「ねえ」
誰かが肩をゆすっている。聞き慣れた声にはっとして目を覚ませば、そこには不安そうな表情でこちらを覗き込むリンウェルの姿があった。
「よかった、生きてた」
起き上がった俺を見て、リンウェルは心底ほっとしたような息を吐いて胸を撫で下ろす。
何だその言い草は、勝手に人を殺すな、と言いかけて、その背後に広がる光景に目を奪われた。
「なんだよ、ここ……」
馴染みのあるようで、全く見覚えのない部屋。敷かれた毛の長いラグマット。中央に鎮座するのは幅の大きいベッドで、真っ白いシーツが眩しいほどだ。
とはいえ言ってしまえばごく普通の一般住居。ちょっと豪華ではあるが、壁や床、家具のほとんどが温かみのある木造りで、メナンシアで見かけるそれとおおよそ特徴が一致している。
「なんでこんなとこにいるんだ?」
「わかんない……」
何の変哲もない部屋の光景が今は一番おかしい。俺たちはついさっきまで、古くて埃っぽい遺跡の中にいたはずだ。
今朝早くにヴィスキントを発った俺たちが目的の遺跡に着いたのは昼前だったと思う。その遺跡は、この近くに住む集落の住民らによって最近発見されたばかりのものだった。未知で未開の遺跡とくれば当然研究者たちからの視線も集まったが、周囲にははぐれたちも多く、それならば戦える自分が行くとリンウェルが手を挙げたらしい。皆を危険にさらすわけにはいかない、とそれらしいことを言いながらも、実際のところは手つかずの遺跡を独り占めしたかっただけなんじゃ、と思わないこともない。戦力は多い方が良いからと俺も半ば強引に駆り出されたわけだが、大半の役目は荷物持ちだったりする。いつにも増して膨らんだ鞄プラス、以前よりもぐっとふくよかになったフルルを肩に背負いながらも、文句ひとつ言わずに付き従う自分の健気さときたら。まあ、休日に何の予定もなくだらだらと暇を持て余していたとは言うまい。とにもかくにも、そうしていつものフィールドワークのノリで訪れた遺跡、のはずだった。
「すごーい!」
中に入って早々、リンウェルの歓喜の声が上がる。それはいつものことであるとして、この遺跡はなんだか雰囲気が変わっていた。なんというか、見てくれと中身がちぐはぐなのだ。お馴染みの遺跡なら外から見れば大体の広さや、どれだけ古いのか想像がつく。だがこの遺跡は外から見るよりも中がずっと広かった。おまけに外にはツタがはって外壁もボロボロなのに、中はそう古くも感じられない。石造りで埃っぽいのは変わらないが、何百年も前から建っているものとは到底思えなかった。
「なんかここ、変じゃねえ?」
「ロウからすれば全部そうじゃないの?」
「なんていうか、不気味っていうか」
「うーん、まあ、違和感はあるね」
浮かれ調子真っただ中のリンウェルであっても、流石にこの異様な空気を感じてはいるらしい。それでも好奇心に勝てないのがこいつという人間だ。
「ちょっとあっちの部屋見てくる!」
「おい、荷物は?」
「その辺置いといて。すぐ戻るから、フルルと待ってていいよ」
弾んだ足取りで駆けていくリンウェルを見て、俺は鞄をフルルに任せ、すぐにその後を追った。リンウェルは以前にもこうして一人でどこかに駆けていった後、侵入者用の罠に掛かったことがあったのだ。こいつの戦闘の腕は確かだが、こういった遺跡に夢中になっている間は何をしでかすか分からない。たとえ数分の間でさえ目を離すわけにはいかなかった。
「なんだ、付いてきたの?」
「どっかの誰かは危なっかしいからな」
「もう、余計なお世話」
リンウェルが入っていったのは物置のように狭い部屋だった。実際に物置だったのかは知らないが、至る所に朽ちた食器の破片や瓦礫が散乱している。どこからどう見てもゴミにしか見えないそれを、リンウェルは一つ一つ拾い上げて目を輝かせていた。どうにも不思議だ。俺とリンウェルでは見えている世界が違うのかもしれない。
「あ、ちょっとロウ、手伝って」
「ん?」
「これ。この上の退かしてみて」
リンウェルに言われるまま指定された瓦礫をよけると、その下から石でできた何かがひょっこり顔を出す。
「なんだ、これ」
「家の形の置物?」
上は三角、下は四角。確かにそう見えなくもない。
「昔の人が作った家の模型とか! ……それにしては今の時代の家に近すぎる気もするけど」
「昔の人間じゃないやつらの家とか?」
「その発想、面白いね」
冗談で言ったつもりが、逆に興味を持たれてしまうとは。
「確かに、家を人間だけのものと決めつけるのはよくないかも」
うんうん唸りながら頭を捻るリンウェルだが、こうなるともう手が付けられない。しばらくの間は話し掛けても反応の鈍い〈研究モード〉に入ったままだろう。
「この中身ってどうなってるんだろう」
上の屋根みたいなの外れないかな、とリンウェルがそれに触れた時だった。
辺りが眩い光に包まれたと思うと、そこで俺たちの意識は飛んでしまった。
「それで、起きたらこの部屋だったと」
「知らない部屋にいてびっくりして、そしたら横でロウが寝てたの」
寝てたというか気を失ってたというか。
まあいい、こんな不気味なところ、とっとと脱出したい。
「とりあえず、部屋から出ようぜ。あっちにドアもあるし」
「そうだね、フルルも待たせてるし。急がなくちゃ」
そうして始まった出口探しだったが、俺たちはものの数分で絶望することになる。――出口が、無い。
俺たちが目を覚ました部屋には二つのドアがあった。片方は浴室やトイレに繋がるドア。もう一つはダイニングに繋がるドアだった。
だが浴室にもトイレにもダイニングにも、他にドアらしきものは見当たらなかった。それどころか窓のひとつも無い。外に出られないどころか、辺りの状況さえ分からないのだ。
「嘘でしょ……閉じ込められたの?」
そんなことってあり得るのだろうか。入ってきたからには、必ず出口はあるはずだ。
だがそれは俺たちの常識の範囲内での話で、もっとそれを逸した何かの力が働けば、あるいは――。
「ああもう、こうしてたって仕方ねえだろ。どうにかして出口探すぞ!」
「探すって、どうやって」
「わかんねえけど、意外なとこが出口かもしんねえだろ」
そう言って、俺は花瓶が置かれている棚の引き出しに手を掛けた。
「ちょっと、いくら何でもそこはありえないでしょ」
確かに、と思いながらもその手を引く。するとその中には、真っ白な封筒が一つ入っていた。
「なんだこれ」
「手紙? 端っこに①って書いてあるよ」
そこで俺の勘がびびっとはたらく。最初から一つしかないものに敢えて番号を振ったりはしない。
「こういうの、他にもあるんじゃねえか? 探してみようぜ!」
「う、うん!」
他に糸口が無いのだ、なりふり構っていられない。
そうして二人がかりで部屋中を暴き尽くした結果、計5つの封筒を入手した。あらゆるところに散りばめられたそれは、まるで俺たちがこうして探し回ることを予期していたみたいだ。
「開けるぞ」
「……うん」
意を決して、①の封筒を開けてみる。中には小さい紙が一枚と、たった一言。
『ここは、セックスしないと出られない部屋です。』
――は?
