のことだろうなとリンウェルは察する。あの部屋にいれば嫌でも聞こえてくるとはいえ、リンウェルはドレークの方に迷惑が掛かってはいないかと心配したが、彼の見事なまでのスルースキルには舌を巻いた。
星霊術が使えるかどうかは遺伝によるものが大きい。だからこそレナ人は大なり小なり星霊術が使えるし、ダナ人はほとんど適性がない。
ただ、リンウェルの子が光属性を扱えるかどうかは遺伝で決まるとして、それらはロウを想う気持ちには何ら関係のないことだ。
要するにこれは、ロウをそういったいざこざに巻き込めるかどうかというリンウェル自身の問題で、その覚悟を問われていることになる。
「覚悟、か……」
仮にロウと将来を誓ったとして、それを打ち明けたらどんな反応をするだろうか。
怒ってくれるかもしれないし、気にしなくていいと言ってくれるかもしれない。少なくとも、自分が見てきたロウはそんなことで自分の手を離したりはしない。
「全部、ロウに相談する」
覚悟を決められるかどうかも、すべてロウに打ち明ける。それがスタートになって、一緒に悩みながら歩いていけたらいいなとリンウェルは思う。
その言葉を聞いて、ドレークはまた小さく笑った。
付け入る隙が無いですねと言われてしまえば、自分の気持ちの大きさを量られてしまったようでリンウェルは一層恥ずかしさを覚えた。
「もうそろそろ、僕は行きます。彼も来たようですし」
え、とリンウェルが向こうに視線を送ったところで、植木の陰からロウがこちらをちらちらと覗いているのが見えた。
気配も感じなかったし物音がしたわけでもない。ドレークは一体どうやってロウに気づいたのだろう。彼こそまるで本物の魔法使いのようだと、リンウェルは思った。
「……何話してたんだよ」
様子を伺っていたロウは、ドレークが去ると真っ直ぐこちらに向かってきた。
別にドレークがいてもいなくても話に混ざればいいのに、とリンウェルは以前から思っていたが、ロウなりに気を遣っていたのかもしれない。
「ちょっとね。ロウの話とか」
「俺? 俺あいつになんかしたっけ……」
大したことじゃないよ、とリンウェルは付け加えながら、先ほどの会話がロウに聞かれていなかったことに安堵した。
気持ちを本人に伝える前に聞かれてしまうのはなんというか、勿体ない。この確かな気持ちは自分の中でだけ、できれば二人の間でだけ育って欲しいとリンウェルは思っている。
「お前、残念だったな」
そう口にしながら、ロウは自分以上に気の毒そうな顔をしていた。その理由がいまいち掴めず、リンウェルは「何が?」と首を傾げる。
「何が、って……あいつ、〈魔法使い〉の生き残りじゃなかったんだろ」
改めて聞くとその事実はなかなかの衝撃だろう。確かめる術がないとはいえ、まさか彼が嘘をついていたとは誰も思っていなかったはずだ。
「騙されてた、ってのもあるけどよ、なんか……仲間が減ったとか思わねえの?」
「うーん……」
確かに彼が本当に〈魔法使い〉の生き残りだったとしたら、自分と同類だとかそういう風に思われるのだろう。ほかにも仲間がいて良かったね、と誰かからの同情もあり得たかもしれない。
だが、自分の感覚ではちょっと違う。
「〈魔法使い〉とか、あまり関係ないよ」
ドレークが〈魔法使い〉であってもそうでなくても、自分にとっては特に重要なことではなかったなと、今になってリンウェルは思う。
彼は〈魔法使い〉の生き残り云々の前にとても話の合う友人で、遺物や歴史に関連した話をするのが楽しかった。
「ダナ人とかレナ人だとか関係ないのと一緒。ドレークは新しく知り合った友達、ただそれだけ」
「それだけって……あいつは、お前のこと」
「好きなんでしょ、知ってるよ。さっき言われたもん」
「はあ!?」
ロウがそれをどこで知ったのかは知らないが、先ほどの話を聞いていないことはロウを見れば明らかだし、別に黙っておくようなことでもない。
