今日、告白された。相手は宮殿で同じ研究をしている知人の一人だった。
文献調査中、気分転換しようと中庭にいたところで声を掛けられた。「ちょっと時間ある?」と訊ねられて、私はうん、と頷いた。
研究のこととか最近の出来事とか他愛もない話を少しした後で、不意にやって来た沈黙に彼は小さく息を吐いた。そしてこちらを真っ直ぐに見据えて、はっきりと口にした。
「リンウェルさんが好きです。僕の恋人になってもらえませんか」
私は驚いた。彼が自分のことをそんなふうに思っているとはまるで予期していなかった。
彼の声は少し震えていたような気がする。耳まで真っ赤にして、それでも私の瞳を見つめ続ける彼に心打たれた。もし私の心がからっぽだったなら、「少し時間をください」とか「友達からならいいですよ」なんて答えていたかもしれない。
「ごめんなさい」
でも、それは出来なかった。
「恋人にはなれません」
私の心には彼でない、他の人がいるから。
今日の出来事を話すと、目の前のロウは大きな口を開けたまま、すぐ口元まで運んでいたお肉の切れ端をぽろっと零した。
「そ、それで、お前は」
「断ったよ。決まってるでしょ」
交際を承諾したのなら今こうして一緒に食事を摂ってはいない。そんな建前も、きっとロウにはまるで伝わってはいないのだろう。
できることならこの言葉の意味をきちんと考えてみて欲しい。断るに決まっている。私が一周回って本心を曝け出していることにいいかげん気づいて欲しい。
私の心のぼやきをよそに、ロウはあからさまにほっとした表情で胸を撫で下ろしていた。まったく、そんな顔をするくらいならはやく言ってくれればいいのに。お前が好きだ、って。
確証はないけれど、私たちが持ち合わせている気持ちはきっと同じものだと思う。一緒にいる時間も長いし、よく話すし、こうして食事を共にすることも多い。宮殿でロウを見かけたときによく目が合うのはおそらく互いが互いを探しているからで、食事に行こうと誘うタイミングが重なるのは会いたいとそれぞれが思っているから。ほとんどは私の想像だけれど、そこまで間違ってはいないと思う。
実際、私が告白されたという話を聞いてロウは動揺しているし、さっきからチラチラとこちらの様子を窺っている。何かを言いたげにしていることは明らかだ。
「なあ、リンウェル」
「何?」
「……いや、やっぱいい」
家まで送る、と席を立ったロウに少し口を尖らせながら、私はその後を追った。
帰り道では明日の予定だとか次の休日に何をするかとか、ぽつぽつとそんな話をした。さっきの言葉の続きを期待したけれど、結局最後までロウがそれを口にすることはなかった。家の前で別れて、遠ざかる背に手を振る。そして不満をひとつまみ。ロウのバカ。
ひとり家の中に入ると、がくっと肩の力が抜けた。どうやら私は緊張していたらしい。それまではまるで気が付かなかった。
ヘンなの。ロウといるのに緊張だなんて。もうずっと一緒にいるのに、今さら。
でもよく考えると、それは自然なことかもしれない。ずっと一緒にいることには違いないが、ロウは私の好きな人なのだ。ドキドキも緊張も何らおかしいことではない。
ロウと居ると、私はきっとドキドキしているのだろうけれど、その一方で安らいでいるような気もする。ロウには変に気を遣わないでもいい。自分を取り繕わなくていい。宮殿にいる時と違って、大人ぶる必要もない。
それなのに、ロウには可愛いとかちょっと思われたくなってしまう自分もいる。だからロウと会う前は鏡で前髪を直してみたり、服が汚れていないかチェックしたりしてしまう。
恋って矛盾ばかりだ。ドキドキするのに安らぐとか、ありのままでいられるのに見栄え良く見せてしまうとか。
ロウも、同じことを考えたりしているのかな。
時折、ひとりになると不安になることがある。もし、この気持ちが私だけのものだったらどうしよう。私が考えていることが全部ただの想像で、ロウには他に好きな子がいるのだとしたら。
ううん、そんなことはない。多分、きっと。
