ヴィスキントのアウテリーナ宮殿内にある図書の間の蔵書数は膨大で、リンウェルは何度も此処へと足を運んでいるが飽きることはない。当然レナのものが多いとはいえ、ダナの古い歴史に関する文献もあり、まだまだ興味が尽きないのだ。
リンウェルは暇さえあれば図書の間をぶらつき、なんとなく惹かれた書架を覗き込む。目を引くものがあればそれを借りて、自室でゆっくりと読み耽るのが此処のところの贅沢だった。
この日たまたまリンウェルの目に止まったのは図書の間では珍しく厚みのない、絵が中心の子供向けの本。いわゆる絵本だが、リンウェルは興味とはまた違った意味で胸をときめかせた。
「うわぁ懐かしい……『しらゆき姫』かぁ……」
幼い頃、両親に読んでもらった記憶がある。
美しい娘が継母の嫉妬により毒リンゴを食べさせられてしまう。眠りについた娘を隣国の王子がキスで目覚めさせ、二人は幸せに暮らす、というような内容だ。
美しい娘を匿ってくれる個性的な小人たちや、森で仲良くしてくれる動物などがとても魅力的で小さい頃のリンウェルはこの本がお気に入りだった。
この絵本はリンウェルが読んでいたものと全く同じというわけではなかったが、やはり美しい挿絵が所々に使われていた。その鮮やかなタッチは本の中に留めておくには勿体ないと思えるほどだ。
ーーまだこんなものが残っていたなんて。
そこからリンウェルの行動は早かった。
同じ本棚から適当に何冊かの絵本を手に取り、貸出の記録に名前を書いた。選んだ本は本当に適当だった。どうせ後で全部借りてしまうのだから。
今日の収穫を手にリンウェルは小走りで自室へと向かう。思わぬところで良いものを見つけてしまった。まあこんな姿をロウに見られたら何か言われそうではあるけどーー。
そう思ったところで、
「いでで!やめろって!」
聞き慣れた声が広い宮殿の廊下に響き渡る。それは明らかにリンウェルの部屋から聞こえてきたもので、リンウェル自身も大体何が起きたかは察していた。この状況には何度も遭遇したことがある。
「また勝手に入って!」
怒り半分呆れ半分で自室のドアを開ければ、そこには髪の毛をボサボサにしたロウと、その周りを飛び回るフルルの姿があった。
「リンウェル!」
「どうせノックしても返事がないから、って入ってきたんでしょ」
「う……」
ロウの反応を見る限り図星のようだ。
「あのね、返事がないのは居ないからなの!フルルには怪しい人が入ってきたら攻撃するようにちゃんと教えてあるんだから」
「俺は怪しいのかよ!」
「フルゥ!」
「肯定すんな!」
フルルとロウが再び揉め始めたのをよそに、リンウェルは借りてきた本を机の上に置いた。
さっきしていた心配はすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていた。
「お?お前が絵本とか珍しいな」
まずい、とリンウェルは思った。
やっぱりお前もお子様なんだな!とか、馬鹿にされると思ったのだ。
ところがロウはそんな素振りも見せず、机の上の絵本に興味津々だ。
「それなら俺でも読めるぜ!」
ちょっと貸してみろよ、と勝手に椅子に座って絵本を開き始める。子供向けの絵本とはいえロウが机に座って本を開いているのはなんだか不思議な光景だ。
「驚いた。ロウも本読むんだね」
「こういうのは親父とかお袋に読んでもらってたんだよ」
あんまり内容は覚えてねーけど、と言うロウに悲壮感はない。寧ろ少し楽しそうだ。
「もう、私が読もうと思って借りてきたのに」
「ちょっとくらいいいだろ?」
別にいいけど、と言いながらリンウェルはなんとなく面白くない。少し考えてから、「私も一緒に読む」と奥からもう一つの椅子を引っ張り出してきてロウの隣に座るのだった。