「なんて書いてあったの?」
固まった俺の手からリンウェルが手紙を抜き取っていく。
「え……?」
静まり返った部屋に響くリンウェルの声。そして自分の心臓の音。
「うそ……」
不意にぶつかった視線が火花を散らしたみたいに互いの頬を染めていく。
いやいやいや待て待て待て。そんなことあるはずがない、あってはならない。
セックス? セックスって? 誰と誰が? 俺と、リンウェルが?
「ほ、他のも、見てみようよ!」
「そ、そうだな!」
リンウェルの声で我に返り、続いて②の封筒を開ける。他に手立てはないのかと縋るような思いだった。
『万一、そういうご関係でない二人がこの部屋に送り込まれた際のことも考慮しまして』
おお!
『自慰行為で双方とも達することができた場合も出口が開くこととします』
「なんでだよ!」
結局方向性は変わらねえのかよ!
『なおいずれの場合につきましても、条件は〈寝室で〉〈二人揃って〉とさせていただきます。浴室でのプレイや、お一人がお手洗いで自慰を済ませてしまう、というのは条件を満たしませんのでご注意ください』
なんて用意周到な。抜け道すら潰しやがって。プレイという言い方にも腹が立つ。まるでこの状況を誰かが見て、楽しんでいるみたいだ。
「ねえ、これ」
③の手紙を開けていたリンウェルが声を上げる。
「『この部屋を出ますと、この部屋に入る直前の世界へと戻ります。』だって」
それは一体どういう意味だろう。
「この部屋に入る前だから、遺跡に着いた時に戻るってことかな」
「戻るって、どうやって」
「それは知らないけど。でも入る前ってことは、ここでの出来事は無かったことになるんじゃない?」
「記憶も消されちまうってことか」
どんな仕組みだ、と真面目に考えてみたところで意味などない。この部屋に飛ばされたのだってどんな仕掛けだったのか想像もつかない。
④の手紙には設備の利用方法が書かれてあった。保管庫には一通りの食材が揃えられているようで、なんなら欲しいものがあればリクエストにも応えてくれるらしい。サービスの一環です、と手紙に一言添えられているが、その気遣いを是非別の方向に向けて欲しかった。
「『また、この部屋は特別製ですので破壊できません。あらゆる衝撃を吸収できますので、訓練には最適です』」
「その手があったか!」
⑤の手紙の文章に、今度は俺が声を上げる。出られないなら物理的に壊してやればいいじゃないか。
「でも、破壊できないって」
「そんなの、やってみなきゃわかんねえだろ」
今までだってそうだった。壊せないと思っていた壁も力を合わせて壊してきたのだ。
「……そうだね、やってみよう!」
リンウェルが立ち上がって魔導書を手にする。自分も装備をきつく腕に締め上げると、渾身の一撃を目の前の壁に向かって放ったのだった。
結果から言うと、惨敗。それはもう面白いほどに、この特別製の壁とやらには傷一つ、焦げ跡一つ付けられなかった。
「何なの、この壁……」
「コンニャクみてえ……」
打てども打てども響かない。どんな拳も蹴りも通用せず、リンウェルの星霊術にだって何一つの反応を見せない。手紙に書いてあった通りすべてを吸収してしまうその壁は、とうとう俺たちの体力まで吸い上げてしまった。
「本当に壊せないってこと?」
現状ではそういうことになる。つまりはこの手紙に書いてある通りになっているということだ。
「リンウェル、今食べたいものとかあるか」
「え?」
「何でもいい、好きなもん言ってみろ」
「じゃ、じゃあ、アイス」
ダイニングに向かい、保存庫の扉を開けてぐるりと辺りを見回す。中にアイスクリームらしきものは見当たらない。
「アイスクリームが食べたい」
扉を閉じてそう呟くと、中から何か音がしたような気がした。
再び保存庫を開ける。すると保存庫の一番奥、氷の近く、最も冷えるであろう場所に、先ほどまでは無かった容器がぽつりと置かれていた。上蓋には「アイスクリーム」の文字が書いてある。
「マジか……」
リクエストに応えてくれる。あの手紙の通りだ。ということは、つまり――。
状況は、最悪かもしれない。
「整理するぞ」
ダイニングテーブルに着き、二人で顔を突き合わせる。
「俺たちは遺跡に調査に来た」
「うん。そこで小さな部屋に遺物を見つけて、それに触った途端、この部屋に飛ばされてきたんだよね」
「んで、ここはなんか……やばい部屋で、」
濁した言葉にリンウェルからの指摘は無い。
「外へのドアも無ければ壊せもしない、出口がないとこに閉じ込められたってわけだ」
「部屋から出れば時間も戻るみたいだし、食事にも困らないみたいだけど……手紙の通りなら」
そう、手紙の通りなら。
つまり、出口は見つかる、手紙の通りなら。
その事実を突きつけられて言葉に詰まる。なんなら呼吸だって詰まりそうだ。あんな変なことを書かれてしまっては、意識するなという方が難しい。
「だあー、もう! こうなったらとっとと済ませちまおうぜ!」
「済ませるって、何を」
「何って一つしかねえだろ。オナ」
「な、ななな何言ってんの! っていうか、そんなこと口に出さないで!」
リンウェルは顔を真っ赤にして魔道書を振り上げ、今にも術を落としてきそうな勢いだ。
「どうせここでのことは忘れちまうんだろ? ならパッと終わらせて、パッと脱出した方が良いに決まってる」
「で、できるわけないじゃない、そんなこと!」
「ならお前、俺と、せ、セックスする方が良いのかよ」
「~~~~ッバカっっ!」
「いでえっ!」
振り下ろされた魔導書に頭をはたかれる。いやだって、つまりはそういうことになるだろ!
