ロウがカラグリアに行くことを決めたのは単にネアズから依頼が来たからというだけではない。
以前からもっと強くなりたいとロウは日々鍛錬に励んではいたが、最近はなかなかその力を発揮できずにいた。
というのも今ロウが活動の拠点としているメナンシアは融合した双世界の中心部となっており、街道の整備もいち早く進んでいる。周辺を脅かすはぐれズーグルたちは早々に討伐され、今となってはレナ人の制御下にあるズーグルが牧場よろしく柵に囲まれて飼われているだけだ。
”はぐれ”たちがいなくなってもロウの仕事がなくなったわけではない。メナンシアでは他領からの移民はもちろん、多くの商人たちが行き交っている。その荷物や人々の護衛もロウの立派な仕事であり、むしろ最近の依頼はそれがほとんどだった。別にそのことに不満があるわけではない。ただ、こうしているうちに自分の腕が鈍ってしまうのではないかと不安なのだ。
「その気持ちはちょっとわかるな」
ヴィスキントで昼食を共にしていたアルフェンが苦笑する。
「前は嫌でも毎日剣を振るっていたからな。今がちょっと信じられないくらいだ」
「そうだろ?まあ命の危険がないってのはありがたいことだってわかってるけどよ」
肉汁の滴るハンバーガーにかじりつき、そのソースの味に舌鼓を打つ。こうして腹いっぱい食べて、きっと明日も同じく腹いっぱい食べられる。それがどんなに幸せなことかは身に染みている。
だからこそ、それを守れるようになりたいと思った。
破滅の危機から救われたとはいえ、半年以上経ってもこの世界はまだまだ不安定だ。メナンシアにいればこそその感覚もぼやけてしまうが、シスロディアやミハグサールの復興はまだまだ途上段階で、どこかで勝手に繁殖したと思われる”はぐれ”たちが道に蔓延っている。
世界の危機を救いたいとかそういう大それたことではなく、今こうして幸せに過ごせている日々を守りたいのだ。それを脅かす相手が何なのかは想像もつかないが、守りたいものを守れる力が欲しい。
そのためには今よりもっと強くならなければいけないし、何よりその途中で倒れてしまってはいけない。自分の力を磨きたい、力を付けたいと強く思うようになった。
だからこそロウは悩んで、決めた。
「俺さ、カラグリアに行こうと思ってる」
アルフェンの目が一瞬大きく見開かれる。行く、といった意味が依頼でも単なる旅行でもないと察したのだろう。
「……また急だな」
「悩んでても仕方ねぇからさ」
ロウの口ぶりからするに、おそらく相当悩んだのだろうということはアルフェンにも伝わっていた。
ヴィスキントにいれば仕事に困ることもないし、食べ物も娯楽も豊富だ。そんな理想的な環境から一歩抜け出すことは勇気のいることだ。
カラグリアはロウの故郷とはいえ辛い記憶を思い起こさせる場所には違いない。凶暴な”はぐれ”があちこちに居座っているとも聞く。精神的にも肉体的にも鍛えられはするだろうが――。
「あ、あんまし深刻そうな顔しないでくれよ。さすがにもう親父のことは大丈夫だし、あっちには知り合いもいるし。たまにはこっちにも顔出そうと思ってるし!」
口ごもったアルフェンを見て、逆にロウが心配そうに声をかける。
アルフェンが思っていたよりもずっとロウは成長していたらしい。以前ならばジルファの名前を出そうものならその笑顔に悲壮感を滲ませていたというのに。
「安心したよ。その様子なら大丈夫そうだな」
「カラグリアが発展すれば親父も喜ぶだろ」
「逆にヘマをしたらどこからか鉄拳が飛んでくるかもな」
「あり得る」
冗談を飛ばして笑うロウの背中をたたいて、アルフェンは頑張れよと激励した。
おう、と言ってロウが差し出した拳にアルフェンは自分の拳をぶつける。ロウの拳は旅の途中で共に戦っていた時よりも数段大きくなったようにも見えた。
