最後の戦いはあくまで一区切りというものでしかなく、双世界にとっては新たな歴史の一歩を踏み出したに過ぎない。
それでも世界は変わった。変えた。
良い方向に向かうのかそうでないかはこれからの自分たち次第であり、その土台作りという意味でも今は重要な時期だ。
ダナ人とレナ人のーーもとは同じ種族であったとしてもーー壁はまだまだ高い。
テュオハリムはその架け橋として精力的に活動している。一方で領将のような地位につくことは拒んでおり、あくまで双方に中立な立場を保っている。とはいうものの人気も知名度も日々増しているのも事実で、それを利用する人物や組織が出てこないか心配の種ではある。
そんなテュオハリムがヴィスキントを訪ねると知らせがあったのはその当日になってからだった。それも公式にではなく、キサラ個人に向けて文があったのだ。
急な話だが、彼ほど多忙であれば仕方ないともキサラは思う。主人がいなくなって久しいというのにすっかり身につけるのが習慣となってしまった鎧を脱ぎ、キサラはカジュアルな装いへと替えた。ダナともレナともつかないそれは今ヴィスキントで流行っているものだ。いち早くダナとレナの壁が取り払われたメナンシアだからこそ生まれたものかもしれない。
真っ青な少し厚手の生地のロングスカートは脚の露出に慣れていないキサラでもあまり抵抗なく身につけられる。黒色のブラウスにはリボンがついていて可愛らしさもあり、ふんわりとしたシルエットがキサラのコンプレックスを隠していた。シオンに似合っているわ、と言われそのまま購入したにも関わらず、今まで着る機会が無かったのが勿体ない。
柄にもなくキサラは姿見の前で一回りして見せる。折角梳かした髪がまた肩に広がるのも気にせず、ふふ、と口元を緩ませた。なかなかに浮かれている。
キサラは旅の後、ヴィスキント内に部屋を借りた。近衛として宮殿にいた頃は自室のようなものがあったとはいえ決められた時間に決められたことをこなす毎日だった。それを悪いとは思わなかったが世界が変わってからは自分で考えて毎日を過ごしてみたいと思ったのだ。奴隷としてミキゥダと過ごしていたあの日々とも違う、新鮮な毎日を送っている。
テュオハリムにもそのことは伝えていたがどうも一人暮らしの部屋というものに興味があるらしい。とても広いとはいえないが友人一人くらいは迎えられるだろうと、キサラはこの部屋に招くことにした。料理はもちろんキサラのお手製のものだ。ヴィスキント市内で流行っている食材も食べさせたい。長い髪の毛をひとまとめにして上に結えるとキサラは包丁の小気味いい音を立てるのだった。
テュオハリムがヴィスキントに到着したのは夜になってからだった。
ドアをノックする音にキサラはどきりとする。
「テュオ?」
磨りガラス越しの赤髪を見て返事を聞く前にノブを回してしまう。少し軽率だっただろうか。
そんなことはつゆも気にせずテュオハリムは変装用の帽子を脱ぎながらキサラの部屋へと入ってきた。
「久しぶりだな。息災か」
「息災って……ふふ、元気ですよ」
独特の言い回しは相も変わらず。やわらかな目線は物珍しそうにゆっくりと部屋を一周した後、キサラのそれとぶつかる。
「これが君の城かね」
「はい。アウテリーナ宮殿にも負けません」
「たしかに。悪くない」
生活に必要な物以外には花の咲いた植木鉢程度しか置かれていない空間。レナ人のテュオハリムには相当味気なく見えたに違いない。それでもテュオハリムの言葉には裏はなかった。
「お疲れでしょう。食事の用意はできてますよ。お腹はすいてます?」
「ああ、いただくとしよう」
これもまた何の装飾もない椅子につくと、二人はグラスをカチンと鳴らした。
食事も交えた二人の再会は穏やかに時が過ぎていった。会えなかったのは数ヶ月の間とはいえ話すことはたくさんある。その中で生じた問題や悩みをテュオハリムはひとつひとつ丁寧に聞いてくれた。
キサラもまたテュオハリムの近況に耳を傾ける。文化の違うレナ側ではまだダナを下に見る人間がまだまだ多い。そういう教育を受けてきたのだ、これは解決には時間がかかるだろう。
「やるべきことはたくさんあるのに、悩みばかり増えていきます」
「全くだ。これではいつ引退できるのか」
「まだまだ、当分先ですね」
「相変わらず、手厳しい」
いつか旅の途中で言い合ったような台詞に笑い声が響く。
キサラが食事の皿を片付けていると後ろでカタンとグラスを置く音がした。
「ところで、本題に入るのだが」
蛇口から流れる水を止めてキサラはテュオハリムの方を見る。琥珀色の瞳もまたこちらを向いた。
「君が欲しい、キサラ」
「……え?」
キサラの思考が一瞬止まる。
欲しい、と言ったのだろうか。それは一体、どういう……?
