「おーい、準備できたかー?」
ドアを一枚挟んで向こう、浴室の方から声が聞こえてくる。
「今行くってば!」
リンウェルは声を張って、ついに目の前の大きな紙袋を手に取った。半ば捨て鉢になってそれをすっぽりと被れば、底に開けた穴から頭が突き出る。ちらりと横を見やると、姿見にはひどくマヌケな格好をした自分が映っていた。肩が角ばっていて、胴体は四角い箱そのもの。まるで街道の農地にあるカカシみたいだ。付いているのが人間の頭で下から二本の足が生えているあたり、こちらの方がもっと不格好かもしれない。
気恥ずかしさをこらえて浴室に向かうと、開け放たれた扉の奥には小さな椅子がぽつんと置いてあった。下には布が敷かれ、傍らには水の入った霧吹きが転がっている。すでに用意は整っているようだ。
「ぷっ」
そばに立っていたロウはこちらを見た瞬間小さく噴き出した。すぐさま顔を背けるものの、その肩は小刻みに震えている。
「わ、笑わないでよ!」
「悪い悪い。さすがにおかしくってよ」
ひとしきり笑った後で、ロウが席へと促した。それに腰掛けて前を向くと、浴室の鏡の中でロウと目が合う。
「じゃ、始めるか」
にかっと笑ったロウの右手には小ぶりのハサミが握られていた。指を動かすたびにシャキシャキという鋭い音がする。
このおかしな格好と、胸に走るわずかな緊張。何やら怪しげな儀式を前にしているような気持ちになって、リンウェルは思わず小さく息を呑んだ。
不器用であるということはとても不便だ。それは性格のことではなくて、主に手先を使うような作業のことである。
正直なところ、自分ではそういった自覚はほとんどなかった、とリンウェルは思っている。旅の道中でキサラに裁縫や料理を習っていてもそこまで苦労したことはなかったし、誰かに指摘されたりということもなかった。特別器用であるとも思わなかったけれど、不器用であるとも思っていなかった。
ふとそうじゃないかと思い始めたのは、旅を終えてから、一人で生活を始めるようになってからのことだ。服を擦って穴を開けた時、それを自分で繕おうとして気が付いた。これ、どうやって直すんだっけ。
キサラがそばにいた時は、分からないことはキサラに聞けばよかった。できないところはキサラに頼ればよかった。でも今は一人だ。キサラはいない。教えを乞いにわざわざ服一枚を持って宮殿に向かうわけにもいかない。
記憶を頼りになんとか直そうとしたが、どうにもならなかった。むしろ穴は広がって、とてもじゃないが外に着ていけるものではなくなってしまった。あの時の落胆といったら。クローゼットに掛かったその服を見ては数日落ち込んだ。
それだけのことならまだ技術がないだけ、と思って済ませたかもしれない。次にリンウェルを苦しませたのは髪の毛のアレンジだった。
何がきっかけだったのかは分からないが、ふと髪を編みこんでみたいと思った。鏡の前で前髪を手に取って、見よう見まねで指を交差させてみた。いつかシオンがそうしていたように。
ところが出来上がったのは、これまた外に出られないほどの何かだった。編み込みとかそういうものではない。むしろ寝ぐせか、誰かの悪戯に近い代物が出来上がってしまった。目の前に垂れ下がったそれを見て愕然とした。そして気が付いた。――私って、もしかして不器用なの?
そこからすっかりそういったことには手を出さなくなってしまった。髪の毛のアレンジはしない。繕い物もボタン付けや簡単なものだけ。衣服に穴が開いたら怖いので、いつでもどこでも細心の注意を払っている。
そうして過ごしてきたのに、今回はちょっとばかり不運が重なった。いつも髪を切り揃えてくれるのはキサラだったが、多忙なのかなかなか会えない日が続いていた。それでいて「まだいいか」と先延ばしにしたのは自分なのだから自業自得といえばそうかもしれない。約束を取り付けることすらできないまま時は過ぎ、それに伴って伸びた髪の毛は日ごと暑苦しさを増していた。ここ最近のメナンシアは気温の高い日も多くなっていて、毛先を結ぶだけではそろそろ我慢できなくなりつつあった。
会って早々、「随分髪が伸びたな」と言ったのはロウの方だった。
「そうなんだよね。いつも通りキサラに切ってもらおうと思ってるんだけど、なかなか時間が取れないみたいで」
「ああ、最近忙しいって聞くしな」
「そうなの。それにほら、ここ数日ずっと暑いじゃない? うっとおしいし、ご飯食べる時も結ばないといけなくて面倒っていうか」
溜息をついたリンウェルに、ロウはあっけらかんと言った。
「じゃあ、俺が切ってやろうか?」
「……え?」
「切り揃えるだけなんだろ? 難しいことしなくていいなら、そのくらいできると思うぜ」