「そういえばリンウェルには、言ったのか?」
リンウェルはヴィスキントで遺跡や遺物の研究をするために宮殿内の一室に部屋をもらっている。現在建築中の研究施設が完成すればそちらに移る予定だ。
「ああ、昨日言ったぜ。そしたら文字の読み書きはきちんとできるようにしておかないとーとか言い出してよ。おかげでこれから勉強だぜ」
面倒そうにはしているがロウは満更でもない様子だ。
「いいじゃないか。俺もそれは必要だと思う。リンウェルに教えてもらうんだろ?会える口実ができて一石二鳥だな」
「べ、別にそういうのは考えて……」
「考えてないのか?」
「だー!もう!いいだろ俺のことは!」
正直今更何を隠すものがあるのかと思ったが、ロウも思春期の真っただ中だ。他人のことに興味はあっても自分のこととなると口にするのは恥ずかしいのかもしれない。
ロウがカラグリアに行くと聞いてアルフェンにはもう一つ懸念することがあった。リンウェルの事だ。
長い間一緒に旅をしてきてロウもリンウェルもお互いに好意を持っているだろうということはわかっている。リンウェルの方はあくまでそうではないかという予想ではあるが、ロウの方は確実にリンウェルに想いを寄せている。
ロウはリンウェルに頼まれて荷物持ちとしてフィールドワークにも出かけていたし、よく宮殿のほうにも顔を出していた。カラグリアにしばらく滞在することになれば今までのように会う機会もぐっと減るだろう。ロウの原動力はリンウェルではなかったのだろうか。先ほどの様子を見るに、別に喧嘩したとか愛想が尽きたとかそういうわけでもなさそうだったが。
「なあロウ、ひとつ聞きたいんだが」
「リンウェルのことが嫌いになったとかそういうわけじゃないんだよな」
食事を終えて飲みものに伸びていたロウの手が止まる。
「あー……アルフェンだから言うけどさ」
なんとなくきまりが悪そうにロウは口を開く。その様子がとんでもなく深刻そうに見えてアルフェンは思わず息を飲んだ。
「俺、あいつが笑ってるの見るとなんつーか、嬉しくなるっていうか。ずっとそうしてて欲しいんだよな。いや別に泣いたり怒っててもいいんだけどさ」
「あいつが笑って好きなことできるように俺が頑張る、っていうとなんか変な感じだけど……とりあえず、もっと強くなって守れるようになりたいんだ」
ロウが握りしめた拳は固い。でもそれは何もかもを破壊するためのものでなく、大切なものを傷つけさせないという温かいものに見えた。
先ほどまでの緊張が解けてアルフェンはほっと肩の力を抜く。どうやら心配はいらなかったようだ。
「そういう事だったんだな。でもロウ、そういうのは本人には言わなくていいのか?」
「!」
言えるわけないだろ、と言おうとしてロウは目の前の男を見る。
(アルフェンなら言ってるか……)
「言わなきゃ伝わらないだろ」
当然だと言わんばかりのアルフェンの口ぶりにはなんの嫌味も含まれていない。
ロウだって考えたことがないわけではなった。
口にしてしまう寸前までいった。結局言えなかったが。
旅の途中で自覚してからロウは頭を悩ませてきた。時折見せる笑顔が頭から離れなくて、いつのまにかそれを守りたいと思うようになっていたのだ。
旅が終わってからもできるだけ近くでそれを見ていたくてメナンシアに拠点を置いた。思った通りヴィスキント周辺での仕事は多く、宮殿で会ったり一緒に食事を摂ったりもした。
ロウが部屋に訪れるとリンウェルはいつも分厚い本を開いていた。難しい顔をしていることもあったが、それでもどこか楽しそうで本人も毎日が充実していると喜んでいた。知らないことがたくさんあってわくわくするのだと笑った顔が眩しかった。