「えーと、これは?『にんぎょ姫』?」
たどたどしく文字を一つ一つなぞるようにしてロウがタイトルを読み上げる。目で文字を追うこと自体にあまり慣れていないのだろう。
そんな新鮮なロウの姿をリンウェルはじっと見つめていた。
「なんだよ。読むの遅くて悪かったな」
ばつが悪そうに口にするロウにリンウェルが首を横に振る。
「そうじゃなくて。ロウは私みたいにすっごい勉強させられたわけじゃないのに、文字も読めるし意味もわかるんでしょ?それってすごいなぁって」
文字の読み書きができないダナ人は多い。奴隷として必要でない場合以外は身につける機会がほとんどないからだ。
「俺の場合は親父やお袋が教えてくれたんだ。言われてみれば、たしかにそれで困ったことはねぇな」
「ジルファとお母さんに感謝だね」
そうだな、と答えたロウの瞳は優しかった。
リンウェルと同じく、絵本で昔を懐かしんでいるのだろうか。
「ねえ、昔読んでた本で覚えてるのは無いの?」
リンウェルの突然の問いにロウはうーんと頭を掻きながら考えを巡らせる。
「覚えてるやつか……あぁあれは覚えてるぜ。『ブウサギとカメ』」
「『ブウサギとカメ』って、ブウサギとカメが競争する話の?」
「ああそれそれ!ブウサギの方が早いんだけどよ、途中で昼寝しちまうんだよな」
「後から来たカメも一緒に寝ちゃって、起きた頃には何をしていたか忘れちゃうんだよね」
「ほのぼのハートフルストーリーだって言われたけど、当時はなんのことか全然わかんなかったわ」
「……考えてみれば今もよくわかんないね」
たしかに、と2人で笑う。
まさかロウと本について話せる日が来るとはリンウェルは思っていなかった。たとえそれが絵本であっても、嬉しい。何かお揃いのものを身につけられたようなそんな気持ちになった。
「なあ、他の本も見せてくれよ」
ロウの目が少し輝いて見えてリンウェルは嬉しくなる。
「えーと、じゃあ……」
積み重なった絵本の山から一番上のを手に取るとそのタイトルを見てリンウェルは息をのんだ。
「"いばら姫"……」
その言葉にロウも驚いたようで、思わず前のめりになって本を覗き込む。
その表紙には荊に飲み込まれた城の挿絵が描かれていた。
あらすじは、悪い魔法使いの呪いによって100年の眠りについた姫を、近国の王子がキスで目覚めさせるというようなものらしい。
ひと通りのページに目を通したリンウェルがなぜだかホッと息をつく。
「なんだよ、荊っていうからシオンのことと関係あんのかよってビビったじゃねーか」
「私もドキドキしちゃった」
あのシオンが囚われていた〈荊〉のことかと一瞬思ったがどうやらこれは違う話のようだ。
「っていうか、この"悪い魔法使い"って!こんなふうに書いたら魔法使いの印象が悪くなるじゃん!」
リンウェルは口を尖らせる。そのページの挿絵には邪悪な見目の老婆が描かれていて、いかにも悪者です、といわんばかりだ。
今のリンウェルは、こうやって軽口を叩けるくらいには自分が魔法使いの一族だと受け止められるようになっている。この血を憎んで、こんな力なければよかったと嘆いていた日々はもう昔の話だ。今は、この力で出来ることがあるなら喜んで行使したいと思っている。それがどれだけの成長であるか本人は自覚していないが。
「そもそも魔法使いと呪いは関係ないし!星霊術と呪術は違うから!」
「わかったわかった。ほら次読もうぜ?」
ロウがそう言って取り出した本は比較的新しい。
「なになに、……"グミ太郎"?」
その表紙には剣を持った青年が邪悪な敵と対峙する姿が描かれていた。