魔道書の当たった部分が鈍く痛む。なんでこんなことになった。せっかくの休日のはずが。訳の分からない部屋に閉じ込められたと思えば壁に心を折られ、挙句の果てに分厚い本で殴打されるときた。なんだよ、俺そんな酷いこと言ったか?
理不尽な仕打ちに加えて、ままならない状況。それまで腹の底の方で澱んでいたものがふつふつと湧き上がってきて、煮えるような感覚がする。
それがついに弾けてしまった。目の前のリンウェルに向かって。
「そもそもお前があんな得体の知れない遺物にホイホイ触るからこんなことになったんだろ!」
「え、得体の知れないって何よ! あれが原因とは限らないじゃない! ロウが何か変なもの触ったんじゃないの!」
「俺は何もしてねえよ! お前があの変な物に触るの見てただけだっつの!」
売り言葉に買い言葉。一度始まった言葉の応酬は止まらない。
「大体お前は危なっかしいんだよ! こないだだって落とし穴に落ちかけたし、俺がいなかったらどうしてたんだよ!」
「あれは別にちょっと下に落っこちそうになっただけじゃない! もし落ちたって自分で登って来られたし! ロウの助けなんて必要ないんだから!」
「ああそうかよ! じゃあもう俺に頼むなよ! 他の奴誘って遺跡でも何でも行けばいいだろ!」
「言われなくてもそうするよ! 今までありがと! もうこれっきりだから!」
流れる沈黙に息を呑む。空気が冷えていく感覚がする。
「……もう早く出たい、こんなとこ」
「だから出る方法がねえっつってんだろ」
「あるでしょ」
僅かに目を潤ませて、リンウェルが強い視線を寄越す。
「オナニー、すればいいんでしょ」
「……は?」
思わず聞き直してしまった。
リンウェルの口からそんな言葉が出るなんて。心臓がずきりと音を立てる。
「ほら、寝室行こ」
「お、おい」
「〈二人揃って〉ないといけないんでしょ」
立ち上がったリンウェルに押し負け、その後を付いていく。
リンウェルの提案はこうだ。互いにベッドを背に挟んで行為を行う。そうすれば姿は見えないし、痴態を晒す必要は無くなる。
「指定された条件はクリアしてると思うけど」
「そ、そうだな」
「じゃ、私あっち側行くから。覗かないでよ」
「んなことしねえよ。お前こそちゃんとやれよな」
手紙の文言によれば、部屋から出るためはただ自慰行為をするだけではダメだ。達しなければ条件を満たさない。どういう原理でそれを判断しているのかは知らないが、先ほどの保存庫の一件を考えれば、おそらく演技での誤魔化しはきかないだろう。
言われた通りベッドの横に腰を下ろし、背を預ける。はあ、と吐いた息が床に重たく沈んだ。なんだってこんな気持ちでこんなことしてるんだか。行き場のない不満を滲ませたまま頭を掻いていると、背にしたベッドが微かに軋んだ。
そうか、今後ろには――。
伝わってくる些細な振動で、リンウェルがそこにいることを嫌というほど思い知らされる。気が付けば心臓はばくばくと鳴り響いていて、痛いほどだった。今この瞬間、ベッドを挟んでとはいえ、ほんの数メートル後ろでリンウェルがオナニーしようとしているのだ。そう考えただけで哀しいかな、下半身にある俺の分身は徐々に重量を増す。それを取り出そうとする布の擦れる音さえ部屋に響くようで、思わず動きが慎重になる。
女子がオナニーをするときは一体どんなふうに触るのだろう。胸を弄くるのか、あるいは下か。そのどちらも同時に触るのだとしたら、それはもうすごい光景だ。
脳内で繰り広げられる妄想女子の痴態に興奮が高まっていく。ほんの数度扱き上げただけだというのに俺の分身は手の中ですっかり天を仰いでいた。
動かす手を早めながらふと思った。リンウェルが今晒しているであろう痴態を拝むことは生命の危険性から到底望めないだろうが、その漏れ出る吐息を拝聴することくらいは可能なのではないか。なにせこんな静まり返った部屋だ。少し意識を集中させれば数メートル先の音を拾うことくらいできるだろう。
そうと決まれば一旦手を休めて目を閉じて、後ろの気配に全ての神経を集中させる。まさに身体で聴くというやつだ。
「……っ……」
微かに耳に届いた音に、身体中の熱が吹き出る。心臓がひっくり返ったような気がした。
マジか、マジなのか。本当にシてんのか。
信じられないという気持ちの中に確かに存在しているこの疚しい思い。俺の分身はそっちに正直なもので、今や恐ろしいくらいに硬さを増している。
「……ふ、……っ」
視覚的には何も捉えられていないが、聴覚的な刺激としては一級品。女子のオナニー声をオカズに出来るなんて。
高まる興奮に思わず手を動かしたくなった。だがこの美味しい状況をあっさり終えてしまうのは惜しいと思う自分もいる。つくづく男とは下半身で考えてばかりのかなしい生き物だ。
「……っ、……っ……」
ふとそこで、途切れ途切れに聞こえる声になんとなく違和感を覚えた。あれちょっと待てよ、これ、もしかしなくても、――泣いてないか?
