別れを選んだその後のロウリンのお話。ビターエンドというかほぼ悲恋です。お互い以外の相手との恋愛描写があります。
喋るモブ/捏造/その他諸々何でも許せる方向け。(約4,600字)

指環

 終わった恋、あるいは終わりすら迎えられなかった悲しい恋が辿り着く先は、皆等しく別れなのだという。
 それも当然か。恋は生涯を通じて想いを遂げるか、駄目になるかの二択しかないのだから。後者の行き着く先が、別れ。前者にしたって死別という言葉があるように、気持ちは変わらなくとも肉体的には別れを告げなければいけないから、いずれにしろ恋の果てには別れがあるのかもしれない。
 それでも、敢えて別れを選んだ私たちの恋は決して終わったわけでも、悲しい恋だったわけでもなかった。一言で表すのは難しいけれど、端的に言えば「戻った」。交際を始める前の私たちに、仲間であった頃の私たちに「戻った」だけだった。
 あれが私の初恋だった。そう口にすればなんとなく気恥ずかしい思いがこみ上げてくる。それほどにはお互い何もかも慣れていなくて、何も知らないまま始まった恋だった。
 自分の中にいる一番近しい存在がロウだった。仲間内の年齢という意味でも、いつもそばに居るという意味でもロウが一番近かった。
 ロウにはいいところがいっぱいあった。真っすぐなところ、意外と人を見ているところ。嘘がつけないところも、長所と言ってもいいと思う。
 でも同じくらい、悪いところもあった。デリカシーもなければ、頭もあまり使わない。意外と悩み始めたら止まらない部分もあって、無遠慮で無鉄砲で無教養で――、と考えたら正直きりがない。
 いいところも悪いところも全部含めて、私はロウに恋をした。信じられない気持ちが無かったと言ったら噓になる。何せ相手はあのロウなのだ。それまで思い描いていた理想とはまるで逆の存在と言ってもいい。
 それでも心に嘘はつけない。いくら視線を逸らしてみても、距離を取ってみても、私の心はロウに向いていた。どうしようもなく恋だった。生まれて初めて抱いた感情のはずなのに、そう断言出来てしまうなんて恋とは実に不思議なものだ。
 何をどうしたのが良かったのかは分からないが、驚いたことにロウも同じ気持ちだった。旅を終えて1年くらいが過ぎた頃のことだ。街で買い物に付き合ってもらった日の帰り道に、ロウは突然立ち止まった。その顔が赤いのは夕陽のせいではないと気づいた時、私はロウの言いたいことが手に取るように分かった。でもそれは本当に言葉となって出てくるまでは分からない。願いと祈りを交互に繰り返しているうち、やがてロウが発した言葉は、私が心から待ち望んでいた言葉そのものだった。
 そうして始まった恋の何が駄目だったのか。いや、駄目だったのではない。互いを見つめ合うよりも一緒に空を見上げる方が、キスをするよりもおしゃべりをする方が自分たちには合っていた。ただそれだけのことだ。
 関係をリセットして疎遠になる人たちもいるだろうが、私たちは違った。本当にあの頃に戻ったみたいだった。時間を巻き戻したのではないかと錯覚したほどだ。
 その裏には結構な努力があったのではないかと思う。私にもその覚えはあるし、ロウもきっとそうだった。言い換えれば、それほどまでに手放したくない関係だったともいえる。一緒にいるときの心地良さは、ほかの誰とも代替できるものではなかった。
 そうして紡がれた絆は今も途切れることはない。お互いに恋人ができた現在もその関係は続いていて、もはや互いの恋人を含めて4人で食事をすることだってあるのだから、人生とは分からないものだ。