ロウは私との約束を優先してくれるし、一緒に食事に行く女の子は私だけだと言っていた。遠くへ行った時のお土産だって、私の他にはアルフェンたちにしか買っていないと言っていたし、私の喜ぶ顔が見たくて、とわざわざシスロディアまで行って古めかしい本を買ってきてくれたこともあった。
これまでのことをひとつひとつ積み重ねていけば、ほら、ロウは多分私のことが好きなんだろう。その可能性が膨れ上がれば上がるほど、ロウがほかの子に想いを寄せているという可能性は小さくなっていく。私を好きなロウが大きくなっていく。
そうして私はまたひとり胸を撫で下ろして、夜に向かう。星たちが沈んで、太陽が迎えに来るのを待つのだ。明日もまたロウに会えますようにと、心のどこかで密かに願いながら。
その日は朝から宮殿に籠りっぱなしだった。研究は進んでも、報告書になかなか上手くまとめ上げられない。同じ部分の同じ文章を何度も直しているうち、時計の針は思ったよりもずっと進んでしまっていた。
遅めの昼食を摂ろうと〈図書の間〉を出ると、廊下の向こうに見慣れた後ろ姿があった。
藤色の上衣に、吠える銀の狼。
顔を見なくたって分かる、ロウだ。私の心にじわりと熱が滲む。
柱にもたれかかってぼうっと宙を見つめるロウは、ほんの少しいつもと違って見えるような気がした。
それできっと、声を出すのが遅れてしまったのだと思う。一瞬のその隙に、ロウと私との間に人影が過った。
知らない女の子だった。駆けてきたその子は、美しい髪をなびかせてロウに近づいていった。声を掛けられたロウは驚いたような表情をしていた。そしてその子から何かを受け取ると、少し離れた私からも分かるくらいに顔を赤く染め上げて、笑って何か言葉を発していた。
ショックだった。ショックのあまり、私は〈図書の間〉に戻って荷物をまとめると、急いで宮殿を出た。もちろんロウに会わないように正面の門は避けながら。
家に帰ると荷物を投げ出してベッドに埋もれた。服もそのまま、ブーツだけ脱ぎ捨ててシーツの海に飛び込んだ。
あとはもう、ひたすらに沈んだ。深く深く、気分はどん底まで落ち込み、二度と浮上することはないのではないかと思うくらい沈んだ。
なんで、どうして。一体何が起こったの。混乱と衝撃の渦の中に私はいる。
何度も何度も先ほどの光景が頭を巡っていた。ロウが受け取ったものが何だったのか。おそらく、手紙のようなものだったんじゃないかと思う。手紙は手紙でも、それはきっと特別なもので、それに書かれていることは、きっと私が抱えているものと似ていて――。
何より辛かったのは、ロウがそれを受け取って、満面の笑みを浮かべたことだった。
あんな顔、見たことない。街で可愛い子を見かけた時とはまるで違う、初めて見る顔だった。
あんな顔をしておいて告白を断る方が想像がつかない。それくらいに嬉しそうで、幸せそうだった。それを見た私が絶望してしまうほどに。
このままロウは、あの子と付き合ってしまうのだろうか。あの子の告白を受け入れて、あの子の恋人として生きていくのだろうか。
そんなのってあんまりだ。そう思いながらも、仕方ないと思う自分も確かにいる。
例えそれまでロウの中にいたのが私だったとしても、ロウの気持ちはロウのもの。ロウがその子と交際を決めたのなら、私にとやかく言う資格はない。これまでロウの中を占めていた私という存在が消えて、その子に変わっていくだけ。恋なんて、それくらい儚いものなのだ。
ならばなぜ、私は今まで悠長に構えていたのだろう。ロウからの言葉を待つばかりで自分から飛び込んでいこうとはしなかった。ロウの気持ちがいつ変わるかも分からないのに。
私は馬鹿だ。いつまでもぬるま湯に浸かって、抜け出そうとしないで。
伝えなきゃ。ロウのことが好きだって。
既に手遅れかもしれない。もうロウの気持ちはあの子に向いてしまったかもしれない。
そんなロウを見るのはつらい、嫌だ。嫌だけれど、伝えられないままこの恋を終わらせるのはもっと嫌だった。
私はベッドから起き上がると、ぼさぼさになった髪を軽く整えて外へ出た。日はすでに傾いていて、自分の影がぐんと石畳に伸びていた。
