カラグリアからシスロディアへ、シスロディアからメナンシアへ。まるで環境が違う場所を歩き詰めだったことと、度重なる戦闘に私の身体はいつの間にか悲鳴を上げてしまっていたらしい。橋の向こうにヴィスキントの城門が見えてきて、牧場の独特の香りが鼻を掠めたときだった。私の足は地を捉えたものの踏みとどまることはできず、その場に力なく崩れ落ちたのだった。
それからのことはよく覚えていない。背に固い地面の感触がして、慌てたようなキサラやシオンの声を朦朧とした意識の中でただ聞いていた。
気が付くと、私はベッドの上にいた。見覚えのあるそこはヴィスキントで何度か利用したことのある宿屋の一室のようだった。
頭がぼうっとする。顔は熱いのに身体はひどく冷えていた。シーツの上には毛布が何枚も重なっていて身動きが取りづらいほどなのに、今にも震えそうなくらい寒い。典型的な高熱の時の症状だ。
そうか、私は熱を出してあのとき倒れてしまったのか。朝から感じていた不調もそれが原因かと納得した。
納得しただけで、あとはもう何も考えられなかった。頭の底の方で何かが煮えたぎっているように熱い。どろどろに溶けたそれが思考を邪魔している。
こうして横になっていること以外、ほかに何もできそうになかった。熱のせいか頭の中が常に揺れ動いているようだ。心臓の音さえどこか遠くて、五感もすべて自分から切り離されてしまっているみたいだった。
そんなとき、部屋のドアが開いたような気がした。次いで誰かが部屋に入ってくる気配がしたが、顔も瞼も動かすことができず、それが一体誰なのかも分からなかった。
その誰かは私のそばで足を止め、額にのせてあったタオルを剥がした。足元で水音がしたと思うと、数秒後には再び冷えたタオルが私の額へと戻ってきた。
その冷たさが染みるほど心地よかった。ありがとう。そんな一言さえ口にすることができなくて、もどかしい。
タオルを替えた誰かの気配は相変わらずそばにあった。何をどうしているのかは分からないが動き回る様子もなく、その場にとどまったままだった。
私を心配してくれているのだろうか。もしそうならちょっと申し訳ないな、なんて考えていると、不意にベッドが軋んだ。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。唇に何かが触れる感覚。柔いそれはすぐさま離れていったと思うと、そばにあった気配も部屋のドアの音とともに消え去ってしまった。
最後、瞼の間から僅かに覗いたあの紫色の上衣。それに見覚えがないわけがなかった。
夜が明けると熱はすっかり下がっていた。身体の怠さは幾分残るものの、自由に街中を歩けるほどには回復した。皆に礼を言いつつ、今日は街でゆっくり過ごすことにして全快を目指す。
一方で頭には昨日のことが巡りっぱなしだった。あれは一体何だったのだろう。
何だったのかと問われて冷静に考えてみれば、いやそうでなくとも答えは一つしかない。――キス、された?
