ロウといる時間が楽しくてたまらないリンウェルの話。(約7,300字)

今日よりももっと

 目が覚めて、ゆっくりとベッドに体を起こした。カーテンの隙間から光が零れているのが見える。
「フル!」
 フルルは窓際で翼を広げていた。カーテンの端をくちばしでつまんだかと思うと、それが一気に引かれる。眩い日射しが刺さるように飛び込んできて、目が痛いほどだ。
 渋々ながらベッドを抜け出すと、洗面台へと向かった。顔を洗って、キッチンで朝食の準備をする。パンを焼き、トマトを切り、ハムエッグを焼くだけの簡単なものだ。もちろんフルル用の食事も忘れずに。
 席に着いて「いただきます」と手を合わせると、待ちかねていたのかフルルがすぐに皿をつつき始めた。ぽりぽりと小さな粒を嚙み砕く音がする。なんとも小気味良い、心地良い音だ。
 昨夜も同じようなことを思った気がした。作った夕飯のカレーを前に手を合わせた途端、フルルが中身を溢れさす勢いで皿に頭を突っ込み、それを二人で眺めて笑ったのだった。私が「お腹が空いてるときの誰かさんみたいだね」と言えば、向かいに座ったあいつは「いやお前に似たんだろ」と言ってはばからなかった。
 ――あいつ。
 顔を上げてみても、正面の席には誰も座っていなかった。当たり前だ。夕飯を一緒に食べた後で、宿屋に戻っていくその背中を見送ったのをはっきりと覚えている。
 つい昨日のことなのに、それはもうずっと遠い記憶のような気がした。昨夜は別に夜更かしをしたわけでもなければ、眠れなかったわけでもないのに。なんだか随分と長い間会っていないようなそんな気持ちになってくる。
 それはきっと昨日一日が楽しくて、充実していたからだろう。ひとり思い出してはまた緩みそうになる頬を、パンを頬張ることでごまかす。誰に見られているわけではないけれど、思い出し笑いを浮かべるのはちょっと恥ずかしい。