夕焼けに染まるヴィスキントの街を私は早足で駆けた。広場を抜け、市場を通って階段を下りると、城門に掛かる橋のところにロウを見つけた。荷馬車から木箱をせっせと運び出す姿を見るに、今しがたヴィスキントへ戻ったのだろう。
「お、リンウェル」
どうした、と声を掛けられた瞬間、ひどく安心した。いつものロウの顔だったから。
「仕事、終わり?」
「ああ、もうすぐ終わる。ちょっと待ってろ、飯行こうぜ」
うん、と頷いて、私は橋のところでロウを待った。
やがて仕事を終えたロウが戻って来た。いつものように並んで歩き出すと、私は本来の目的を思い出した。
ロウに好きだと伝える。3文字、いやもっと言えば2文字で済む。
それなのに私の口と言えば、「お腹空いた」だの「ご飯ものが食べたいかな」だの、どうでもいいことばかりを紡ぎ出して一行に本題に入ろうとはしない。
結局お店に着くまで、私は想いを伝えることはできなかった。それどころか、食事を終えても会計を済ませて店を出ても、何も言えずじまいだった。
なんて意気地がないんだろう。自分の情けなさに嫌気が差す。
幸いだったのは、ロウが昼間の出来事を一切話題にしなかったことだ。敢えて避けている可能性もあるけれど、どちらにせよ私の恋の寿命はその分延びている。
「家まで送る」
「うん」
いつも通りの言葉を交わして私たちは薄暗い通りを歩き出す。道中に交わした会話も、いつもと同じだった。明日の予定、次の休日のこと、その返答も変わらない。
変わったのは、私の心かロウの心か。少なくとも私の心は変わってはいないけれど、ロウを疑っているという点では違う。付き合ってもいないのに疑っているだなんて、これもまた傲慢だ。
そうこうしているうちに自宅は確実に近づいてきていた。私はまた何も言えないまま夜に向かうのだろうか。
今さら痛感する。告白って大変なことなんだ。
私に想いを告げてきた彼。ロウに手紙を渡したあの子。そのどちらもきっとものすごい勇気を使ったに違いない。彼らと同じ立場に立って初めて、その偉大さを知った。
いや、同じではない。だって私はまだロウに何も言えていない。「好き」と口にすることもできなければ、手紙に素直な想いを綴ることもできない。
悔しい。想いの強さでは負けていないはずなのに。自分だけできないということがとても悔しい。
「ねえ、ロウ」
半歩先で足を止めたロウに、私は自らの両手を差し出した。
「ちょっと、手握っててくれない?」
「な、なんでだよ」
「いいから」
半ば無理やりロウの手を取って、自分の手を握らせる。もうほとんど掴まれているに近いが、それでいい。それがいい。
「何があっても離さないで」
おう、と小さく漏らして、ロウの指の力が僅かに強まるのが分かった。それで少し安心する。これで私に逃げ場はない。
大きく息を吐いても、ロウの顔は見られなかった。必死に鎮めようとした心も騒がしくなるばかりで一向に落ち着かない。
それでももう、私が言うべきはひとつだった。落ちる沈黙の中で、薄く唇を開く。
「………………ロウがすき」
確かに空気が震えた気がしたけれど、どうだろう。顔を上げることはとても叶わないので、ロウの表情を確認することはできない。
手は、握られたままだった。むしろさっきよりも力が強まっている気がする。指先がどくどくと脈打っている。その間のほんの数秒が何分、何時間にも感じられた。
「ねえ」
俯いたまま、私は小さく声を上げる。
「もう離していいよ」
それでも、ロウがその手を払うことはなかった。
「お前が離すなって言ったんだろ」
それは確かに、そうだけれど。
相変わらず握られたままの手に、じわりと汗が滲んでいくのが分かる。ひどく恥ずかしい。あらゆる意味で。
「なあ」
沈黙を破ってようやくロウが口を開いた。
「今の、本当か?」
今の、とは、私の告白のことだろうか。文脈から考えればそれしかありえないとはいえ、変な間が空いてしまったせいで頷くのがやや遅れた。
「……うん」
「本気の本気で?」
「そうだよ」
「嘘じゃないんだよな?」
ああもう、何度聞けば気が済むのだろう。
「だから、」
ロウが好きだって言ってるでしょ!