一瞬、ほんの一瞬だったけれど、自分の唇が何か柔らかいものと触れ合った。それが相手の唇であったのかも分からない。でも、あれほどの柔らかさを持ったものに私は他に心当たりがない。
相手は、と考えてまた頬が焼けるように熱くなる。あの服は、あの服を身に着けているのは、私の知っている限りただ一人だけだ。
「リンウェル」
「うわわっ」
ふいに声を掛けられて振り向くと、そこにはロウがいた。
「なんだよその反応。どうかしたのか?」
「べ、べつにっ」
そうか? と訝し気な視線を寄越してロウが首を傾げる。
「体調、大丈夫なのか」
「う、うん。もうだいぶ良くなったよ」
「そうか、なら安心した。かなり辛そうだったから皆して心配してたんだぜ」
「ごめんね、もう大丈夫だから」
「そこはありがとう、だろ。具合悪いなら早めに言えよな」
じゃあな、と言って、ロウが去って行こうとする。私は思わず「待って」と言って、それを引き留めてしまった。
「あ、あのさ、ロウ」
「ん? どうかしたか?」
「……やっぱり、なんでもない」
「なんだ? 変なヤツだな」
じゃあまたな、と今度こそ手を振って、ロウは人で賑わう通りの方へと消えていった。
その背中を見送りながら、私はどうにも混乱していた。
おかしい。ロウって、あんな人だったっけ。
こっそり私にキスしておいて、何事もなくあんなふうに接することのできる人だった? いや、私の知る限りでは違う。そんなの、ロウじゃない。
あるいは、あれは私の勘違いだった? あれはキスでもなければ、現実でもなくて、熱に浮かされた私が見た恥ずかしい夢だったのでは? だったらロウの態度も当然のことで、一人でもやもやとしたものを抱えているのは自分だけというのも頷ける。
――それにしては随分と、感触が残っているような気がするけれど。
指で唇をなぞりながら、私はひとり胸を震わせる。熱があぶり出した夢の相手に何故ロウが選ばれたのかについては、あまり考えないようにした。
結局その後も進展はなかった。あの日私の部屋に誰か来たのかとキサラやシオンにそれとなく聞いてはみたものの、その時間帯は皆が皆の所在を知らなかった。はっきりしていたのはフルルがキサラと一緒に夕飯の材料を得るために釣りに出かけていたことくらいか。
ロウに関しても私は執拗にその表情を窺っていたが、結局最後までボロを出すことはなかった。皆の中で明るく振る舞い、笑顔を見せるロウはいつも通りの皆の知るロウだった。
でも私には、それが何だか違って見えるようになっていた。
その澄んだ瞳の奥に隠されたものが光って見える。それはきっと私にしか分からない。私だけが暴くことのできる、深い色をした秘密がきっとそこにはある。
「――とまあ、そんなことがあったんだけどね」
「へ、へえ」
そしてそれが今になって確信へと変わった。私の言葉に視線を泳がせているロウは、私のよく知るロウだ。
たった今、私たちは初めてのキス、いや初めてのキスだと思っていたものをした。あの旅からはもう1年以上が経ち、各々が新しい生活を始める中で私たちの関係も新しいというか、次の段階へと進んだのだ。
「それじゃあ聞くけど、今のは何回目のキス?」
「ええっと……」
口ごもる=初めてではないということになるけれど? その辺どうなの?
目だけでプレッシャーを与えれば、ロウは耐えかねたのか、手のひらをパンっと合わせてそれはもう結構な勢いで頭を下げた。
「悪かった! あのときはちょっと、っていうかかなり魔が差して……!」
ほれ見たことか。やっぱりあのときのキスは夢でも熱のせいでも何でもない、現実に起こったことだったのだ。
「魔が差したってどういうこと? 誰でもいいからキスしたかったってこと?」
「んなわけねえだろ! さすがにそんなことはしねえよ!」
「じゃあ、私だからキスしたってこと?」
その問いには、うっと声を詰まらせながらも、ロウは「そうです」と小さく返答した。
「でも次の日会った時は何事もなかったかのようにしてたじゃん」
あれにはかなり動揺した。自分の目と記憶を疑ってしまうほどには。
「そ、それは」
「それは?」
「バレたら本気でヤバいって思ったんだよ。お前には当然怒られるだろうし、シオンとかキサラに告げ口されたらヴィスキントにそのまま置いて行かれるかもって思って」
「素直に謝ろうとは思わなかったの?」
「謝って済むことじゃねえだろ」
なるほど、そういうことをしてしまったという自覚はあったらしい。その危機感があの見事なまでの演技を生んだということか。
「……もう、ロウってば」
込み上げてきたのは、笑みだ。
「今こうしてるのが私で良かったね」
私でなかったら、ロウの初キスは闇に葬られていただろう。それは私の方も一緒だ。あれは夢だったのだと言い聞かせて、新たに初めてのキスを上塗りすることになっていた。
「私だから、初めてのキスがちゃんと初めてのキスになってるんだよ」
そして相手が私だったから、こうして笑い話になっている。私たちの間で長く語り継がれるであろう、一生モノの傑作だ。
「じゃあ、もう一回しよっか」
そう言って私はロウの指に自分の指を絡める。覗いた瞳にはもう、秘密の色は見当たらない。
終わり