   ◇

 鍵を開けて家に入った。ドア近くのランプに明かりを灯すと、淡い光が辺りをぼんやりと照らし出す。
 上着も脱がずに寝室へと向かうと、私はベッドへと身を投げ出した。彼が帰ってくるまであと半刻か、それ以上はかかるだろう。
 ゆっくりと目を閉じて頭の中に思い描いたのは、今夜のことだ。帯のように連なる記憶の中からその断片を拾い上げては、何度も何度も同じ場面を再生する。
 そうしておかなければならないと思った。はっきりと思い起こせるうちに、まだその熱が残っているうちに。そうしてこの記憶が記憶でなく、自分の身体の一部となるのを期待した。失いたくないのではなく、失ってはいけないものとなるまで、何度も繰り返しその光景を頭に呼び起こした。

 今夜は4人で食事をした。私と私の恋人、ロウとその彼女でヴィスキントの居酒屋に行った。
 店に入ると、ロウたちは既に着いていた。こちらに気付いて大きく手を上げたのはロウと交際している彼女だった。
「リンちゃん、こっち!」
 久しぶりだね、と人懐こい笑みを見せる彼女は私と同い年で、ヴィスキントのパン屋で働いている。甘いものが好き同士すぐに仲良くなり、今では新しいお店ができたら二人で待ち合わせて食べに行くほどだ。
「遅えぞ、腹減った」
「ごめんごめん。仕事がちょっと長引いたんだ」
「珍しいな。研究者ってもっと自由なのかと思ったぜ」
「自由だから長引いたとも言えるな」
 疑問符を浮かべるロウの隣に座ったのは私の恋人だった。彼とは交際してもうすぐ3年になる。優しくて穏やかで頭もいいのに、どういうわけかロウとも馬が合うらしい。年齢で言えば私の5つ上、ロウの3つ上だが、あまりそうは感じさせない気さくなところが良かったのだろうか。
 乾杯、と言ってグラスを合わせると食事会が始まった。といっても各々が好きなものを食べて、おしゃべりをするだけのささやかな食事会だ。
「今日は何頼もっか。リンちゃん何にする?」
「新しい料理あるみたいだよ。期間限定だって」
「それいいね。リンちゃんは辛いの大丈夫だった?」
「激辛じゃないなら大丈夫かな」
 そう言った私に、ロウが横から「おいやめとけ」と口を挟んできた。
「お前、中辛でも泣きそうになるだろ」
「一口食べてみたらどうだ? 食べられなかったら俺たちで食べればいいし」
「そうやって甘やかすのが良くないんだぜ」
「お前だって野菜残してるだろ。それと変わらない」
 まあ確かに、とロウが納得して決着はついた。ついでにと頼んだサラダが運ばれてくると、ロウはあからさまに嫌そうな顔をしていて、それを見てまた皆で笑った。こういった空気は穏やかでとてもいい。
 例の料理は案の定凄まじい辛さだった。スパイスのあまりかかっていない端っこを摘まんで食べただけなのに、舌が痛くて涙が出そうになる。
「ほら言わんこっちゃねえ」
 呆れた顔をしながらも、水を渡してくれるのがロウの優しさでもある。それを口に含み、ぐっと飲み干すと痛みは少しだけ和らいだ。
 篭った熱を逃がそうと手で顔をぱたぱた扇いでいると、左に座っていたロウの彼女がこちらに視線を留めた。
「あれリンちゃん、それ」
 その目は私の左手に向いていた。正しくは、左の薬指、の付け根。そこで控えめに光を放つのは銀の指環だった。
「あ、これ? これはね、」
 貰ったの、と視線を右に送った。彼がにこりと愛想のいい笑みを浮かべる。
「えっ、ひょっとして、もしかして、そういうこと? そういうことなの?」
 なんと言っていいか分からず、私は「まあそうなるのかな」と笑った。
 彼がこれをくれたのは先週のことだった。いつもよりもちょっといいお店で食事をした後で、フクロウのお守りと一緒に渡された。それが意味するところは私も彼も当然知っている。
 それを今私が身に着けているということは、彼女の言う通り、つまりはそういうことだった。具体的なことはまだ何も決まっていないが、そういう約束をしたということだ。