瞬間、強く両の手を引かれる。思い切り放ったつもりの言葉はロウの肩口に吸い込まれていた。私の手を握っていたはずのロウの手はいつの間にか背に回っていて、痛いほど私を締め付けている。
「……すっげえ嬉しい」
肩越しに聞こえたロウの声は、安堵しているようにも聞こえた。語尾は僅かに震えていた気もする。
そこで初めて、ロウが私の言葉を疑っていたのでなく、喜びを噛み締めていたのだと知った。
そのまま別れるのはなんだか惜しくて、私たちは夜のヴィスキントの街をもう少しだけ歩くことにした。右手と左手を繋ぎながら、あてもなくただ星の下を彷徨う。
「今日の昼間、宮殿に来てたでしょ」
私は前を向いたまま言った。
「それで、女の子から手紙貰ってた」
「げっ、見てたのかよ」
ロウは繋がれていない方の手で頭を掻きながら、気まずそうな顔をしていた。やはり手紙を貰ったことは敢えて隠していたらしい。
「なんて書いてあったの」
繋いだ手を真実とするならば、これくらいは聞いても許されるだろう。いや、聞かないと今夜は眠れそうにないので、洗いざらい吐いてもらうことにする。
それなのにロウは、よく分からないことを言い出した。
「知らねえ」
「え?」
どういうこと? と私が顔を覗き込んでようやくロウは重たい口を開いた。
「あれ、俺宛じゃなかったんだよな。仕事仲間の奴に渡して欲しいって言われてさ」
不満そうにロウは口を尖らせる。
「一瞬でも『モテ期が来た!』とか思っちまった俺の期待を返して欲しいぜ」
「期待、ね」
「い、いや、誰彼構わずってわけじゃなくて、ほら、ああいう手紙とか貰うの初めてで」
「別に怒ってないよ。あんなふうに手紙貰ったら誰だって多少は期待しちゃうと思うし」
それに、その時と今とでは状況は違う。言ってしまえばあの時ロウの心は誰のものでもなくて、自由だった。今は良くも悪くも縛られている状態だ。この繋がれている手みたいに。
「それでも俺、さっきのすげえ嬉しかった」
突然弾んだ声が聞こえて、私は動揺した。
「昼間のとは全然違った。心臓飛び出そうだったのは似てたけど、さっきは嬉しすぎて声出なかった」
それであの沈黙だったのか。思わずふふっと笑ってしまう。
「告白されたの、初めて?」
「ああ」
「私も、初めて告白した」
初めての告白で恋が叶うなんて、ほとんど奇跡だと思った。それがどれだけ確信に近くても告げるまでは分からないことだ。
「恥ずかしかったけど、言えてよかった」
想いを告げるには相当なエネルギーが必要なのだと身を持って知った。それでもきちんと言えて良かったと心の底から思う。返答がどうであろうと、きっと後悔はしなかったに違いない。
「俺も言いたい」
くん、と私の手を引いて、ロウが正面に向き直る。以前とは違う眼差しで、私の瞳をじっと見つめている。
「リンウェル、好きだ」
「うん」
「これからもよろしくな」
「うん、よろしく」
ぎゅっと手に力を込めると、ロウからの返答が返ってきた。
打てば響く。これまでよりもずっと近い距離で。それがどんなに素敵なことか、私の鼓動が告げている。
私たちは他愛もない話をしながら、夜道を並んで歩いた。あともう少しだけ遠回りすることに決めて、通りの角を曲がる。揃って足を踏み出す。今夜は二人で夜に向かう。
終わり