カラグリアに向かうロウとの別れを前に、想いを告げられなかったことを悔やむリンウェルの話。第1回ロウリンwebオンリー展示文章。(約4,600字)

翠雨

 レナの星霊を打ち倒したあの日、双世界は一つとなった。
 レナ人はレネギスという慣れ親しんだ住処を失いはしたが、その穏やかな融合はそこに住まう人々の命を奪うことなく、寧ろ新たな歴史をつくりだせと言わんばかりに真っ新なキャンバスが用意されていた。リンウェルたちが目覚めたとき、そこには豊かな星霊力が溢れ、目の前にはまるで見たことのない景色が広がっていたのだ。
 テュオハリムとの約束通りアルフェンはレナ人がダナ人と同じ大地に住むことができるよう尽力し、それは徐々に実りを見せている。シオンはそんなアルフェンを隣で支え、会えばいつもきらきらと輝く笑顔を見せてくれる。〈荊〉があったあの頃のシオンはもういない。
 キサラはと言えば、ヴィスキントでメナンシアのさらなる発展のために日々忙しなく動いている。その一方で念願だった釣り堀の完成が間近となり、最近では宮殿と現場の間を一日に何度も行ったり来たりしているらしい。テュオハリムが戻ってきたらそれを見せて驚かせてやるのだ! と息まいていたが、テュオハリムもレナ人の多く暮らす街の方で休憩を取る暇もないほど忙しくしているというのだから、それはもう少し先の話になりそうだ。
 リンウェルはあの後ヴィスキントで暮らすことを決めた。遺物や古代ダナの研究をしたかったというのは勿論、そこに研究室を設けるから是非とも所属してほしいとテュオハリムに頼まれたのだ。宮殿の図書の間の本も気になっていたし帰る当てもないと、リンウェルは断る理由もなく二つ返事で了承したのだった。
 調査に研究、そしてたまに街の外に出て”はぐれ”ズーグルの討伐に協力する日々は忙しくも楽しく、あっという間に時間は過ぎていった。気が付けばあれからもう3年が経っていて、リンウェルはついこの間17歳の誕生日を迎えた。
「はやいなあ」
 リンウェルがついたため息はテーブルの上のグラスに当たって、隣でハンバーグを食べていたロウにぶつかる。
「何がだよ?」
「うーん……全部」
 月日が経つのも年齢を重ねるのも、ロウがご飯を食べるスピードだって早い。
「もっと落ち着いて食べなよ」
「んなこと言ってたら冷めちまうだろ」
 肉は熱いのがうめえんだ! とロウはデミグラスソースをたっぷり付けた肉を頬張っている。冷たい馬刺しだって美味い美味いと食べるくせに。
 リンウェルがこうしてロウを横目で見ているうちにも時間は過ぎていく。この後陽が落ちて暗くなったら、ロウとは部屋の前で別れることになるのだろう。
 昨日までは何も感じていなかったが、今ようやくリンウェルには実感がわいてきた。明日から暫くロウに会えなくなることがどんなに寂しいことなのか、少し想像がついてしまった。
 ロウはあの決戦の後もリンウェルと一緒にメナンシアに残ってくれた。それが彼の目的からなのか、それとも別に理由があったのかはわからないが、とりあえずヴィスキントを拠点にすると聞いたとき、リンウェルは素直に喜んだ。
 旅をしている中で一番歳の近い存在ということもあって、ロウのことを少しずつ気にはしていたが、それはきっと一緒に過ごした時間が一番長いからなんだろうとリンウェルは一人で勝手に決めつけていた。
 だがそれはヴィスキントで新たな生活を始めるうちに、大きな勘違いだったのだと気づく。
 リンウェルはつい、街や広い宮殿の中でその影を探してしまっていた。
 特に話があるわけでもなければ頼みたいことがあるわけでもないのに、なんとなくその姿が見えないと落ち着かない。当然ロウだって他に仕事を請け負ったりしているのだから、一日中街の外にいることも多かったのだが、そんな事情もお構いなしにリンウェルの心はロウがひょっこり現れてご飯を一緒に食べようと誘ってくれやしないかとどこかで期待してしまっているのだった。
