「彼のこと、大事にしてあげなさい」
そんなこと、言われるまでもない。これでも十分大事にしている。――している、はず?
あの人に勢いのままそう答えてしまったのが先刻のこと。現在は宮殿を出て、リンウェルは宿屋へと向かっていた。
肌を撫でる風が心地良い。夕暮れ時を控えて気温も幾分落ち着いてきたせいか、今は涼しささえ感じる。
そう思うのは、さっきまで頬を火照らせていたからかもしれない。ロウに「熱でもあんのか?」なんて問われた時は「誰のせいよ!」と詰ってやりたくもなった。
当の本人は宮殿を出るなり闘技場の方へと駆けていった。「晩飯までには戻る!」と言伝を頼まれたけれど、今夜の当番はロウだったような気もする。このままでは私でない雷が落ちるのは必至だが、キサラにお目玉を食らう前に手を貸してやらないこともない。もちろん埋め合わせはしてもらう。
ほら、私はロウのことを大事にしている。大事な仲間のためなら、降りかかる火の粉から身を守る盾にだってなってやろう。とはいえその火の粉を降らせているのもまた、仲間の内の一人なのだけれど。
思わずため息が出た。考えれば考えるほど分からなくなる。「大事にしている」と豪語したものの、その「大事にする」とは一体どういうことなんだろう。
みんなのことは大事に思っている。それは本当だ。心から信頼しているし、ちょっと家族みたいにも思えて、一緒にいると安らぐ。
だからみんなが困っているときは一緒に悩んであげたいし、解決してあげたい。大きなことでなくても、キサラが忙しそうにしていたら手伝いもするし、シオンがお腹を空かせているなら夜食を用意することだってわけない。大事にするって、そういうことなんじゃないかと思う。
でも、私はロウに何かしてあげているだろうか。普段は一緒にいて話もよくするけれど、別にこれといってロウのために心がけていることはない。ロウが困っているとすれば、大抵戦闘でケガを負った時だと思うけれど、自分は治癒術が使えないから治してあげることはできない。料理当番を代わってあげるのだって、あとで見返りを要求するつもりなので尽くすこととは程遠い気がする。
もしかして、私はロウを大事にしていない? そんなはずはない。ロウだって家族の一員、犬みたいなもので、もはやそれはペットなのだけれど、ペットも立派な家族のメンバーだし、ああもう、とにかく大事な存在であることは間違いないはずなのだ。
――大事な存在。また顔がかあっと熱くなるのを感じる。
別に、これに深い意味はない。みんなが大事だからロウも大事なだけで、それ以上も以下もない。ないはず。振り払うように頭を振る。
シオンやキサラはどう思っているのだろう。誰かを大事にするというのはどういうことなのか、二人は知っているのだろうか。
◇
今夜の夕飯はとても美味しかった。サラダにシチュー、街で買ったというパンとお手製のアイスクリーム。彩りも盛りつけもきれいで、席に着いた時からわくわくだった。本来ならロウの当番であったところをリンウェルが代わったらしい。ロウの豪快な一品料理も悪くないけれど、リンウェルのバランスの取れた食事も好ましい。彼女らしく食後のデザートが付いてくるところも良い。
夕飯を終えて部屋に戻ると、キサラがベッドの上に荷物を広げているところだった。
「あら、なにか探し物?」
「ああ、ちょっと裁縫箱をな。繕い物を終わらせてしまおうと思って」
よければシオンも手伝ってくれないか、と言われて、それならばと二人で針を持った。
ここ最近は戦闘が多かったせいか布のほつれも多い。一枚にどれだけ補修部分があるかは分からないが、積み重ねられた衣服はなかなか減っていかない。確かにこれは大仕事だなと思っていると、部屋のドアが開いた。
「やっと終わった~」
「リンウェル、後片付けお疲れ様。夕食とっても美味しかったわ」
「えへへ、ありがとう。あれ、二人でお裁縫?」
「ええ、キサラ大師匠に習っているところよ」