ロウは頑張っているリンウェルが好きだった。
一方で、自分は何もできていないような気がしてしまう。自分は何か努力できているだろうか。強くなりたいと思いながら、今のままで満足しているんじゃないか。このままでリンウェルの隣に並び立つ資格があるのか――。
カラグリアへ行くことでそんな気持ちも埋めることができるんじゃないかとロウは期待もしていた。
それを自信と呼ぶことは後になってから知ることになるのだが。
「言う、けどさ。けど、まだ言えねぇよ。まだこんな自分じゃダメなんだ」
言い聞かせるような言葉はほかでもないロウに向けられているようだった。
どうやら既に腹はくくっているらしい。それならばアルフェンの口からはもう何も言うまい。
「あまり待たせすぎるなよ」
アルフェン自身がそう感じたわけではないが、女心は変わりやすいと聞いたこともある。心変わりしないうちに伝えたほうがいいという軽いアドバイスをしたつもりだったが。
「待つ?何を?」
しまった、と思ってアルフェンは誤魔化すように席を立つ。
リンウェルの気持ちについてはロウは何も知らないし、こちらが口を出すようなことでもない。
アルフェンは慌てて財布を取り出して何もなかったように取り繕った。
「ほら、今日は奢りだ。これからリンウェルのとこに行くんだろ?」
「いいのかよ、ありがとな!」
奢りと聞いてロウは目を輝かせる。
こういう素直なところがロウの長所だ。裏表もなく思うままに言葉にする。考えなしなところは多少はあるが、それもこれから養われるだろう。多分、おそらく。
ロウはきっとカラグリアでも重宝される。アルフェンはそう確信していた。
「出発の日は決めたのか?」
「ネアズの返事が来てからだから……まあ10日後くらいか」
「そうか、準備頑張れよ」
「それが一番面倒かもな……」
小さくため息をついた後、じゃあまたな、とロウは手を挙げてアウテリーナ宮殿のほうへと向かっていった。しばらく先にはなりそうだが次に会った時が楽しみだなとアルフェンは思った。いい報告も聞けるかもしれない、と小さく笑いながら。
※※※
カラグリアでの日々は予想よりもずっと大変だった。
”はぐれ”がたくさんいるとかそういう事ではなく、まず単純に暑い。朝と夜はマシだといえるが活動している日中の暑さはロウの体力を簡単に奪ってしまう。無意識に穏やかなメナンシアの気候と比較してしまっているのかもしれないが、それでもこの中で暮らしている人々はなんて我慢強いのだろうか。
「ロウ、ちょっといいか」
ネアズなんてこんな岩肌だらけの砂漠みたいな土地に似つかわしくない分厚い服を纏っているというのに暑そうな素振りを見せたことがない。
「……何か言いたそうだな」
「いや、暑くないのかって」
「暑いさ。暑さで仕事が減ってくれればいいんだがな」
カラグリアでは解放以前から〈紅の鴉〉が中心となって住民の依頼を解決してきた。その数は解放後にはぐっと増え、ネアズたちはジルファ亡き後も力を尽くしてきた。とはいえ人手も足りなければ物資も足りない。他領との行き来が盛んになった今こそ多少は解決できるようになってきたが、住宅の不足や安定した食料の確保などまだまだ問題は山積みだ。
ロウが来てからは”はぐれ”の掃討作戦等を行い、住民が住めるような土地を少しずつ確保している。
商人が定期的に訪れて市を開催できるように街の整備も始めているし、レナ兵が使っていた鉄道を何かに利用できないかという声も上がっている。街や人々にも活気が出始めており、ロウの記憶にあるカラグリアからは随分と様変わりしていた。
「ロウは今日届く荷物のリストのチェックを頼む。シスロデンとミハグサールのニズからだ」
「あれか。あれ苦手なんだよなあ」