「一人の青年がグミで狼とエイプとフクロウを手懐け、魔物退治の旅に出る話、だって」
「おお!狼!」
「この青年って、アルフェンみたい」
「俺はグミで手懐けられたんじゃねぇ!」
「狼であることは否定しないんだ……」
何冊か読み進めるとロウもすっかり慣れてきたようで、すらすらと文字を読めるようになってきた。もともとの能力は高そうだし、もっと勉強したらいいのに、とリンウェルはすこし勿体なく思っている。本人に言ったところで嫌だと一蹴されてしまうのだろうけど。
「最後はこれ、"灰かぶり姫"だって」
そう言ってリンウェルが手にした本は今までで一番装丁が美しい。厚みはないものの、表紙、や裏表紙、背表紙まで凝ったつくりになっている。
「また姫シリーズかよ」
「こういう話はウケがいいんだよ、きっと」
ロウの言う通り、絵本にはお姫様の物語が多い。リンウェルが今回借りてきた本にもそういった内容のものが多く含まれていた。
「内容は、っと……いじめられていた美しい娘が魔法使いの力を借りて着飾り、舞踏会に参加して王子の心を射止める話……おお!良い魔法使い!」
「なんか目的が変わってねえか?」
ロウの言葉を無視してページを捲ると、優しそうな老婆の姿をした魔法使いが女の子の服を美しいドレスへと変化させる姿が描かれていた。
「これはね、もう……奇術!」
「魔法使いって難しいのな」
愕然として机に突っ伏すリンウェルにロウが同情のため息をつく。
何かを諦めたようにリンウェルが絵本を捲っていくとその最後のページには美しい姫と王子様がダンスを踊る様子が優雅に描かれていた。
「やっぱさ、女子なら王子様ってやつに憧れんのか?」
ロウの質問にどこか他人事のような気持ちでリンウェルは考える。
「うーん、どうだろう」
リンウェル自身、そういう物語を読んでも王子様に憧れたことはなかった。それは自身の境遇からか、それとも絵本の世界はそういうもので自分とは全く関係のないものだと割り切っていたからか。
「そもそも王子様ってあまりイメージがつかないよね。アルフェンは〈王〉なんだけど」
「シオンにとっては王子様なんじゃねーの?」
「それはそうかも!」
「テュオハリムは王子って感じじゃねーし……」
「テュオハリムは王族、みたいな」
「王子も王族だろ」
「むか!ロウのくせに……」
正しいことを言ったのはロウなのに何故かロウの方が睨まれてしまう。
「じゃあロウは王子様になりたいの?」
「べっ別にそういうわけじゃねーけど」
ロウが王子様、とリンウェルは想像してみる。
肉ばっかり食べてて鍛錬ばっかりしてて勉強も好きじゃない王子様。
(従者が大変そう……)
その苦労が目に浮かぶようだ。
ロウに王子様は似合わない。
リンウェルはそう勝手に結論づけると、隣で適当に絵本を捲っているロウに言い放つ。
「ロウは王子様なんかにならないでいいよ」
「はあ?どういう意味だよ」
「そのままでいてってこと」
「お、おう……?」
いまいち納得していないような顔でロウは頷く。
――王子様と結ばれるのはお姫様だから。
ここまで言ってもロウには伝わらないかもしれない。でもそれでいい、それがいいとリンウェルは思う。
「あー腹減ったー。そろそろ飯行こうぜ」
「もうそんな時間かぁ」
リンウェルが時計を確認しながら腕を上に大きく伸びをすると、隣で大きな欠伸をしているロウと目が合った。
「……ふふ」
「なんだよ」
「ううん、ありがと」
「?」
「さぁてご飯だよ!何食べよっかなあ」
立ち上がったリンウェルは上機嫌なのか鼻歌混じりに部屋を出る。ロウにはそれが何故なのかは全くわからなかったが、本が読めて楽しかったのだと理解することにした。
おわり