「寂しい」を伝えるにはどうすればいい? ふとした瞬間に見つめてみるとか、手を握ってみるとか? あるいは思い切って「寂しい」と心のままに口にしてみるのも一つなのかもしれない。
けれど、そのどれも私にはできそうにない。だって、私は素直じゃないから。ロウにだけ素直になれなくて、本音を言うことができない。弱音を吐くのは特に苦手だ。
それに「寂しい」と言えば、きっとロウを困らせてしまうだろう。余計なことで気を揉んでほしくないという表向きの理由を言ってみたところで、実際はわがままを言って嫌われたくないなんて身勝手な本心を隠しているのだからどうしようもない。
結局自分はプライドが高いばかりか自己中心的で意地っ張りで、情けないところは見せたくないくせにその実臆病な、虚勢で膨らみに膨らんだ風船みたいな奴なのだ。
ロウはもうすぐカラグリアへ向かう。〈紅の鴉〉の皆に頼まれて、復興の手伝いに行くことになった。期間はとりあえずで1か月。それから延びるかどうかは分からない。ロウと他の皆の頑張り次第、ということらしい。
この件について少し前にロウから相談を受けた。こういう話が出てるんだけど、と切り出したロウに、私は迷うことなく「行ってきなよ」と言った。ロウが故郷に対して後ろめたい気持ちがあるのを知っているからこそ、こういった機会を逃さない方が良いと思ったのだ。
「ありがとな」と口にしたロウの表情は、どこかほっとしていたようにも見えた。こうして誰かから背中を押してもらえるのを期待していたのかもしれない。それが自分であったということには喜ぶべきなのだろう。ロウがそんな大切な話をしてくれる相手に選ばれたということなのだから。
そう、喜ぶべき、後押しすべき。これは必ずロウのためになる。私の個人的な感情で引き留めるなんてことはあってはならないのだ。
朝から風の強い日だった。窓ががたがたと鳴って、空にはねずみ色の雲が広がっている。まだ地面は濡れていないとはいえ自分が外に出た瞬間に雨が降りだすんじゃないか。こういう空を見ていると、そんな不安に駆られる。
一応雨具を携えて外に出た。幸い空に自分の居場所は知られていないようで、まだ雫は落ちてこない。今のうちだと言い聞かせて足を急がせた。二つ目の角を曲がって、大きな通りに出る。
こんな日に街に出たのにはもちろん理由がある。夕飯の買い出しのため市場に向かうのだ。せっかく料理を振る舞うのなら、食材は新鮮な方がいい。
市場に着くと、懐からメモを取り出す。いつもなら目についたもの、思いついたものを適当に買うのだが今日は違う。メニューはあらかじめ考えてあって、それになぞって買い物をすることに決めていた。今夜だけは失敗するわけにはいかない。買い忘れの一つも許されないのだ。
野菜、果物と順番に見て回って、最後にメインとなる牛肉を購入した。奮発したとはいえ、こればっかりは自己満足と言わざるを得ない。今日の訪問客はこれを手軽な豚肉に変えてみたところでおそらく気づきもしないし、それどころか「美味いなこの鶏肉!」とさえ言う可能性がある。それでもいい。恋人が満足してくれるのなら、それで充分だった。
こうしてロウに料理を振る舞うのは初めてのことではない。これまで何度も、交際を始める前から家に招くことはあった。食事を一人分だけ作るのはなかなか難しいとか、二人分も変わらないとか、そんな見え透いた建前を言って誘ったのは私の方だった。期待をしていなかったと言ったら嘘になる。ロウの方から言ってくれないかと願っていた。私たちの関係を変える、一言を。
そうはいってもロウはロウだ。私の気持ちになんかまったく気づいていない様子で、用意した料理を毎回美味い美味いと平らげて帰っていった。その背中を見送って溜息をつきながらも、それでもいいかと思い始めていた。ロウが私の料理を美味しいと言ってくれるだけでも満たされたのだ。
そうしてその時は不意に訪れた。ロウが家にやってきて、一緒に夕飯を食べた後の帰り際の一言だった。
「できればこの先もずっと、お前の料理が食べたいんだけど……」
それじゃあまるでプロポーズだ、と思いながら、私は笑って頷いた。大きく大きく、何回も頷いたのだった。