急激に冷えていく頭の中で、理性が興奮を抑えつけた。ぐいぐいと押しやったその上に封をすると、俺はベッドから毛布を一枚引きずり出す。できるだけ視線をそちらに向けないようにしてそれをベッドの向こうに投げやると、戸惑ったようなリンウェルの声が聞こえてきた。
「そっち、行っていいか」
「え……でも」
「終わってなくていい。とりあえず隠せるもん隠してくれ」
言いたいことは伝わったのか、数秒経ってリンウェルが小さく「いいよ」と呟く。意を決してそちら側へ出向くと、毛布に包まったリンウェルが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。その目はやはり、少し赤い。
「悪かったよ」
「……え……?」
「泣くほど嫌なら無理すんな」
リンウェルは慌てて目元を拭うと、俯いて視線を逸らす。
俺が言おうとした言葉を遮ってしまうくらいのリンウェルが、こういった行為に不慣れなことなんて容易に想像がついたはずだ。それなのに俺は自慰に耽るどころか、どちらかと言えばこの状況を愉しもうとすらしていた。気付かなかったとはいえ、リンウェルが苦しんでいる声をあろうことかオカズにしようとしていたのだ。
「俺が悪かったんだ。どうにもならないことでお前に当たって、酷いこと言って、こんな真似までさせて」
こうなったのはリンウェルのせいでも何でもない。そんなこと初めから分かりきっていたのに。
「お前がそうやって泣くくらいなら、俺はここから出なくたっていい。他に方法探すか、壁壊すかする。まあずっとここで暮らすのもアリっちゃアリだ」
「そ、そんな……!」
「ものの例えだって。そんくらい、お前に泣かれるの嫌なんだよ」
お前の泣き顔は好きじゃない。うれし泣きならともかく、悲しみに塗れた顔は特に。
「だからもう泣くな。ちょっと休もうぜ。きっと俺もお前も疲れてんだ」
俺の言葉にリンウェルは小さく頷くと、再び目元を拭って立ち上がった。纏っていた毛布が床に落ちて一瞬ドキリとしたが、リンウェルの着衣はほとんど乱れてはいなかった。なるほど、女子というのはオナニーの際も脱がないのか、などと不届き千万なことを考えながらも、あるいは毛布を投げつけた際に整えられたものなのかもしれないとも思った。
つい数分前まで猛っていた下半身の熱もすっかり落ち着いていた。脳内に描いていた妄想女子の姿も今は跡形もなく消え去っていた。
改めて保存庫を開くと、そこにはよく目にするような食材たちが並んでいた。俺は、やっぱり手紙の通りだな、と思いながらパンやレタス、ハムを取り出し、それらを適当に切って挟んで簡易的なサンドイッチを作った。リンウェルが果物でスムージーを作ってくれたので、それらを囲んでダイニングで休憩することにした。よく考えてみれば俺たちは昼食を摂る前にここへ来たわけで、腹が減っているのは当然ともいえた。あれからどれだけの時間が経ったのかは時計も窓もない部屋では知ることも出来ないが、一度自覚した空腹は想像以上だったようで、俺たちは何も言わずにそれらをただひたすら口に運んだ。
「私も言い過ぎて、ごめん」
皿からサンドイッチが消えた頃、リンウェルがぽつりと言った。
「ロウの言う通り、軽率だったと思う。私、遺跡に来ると気持ちが舞い上がっちゃって。それでこれまで何回も危ない目に遭ったのに。ロウに助けてもらった事もいっぱいあったのに、さっきはカッとなっちゃって」
「あー……いや、俺が悪いんだって。全部お前になすりつけて楽になろうとしてたんだよ。イライラしててさ。そんなことしたってここから出られるわけでもねーのに、馬鹿だよな」
自分の言動を振り返ると本当に愚かだったと思う。
「あんなふうにお前を追い詰めてあんなこと言わせて、それを止めもしないとか、本当、どうかしてた」
「言い出したのは私だし。それなのに……ごめん」
俯いて声を小さくしていくリンウェルの耳が赤い。恥ずかしいとか、顔を合わせづらいとか、そういう気持ちは分かるがどうか勘弁してほしい。そんな顔をされてしまうと、こっちにまで緊張が感染ってしまう。
「その……ロウは、平気なの?」
「平気って、何が」
「えと、そのお、オナニー、人前でするのとか」
「ひ、人前でするわけねえだろ!」
「そ、そうだよね」
「……まあオナニーだけで言えば、別に。男なら皆普通にすることだしな」
って、何言わせんだこいつは!
