「やった……」
思わず声が漏れた。
「出来た! 終わった!」
紙の束を握りしめ、天に掲げる。苦労の結晶。未来への祈り。私はやった、やり遂げたんだ!
その足で寝室へ向かい、私は勢いのままベッドにダイブした。一人分盛り上がった毛布の横に華麗に着地を決める。
「なんだ、何が起きた?」
ただならぬ揺れに目を覚まさせられたロウは、寝ぼけ半分で起き上がった。その目はまだ開ききっていないみたいだけれど、そんなことは構わない。私はやったんだ。
「ロウ! やった、出来たよ!」
「お?」
「やっと本の原稿が書けたの!」
「……おお! やったな、すげえ頑張ってたもんな!」
ようやく状況を飲み込んだらしいロウと、私は抱き合って喜びを分かち合う。深い闇色の空にまだ星が瞬く夜半のことだった。
きっかけはテュオハリムからの提案だった。
「集めた遺物に関して、君の研究を本にしてみてはどうかね?」
本、書籍。
それは私がこの世で最も愛するもので、敬愛しているもので、この先もずっとそうであり続けると確信しているものだ。
かつて本は私の世界だった。本から得た知識で暮らし、外で得た知識を本に照らし合わせる。それを何度も繰り返して、今日この日まで生き延びたといっても過言ではない。もちろん、今では本だけが世界でないこともよく知っている。
本はすごい。書かれているものが何であっても、その独自の世界に引き込まれてしまう。私もいつかそんな本を作りたいと強く願っていた。だからこそ、その提案に私はとても迷った。返答にも時間がかかった。思いが強すぎるがゆえに生半可な気持ちでは引き受けられなかったのだ。
準備期間が欲しい、と願い出た私は本の構想にそこから半年を掛けた。その後改めて研究内容の確認をして、研究仲間との討論を重ねた。足りない資料を求めて再度遺跡調査にも行った。そうして実際に文章を書き出したのは約3か月前のことだ。入念に材料を用意したこともあって大きな滞りこそ無かったが、本にするための文章を書くというのはここまで大変なのかと頭を抱えたこともあった。同時に私は過去の偉人たちに深く感謝もした。こんな苦労をしてまで、素敵な本たちを遺してくれてありがとう、と。
そして昨夜、私はようやく初稿を書き上げた。ここからまた文章の修正や追加もあると考えると、実際に本になるまでは程遠い。それでもようやく一歩を踏み出したのだと言っていいはずだ。歴史から見ればほんの小さい一歩ではあるけれど、私にとっては深く大きく偉大な一歩だ。
スキップ混じりに宮殿に向かい、テュオハリムに原稿を手渡した途端、一気に肩の力が抜けたような気がした。別に誰に強制されたわけでもないのに、いつの間にか私はプレッシャーを感じてしまっていたらしい。
「ここ数か月の君の頑張りはこの宮殿内の者なら誰もが知るところだ。しばらくはゆっくりするといい。勿論、休暇を取ってくれても構わない」
そんな労いの言葉を掛けられて思わず口端が震えそうになった。昨晩感じていた達成感が再びじわじわと滲んできて、目の奥まで熱くなる。
研究仲間たちも、原稿の完成を自分のことのように喜んでくれた。皆他に研究を抱えていたにも関わらず討論に付き合ってくれた人ばかりだ。彼らには本当に感謝しなければならない。巻末の謝辞には必ず皆の名前を記載しようと決めている。彼ら無くして本の完成はありえなかったのだから。
他にも手伝ってくれた人や応援してくれた人たちに報告に行き、最後に図書の間に向かった。ここの司書さんたちには文献を探す手伝いをしてもらったり、本を書く上で参考になりそうなものを紹介してもらったりした。本に愛情を注ぐ彼らの話はとても参考になった。彼らにも心からの感謝を伝えなければ。
一人一人に声を掛けて回っていると、奥の書架にひと際華やかな色香を放つ女性がいた。
「あの、ツグリナさん」
「あら」
書架に本を戻す手を止めたツグリナさんは、艶やかな笑みを称えてこちらに向き直った。