「そ、それでお前は、なんて……」
「断ったよ、ごめんって」
「へ、へえ~……」
理由はさすがに言えない。「好きな人がいるから」なんて、張本人の前でさらりと言えるほど演技派ではない。
そう考えると、ドレークはなんて人だろう。〈魔法使い〉を演じた上、面と向かって想いを告げられるのだから。相手を目の前にして、こんなに胸がドキドキした状態で「好き」だなんて、とてもじゃないが言えそうになかった。
「ドレークはすごいな」
その言葉にロウの動きが一瞬止まる。
それを見て、またやってしまった、と思わずリンウェルは口に手を当てた。目の前の相手でなく、場にいない人を褒めてしまう、自分の悪い癖だ。それも今は目の前にいるのが想い人であるという最悪のパターン。言ってしまったものは取り返しがつかないが、これからは気を付けないといけない。
その代わりといっては何だが、自分も少しくらい勇気をふるわなければと、リンウェルはロウの方に向き直り、ねぇ、と声を掛ける。
「今日……夕飯、うちで食べてかない?」
「え……」
シオンとキサラとフルルを除けば、誰にも立ち入らせなかった境界。越えてもいいよと手を引いたのは、あまりにも大胆すぎただろうか。
「食べてくの!? 食べていかないの!?」
「たっ、食べます!」
二人の間で流れる沈黙のさなか、込み上げた熱は耳の上まで上っていく。手で扇いでそれを吹き飛ばすと、リンウェルはやっとロウの顔を見ることができた。
「あいつ、これからどうすんだ?」
二人は宮殿を出て、街に向かって歩き出す。夕暮れ時ということもあって、向こうに見える市場はなかなか混んでいるようだった。
「一旦、故郷に帰るって言ってたよ。元から永住するつもりではなかったみたい」
迷惑をかけてしまったと謝罪していたが、実際彼の嘘に振り回されたのは研究員やその周囲だけで、特段影響があったわけではなかった。
寧ろ豊かな知識を持った人材が一人減ることの方が問題で、研究員の多くは彼にここに留まるよう懇願したのだとか。彼はそれを受け入れなかったが、必ずまたここを訪ねると言ってくれた。
「持ってる本もいずれ寄贈したいって言ってた。だからまた来るんじゃないかな」
定かではないが、きっとそうであると信じたい。彼は大切な友人であることに変わりはないのだから。
「そうだな。別に悪い奴ってわけじゃなかった」
「またご飯食べに行こうよ」
例のレストランの前でリンウェルがそう言うと、ロウは少し不満そうな表情をしたものの、最後は仕方ないなという顔で「そうだな」とだけ返事をした。
人混みの中でリンウェルはロウを盗み見る。
以前ロウが言いかけた言葉の続きを、自分はどうしても期待してしまっていた。
『俺、お前のこと――』
それに続く言葉が自分の願い通りだとして、気持ちが重なったとしたら――。
その先にある「覚悟」を自分は持てるだろうか。ロウを巻き込んでしまえるだろうか。
そんな些細な不安も、ロウを見ていると不思議と要らないように思えてくる。
伝えたところで、ロウなら『だったら最後まで巻き込めよ』と笑ってくれるような気がした。
二人の間に生まれてくる子どもは、どんな感じだろう。
さすがに気が早すぎるかな。
でも、女の子なら誰だって一度は考えたことがあるはずだ。
髪色はどんな色かな。瞳の色はどっちに似るだろう。
星霊術が使えても、そうでなくてもいい。もちろん運動が苦手だってかまわない。この先はもっと可能性が広がっているはずなのだ。
ダナとレナが融合したことで生まれた新たな可能性。自分はそれを信じたい。
「……金髪の子が生まれたりして」
「なんだって?」
「今日キンメダイにしようかなって!」
恥ずかしい呟きは食材で誤魔化すことにして、リンウェルはその手をロウの腕へと伸ばす。
どうせ巻き込むのならこのくらいは許してほしいと、人だかりの中で指を繋いでみせたのだった。
おわり