「そこは師範と呼んでくれた方が嬉しいのだが」
「あらごめんなさい、キサラ大師範」
そんな他愛もないやり取りができるようになったのが素直に嬉しい。真の目的を打ち明けてからは皆とも穏やかに話せるようになり、これまであった壁なんて感じさせないくらい私たちは楽しく過ごしている。
夕飯を終えれば次はシャワーを浴びる時間ということで、いつものようにリンウェルから準備をするのかと思っていたら、当の本人はその場に立ちつくしたままだった。その表情は何かを言い澱んでいるようにも思えて、声を掛ける。
「どうしたの、リンウェル」
「もしかして手伝ってくれるのか?」
「え、あ、うん、それはもちろん、手伝うよ。でもその前に、ちょっと聞きたいことがあって」
何かしら、と顔を上げると、リンウェルは意を決したように息を吸い込んで、
「シオンはアルフェンのこと、大事にしてる?」
と訊ねてきた。
「きゅ、急にどうしたの」
思わず面食らって、反射的にそう返してしまう。
リンウェルはええと、と言葉を濁しながらもぽつぽつと今日の出来事を語り始めた。
「今日ね、〈図書の間〉で司書のあの人に言われたの。ロウのこと、仲が良いんだから大事にしなさいって」
「私、自分ではロウのこと大事にして……って、もちろん仲間としてね!? 仲間として、大事にしてるつもりなんだけど、でも思い返せばよく分かんなくなっちゃって……」
「大事にするって、どういうことなんだろうなあって思って……」
自分がロウを大事にしていると分かる例があれば知りたいのだと、リンウェルは言った。徐々に小さくなっていく声とは裏腹に、赤みを増す頬がとても愛らしいと思った。
「そうね……」
少し考えて、
「私もアルフェンのことはとても大切に思っているわ。でも、それはリンウェルもキサラも、みんなのことも同じように大切よ」と私は言った。
誰かを大切に思う気持ちに大小も優劣もない。大切に思う気持ちがあるかないか、それだけだ。
「リンウェルはロウを大事に思っているのでしょう? なら、それでいいのよ。私もキサラも、リンウェルに大切に思われているって知っているもの」
ロウにもきっと伝わっている。人より鈍感な彼に直接聞いたところで、よく分からないと頭を掻きそうだけれど。
「気持ちがあれば、行動にも滲み出ているはずよ。そんなに気にしなくっていいわ」
「そっか……それ聞いてちょっと安心した」
心底安堵したような表情になって、リンウェルは柔らかく笑った。
「心配事も解決したし、張り切ってお手伝いするよ!」
「先にシャワー浴びてきたら? その後で交代して、順番に代わっていきましょう」
「そうだね。じゃあまず私がシャワー浴びちゃうね!」
鞄から着替えとタオルを取り出すと、リンウェルが「行ってきます!」と部屋を出て行った。その足音が遠くなったところで、
「……敢えて言わなかったのか?」キサラが少し声を潜めて言う。
「ええ」
小さく笑って白状した。嘘を言ったわけではないけれど、わざとぼかすような言葉を選んだ。
リンウェルがロウのことを大切に思っていることは知っている。それと思わせるようなエピソードもいくつか思い当たる。でも、それを教えてしまったら、きっとあの子はロウのことを意識してしまう。なかなか素直になれないリンウェルのことだ、そうしたら「大事にする」とは真逆の方向へ向かってしまうかもしれない。それはなんだか、いやとても勿体ないような気がする。心から通じ合える相手と出会う機会なんて、そう滅多にあることではない。
「でも、無意識だったのね。リンウェルったら、ロウがケガを隠してるってこっそり教えに来るのよ」
戦闘を終えて身なりを整えていると、リンウェルがこそっと近づいてきて耳打ちをすることがある。
〈ロウが腕にケガしてるけど、面倒だからって黙ってる〉
それを聞いてロウに装備を外させれば、確かにそこにはズーグルの爪に掻かれたような傷があった。
