「私って必要とされてる?」
あまりに唐突なリンウェルの言葉に、ロウは手を止めた。今まさに口に運ばれようとしていたマーボーカレーはスプーンの上で湯気を揺らめかせている。
「何だよ、急に」
「テュオハリムもキサラも、レネギスの人たちとかメナンシアのために頑張ってるじゃない? 私はダナの歴史とか遺物研究とか、自分の好きなことばっかしてるなあって」
誰かにまた何か嫌なことでも言われたりしたのだろうかと思ったが、そんなことはなかったらしい。
それもそのはず、ここはメナンシアのヴィスキントで、ダナ人もレナ人もない。双世界の融合前からそれが推し進められてきたのだから、今になってリンウェルのことをとやかく言う人間はまずいないだろう。星霊術が使えると知っても、おそらく多少驚かれるくらいのものだ。
「なんだ、そんなことか」
ロウは再び手を動かし始めると、口いっぱいに広がるスパイスの香りに目をしばたたかせて、改めてその旨味噛み締めた。アルフェンが作ったものより刺激が抑えられたそれはリンウェルオリジナルのブレンドらしく、他の具材を殺さない絶妙な加減に調整されている。大きい肉の塊の間には小さめに刻まれた野菜が何種類も顔を覗かせているが、不思議とこれだけはいくらでも食べられそうな気がした。
「美味いなこれ」
「ねえ、今そんなことって言ったでしょ」
ロウが投げかけた賞賛の言葉も耳に入れず、リンウェルは眉を吊り上げている。その手は止まったままで、先ほどからスプーンの先は皿の上のルーを泳いでいるだけだ。せっかく美味いのに冷めてしまっては勿体ない。
そんなロウの心配とはお構いなしに、リンウェルは強めの主張を続ける。
「アルフェンだっていまだにあちこち忙しそうに駆けまわってるし、ロウだってその辺で人助けみたいなことしてるじゃない。私だけだよ、毎日宮殿にこもって本ばっかり読んで遺物眺めてるの。皆みたいに、誰かの助けになるようなことしてない」
そこまで言ってリンウェルはようやく一息ついた。
どこかでせわしく奔走するキサラたちの姿を見たのか、あるいはそんな話を誰かから聞いたのか。いずれにしろ何か些細なきっかけがあって、リンウェルはふと考えてしまったのだろう、自分は誰かの役に立っているのかと。
その答えを問われる前に、リンウェルの大きな誤解を解いてやらねばとロウは思った。
「あのなあ、別に俺もアルフェンたちも世界の人のためにーってやってるわけじゃないからな」
まあ多少はそういう気持ちもなくはないだろうけど、と付け加えた後で、ロウは皿の上のカレーを寄せながら考えたことをありのまま口にする。
「キサラもアルフェンも、そうしたいって思ってるからやってることだろ。俺の方だって、もっと腕を磨くための修行の一環みたいなもんだ。自分が強くなるために、ズーグル倒してんだよ」
そもそも前提が違う。目的が違う。
「テュオハリムは……まぁ償いだとかなんだって言ってるけど、それはあいつが決めたことだし、ヴィスキントに博物館を造るだなんだのと割と好きなことやってるじゃねーか」
結局、皆自分のために動いているわけだ。全部が全部、誰かのための毎日ではない。
自分たちは確かに世界を救ったのかもしれないが、それでも、その後も世界のために生きなきゃいけないなんてことはないのだ。
「お前の研究がいつか何かの役に立つかもしれないだろ?」
「うーん……その可能性は低そうだけど……」
「そんな気になるなら、今度こっちの仕事手伝ってくれよ。術使うやつは結構骨が折れるんだよな」
「あれ、ロウの修行の相手奪っちゃってもいいの?」
「あー……それは……」
思わぬ失言に頭を掻けば、リンウェルはいつもの調子で笑い始めた。
なんだか格好がつかないままになってしまったが、元気を取り戻してくれたならそれでいいとロウもほっと胸を撫で下ろす。
「シオンだって好きなことしてるだろ。って言っても、食べる以外に何してるのか知らねえけど」
シオンも真面目だから、少なからずアルフェンとズーグルを狩ったり、住民の困りごとを聞いたりはしていそうだが。
「シオンはほら、今までいろいろ大変だったし」
ゆっくりさせてあげたいな、と微笑むリンウェルは、誰かに負けず劣らずシオンを甘やかしてやりたいらしい。自分だって大変な思いをしてきたことはすっかり棚に上げたままで。
「強いて言えば、世界を飛び回るアルフェンのために飯作ったり、精神的な支えになってるって感じか」
ナイジョのコウってやつ? とロウは笑いながら、皿に残ったカレーを掻き込む。あっという間に一皿目を平らげてしまったが、まだこの腹は満たされてはいない。
リンウェルは席を立つと、ロウの皿を手にキッチンの方へと歩いて行った。どうやらおかわりをよそってくれるらしい。「どのくらい?」と問われてロウは咄嗟に、さっきと同じくらい、と返した。
頬杖をつきながら、ロウはリンウェルの背中をじっと見つめる。きっとアルフェンもこうして毎日シオンを見つめているのだろうなと思った。きっと自分の視線はアルフェンのそれと変わらないくらいの熱を孕んではいるはずだが、この距離はまだ縮まらない。誰よりも同じ空間で同じ時間を過ごしているはず、と根拠のない自信を持ってはいるのだが、どうにもあと一歩が遠いのだ。
それを引き寄せる術は知っている。知ってはいるが、実行できるかはまた別の話。つまりは単に勇気がない、それに尽きる。
ロウが己の情けなさに項垂れていれば、いつの間にか皿を持ったリンウェルが目の前に立っていた。
「ねえ」
「ん?」
「私がロウにご飯作ったら、それは世界のため?」
「へ? え、あ、まあそうなるのかもな……?」
「そっか……」
そう言ってロウに皿を手渡すと、リンウェルは再び向かい合わせに席へと着いた。改めてスプーンを手にはするが、それから動きは止まったままだ。
「……」
「……なあ」
「まって、いまのナシ」
この関係性を変える、今がその時だとロウは確信する。
その赤い頬に気づかぬふりはできそうにない。
終わり