「この間はお世話になりました。本の原稿、完成したんです」
「あら、それは良かったわね~」
「ツグリナさんにも色々と手伝ってもらって、本当にありがとうございます」
「良いのよ、それが私たちの仕事なんだから」
ふふ、と笑うツグリナさんは再び書架に向かうと手元の本を並べ始めた。そして何かを思い出したように「そういえば」と呟く。
「あなたの恋人、オオカミさん」
そんなふうにロウのことを呼ばれるのは初めてで、私は思わずどきりとした。
「ロウが、どうかしたんですか?」
「数日前のことね。彼がここにいるのが珍しくって、思わず声を掛けたの。あなたの借りた本を返却しに来ていたのね」
そういえば先日、私はロウにそんなことを頼んだ。執筆が思いの外捗っていたのでどうしても手を止めたくなかったのだ。
「彼って健気よねえ。恋人のために尽くすところとか、話を聞いていて堪らなくなっちゃったわ~」
「そ、そうですか」
苦笑いで私はそう答えた。何が堪らないのかは分からなかったが、おそらくロウを褒めているのだろう。
「でも、彼言ってたわよ~。自分はほったらかされっ放しだ、って」
「え……」
「彼みたいな人、なかなかいないわよ。だから、大事にしてあげてね」
そう言い残してツグリナさんは去って行った。嵐のような感情が過ぎ去った後、私の頭の中は原稿を書く前の紙みたいに、ほとんど真っ白になっていた。
本当に、あのロウが『俺はリンウェルにほったらかしにされている』と言ったのだろうか。
帰り道を歩いている時も、私はそのことばかり考えていた。あまりに心当たりのありすぎる言葉だったからだ。とはいえ、自分ではそんなつもりはない、というのが正直なところでもある。
本を書こうと決めたとき、私は真っ先にロウに相談した。ロウは本を作ることが私の夢の一つであると知っていたし、本に夢中になって真っ先に迷惑が掛かるのは生活を共にするロウだと分かっていた。
話を聞いたロウは迷うことなく「いいじゃん、やってみろよ」と言ってくれた。「全部は無理でも多少の家事はできるし、食事くらい俺が用意すりゃいいだろ」と、背中を押してくれた。
「できるだけ普通の生活を送れるよう頑張るから!」と意気込んだ私だったが、実際はそれとは大きくかけ離れていたと思う。本の執筆中心の生活は、筆の乗り具合次第で大きく左右された。最低限の食事と睡眠は摂るようにしていたが、それでもベッドに入るのが夜中だったり、起きたときにはすっかり陽が昇りきっていたりと生活リズムが不規則になってしまうことも多かった。それが祟って体調を崩すことも増えた。一体何をしているんだろうと、自分で自分に呆れることもあった。
ロウはそんな私を見て叱ることはあっても、本を諦めろとは言わなかった。夢がそんなに簡単に叶ったらつまんねえだろ、なんてそれらしいことを言って、私を励ましてくれた。その言葉にどれだけ救われたか。それらも嘘じゃなかったにしろ、ロウは心の奥底では不満を溜めていたということだろうか。
家に帰って食事の準備をしていると、ロウが時間通りに帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
ロウの表情はいつもと変わらない。
「ちゃんと原稿提出して来たよ。テュオハリムも皆も、すごい褒めてくれた」
「当然だろ。あんだけ頑張ったんだから」
よくやったな、とロウが頭を撫でてくれる。いつもは嬉しいはずの触れ合いなのに、私の心は哀しくも翳ったままだ。それを隠すようにして、私は用意した料理をテーブルに並べていく。
「おお、なんか豪華だな」
「そ、そう?」
「いつもより肉が多い気が……」
「それはほら、ロウが喜ぶかな、と思って」
俺? とロウは不思議そうな顔をした。
「私がご飯作れないときとか、ロウも頑張ってくれたじゃない。だから、感謝の気持ちを込めて」
声は徐々に小さくなった。気恥ずかしさが9割、残りの1割は後ろめたさからくるものだった。