届く予定のものと実際届いたものの種類や数があっているかを確認する作業だが、ロウとしてはこれがあまり好きではない。丸太が何本、とかならあまり苦はしないのだが細かいものを数えるのが面倒なのだ。あまりの面倒さに、数える単位を重さにしたらどうかというロウの意見が取り入れられたこともある。理由はどうであれ革命的だと皆に賞賛された。
この作業の面倒なところは数のチェックだけではなく、もし不足しているものや過剰に届いたものがあった場合にしっかりと記録に付けておかなければならないことだ。それを見て次回の取引で不足分を補ったり、ほかの物資を追加で渡したりすることで釣り合いを保っているのだ。
難しい文章を書く必要はないが、記録には文字を読み書きできなければならない。
カラグリアでは奴隷による肉体労働が中心だったためそういった能力は必要ないと切り捨てられてきた。グラニード城で使役させられていた奴隷たち以外はほとんど文字の読み書きができない。
「記録できる奴が少ないんだ。そういう意味でお前が来てくれてこちらとしてはかなり助かっている」
「出発前にみっちり仕込まれたからな。生まれて初めて”ペンダコ”とかいう奴を経験したぜ」
今から約2か月ほど前。出発前の10日間、毎日ロウはリンウェルの下で文字を習った。とはいえ多少の基礎部分はできていたため、リンウェルから課されるのはひたすらの反復練習だった。じっと椅子に座って文字を書き続けるなんてどこの地獄かと思ったが、終わってみれば思いのほかその勉強も楽しかったと思える。リンウェルはロウの書く文字がどんなに歪でも笑いはすれど馬鹿にはしなかったし、課題を終えたときは「やればできるじゃん!」と褒めてくれたこともあった。
結局リンウェルの言っていたことは正しく、今こうしてカラグリアで役に立てていると思うとあの時頑張ってよかったと思う。自分の修行のためとはいえ、根本は誰かの役に立つためにここに来たのだから。
「そういえば、お前に手紙が来てたぞ。メナンシア……ヴィスキントからだな」
「え」
白っぽい封筒をひらひらとネアズがちらつかせている。ひったくるようにそれを奪うとロウは封筒に書かれた宛名の文字を確認する。
間違いない、リンウェルの文字だ。
「その反応は……女だな」
いつから見ていたのかガナルが訝しげに目を光らせてこちらへと迫ってくる。
「ち、ちがうって!女だけど違う!」
「やっぱり女かよ!ちくしょう!」
奪われまいとロウは手紙を自分の後ろに隠すが、ガナルも諦めずに手を出してくる。きっと近況報告とか当たり障りのない内容が書かれているだけなのに、なぜか読まれてはいけない気がした。
「きれいな字だったな。それがお前に字を教えた人か」
「ああ、」
一緒に旅をしていた仲間の一人だと言おうとしてロウは口ごもった。カラグリアにはリンウェルも来ていたわけだし、顔も覚えているかもしれない。下手なことを言うとガナルはともかく聡いネアズには何かと気づかれてしまいそうな気がした。
「女から文字を教えてもらった、だと……許せん!」
読ませろ!とものすごい勢いでガナルが飛び込んで来る。やばいと思ってロウが後ろ手に腰のポーチに手紙を突っ込むとネアズがそこまでにしておけとガナルを宥めた所だった。
「その相手には感謝しないとな。ロウを使える奴にしてくれたんだ」
「使える奴……」
「しかし文字を教えて、手紙まで書いてよこすんだ。お前からの返事を欲しがってるのかもな」
何の気なしにネアズが言った一言が、なぜかロウにはとても印象に残った。
リンウェルからの手紙は予想通り近況報告が中心だった。
ヴィスキントの研究施設が遂に完成し、リンウェルもそちらへと移ること。
一段落と思っていたらもうすでに次の研究施設の建築が始まり、また宮殿付近が慌ただしくなっていること。