「ああもう、この話は一旦終わりな! 腹も膨れたし、もう少し考えてみようぜ」
「……うん」
いまだ不安が残るその微妙な表情にもう一つ付け足しておく。
「それと、さっきの言葉は取り消すからな。確かにお前は危なっかしいけど、こうやって一緒に出掛けるのが嫌だとか、そんなふうに思ったことは一回もねえよ」
むしろ、そうやって声を掛けてくれるのが喜ばしいとさえ思う。休日の予定を聞かれる度に何かを期待してしまう自分がいる。
「だから他の奴に頼む必要は無いっていうか、俺がいればいいだろ、それで」
この役目は俺だけのもの。他の野郎になんざ任せて堪るか。まあ俺以上にリンウェルの扱いに長けていて戦闘能力がある奴なんて、ヴィスキント中を駆け回ったって見つからないだろうが。
「そうだね」
ようやく顔を上げたリンウェルは、今度こそ晴れやかな笑顔で頷いた。
「遺跡の付き添いは次も、その次もロウにお願いする。これからは私もちゃんと気を付けるから、荷物持ちと用心棒、よろしくね」
フルルの護衛もだよ、と付け加えて目を細めたその表情があまりに眩しくて、つい目を背けてしまいそうになった。
やっぱりこのポジションは誰にも任せられない。リンウェルのこの顔を知っているのは世界にただ一人、自分だけでいいのだ。
◇
ぶくぶくと口元で泡を立てながら、リンウェルは湯船に浸かっていた。自分の部屋のものよりも数段大きい浴槽は足も伸ばせるし、手を広げても反対側の縁に届かないほどだ。これはつまり、言ってしまえば一人用のそれではないのだろう。そう気づくと心地良かった湯の感覚も忌々しく思えてくるというもので、敢えてその長所を殺してやろうと膝を抱えたりなどしてみる。そんなささやかな抵抗をしてやりたくなるほどにはこの状況を疎ましく思っているし、精神的にもすっかり参ってしまっていた。
私たちがこの部屋に飛ばされてきてから一体どれだけの時間が経ったのかは分からないが、体感ではもう日も落ちてしまって、現在は夜なのではないかと思っている。
ロウと軽食を食べた後、再び部屋中を捜索し回ったり、通称コンニャク壁に術を放ったりもしてみたが、結局何の成果も得られなかった。分かったことと言えば、私たちは本当に出口のない部屋に閉じ込められてしまったということ。そして手紙に書いてあることに何一つ間違いも抜け穴もないということだけだ。こんな状況で戸惑わない方がおかしい。ただでさえ狭い空間に閉じ込められて、挙句の果てにあんなことをしないと出られないなんて。
疲弊した私を見かねたのか、ロウは知らぬ間に浴槽に湯を張ってくれていた。体力を余計に使うのは良くない、今夜はもう休もうぜと提案してきたのもロウの方からで、私は少し驚いた。旅の道中の姿からは想像もつかないほど細やかな気遣いは一体どこから学んできたのだろう。あれから数年が経つとはいえ、そんな長期間離れたこともないのに、いまだ知らないロウの姿があったなんて。
とはいえ今この瞬間も、浴室の外からは大きな音が聞こえてくる。きっとロウがコンニャク壁に向かって拳を振り上げているのだろう。どれだけやっても傷一つ付けられないというのに、工夫がないというか、諦めが悪いというか。
裏を返せばそれだけこの部屋から出たいということでもある。それは私だって同じ気持ちだ。フルルがどうしているかも心配だし、私たちのいた世界は今どうなっているのか気にならない訳がない。
それもこれも、本当は今頃とうに解決しているはずだった。私が、自慰を失敗さえしなければ。
私は自慰行為について全くの無知というわけではなかった。知識としては当然知っていたし、もっと言えば、自分でそうすることさえあった。
何をきっかけとして覚えてしまったのかはもう覚えていない。それほどにありふれた行為として、私はそれを日常のふとした隙間に挟み込んで日々を過ごしていた。
まさかそんな秘め事を人前でする羽目になろうとは。結果から言えば失敗に終わったのだが、それも当然のことだったと思う。
ロウとの派手なケンカの後。雰囲気は最悪、気持ちも落ち込んでいたのに、私はこの部屋、状況から脱したくて無茶な提案をした。ベッドを挟めば互いを見なくて済む、だなんていかにもなことを言いながら目的を遂げられなかった挙句、涙まで流したのは他でもない自分の方で、結局ロウに気を遣わせてしまった。仲直りができたのは良かったとしても、部屋から出られていたのなら記憶も無くなって、初めからそんなケンカなど存在しなかったのだから結果は同じことだ。つまりはプラマイゼロ、からのマイナス。この部屋に閉じ込められている限り、私たちは負の感情を背負ったままだ。
「はあ……」
何度出したところでため息は尽きない。
この状況を生み出したのも私、解決出来なかったのも私。プラマイゼロのプラス部分をもたらしたのはロウの気遣いだから、私は結局マイナス分の働きしかしていない事になる。
当然気落ちはするものの、いまだ正気を保っていられるのは一緒にいるのがロウであるというのが大きいような気がする。気心知れた仲ではあるし、時には弱みだって見せられる貴重な友人だ。
――そう、大切な友人。
友人だから、あんな手紙に書かれているようなことはできない。そういうのは互いを想い合う恋人同士がすることであって、軽々しくしていいものではない。
それでも、ロウは大切な人であることに変わりはない。こんな事になっても諦めず方法を探し続け、私を励ましてくれる。一緒にいるのが他の人だったら、きっとこうはならなかった。
だからこそ何とかしたい、ロウを外に出してあげたい。外に出て、ロウにお礼が言いたい。ロウがいてくれて良かった、本当に助けられたと伝えたい。今こうして考えていることも、きっと忘れてしまうのだろうけれど。
ならば私が出来ることはたった一つ、覚悟を決めることだ。当然ロウの協力がないと成立はしないが、ロウならきっとこの気持ちを汲んでくれる。最後まで甘えてばかりだが、こうするしか本当に道はないのだから、仕方ない。
湯から身体を引き上げると、私は石鹸を手に取った。先ほど洗ったばかりの肌にもう一度泡を立てていく。