あれからまだひと月ほどしか経っていない。それなのに、ロウはカラグリアへ行ってしまう。しばらくは私の料理を食べに来ることもなくなる。
だから今夜はとびきり気合を入れて食事を作ることにしたのだった。明日の朝ヴィスキントを発つロウに美味しいものを食べていってほしかった。私の料理の味を覚えておいてほしかった。
家に帰ると仕込みを始めた。今夜はハンバーグにしようと決めていた。私が作る料理の中でも特にロウが好きなメニューだ。
そうして出来上がった夕飯はなかなかに見栄えが良かった。味も悪くないと思う。キサラに習ったソースはかなり美味しく仕上がった。
ひとり、部屋でロウを待ちながらぼうっと考える。明日からはロウにしばらく会えない。カラグリアとメナンシア、世界の端と端ではないけれども、ふと会いたいと思って会いに行ける距離でもない。夕飯作りすぎちゃったから食べに来て、なんて軽く誘うこともできない。
ひと月という期間も果てしない時間のように思えた。ひと月と言えばロウと交際を始めてからの時間に相当するけれど、あれから私たちはとても濃い時間を過ごしてきた。一緒にいると楽しくて、できるだけそれが長く続いてほしくて、時間をなんとかひねり出そうと努力したこともあった。それと同じ時間ロウに会えないだなんて、ちょっと想像がつかない。想像がつかないから、怖い。
楽しいことがあってもそれを聞いてくれるロウはいない。悲しいことがあっても、慰めてくれるロウもいない。ロウがそばにいないということが怖い。それを伝えられないでいるのも、苦しい。
またちょっと鼻の奥が痛くなってきた。ここ最近はひとりでいると頻繁にこうなってしまう。奥歯を噛んでぐっと堪えると、こみ上げてきたものはどこかへ消え去っていった。これで大丈夫。今夜だけは何があっても泣かないと決めていた。
約束の時間通りにロウはやってきて、私の料理を見て歓声を上げた。「すっげえ嬉しい」と抱きしめてもくれた。腕の力が強くて、胸が苦しくなった。
食事を摂りながらカラグリアの話を聞いた。出発は明日の早朝で、荷馬車に乗せてもらうらしい。途中でシスロディアで休憩を取りながらカラグリアのウルベゼクへ向かう。そこで〈紅の鴉〉の皆と合流して翌日から作業に入るのだそうだ。
「俺、ちゃんとやれんのかな」
「大丈夫だよ。知らない人ばかりじゃないんだし、皆頼りになるでしょ?」
「まあ、そうなんだけどよ」
弱気になっているロウは久々に見た。皆の前では明るく振る舞うことが多いロウも、本当は悩んでいたり落ち込んだりする。あまり人には見せないそういった姿も私には隠さないでいてくれて、私はそれが嬉しかった。自分が特別な存在だと言われているような気がするのだ。
「不安も当然だと思うよ。環境も変わるしね。ひと月だけでも大変だけど、お互い頑張ろうよ」
カラグリアとメナンシアで、と言うと、ロウの瞳がじっとこちらを見つめた。
「お前は大丈夫なのか」
「大丈夫って、何が?」
「……いや、やっぱなんでもない」
ロウはそう呟いて、デザートのアイスクリームをスプーンで口に運んだ。
食事を終えて二人で食器を片していると、ロウが言った。
「今日はもう帰るわ」
「えっ」
ロウの言葉には驚いた。時刻はまだそこまで遅くない。いつもロウが帰る時間よりずっと早い。
「明日の準備もあるし、早寝しねえと」
「そ、そうだったね」
そうだ、ロウの出発は早朝だ。寝坊するわけにはいかない。
「悪いな。今日も美味い料理作ってくれてありがとな」
「ううん、いいの。気を付けてね」
ドアのところまでロウを送る。ノブに手をかけたその背中が何故だか物悲しく見えた。
ロウがドアを開けようとしたそのとき、私は無意識にロウの上衣の端を掴んで、引き留めてしまっていた。驚いたような顔でロウがこちらを振り返る。
「あっ、え、と、ちがうの」
咄嗟にそんなことを言ったけれど、何も言い訳になっていない。何とか取り繕おうとして、視線があちこちへと泳ぐ。
「どうした」