ごく当たり前のことのように口にするものだから、面食らった。何を根拠にそんな自信ありげに言うのだろう。実績のあるキサラならともかく。
いつもの自分なら一蹴してしまっていたと思う。それなのに、今日はなぜかそうしなかった。この暑さと煩わしさに辟易してしまっていたのかもしれない。特に深く考えることもしないまま「じゃあお願い」と任せてしまったのだった。
今になってちょっと、いや結構後悔し始めている。こんな格好になっていることもそうだが、こうしてロウに髪を梳かれているのがとんでもなく恥ずかしいことのように思えてきたのだ。昨夜はもちろんシャワーを浴びて髪も洗った。汚れているとは思わないけれど、それでもなぜか羞恥心がこみ上げてくる。まるで秘密を探られてしまっているような、そんな気分になってしまう。
「あ、あんまり見ないでよ……」
「はあ? なんでだよ」
ロウはこちらの気持ちなどお構いなしだった。この乙女心が分からないなんて、だからロウはモテないのだ。
「見なきゃ切れねえだろ。それに今ちゃんと梳いておかねえと、切った時にバラバラになっちまうし」
そんなごく真っ当なことを言って、ロウは櫛を動かし続けた。いつになく真面目な顔をするものだからドキッとしてしまう。
「ほかに誰かの髪切ったことあるの?」
「誰かのっていうか、自分のだけどな。そういう体質なのかは知らねえけど、すぐ伸びんだよな。結構頻繁に切ってるぜ」
なるほど、とリンウェルはそこで合点がいった。だからあんなに自信満々だったのか。いつもそこそこ身綺麗にしているとは思っていたけれど、あれが自身で整えられたものだったとは。
ロウは時折霧吹きで表面を濡らしながら、リンウェルの髪を何度も何度も梳いた。そうしてようやく息を吐くと、「切るぞ」と言ってハサミを握り直した。
シャキ、という音と同時にはらりと何かが床に落ちていく。視線だけをそちらに移すと、黒い髪が散り散りになって宙を舞っていくのが見えた。
「ちょっと、切りすぎてない?」
「大丈夫だって、まだ何も変わってねーから」
そう言ってロウはテンポよくハサミを動かしていった。頭の後ろでシャキシャキと音がする。何が起こっているのかよく分からないけれども、その調子で髪を切っていったら自分もロウみたいな髪型にされてしまうのではないかと心配になった。
「前髪は? どんくらい?」
鏡の中のロウが訊ねてくる。
「ええっと……まあ、いつもの感じで」
「了解」
いつもの、なんてひどく曖昧な返答をしたのに、ロウはひとつも躊躇うことなく前髪にハサミを入れた。刃先を立てたり寝かせたりしながら小刻みに刃を動かして、少しずつ長さを調整していく。
「……このくらいか?」
どうだろうな、とぶつぶつ一人で呟きながら、ロウが目の前に回ってきた。これでは鏡が見えない。代わりに身をかがめたロウの顔が至近距離に迫ってきて、思わず目を伏せた。どうかロウにこの顔の熱が気づかれませんようにと願いながら、ぎゅっと強く目を閉じた。
「終わったぜ」
やがて息をつきながらロウが言った。鏡を覗いてみると、そこには見慣れた自分の姿があった。前髪が重たくない。肩に付くほどあった髪もきちんと短く切り揃えられていて、首のあたりがすうすうとした。
「すごい、やるじゃん!」
「だろ? って別に特別なことも何もしてねえんだけどな」
けらけらとロウが笑った。それでも充分すごい。きちんと以前の自分と同じ髪型になっている。きっと自分で切ってもここまで再現は出来なかっただろう。ロウは意外と人のことをよく見ているのだ。
もしかして、と思った。
「ねえ、前髪編むのできる?」
「編むって、シオンみたいにか?」
リンウェルが頷くとロウは再び前に回って、垂れ下がる前髪を手に取った。それを真剣な顔で分けたり払ったりしながらうんうん唸っている。時折額に触れる指が熱い。
その後ロウは何やら複雑に指を動かし始めた。と思うと、急に視界が開ける。ロウが退いた鏡の中には、いつか思い描いていたアレンジをばっちりきめた自分が映っていた。
「す、すごい……!」
「やってみりゃあできるもんだな」
できないよ、私にはできなかったよ。悔しいけれど、認めるしかない。ロウは器用だ。髪に関しては殊更そうだと言ってもいい。
「やり方知ってたの?」
いいや、とロウが首を振る。
「けど、シオンが髪結ってるのは見たことあったしな。それでこんな感じかと思って適当にこう、ちょいちょいってな」
指先を動かす仕草をして、ロウが言う。これはもう天性のものと言わざるを得ない。同じ星の元に生まれたのにこれだけの差があるなんて。
「……あとで教えて、やり方」
「いいけど、珍しいな。お前がそんなこと言うなんて」
ハサミの先を布で拭いながらロウが笑った。リンウェルも立ち上がって紙袋を脱ぐと、それをぐしゃぐしゃと小さく折りたたむ。