大した長風呂をしたわけでもないのに頬が熱い。それはおそらく、これから始まる夜の予感に囚われているからなのかもしれない。
◇
風呂から戻ると、部屋に点されたランプは枕元のものを除いて全てが消されていた。オレンジの淡い光にぼんやり浮かび上がるベッドには、こんもりと一人分盛り上がった山がある。それの上部が捲り上がったと思うと、リンウェルが中からひょっこり顔を出した。
「湯加減、大丈夫だった?」
「おう。風呂がデカくてビビった」
「うちのもあれくらい大きいといいんだけど」
「風呂の準備だけでめちゃくちゃ時間かかりそうじゃね? 掃除も大変だろ」
「確かに。今のままの方がいっか」
そんな他愛もない会話をしながら自分もシーツの間に潜り込む。
「それじゃ、おやすみ」
「おう、おやすみ」
俺の声はきちんと平静を装えていただろうか。
この部屋にはベッドが一つしかない。かなりの大きさであるとはいえ、それは自分が宿屋なんかで目にするものと比べてという話で、人間二人が並べばその隙間は腕一本にも満たない。
自分は床で寝るという俺の主張をすぐさま却下したのはリンウェルだった。床で寝ても疲れは取れないし、風邪引かれても困るし、私は良いからベッドで寝ようと半ば強引に押し切られた。疲労のために効果的であるといえば理論上はそうかもしれないが、実際にはどうだろう。できるだけリンウェルから距離を取ろうと端に身を寄せるが、軋むベッドの音がもう一人の存在を忘れさせてはくれない。加えて、擦れる布の音にさえ反応して鳴り出す心臓が睡魔を遠ざけている。これじゃあ結局眠れないんじゃないのか。
「ロウ、寝ちゃった?」
背後からの声に振り返ると、リンウェルが身を縮こまらせながらこちらを見つめていた。口元まで引き上げられた毛布に顔を半分だけ覗かせたままで、その表情をはっきり窺うことはできない。
「眠れないのか」
「うん、ちょっとね」
それはそうなんだけど、とリンウェルは意味深に口ごもった。時折視線を泳がせながら、続く言葉を必死で考えているようだった。
「ロウは、この部屋から出たい?」
「何だよ急に」
唐突な問いの答えは当然一つしかない。そしてそれは互いに同じものだと思っているが。
「そりゃあな。でも方法が無いんだろ」
この部屋に飛ばされてから色々考えたり試したりしたが、結局ダメだった。
リンウェルの提案した強硬策も失敗に終わった。今となってはそれで良かったんじゃないかと思う。あんな形で出られてもどこかにわだかまりが残ってしまいそうだ。あるいはそれも全部忘れられていたのかもしれないが。
「やり口が思いつかねえんだよな。他に手紙も見当たらねえし」
やはりあの特殊な壁をぶち破るしかないのか。どのくらいの時間が掛かるかは分からないが、それはそれで昨日の自分より強くならなきゃならないってことで、燃えてくる。不安があるとするならばケガをしてしまった場合とか、装備が先にダメになってしまうことくらいか。あとは自分の精神がどれだけ持つか。出来れば身も心も健康なまま、外に出られたらとは思う。
「じゃあさ、ロウ」
ぽつりと、しかしはっきりとリンウェルが言う。
「私とエッチするのは、嫌?」
リンウェルの言葉に、全身が凍り付くようだった。続いて込み上げてきた熱でそれが溶かされると、身体中の穴という穴から汗が噴き出すような感覚がした。
――何言ってんだ、お前。
心の中でそう思いつつも、その言葉の意味は頭できちんと理解している。
「だからお前、そういうこと軽々しく言うなって」
「軽々しくない」
リンウェルがぴしゃりと言い放つ。
「軽くない。私ちゃんと考えたよ。ずっとここにいるのもいいかもって、ちょっと思ったりもした」
しんと静まり返った部屋には、リンウェルの声だけが重たく響く。
「でもダメだよ。私もロウも、まだまだやりたいこといっぱいあるじゃん。ここにいるままじゃ何もできない。外がどうなってるかも分かんないけど、フルルも皆も待ってるかもしれない」
これ以上待てない。一刻も早く外に出たい。
これは訴えているわけじゃない。どこか祈りにも似ているような気がした。
「だから、俺とするって?」
リンウェルが小さく頷く。そのきわめて真剣な表情に、俺は思わず言葉に詰まった。この状況、この空気。覚悟を決められていないのはどっちだ。
「でもやっぱりその、ただそうするっていうのは悲しいから、今だけ私たちは恋人。どうかな」
「どうって……」
お前はどうなんだ。良いのかそれで。他に好きな奴とかいたりしないのか。
そう言おうとして、やめた。そんなこと聞いてどうする。知ったところで余計悲しくなるだけだ。
「……良いんだな」
「うん。……でもできれば、」
優しくしてほしい、と囁いた声は微かに震えていた。
腕一本分の距離を、俺はじりじりと這うようにして詰め寄った。そしてリンウェルの背にそっと腕を回し、そのまま引き寄せる。力加減が分からなかったが、リンウェルが何も言わないところを見るとおそらく痛くはないのだろう。
胸の中に収めたリンウェルの身体は思っていたよりもずっと華奢で、頼りなかった。こんな細腕から本当にあんな強力な術が放てるのか疑ったほどだ。それでいて髪からはいい香りがする。石鹸とは違う、甘い香りだった。
「どうしよう」
すぐ顔の下でリンウェルの声がする。
「ドキドキしすぎて、死んじゃいそう」
上ずった言葉尻を笑うことなどできない。
「……俺も」
この心臓を鎮める方法があるなら教えて欲しい。震えっぱなしの指先が情けない。
それらを誤魔化すように腕に少し力を込めれば、リンウェルの肩がびくりと跳ねる。苦しいよ、と聞こえた声に腕を緩めると、こちらを見上げたリンウェルと目が合った。
恋人なら、許されるだろうか。ふと視界に入った唇を親指でなぞる。
次いで伏せられた瞳と、僅かにこちらに持ち上げられた顎を見て、俺はその唇にゆっくりと自分のそれを重ねた。
それが引き金になった。一度知ってしまった温もりからはどうしても離れがたく、俺は何度も何度もリンウェルに口づけた。唇だけじゃない。頬に額、耳や首筋にだって何度もそうした。くすぐったいと漏らすリンウェルの声も聞かなかった。どうしてもそうしたかった。どこかに自分の痕跡を残したいと思った。