「うわあ、ロマンチック! いいなあ、そういうの憧れちゃう」
 おめでとう、と目を細める彼女に、私はありがとう、とお礼を言った。
 再び込み上げてくる頬の熱を手のひらで鎮めながら、私は彼女からの「いつ貰ったの?」「どこで?」といったプライベートな質問に答えていった。彼女の目の輝きからそれがただの好奇心によるものと分かるので、悪い気持ちにはならなかった。質問に一つ回答するたび、彼女がわあっと声を上げ、それを聞く彼も横でにこにこと笑っている。
 ふとその視界の端で身動き一つしないものがあった。
 ロウが私の左手を見つめていた。まるでそこだけ時間が止まっているかのようだった。ロウは頬杖をついたまま瞬きすらせず、ただじっとこちらを見つめている。
 私と目が合うと、ロウは一瞬はっとしたような顔をしてすぐさま目を逸らした。そして何事もなかったかのように言った。
「良かったな、こんないい奴に拾ってもらえるなんて儲けもんじゃねえか」
「何その言い方。素直におめでとうって言えばいいのに」
「へいへい、おめでとさん」
 彼女に小突かれたロウは小さく笑みを浮かべた。その後、ロウが私の左手に視線を向けることはなかった。
 会がお開きになる頃、あっと声が上がった。その出所はロウの彼女で、どうやら財布を勤め先に置いてきてしまったらしい。
「お店すぐそこだから、探してくるね」
「俺も行くか?」
「ううん、大丈夫。待ってて」
 ぱたぱたと彼女が駆けていくのを見送っていると、まとめて会計を済ませた彼が戻って来た。その表情は何やら浮かない。
「どうしたの?」
「悪いけど、先に帰ってて。そっちに研究所のお偉いさんがいて、見つかっちゃったんだ」
 ご機嫌を取っておかないと、と小声で言うと、彼は申し訳なさそうに手を合わせた後で店の奥の方へと消えていった。
 とりあえず出ようかと言ったのは私だった。店の前で待っていれば、ロウの彼女も自分たちを探さなくて済む。
 外に出ると空には星が瞬いていた。思わず数えたくなってしまうほど、そのひとつひとつが強い輝きを放っている。
 隣ではロウが同じように空を見上げていた。私と同じく数を数えているのか、あるいはただぼんやりとそれを瞳に映しているだけなのか。
 そこで私は、自分がそこにいなくてもいいということに気がついた。ロウの彼女を待つのはロウだけでいい。自分が同じように店の前に立つ必要はない。
「先に帰るね」
 そう言ってロウに背を向けた瞬間、
「リンウェル」
 がくんと視界が揺れた。
 振り返るとロウが私の左手を掴んでいた。突然のことに驚いたが、その手のひらの熱さにも一瞬声が出なかった。
「……どうしたの?」
 視線を持ち上げると、ロウと目が合った。深い色をした瞳がこちらを見つめている。
 ロウは何かを言いかけて、
「いや、なんでもない」
 と私の手を離した。
「気ぃつけて帰れよ」
「うん、ありがと」
 じゃあね、と言って、私はまだ騒がしい繁華街を後にした。ただの一度も振り返ることもなく、家までの道をひとり歩いた。

 カーテンが開いたままの窓からは星明りが差している。それがちょうど自分の顔に当たって、目を閉じていても眩しいくらいだ。
 脳内で繰り返している光景はまだ鮮明だった。
 私の指を見つめるロウの瞳。帰り際、何かを言いかけた唇。
 何もかも分かる。やはり手に取るように分かってしまう。ロウが何を言わなかったのか、どうして言わなかったのか。
 言葉とはならなかったそれらを、もう待ち望んだりはしない。それでも、この心の中に秘めておくことくらいは許してほしい。
 瞼の裏で再びロウが私の指を見つめた。私の腕を掴んで何かを言おうとした。繰り返し繰り返し、その光景を痛いくらいに焼き付ける。
 そうしてまた確信する。私はこの先、どんなことがあっても生きていける。ロウのその後悔だけで、一生暮らしていける。
 胸を締め付けるような思いは最近どこかで感じたような気がした。薬指に嵌った指環が、暗闇の中で少し重さを増した。

終わり