ロウに感謝していることは本当だ。誓ったっていい。だけど私はまだほんの少しだけ、ロウを疑ってしまっている。万が一、ロウが不満を抱えているとしてそれをどうやって解消できるか。つまりはこの料理たちは一種のご機嫌取りみたいなものだ。それを「感謝」で覆い隠して差し出す自分が汚くて可愛くなくて、情けない。
「別に大した事してねえよ。でも嬉しいぜ。これから毎日肉料理でいいからな」
おどけて見せるロウに私の心はまたチクリと痛んだ。この笑顔にも何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう自分が悲しかった。
その夜、私には心に決めたことがあった。それを実行するため、ベッドに入ったロウを呼び止める。
「ロウ」
「ん?」
「今回はほんとにほんとうに、ありがとう。私ひとりじゃ出来なかった」
「だろうな。餓死してたかもな」
けらけらと笑うロウに否定もできない。ロウの言葉に真実味があったからというわけではなく、ただ、緊張していたのだ。
シーツの上を滑るようにじりじりと距離を詰めながら、私はロウを見つめた。
「本当に感謝してるの。だから……」
その後の言葉は、恥ずかしくて言い澱んでしまった。その顔を見られたくなくて、私は毛布の中へと潜り込む。ただ潜るだけじゃない、深く深く、ロウの足元の方へ。
手探りで辿り着いた場所で、私はロウの下半身に手を伸ばした。脚の間にあるそれを手のひらで包み、やんわりと撫でる。
「お、おい、リンウェル」
起き上がろうとするロウの身体を抑えつけて、私はそっとその穿いているものを暴いた。まだ何の反応も見せないそれに躊躇わず口を付けると、根本から先端にかけてをゆっくりと唇でなぞり上げる。こうするのは随分と久しぶりだ。本のこともあったけれど、そもそも私はあまり口淫をしない。さほど上手ではないし、その前にロウに蕩かされることの方が多くて、達した後はそれどころではなくなってしまうからだ。だからこそ今夜は丹念に、丁寧にしようと思った。これまでの分も含めて。
手のひらの中のそれが徐々に硬さを持ち始めたことに安堵すると、私はその先端を口の中に含んだ。同時に聞こえたロウの小さなうめき声にまた気を良くして、それを深くへと招き入れる。潤滑剤代わりの唾液に何か粘り気のあるものが混じり始めたので、その出所を舌で探った。そこを先っぽで掘り返すように弄ると、ロウの呼吸が荒くなるのが分かる。時折聞こえる自分の名前に胸が高鳴った。ロウは今、私のことを考えている。
それが充分なまでに膨れ上がったのを確認すると、私は被さっている毛布を剥ぎ取った。次いで自分が穿いているものを下ろし、ベッドの下に脱ぎ捨てる。
「り、リンウェル……?」
恍惚の中に戸惑いの色を浮かべるロウにキスをして、私はロウへと跨った。熱いそれに手を添えて、自分のナカへと埋め込んでいく。
「あっ、あ……、」
想像以上の圧迫感は、やはり期間を空けすぎたせいかもしれない。ロウのそれによってこじ開けられる感覚に痛みこそないものの、今にも呼吸が詰まってしまいそうだ。それでも私は腰を沈めていく。忘れてしまったこの身体に再びロウを教え込むために。
ロウのそれを最後まで収めきると、私は腰を上下に揺り動かした。高まる体温と相まって汗をかき始めた身体から纏っているものを取り払い、必死で下半身を擦り付ける。どこだろう、私のイイところは。どうすれば良いのだろう、ロウが気持ち良くなるには。
快楽を求める一方で、何故だか今自分がそれとはかけ離れたところにいるような気がした。秘部をロウのそれで刺激されて、強い快感を得ている自分は確かにいる。それでも、私の中に何か埋まっていないからっぽがある。それが下半身にあるのか、あるいは心の中のことなのか、今の私には分からなかった。ロウが私の中にいるのに、こんなことってあるのだろうか。
「リンウェル」