女性に興味はあっても女性とのそういった経験はない。どこかで小耳に挟んだようなうろ覚えの知識以外は何も持っておらず、それも今この瞬間はどこかの引き出しにしまったまま取り出せてはいない。
それなのに気が付けば自分の手は自然と動き出していた。どこに向かえばいいのか、何をすればいいのかきちんと理解していて、それによってリンウェルは高い声を上げていた。なんだこの感覚。一体何が起きている。
戸惑う自分がいる一方で、どこかで安心もしていた。どうしたらいいのか頭で分かっていなくても、本能が求めるものを知っている。
「大丈夫か」
今更お伺いを立てるわけではなかったが、俺は都度リンウェルに問うた。触れる時、特に素肌に直接そうする時は慎重になった。
初めはそれに逐一返事をくれていたリンウェルも、そのうちそれを聞いてくすくすと笑うようになっていた。
「そんな確認しなくてもだいじょうぶだよ」
揶揄いではなく、諭すような物言い。
「今は恋人同士なんだから」
「なら、なおさら大事にしないとだろ」
髪を撫で、もう一度丁寧に口づけると俺は手をリンウェルの下半身へと伸ばす。
「……あっ……」
指先から伝わる湿った感触は想像以上で、潤ったナカは抵抗なく自分を受け入れてくれた。
「あっ、あんっ、あ、やっ、あっ」
嬌声とともに次々と溢れ出てくる蜜が指に絡み、動きをスムーズにする。リンウェルの腰が揺れ動いているのは、きちんと感じている証だ。
「はずかしい……」
「別に恥ずかしいことじゃねえよ」
こちらとしては嬉しいことだし、そうなってもらわないとこの後が困る。
「俺だってめちゃくちゃ興奮してる」
そばにあったリンウェルの手を自身の熱に導くと、リンウェルは大きく目を見開いた。
「ロウの、熱い……」
「今からこれがお前の中に入るんだけど」
大丈夫か、と最後にもう一度だけ問うておく。
「……だいじょうぶ」
「無理すんなよ」
「しない、けど、」
リンウェルの腕が首に回り、そのままぐいと引き寄せられた。
「キス、もう一回して」
擦れ擦れのところで囁かれた声はあまりに甘い。惚けた頭のまま唇を押し付けると、また一つ熱が大きくなった気がした。
いつの間にやらベッドの上に置かれていた避妊具に見覚えは無かったが、俺はそれを何のためらいもなく身に着けた。どうせまたサービスの一環か何かなのだろうが、それに腹を立てている余裕はなかった。
リンウェルに覆いかぶさり、ナカに自身を埋めていく。押し寄せる快感に意識を持って行かれそうになりながらも、根元までしっかりとそれを打ち込んだ。
「挿入ったぞ」
うん、うん、と声もなく頷くだけのリンウェルは、その小さい肩を小刻みに震わせていた。いくらきちんと濡れていたとしてもおそらく初めてのことだ。痛みや違和感に耐えているのだろう。
「ごめんな、辛いだろ」
腕を伸ばすリンウェルに顔を寄せると、頭ごと抱きかかえられるようにして腕が回る。
大丈夫か、と問うた俺をぎゅうと抱き寄せながら、リンウェルはふるふると首を振った。
「ちがうの、」
潤んだ瞳に緩く唇が弧を描いて、眩しいリンウェルを形作っていく。
「こうしてるのが、ロウで良かったなって」
その言葉に胸が締め付けられる思いだった。
俺だってそうだ。ここにリンウェルと閉じ込められたのが自分で本当に良かった。もしこれが他の誰かとだったら、なんて考えたくもない。
今度は自分の腕をリンウェルに回して、その細い体を掻き抱いた。
「……ロウ?」
肩越しに自分の名を呼ぶリンウェルの声が聞こえる。それに加えて、合わさった胸から伝わってくる体温が愛おしくて堪らない。
ああそうか、俺は――。
気づいた想いを告げるには少し早い。今はこの熱を鎮めてしまわないと。昂りに任せた言葉であるとは思われたくなかった。
律動を始めてから俺が果てるまでにそう時間はかからなかった。早すぎると罵られても致し方ないが、経験が浅いどころか皆無だったのだ。その初めの第一歩としてどうか許してもらいたい。
力尽くようにリンウェルの隣へと倒れ込むと、その髪を撫でた。熱を鎮めてもなお鳴り止まないこの胸の鼓動が証だ。
「お前のこと好きだって言ったら、信じるか」
「えっ……」
分かっている。こんなことになってから言うなんて都合が良すぎる。それでも、今更だとしても、気づいてしまった想いを隠してはおけない。
「好きだ、リンウェル」
多分ずっと前からそうだった。リンウェルは俺にとって大切で、あまりに当たり前に大切な存在すぎたから、それを特別と呼ぶのだということも忘れていた。
もう一度リンウェルを引き寄せ、胸の中に抱いた。恋人としての時間はとうに過ぎていたかもしれないが、どうしても離れがたい温度がそこにはあった。
「なんで今そういうこと言うの」
腕の中で聞こえたリンウェルの声は、ちょっと泣きそうな拗ねたような声だった。
「今聞いても、忘れちゃうじゃん」
じわりと瞳を潤ませるリンウェルに、俺は腕に力を込めながら誓う。
「もう一回言う。元の世界で、ちゃんとお前に好きだって言うから」
今度こそ胸を張って、正々堂々臆すことなく伝えたい。リンウェルが何よりも大事だと。他の奴なんかに渡したくないと。
「私も、ちゃんと気づきたい。ロウが好きなんだって」
ロウが好き。
リンウェルの口から紡がれた言葉のなんと愛おしいことか。それを心で噛み締めるたび、溢れ出した温かいものが身体中に染みわたって、じんわりと自分をまるごと包んでいく。
ふと絡んだ視線に引き寄せられるようにして唇を重ねると、それから俺たちは何度も何度も同じことをして互いの感触を確かめ合った。ここを出ても忘れないように。今感じている気持ちが一時のものでもなければ、まやかしでもないと願うように。
互いしか見えない。視界にそれだけを映していれば、俺たちは寝室の壁にいつの間にか現れていたドアの存在にもまったく気が付けないでいた。
◇