シオンやキサラ、アルフェンも元気で少し前に4人で食事をしたこと。
テュオハリムにはしばらく会えていないが、キサラ曰く元気にしているとのこと。
書かれている他愛もないことがロウには懐かしく、ほんの少し羨ましくも感じた。自分で望んでここに来たのに、なんて勝手な感情なんだろう。
返事、というネアズの言葉がよみがえってくる。
ロウは手紙を書いたこともなければ、その送り方もよくわからない。カラグリアであればネアズに聞けばなんとかしてくれるのだろうが。
便箋なんてものは持っていない。何かないかと机の引き出しを開けてみると誰かが残していった紙が数枚入っていた。あとはペンだが、そういえばインクもない。
(手紙って結構書くの面倒なんだな)
日中、荷物チェックのときに使ったペン代わりの黒い炭みたいな棒が鞄に入っていた。これを使うと手が汚れるんだよなあと思いつつ、ロウは机に向かう。
ところが肝心の言葉が何も浮かんでこない。紙とペンもどきまで用意したというのに何を書いていいのかさっぱりわからないのだ。
リンウェルの手紙を改めて読み直してみる。一番上には丁寧な字で、「ロウへ」と書かれていた。
続いて「お元気ですか?私もフルルも、元気に暮らしています」「忙しそうなキサラですが、相変わらず釣りを楽しんでいるようです」「シオンとアルフェンの暮らす家にキサラと行きましたがとても居心地がよくて、一軒家がうらやましくなりました」とあり、よく話をつなげられているなと感心した。
自分が書くなら「カラグリアは暑いです」とか?「足が蒸れます」とか?
(いやいやこんなこと書いたって仕方ないだろ!)
本当は話したいことがたくさんある。暑いカラグリアだけど人は増えてきていることや、今度は街で大きい市を開く計画が進んでいること。それと、文字の読み書きが役に立っていること。
あれもこれも伝えたいのに、文章にしようとするとちっともまとまらない。
「ああー!ダメだダメだ!」
何も書かれていない手紙をぐしゃぐしゃにしてゴミ箱へと投げ捨てる。らしくないと頭を何度か横に振ってロウは気合を入れる。
――手紙の返事が手紙じゃなきゃダメだって誰が決めたんだ。
ロウは立ち上がると部屋を出て、まだ起きているであろうネアズの元へと向かう。
早足のつもりだったが、いつの間にか小走りになっていた。
※※※
ヴィスキントに完成した研究施設は思ったよりも広大でリンウェルもまだ少し迷ってしまう。
テュオハリムが直々に提言したとあってそのこだわりようは凄まじい。完成した施設では古代の遺物や遺跡の研究。そこから派生して古代ダナ人の生活や文化についての研究が行われる。
また、テュオハリムが声をかけたダエク=ファエゾルの研究者たちは星霊力のエキスパートであることから双世界の環境変化について調べてもらうことになっている。これから予測される天候や地域の気候の変化、あるいは考えられる災害とその対策など内容は幅広い。テュオハリム曰く、危険な依頼を多くこなしてやったのだからこれくらいは、とのことだった。研究者たちも新たな観測対象ができて楽しそうではあるし、特に問題はないだろう。
リンウェルに与えられた研究室は古代の遺物の調査用とはなっているが、実際文献がほとんどなので小さな図書館のようになっていた。仮眠できるスペースもあり、施設内の食堂を使えば正直ほとんど外に出ないで研究三昧の日々が送れるだろう。この上なく理想的であるはずなのに、なぜかどこかしっくりこない。リンウェルには説明のつかない違和感があった。
「リンウェルさん、お手紙です」
手紙、の言葉にリンウェルは一瞬胸を弾ませる。受け取った手紙をぱらぱらと捲りあげてその宛名を確認していく。