戸惑うキサラを見つめるテュオハリムの瞳は揺らがない。
「これからこの世界ではまだやるべきことは多い。先ほども言った通り、問題は尽きることなく時間がいくらあっても足りない」
「一方で我々に与えられた時間というのも限られている。手遅れになる前に、と思ってね」
淡々と述べているように見えるが、まさかこのために今日ここに来たのだろうか。
「キサラ」
頭が追いつかず立ち尽くしたままのキサラに立ち上がったテュオハリムが迫る。
そのまま背に腕を回されるとキサラの身体はあっという間に抱き竦められてしまった。
「あ、あの……」
「嫌なら抵抗したまえ」
「そ、そんなことを言われては……狡いです」
「どんな手を使っても、君が欲しい」
駄目か?とテュオハリムの低い声がして腕にさらに力が込められる。
心臓が早鐘を打つ。まるで自分のものではないみたいだ。
これも全てテュオハリムに伝わってしまっているのかと思うと尚更振り解くことなんてできない。感情がぐちゃぐちゃになって、どんな顔をしたらいいかわからないのだ。
人ひとりをたらし込むことなど彼にとっては簡単なことだろう。それが例え彼の意思とは関係のない天性のものだったとしても、こうして胸に抱かれて心をときめかせない人間など居ないのではないだろうか。
懸念しているのは、他にも相応しい相手は沢山いるのではないかということだったが、彼がそういった一時の衝動でこんなことをする人でないことはキサラはよく知っていた。
そうするとつまり、結論づけると、テュオハリムは以前から自分に好意を抱いてくれていたということなのだろうか。一体いつから。なぜ。
そんな問いの答えなどは単に自分を納得させるための材料でしかない。嘘か本当かなんて彼の、テュオハリムのこの腕の力の強さだけで充分理解できている。
そしてまた、キサラは自分自身の想いにも気づいていないわけではなかった。もはや尊敬や傾倒などといった言葉で誤魔化すことは出来ない。この胸の高鳴りが何よりの答えだ。
それでもその背に自分の腕を回せなかったのは躊躇いもあったからで。
「……私は、美しいわけでも可愛らしいわけでもないですし」
ぽつりぽつり、と口にした声はあまりにも小さい。
「鍛えていて、身体も、柔らかいわけではないですし」
「知識や学もそう多くはないですし……」
考えれば考えるほどに彼の理想の伴侶像とは程遠い気がする。
「君は何か勘違いをしているようだが」
頭の上で小さい溜息が聞こえた。
「私からすれば君は充分美しい」
はっきりと断言されたそれにキサラはまた目を見開く。
「それに生活の知識や知恵は誰がどう見ても豊富だ。君のそれはミキゥダを蔑むことになると思わないか」
キサラははっとする。これまでの自分を卑下することは、それを形作ってくれた兄をも下げてしまうということなのだ。
「君は魅力的だ。この部屋に来て確信した。帰る場所は君がいる空間がいい」
ここまで言われて涙しないなど無理なことだ。それでもキサラは必死にそれを堪える。
「私は理想の女性と一緒になりたいわけじゃない。君と過ごしたいのだ、キサラ」
親指で涙を拭われると再び視線が交わる。
次の瞬間には唇が重ねられていて、それでようやくこれが夢でないことを実感した。
ゆっくりと唇を離されると少し名残惜しい気もしたがキサラには自分の身体を保つので精一杯だった。一方で相変わらずテュオハリムの腕はキサラを捕らえて離さない。むしろ先ほどよりも強く力が込められているような気すらする。
「身体も柔らかいわけじゃないと言ったが、ふむ。それはこれから確かめてみれば済むことだ」
「!」
テュオハリムなりの冗談なのかどうなのか。あからさまに動揺するキサラの髪の毛をふわりと撫でると最後は願うように言った。
「どうか同じ道を歩いてはくれないか」
音もなく現れたロッドの先にテュオハリムが星霊術を込める。色とりどりの花が咲き乱れ、その香りが鼻を擽る。
かつて奇術だと言ったそれを目の前で披露されるとは。キサラは思わず笑ってその花束を受け取るとただ一言だけ、喜んで、と言うのだった。
終わり