顔を覗き込まれて、ロウの真っすぐな目が私を真ん中に捉えると、途端に視界が歪んだ。鼻の奥の痛みなんか一切経由せず、一気に熱いものが溢れ出す。せき止める隙さえないそれは一旦ぽろぽろと零れ始めるともう止まらなかった。
滲む視界の中にロウの心配そうにしている顔があった。戸惑い、ちょっと狼狽えているようにも見える。
違うの、これは。なんでもないの。
そう言いたいのに、涙が邪魔をして上手く声にならない。よりによって今このタイミングで泣くなんて、最悪だ。
「リンウェル」
そんな声で呼ばないで。堪えていたものが溢れちゃうから。雫を拭う手のひらは濡れてずるりと滑ってしまう。
「もしかして、寂しいのか」
図星を突かれると、もう頷くことしかできなかった。頬を伝った涙がぽたぽたっと床に落ちる。
ああもう、なんて情けないんだろう。ロウを困らせたくないのに。嫌われたくないのに。それが何より一番怖いのに。
ごめん。そう言おうとしたとき、ロウが私の頭を撫でた。
「よかった……」
心底安堵したような声だった。実際、ロウは胸を撫で下ろしている。良かった、とは。それは一体、どういう意味なのだろう。
「お前、俺がカラグリア行くって言っても全然平気そうだったし……むしろ背中まで押されて、もしかして俺っていない方がいいのか? とか思っちまったぜ」
「そんなわけない!」
咄嗟に大きな声が出て、恥ずかしくなった。耳がかあっと熱くなる。
「そんなわけ、ないでしょ。寂しいよ、ロウに会えなくなるの」
ようやっと吐き出せた本音には声が震えた。伸びてきた腕に抱き寄せられると、ひどく安心した。
「俺も寂しい。お前といるの楽しいし」
腕に力が込められて、ロウとの距離がいっそう近くなる。
「けど、行くって決めたのは自分だろ。寂しいとか言ってちゃ情けないとか、自分勝手だとか思ってたけど、それも違うよな。好きなやつと離れるのに寂しく思わない方がおかしいだろ」
ロウの言葉ももっともだと思った。ロウを応援したい、故郷の手助けをしたいと思う気持ちと、自分たちが離れて寂しいという気持ちは矛盾するものではない。むしろそう思って当然。私たちはお互いを想い合っているのだから。
そう思うと、心がふっと軽くなった気がした。寂しく思うのは好きだから。好きだという気持ちが強い分だけ、寂しさも募る。それならば、この気持ちを伝えることもきっと許される。寂しさは好きの裏返しなのだ。
「寂しい」
「おう」
「ロウと会えなくなるの、寂しいよ」
「俺も。できればお前を連れて行きたいくらい」
それはちょっと恥ずかしいかな、と私は笑った。シオンたちのように結婚しているならともかく、付き合い始めてまだひと月足らずの私がロウについていくのはどうしても周りの目が気になってしまう。
「俺は別にいいけど。家に帰ったらお前の料理が食えるんだぜ。最高だろ」
そんなことを言われて嬉しく思わないはずがない。私は腕をもう一度ロウに巻き付けると、それにぎゅっと強く力を込める。大きく息を吸い込むと、ロウの匂いがした。
「なあ」
不意にロウが言った。
「キス、していいか」
突然のことに驚いて、心臓が飛び跳ねた。たちまち顔が熱くなるのを感じて、言葉に詰まる。
断るつもりは一切なかった。うん、と頷いて目線を上げると、同じく顔を赤くしたロウと視線がかち合った。
ゆっくりと近づいてきたロウの顔に、何も言わず目を閉じる。瞼の向こうで唇に柔いものが触れた。と思うと、それは一瞬にしてどこかへ離れていってしまった。
目を開けると、先ほどと変わらず真っ赤な顔をしたロウがいた。そうして目が合った瞬間、私たちは二人で笑い合った。
「時間見つけて会いに来る。また美味いメシ作ってくれよ」
「うん。私もカラグリアに行く。料理作りながらロウが帰ってくるの、待っててあげる」
体を預けると、今度はロウの腕が私をぎゅっと抱き締めた。強く強くそうされて、募った寂しさもちょっとだけ和らいだような気がした。
それでもこの寂しさはまたいずれ膨らんでしまうのだろう。仕方がない、私はロウが好きなのだから。
膨らみすぎたら、飛んでいこう。ロウのいるカラグリアまで。
私は風船。張りつめたあの日の自分は、もうどこにもいない。
終わり