違う、これも違う。最後の一通になっても、探している文字は出てこなかった。
(今日も来ない、か)
少し肩を落として研究室に入っていくと、止まり木で寝ていたフルルが目を覚ます。
「フル~」
元気がないと見たのか、フルルは翼をはためかせてリンウェルにエールを送っているように見える。
「やっぱり来ないよね」
いくら文字を教えたといっても文章の書き方まで訓練したわけじゃないし、そもそもあいつが手紙を書くことすら想像つかない。
それでもリンウェルはロウが何か一言でも書いて送ってくれるのではないかと期待したのだ。
「返事、欲しかったなあー」
手紙にはすごい力があるとリンウェルは思う。
面と向かって言えないことでも手紙なら言えてしまう。いつもはロウに冷たくしてしまうけど、手紙の中なら素直に言いたいことが言える自分になれる。
ロウがカラグリアに行くと言った時は驚いたけど、素直に応援しようと思った。でもそれは直接は言えなくて、じゃあ文字の読み書きくらいできないとね、なんて偉そうなことを言ってしまったのだ。
ロウは意外にも大人しく指導を受けてくれたけど、一方でリンウェルは少し後悔もした。出発まで10日間も毎日会ってしまったものだからなおさらさみしい気持ちが募ってしまったのだ。ロウを見送ってから部屋で少し泣いたのはリンウェルとフルルだけの秘密だ。
来ない手紙を待っていても仕方ない、とリンウェルは早速新しく手に入れた文献に目を通す。レネギスに残っていたとされるかなり古い本だ。ダナ侵略の際にレナ人が持ち帰ったものとされている。
本はいい。新しい世界に連れて行ってくれる。まるでふわふわ浮いているみたいに、夢心地で――。
「フルル!フルッフー!」
フルルの羽が耳元でバタつく音で目を覚ます。
「あれ、寝ちゃってた……?」
いつもならこんなことはないのに、と伸びをしたところで扉をたたく音に気付く。
『おーい、リンウェルー?あれ、もしかして間違ってんのか?』
聞き慣れた、聞こえないはずの声がする。
『おーい、大丈夫かー?』
間違いない。
「ロウ!?」
リンウェルが鍵を開けて勢いよく扉を引くとロウが驚いて目を真ん丸にする。正真正銘、そこにいたのはロウだった。
「なんで!?どうしてロウがここにいるの!?」
「別に帰ってこないとは言ってねえだろ……」
責めているように聞こえたのだろうか、ロウはばつが悪そうに頭を掻いた。
もちろんリンウェルにはそんなつもりは毛頭ない。むしろ嬉しいくらいなのに、やっぱり素直になるのは難しい。
「ごめん、そうじゃなくて。驚いちゃって」
申し訳なくなってリンウェルが目線を下に落とすと、ロウは腰のポーチから白い封筒を取り出す。
それにはリンウェルも見覚えがある、というよりもありすぎる。何せ自分が出したものだったから。
「それって」
「ほら、手紙くれただろ?だからその返事しなくちゃな、って」
笑いながらロウは言うが言っていることは割とめちゃくちゃだ。
「手紙の返事しにきたの?わざわざ?カラグリアから?」
「書こうとしたんだけど書けなかったんだよ!だから、ネアズに頼んでこっちの仕事回してもらった」
ありえない、けどロウならやりかねないとも思った。手紙の返事を直接言いに来るなんて。それも何日もかかる場所から。
「ぷっ!あはははは!」
「笑うなよ!これでもすげー悩んだんだぜ!」
「違うの、嬉しくて!」
おなかを抱えて笑うリンウェルを見て、ああこれが正解だったなとロウは思った。
それと同時に、やっぱりダメだとも思った。こんな表情を見せられたら、こんな表情が見られるなら。
ロウは戻ったら、もう一度ネアズに頭を下げようと思った。
こないだ言った「一度だけでいい」はなかったことにしてほしいと。
おわり