「おい、黙ってろって言ったろ」
「私は何もしてませんー」
そんなやり取りをするリンウェルはどこかいたずらっぽい笑みを浮かべたままで、ロウからすると密告されたような気持ちになってしまうのだろう。でもそれは少し違う。リンウェルが耳打ちをするとき、その声は決して面白がっているようではない。
「ケガをいち早く治してほしいがための行動だとも取れそうなものなんだがな」
それに気づくのにはもう少し時間がかかりそうだ。何せリンウェル本人も知らない気持ちを、ただでさえ鈍いロウが汲めるはずもない。
そういえば、とキサラが言った。
「シオンは知っているか。リンウェルはたまに、食事の皿を入れ替えることがあるんだ」
「あら、そうなの? 好き嫌いでもあるのかしら」
「自分もそう思って、注意深くそれを観察してみたんだ。するとどうやらロウの皿の肉と自分の皿の肉を見比べて、大きい方をロウに渡しているようだった」
まあ、と思わず声が出る。
「一度さりげなく理由を聞いてみたこともある。それとは言わないように、何か嫌いなものでも入っていたかと訊ねてみたんだ」
「そしたら、なんて?」
「『戦闘でカバーしてくれたから、ご褒美』なんだそうだ。まるで忠犬のような扱いだと思ったが、あれはリンウェルなりの感謝の表し方なのだろうな。それとは知らず、ロウが『俺の肉の方が大きい、ラッキー』なんて言って、リンウェルを怒らせていたよ」
何故怒らせたのか、ロウは分からなかっただろう。頭の上に疑問符を並べる顔が浮かぶようで、ついふふっと笑ってしまう。
そんな日常を何度も繰り返しているのだ。これはもう十分大事にしていると言っていいはずだ。
「人とモノでは違うかもしれないが」
キサラが視線を手元に向けたまま微笑む。
「大事にするというのは、長く関係を続けるための努力なのかもしれないな」
そう言って糸を切ると、そこにはきれいに繕われたテュオハリムのマントがあった。
◇
「はあー、さっぱりした!」
フル! と羽を震わせるフルルを肩に宿の浴場を出ると、ちょうど男湯の方のドアも開いた。
「お、リンウェル」
出てきたのはどうやらロウだったようだ。昼間とは違って萎びた髪をしていたので一瞬誰なのか判断がつかなかった。
ロウは辺りをきょろきょろと見回した後で、
「今日はありがとな。おかげで助かったぜ」
と言った。
それが何のことを指しているのかはすぐに分かった。夕飯の当番を代わってあげたことへの感謝だ。
「ま、まあね。私ってば気が利くでしょ」
素直に「どういたしまして」で済むものを、なぜかこんな言葉を選んでしまう。鼻なんか鳴らしたところで誰もいい気持ちにはならないのに。
「おう、リンウェル様様ってな」
それなのにロウはそんなことを言った。こちらの言葉選びなんて微塵も気にしていないようだ。
「それで、埋め合わせはどうする?」
「埋め合わせって?」
「今日代わってくれただろ。お前の分も代わってやる」
そういえばそうだった。もとよりそのつもりで代わったのだった。でもなぜだろう、今は別にそんなの必要ないと思う自分がいる。
「いいよ、代わらなくても」
「へ?」
「恩着せたかったわけじゃないし」
初めこそちょっとその気はあったけれど、今は違う。例えそうだったとしても、根本にあるのはもっと違う気持ちだ。代わってあげようと、そう思ったのは――。
「……だ、大事だから」
「大事って、何が」
「み、みんなの夕飯が大事なのに決まってるでしょ!」
バカ! なんてまた暴言を吐いてしまって、自己嫌悪に陥る。その場を離れて階段を急いでのぼって、逃げたみたいな気持ちになって、そこでも再び自己嫌悪。ああもう、そうじゃないのに。そんなことが言いたいんじゃないのに。
どうにも難しい。この世で一番難しいのは、大事なものを大事にすることでも、大事に思うことでもなくて、大事なものに大事だと伝えることなのかもしれない。
終わり