 その一方で自分からは何も言わないのが自分の狡いところだとリンウェルは思う。いつだって声をかけてくれるのはロウからで、リンウェルはそれを待ち受けるのみだ。薄々ロウの気持ちにも気づいていたのだと思う。少なからず自分のことを大事に思っていてくれて、だからこうして目を掛けてくれているんじゃないかと、そうやってただ甘んじていた。
 活動範囲を広げようと思う、とそんな意味のことを言われたのはつい1週間前ほどのことだ。ショックを受けたのか、その時のことは今でもあまり思い出せない。ただ、そっか、とか頑張ってね、とか当たり障りのないことをなんとか絞りだした記憶だけがぼんやり残っている。
 ロウの気持ちが離れたのだと思った。押しても手ごたえのない自分に愛想が尽きたのかもしれない。
 どっちにしたってロウの決意は変わらない。何もできず、何もしてこなかった自分ではもうロウを引き留めることはできなかった。
「じゃあな、ちゃんと寝ろよ」
「うん……」
 部屋の前まで送ってくれたロウはいつもと何ら変わらない顔でリンウェルに手を振った。その背中が小さくなるのが見たくなくて、リンウェルはすぐに部屋へと入ってしまう。
「……私、馬鹿だなあ」
 リンウェルはドアを背に崩れ落ちる。
 こんなにも寂しいのにそれを伝えることもできないなんて。こんなに苦しいなんて。
 これは罰だと思う。今までロウに甘えてきただけの自分への罰だ。今まで想いも感謝も伝えるチャンスはいくらでもあったはずなのに。一番大事なことを言わずに何をしてきたのだろう。
 そして心のどこかで、ロウの意気地なしとも思っている自分がいる。何もできなかったのは自分なのに、最後までそれをロウになすりつけようともしている。
 最低だ。こんな自分をロウが好きになってくれるわけがない。
 涙を流しても時間は巻き戻らないし、これまでの自分の行いを消せるわけでもない。ただこの心にしょっぱい涙が沁みて、その傷の痛みを感じられるのが心地良くさえあった。リンウェルはどこまでも都合のいい自分に辟易しながら、冷たい夜の暗さの中で涙を止めようとは思わなかった。

 泣けばすっきりするというのは間違いではなくて、リンウェルが朝を迎える頃には涙も止まり心も幾分か落ち着いていた。それが諦めからくるものだと気づいてもいたが、最後の最後に約束をすっぽかすわけにもいかない。もうすぐロウの出立の時間だ。
「リンウェル」
 ロウは部屋の前まで迎えに来たが、その背にはいつもよりも大きな荷物が見える。逆に世界を巡るのにそんな準備で大丈夫なのかと疑いたくもなる量だったが、きっと余計なものを削ぎ落した結果なのだろう。
「とりあえずカラグリアだっけ?」
「おう、ネアズの手伝いからだな」
 いつだって人手が足りないと嘆いている〈紅の鴉〉は、ロウが来ると聞いて沸いたらしい。本人はどんな雑用をさせられるのか戦々恐々としていたが、おそらくそんなに悪い待遇ではないだろう。
 ヴィスキントの街を歩く中で二人はいつも通りとりとめもない話を繰り広げる。リンウェルは話が途切れないように努力もした。沈黙が流れれば一晩かけて堰き止めたものが一気に溢れてしまいそうだったし、それでロウを困らせるのも嫌だった。
 送るのは門まででいいと言うロウに対してリンウェルは街道まで行くと言い張った。二人で歩く距離が長引けば長引くほど別れが名残惜しいものになるとはわかっていながら、どうしてもまだすっきりと笑えそうになかったのだ。
 リンウェルはロウの半歩先を行く。少しでもその歩みを遅らせたくて、僅かに足を鈍らせながら、街道を進んでいく。
「雨でも降ればいいのに」
 リンウェルが呟いた言葉は雲一つない空に溶けて消えた。