「私だってオシャレしたい気持ちはあるよ。ちょっと上手くできないだけだもん」
「髪型変えると気分上がるよな。お前の髪きれいだし、いじり甲斐があって好きだぜ」
さらりと言われた言葉に、思わずどきりとする。何も言えずにいるとロウも自分の発言に気付いたのか、あからさまに慌て始めた。
「ち、違くて、いや、違うくはねえんだけど。なんていうか、ほら、さっき梳いてた時もほとんど引っ掛かんなかったし、さらさらだし、艶も」
「も、もう分かったから!」
そんなことを言われてしまっては余計に恥ずかしい。リンウェルは誤魔化すようにその場にしゃがみ込むと、足元の布を散らばった髪の毛ごと包んで丸めた。
「……いろいろありがと!」
投げ捨てるように言って、浴室から逃げ出す。当然、ロウの目は見られなかった。
ああもう、この後どう顔を合わせたらいいのだろう。リンウェルは丸まった布を腕に抱えながら、むずむずする胸の鎮め方を必死に探したのだった。
◇
「そんなこともあったよね」
洗面台の前で髪を梳かれながらリンウェルは呟いた。昔のことを思い出すと、思わず頬が緩んでしまう。今夜は特にそうだ。
小窓からは瞬く星が覗いていた。明日もよく晴れそうだな、と思って安堵する。
「しっかし、あれからまた髪切ってだの結ってだの言われるとは思わなかったぜ」
ふふ、と笑みがこみ上げる。私だって思わなかった。確かにロウに髪を梳かれるのは恥ずかしかった。緊張もした。でもそれと同じくらい心地よさも感じていて、ロウが私の髪を褒めてくれるのも嬉しかった。
「引き受けてくれてありがとね。タダなのに」
「ホントだよな。キサラには飯おごってたっていうし、扱いが違いすぎるだろって」
それはそうだ。キサラには髪以外にもたくさんお世話になっていた。お礼をするのは当然。
とはいえロウにだって感謝していた。たまにご飯に行ったり、夕飯に招いたりもした。それがお礼だとは恥ずかしくて言えなかっただけだ。
「不満だった?」と問うと、
「いいや」
と鏡の中でロウが笑った。
「お前なりの口実だと思えば可愛いもんだ」
ロウはそう言って髪を撫でた。あの頃と変わらない優しさで。
やっぱり気づかれていた。素直になれなかったことも、髪をだしにしていたことも。気恥ずかしくもあるけれど、今となってはそれもいい思い出だ。
「むしろ気に入ってくれたみたいで良かったぜ」
それはもう気に入った。髪もそれ以外も、一生この人に預けてもいいと思えるくらいには。
こうして夜、寝る前にロウに髪を梳いてもらうのは一緒に暮らし始めてからの習慣になっている。自分がものぐさであまり髪を労わらないというのもあるが、元はと言えばロウの方がそうしたいと言ってきたのだった。
時には風呂上がりの洗面台の前で、時にはベッドで本を読んでいる最中に、ロウはリンウェルの髪を梳く。出会った頃よりもずっと長く、それでいて豊かになった髪はロウの愛情の賜物なのかもしれない。いまだにそれを優しく撫でては指通りを確かめて、満足そうに目を細めているのを見ると嬉しい反面、少し照れ臭くもなる。
外に出る際もロウは時折髪を結ってくれている。服装やその日の天気に合うように整えてくれるのだ。
そうしてロウと街を歩くたび、リンウェルは不思議な気持ちになる。普通、恋人に喜んでもらうために髪型を変えたり飾ってみたりするのに、自分の場合はそのアレンジをしているのが恋人本人なのだ。とはいえ満足げな表情のロウを見ると何も言えない。ロウが良いなら良いかと、すっかり自分まで満ちてしまうのだった。
そんなロウの役目も明日だけはお休みだ。ロウはロウで準備があるし、少しくらいサプライズしたい。
「明日はどうすんだ? 誰が結うって?」
「キサラとシオンがやってくれるって」
言いながらリンウェルは指先に髪を絡めた。肩を少し過ぎた髪は明日のために伸ばしたものだ。短いよりも長い方が様々なアレンジがきく、とそんなことをいつかロウが言っていたような気がして、日取りが決まった日から慌てて伸ばし始めたのだった。
明日はどんな髪型にしてもらえるのかは自分にもまだ知らされていない。でもあの二人のことだ、晴れ舞台に相応しいとびきり素敵なものを用意してくれているだろう。
「見ててよ、ロウにはできないような髪にしてもらうから」
「へえ、そりゃ期待だな」
「可愛くって惚れ直しちゃうかも」
「これ以上可愛くなってどうすんだよ。もう充分だろ」
ロウの腕が後ろから回ってくる。リンウェルがそれに自分の手を重ねると、心地よい体温が伝わってきた。
鏡の中で目が合うと、思わず笑みが零れた。幸せだ。明日も明後日もその先も、こんな日が続きますように。そう願っているのは自分だけじゃないと確信できることこそが、今何より幸せだと思った。
終わり