それまでただ私を見つめるだけだったロウが突然起き上がった。背に腕が回ったと思うとすぐさま引き寄せられ、唇を奪われる。私は、徐々に深くなっていくそれに応えるので必死だった。考えていたことも全部全部拭われて、最後に残ったのは真っ白になった思考と、目の前のロウの優しい眼差しだけだった。
「どうした? なんかあったのか?」
そう問われて、あまりの苦しさに胸が詰まりそうになる。痛い、胸が。
ふるふると首を振って否定すると、ロウはまた心配そうにこちらを覗き込んできた。違う、ロウが悪いんじゃない。勿論ツグリナさんだって。私もまた、悪いとは言い切れない。目の前の夢を追っただけなのだから。
それでも問題は私にある。ロウが言った言葉の真偽がどうであれ、そう思わせたのも、今こうして不安がっているのも私自身の問題だ。
だけど一つ確かなことがある。
「大事にしてるもん……」
そんなこと言うまでもない。
本は好きだ。大切にしたい。でも同じくらい、ううん、それよりもっとロウが私には大切なのだ。
ロウにはここまで支えてもらって感謝しかない。それは今日だけでなく、これまでも都度伝えてきた。ありがとう、感謝してる。伝えきれないと分かっていても、そう伝えざるを得ない。
そして私もロウを支えたいと思う。ロウが悩んでいる時は一緒に頭を使ってあげたいし、夢に向かっているときは背中を押してあげたい。ロウが私にそうしてくれたように、私もロウの力になりたいと思うのだ。
「ロウが大事……夢も大事だけど、ロウはもっと大事なの」
「そんなこと言うなって」
困ったように頬を掻いて、ロウは私の髪を撫でた。
「そう言ってくれて嬉しいけど、別に比べるもんでもねーだろ」
頬にひとつキスをして、ロウが笑う。ほら、そういうところが良い。好きだって思う。大切にしたいって、心から思わせてくれる。
「でもお前がこうしてくれてる事だし、せっかくだから頑張ってもらうか」
ロウは不敵に笑うと、再び先ほどのようにベッドへと寝転がった。
「え……?」
「ほら、もっと動いてくれよ」
……もう、雰囲気が台無しだ。
そんな言葉の代わりにナカをきゅっと締め上げると、ロウが僅かに震えた。
「……やったな」
「な、なに……ひあっ」
突然下から突き上げられて倒れ込んだ私をロウが受け止める。その不意をついて私がロウにキスをする。ロウが腕を回して体勢を変え、私をベッドへと押し付ける。私が「ロウのが欲しい」と強請る。ロウがその返事にとキスをくれる――。そんなふうにして、私たちは戯れのような夜を心ゆくまで愉しんだ。そこに澱みなんてものはない。私の心の中の翳りも、いつの間にか消え去っていた。何もかもが澄んだ、星のきれいな夜になった。
「ロウ、ツグリナさんに何か言ったの?」
翌日の朝食の際、私はロウに訊ねてみた。
「ほったらかしにされてるって言ってたわよ~、って本人が言ってたから」
別に咎めるつもりはまったくなかった。単に、ロウがツグリナさんと実際にどんな会話をしたのか気になった。
ロウはそれを聞いて少し考えこんでいた。どうやらすぐ取り出せるようなところにその記憶は無かったらしい。時間をかけて奥底からそれを引っ張り出してきている、そんな表情だった。
「ああ、それか! 言ったには言ったな」
それを聞いて私の気持ちは少し暗くなった。残念ながらあれはツグリナさんが作り上げた嘘ではなかったようだ。
「その後で『リンウェルが頑張ってんのが好きだからそれでいい』って言ったら笑われた」
「えっ……」
「『あら~熱いわね~』って」
……なるほど、そういうことか。
「……私やっぱりあの人苦手」
「はは、初めて会った時からそう言ってたもんな」
「多分この先もずっと苦手」
してやられた、と認めることは容易いけれど、そうはしたくない。負けを認めたくない。別に負けも何もありませんけど!
ふと図書の間に佇む彼女を思い出す。脳裏に焼き付いた彼女は、唇を三日月の形に歪めてどこか意味ありげに微笑んでいた。
終わり