「雨?なんでだよ、そんな日に外歩きたくねえだろ」
 ロウならきっとそう言うだろうと予想していた。
 ここで周りの木も草も吹かれるくらいの雨がざあざあと降って、やっぱ出発は明日にするわ、なんて言ってくれれば最高だ。そしてその次の日も、またその次の日も雨で、それがずっと続けば――。
「……お前、なんて顔してんだよ」
 奥歯を強く噛み締めるのに必死でロウの言葉に返事もできなかった。前を歩くことで表情を隠していたのに、わざわざ覗き込まれたら、それももう意味がない。
 普段は鈍感なのにこんな時だけロウは鋭い。皆に気づかれないようなこともロウには何故かわかってしまう。
 それならばどうしてこの気持ちに気づいてはくれなかったのかと思わなくもないが、リンウェルだってわかっていて黙っていたのだから、どの口が言う、というやつだ。
 こんな時、素直に泣けたらどんなにいいだろう。
 涙をぽろぽろ零して「行かないで」なんて言えたら、少しはロウの心を揺るがすことも出来るのではないか。
 ロウを困らせたいのかそうでないのかリンウェルにはもうわからない。ただ今のリンウェルの心の中はぐちゃぐちゃで、その表情はこわばったまま泣くのを堪えている。
「ああもう、」
 ロウが苛ついたように言ったのとリンウェルの手が引かれたのはほぼ同時で、次の瞬間にはリンウェルはロウの胸の中にすっぽりと収まっていた。力強く引き寄せたくせに、その腕はどこか遠慮がちで、リンウェルにそっと触れているだけで、ひどくもどかしい。
「こんなこと言うつもりなかったけどよ……気が変わった」
 ロウはリンウェルの手を握りながら正面に向き直ると、その翡翠の瞳でリンウェルを捉える。
「お前に、待っててほしい」
「勝手に出て行くのに、都合のいいことだってわかってる。それでも、絶対お前を迎えに来るから待っててほしい」
 少し赤くしたロウの耳を見て、これが愛の告白なのだとようやくリンウェルは気づいた。
 ここでNOと言えばロウを永遠に失って、YESと言えばいつ帰ってくるかわからないロウを待ち続けることになる。どっちにしたって寂しい思いをするのは間違いない。
 狡い、とリンウェルは思った。自分だってロウの気持ちを知ってて待つようなことをしたが、ロウだってなかなかだと思う。ほとんど選択肢なんてないじゃないか。
ならせめて、とリンウェルは少し意地悪く笑って目を瞑る。
「へ……?」
 予想通り何の動きもないロウにその手を揺さぶってさらに催促をした。
「もう、ここまでしてるんだから、はやく」
 これってそういうことでいいんだよな?と狼狽えるロウに笑いそうになりながら、リンウェルはそれに沈黙で答えることにした。
 ふわっと前髪に風を感じると、唇にほんの一瞬柔らかいものが押し付けられる。不器用なロウらしいキスだなとリンウェルは思った。
「ロウからの迎えは待たない。でも、帰りは待っててあげる」
 リンウェルの言葉にロウは一瞬面食らったような表情をしたが、その意味はきちんと伝わったらしい。今度はきちんとリンウェルのことを抱き締めると、手を上げて街道の向こうへと去っていった。
 街道を一人戻りながら、都合のいいところとか狡いところとか、意外と自分たちは似ているのかもしれないとリンウェルは思った。元々そうだったのか、あるいは徐々にそうなってしまったのかはわからないが、少しロウとの距離が縮まるようで悪い気にはならなかった。
 とりあえず今度ロウが帰ってきたときのために、合鍵とベッドは必要かもしれない。部屋の大きさを考えるとベッド2つは置けないのでダブルベッドがよさそうだ。「おかえり」なんて言って合鍵を渡せばロウも驚くだろう。
 密かな企みを胸にリンウェルの足は少し軽やかだ。
 今日はいい天気だなと思うくらいには。

 終わり