目を覚ますと、そこは見覚えのある光景だった。ボロボロの石壁に土埃の舞う小部屋。散らばる朽ちた破片と瓦礫の数々。いつからそうしていたのかは分からないが、ざらざらの床に置いた手のひらとお尻が痛い。
ここは遺跡だ、と思うと同時に肩に感じたのは人の体温だった。互いに持たれ掛かるようにして体重を預け合っていた相手は他でもない、ロウだった。
その場で立ち上がろうとして驚いた。自分の指先と、ロウの指先が絡み合っている。
「うう、ん……」
小さな呻き声を上げたロウはゆっくりとその瞼を持ち上げると、何度か目をしばたたかせて覚醒した。そうしてようやく焦点が合ったのか、中心に私の顔を捉えて大きく目を見開く。
「リン、ウェル……?」
起き抜けに自分の名を紡いだ唇を見て、たちまち蘇った記憶は鮮明なものだ。出口の無い部屋、謎の手紙、八方塞がりからの口論、和解をして、そしてその後――。
「な、なんで……」
みるみる立ち上る熱が顔面を覆っていく。
「~~~なんで覚えてるのっ!」
ロウの方も同様だった。全部、何から何まで覚えていた。
「なんでだろうな」
頭を掻くロウの視線が下に下りる。
繋がれた指。あの部屋を出る時、私たちは確かにそうしていた。どうにも離れがたく、一瞬でも長く触れ合っていたいと願ったのだ。例えそう願ったことすら忘れてしまったとしても。
結果として記憶ははっきりくっきり残ったまま、なんなら身体の感覚もそのままで、ちょっと下半身がぎこちない。
「……なんで記憶があるんだろう」
部屋を出られたら直前の世界へと戻ると、あの手紙には書いてあったはずだ。
おそらくそれに間違いはない。周囲の様子からしてまだ外は明るく日も傾いておらず、とはいえ何日も経過しているとも思えない。
つまり、戻ったのは時間だけだったということか。自分たちがあの文章を読んで勝手に勘違いをしていただけで、初めから記憶を消すなんて言っていなかった、そういうことなのか。
なんて酷い部屋だ。そうならそうと初めから説明しておいて欲しかった。そのせいで私たちは随分と恥ずかしい事をした挙句、顔から火の出そうな言葉をたくさん口にしてしまった。
「そ、そういえばあの遺物は?」
ふと思い出したのはこの重大事件のきっかけとなった忌々しい遺物だ。瓦礫の下から見つけた家のような形のそれは、確かにこの部屋で見つけたものだった。
だがそれはどこをどう見回しても見当たらない。そんなものがあった形跡すら無い。
「おかしいな……確かにその隅にあったのに」
「幻だったんじゃね?」
「幻……」
確かにそうかもしれない。私たちは幻を見て、幻を見せられていたのかもしれない。それにしてはどうも生々しくてリアルな幻だった気がするが。
「幻、もしくは夢?」
「俺はどっちでもいいけど」
そう言って立ち上がったロウは、繋がれた手ごと私の身体を引き寄せた。つんのめった私をその胸で受け止めて、背に手を回す。
「気づかせてくれたって意味じゃ、感謝はするけどな」
その言葉の意味は、分かる。互いに身体を重ね合わせてからその想いに気付くなんて遅すぎるとも思うが、その発端となったのはまさにあの部屋だった。
「忘れてた方が良かったか?」
「そ、そうじゃないけど……」
熱の籠った声に心臓が跳ねる。あんなことが起こった後ではどうにも顔を合わせづらいのだが、そんなことはお構いなしにロウは腕の力を強めてきた。
「俺は覚えてて良かった」
あの部屋に飛ばされたことも、二人で試行錯誤を繰り返したことも。言い合いになったことも全部含めて、ロウは忘れなくて良かったと言った。
「もう一回言うって言ったよな」
あの時立てた誓いも、ロウはきちんと覚えていた。正面に向き合って、こちらの瞳を真っ直ぐに見据えたままロウは言った。
「好きだ、リンウェル」
あの時と同じだと思った。同じ言葉、同じ表情。それまで溜め込んでいたものを全部吐き出すような熱っぽい息遣いで、私の胸をぎゅっと強く締め付けてくる。
「……私も」
それを私はずっと待ち望んでいたのだ。そうだと気づいたのはおそらく、ほんの数時間前のことだけれど。
ロウの胸に身体を預けながら、その背にそっと手を回した。温かくてちょっと硬くって、そしてロウの匂いがする。これだけロウに近づいたのは、この世界では初めてかもしれない。ドキドキしてまた死んでしまいそうだ。こんな心臓が痛くなってしまって大丈夫なのだろうか。明日、いや、あと数分したら全身の血液を送り出しきって、その役目を終えてしまうかもしれない。
ふっと身体を離されて名残惜しく思ったが、ロウの指が私の髪に掛かった。その目的を知って、再び心臓が激しく鳴り出す。
近づくロウの顔にゆっくりと目を閉じてその時を待つ。逸る気持ちが踵を持ち上げた時だった。
「フル――ッ!」
「うぎゃあっ!」
空を切る白の一閃。ロウに鋭い頭突きを見舞ったのはフルルだった。
「フルル! 無事だったんだね!」
「フル?」
どうかしたの? と首を傾げるフルルを手のひらに抱いて、私はそのふわふわな羽に頬を寄せた。
フルルは特別腹を空かせた様子もなければ、眠たそうにもしていなかった。本当に、こちらの世界ではほとんど時間は経過していないようだ。
「お前なあ、あんな勢いつけることねえだろ!」
「フルッ、フルルル!」
「別に、リンウェルが嫌がるようなことはしてねえよ。むしろ喜ぶことっつーか」
「フッ……」
「何だよその顔! 嘘じゃねえよ!」
そんなやり取りを見て実感する。ちゃんと戻って来た、私たちの世界に。いつもと変わらない日常が流れる、この世界に。
ただ一つだけ変わったのは――。
「ロウ」
今度は自分からその胸に飛び込んだ。驚きを隠せていないその表情の隙を付いて、頬にちゅっとキスをする。
「ありがとう」
あの部屋から出してくれて。一緒に覚悟を決めてくれて。
そして気づいてくれて、気づかせてくれて、ありがとう。
「これからもよろしくね」
遺跡の付き添いも、それ以外も。
私たちの間の関係だけが変わった世界で、私たちはきっといつも通りの日々を過ごしていく。
「ロウ、好きだよ」
当たり前に持ち合わせていたこの気持ちがいつまでも変わらないことを願いながら。
終わり