 昨日は朝から遺跡探索に出かけた。自分とフルルと、ロウの三人で。
 ロウが休みだと聞きつけた私はあらかじめ前日に声を掛けておいた。遺跡に付いてきてほしいと頼むと、ロウは二つ返事で了承してくれた。今思えばせっかくの休日だというのに街の外に連れ出してしまうなんて、少し配慮が足りていなかったかもしれない。それなのにロウは嫌な顔一つしないどころか、当日の朝に家まで迎えに来てくれた。さすがに荷物まで持たせるのは気が引けたので、代わりにフルルを運んでもらうことにした。運ぶというか、飛んで移動するフルルのたまの休憩所代わりになってもらうことにしたのだ。
 成長したフルルは今や私のフードには入らない。物理的にという意味ではなく、それはフルルの意思によるものだ。おそらく、以前フードに入った時に私がその重さに驚いたのが堪えたのかもしれない。成長は生物としてはごく当たり前のことで、それどころか喜ばしいことでもあるのだけれど、フルルにはちょっと衝撃だったようだ。
 私のフードに入ったり肩にとまったりすることはなくなっても、フルルはロウにはまったく遠慮しなかった。むしろ右肩の狼に対抗するように堂々とした立ち姿でロウの左肩で羽を休めていた。その度ロウも「重い」だの「デカい」だの言ってフルルを怒らせているのだけど、そうしたやり取りだって以前のものとはまるで違う。フルルもロウに気を許しているからこそ、そうして止まり木代わりにしているのだ。時折ロウの肩で寝息を立てているのがいい証拠だ。
 とはいえそんなふうに指摘したところで当の本人たちには否定されてしまう。「そんなことないよな」「フル」互いに顔を見合わせて頷く仕草はどこからどう見ても慣れ親しんだ者同士のものなのに、本人たちだけが頑なに認めようとしない。それがまたおかしくって、私は陰で密かに笑っていたりするのだった。
 今回自分たちが向かった遺跡は、見回りの兵士が偶然見つけたものだった。人が住む集落よりもはるか奥、普通は誰も通らないようなところにそれはあった。人目を避けるように佇んだ建物は小ぢんまりとしていて、壁中に生い茂った草木に隠されていた。見つけた兵士も道に迷い込んだ挙句雨に降られ、逃れた先にたまたまこの遺跡を見つけたのだという。
 中にも外にも”はぐれ”がいなかったことは幸いだった。内部に入っても聞こえるのは鳥のさえずりだけで、フルルも呑気に欠伸をしているところを見ると近くに脅威は感じられないようだ。
「じゃあその辺見てくるね」
 はやる気持ちを抑えながら声をかけると、入口付近に腰を下ろしたロウは「おう」と手を上げて、荷物を置いていくよう言った。いつも通り、番を任されてくれるらしい。
 身も心も軽くなったところで私は遺跡の内部に足を踏み入れた。手つかずの遺跡だ。心が躍らないわけがない。
 壁には見たこともない意匠や装飾がなされていた。小部屋に散らばる瓦礫にも、よく見れば何か文字のようなものが刻まれている。
 つまりはどこを見ても宝の山で、ときめきで胸がどうにかなりそうだった。でも惚けている暇はない。鞄からノートを一冊取り出すと、気になるものを片っ端からスケッチしていくことにした。
 壁の意匠を描き写していると、
「へえ、上手いもんだな」
 突然上から声が降ってきて、私の心臓は飛び跳ねた。
 振り返るとそこにはロウがいた。その肩にはうつらうつらと舟を漕ぐフルルの姿もある。
「ちょっと! おどかさないでよ!」
 思わずそんなことを言ったがロウは悪びれる様子もなく、
「気付かなかったのはお前だろ」と肩をすくめた。どうやら少し離れた場所から声を掛けてくれていたらしい。真偽のほどは定かではないが、ロウが嘘を言っているようにも見えないのでおそらく事実なのだろうと思った。一つのことに夢中になっていると周りが見えなくなるのは自分の悪い癖だ。
 何か用かと言いかけて、ロウの視線が私の持っているノートに注がれていることに気が付いた。そこにはさっきまで筆を走らせていた、意匠のスケッチが半端になっている。
「うわあっ」
 私は咄嗟にそれを閉じて腕の中にしまい込んだ。
「み、見ないでよ!」
 途端にこみ上げる羞恥に頬が熱くなるのが分かる。
 それなのにロウはあっけらかんとした表情で言った。
「なんで隠すんだ? 上手いのに」
 その声色と表情はからかっているわけでも、お世辞を言っているわけでもないようだった。
「だ、だって、恥ずかしいじゃない」
 自分は絵を誰かに習ったわけでもないし、かといって独学で学んだわけでもない。ほんの趣味で遺物や意匠を描き残しておきたいという思いからそうしているだけなのだ。
「誰かに見せるわけじゃないから適当だし、あんまり上手くないし。とにかく恥ずかしいの!」
 腕に力を込めて背を向けると、ロウが小さくため息をつくのが聞こえた。
「お前、いっつもそうだよな。素直じゃないっつーか、卑屈っつーか」
「う、うるさいなあ」
「上手いって褒めてやってんだから、そこは『ありがとう』でいいだろ。まあ、俺に褒められたところで嬉しくもなんともないかもしんねーけど」
 どの口が卑屈なんて言うのだ。ロウの方こそ卑屈じゃないか。でも今言うべきはそんな言葉じゃない。
「……ありがとう」
 そう口にすると、また頬に熱が宿った。別に特別な言葉でもなんでもないのに、それを改めて声にするのはとても緊張した。
 でも不思議と悪い気分ではなかった。もしかしたら、ロウがほんの一瞬大きく目を見開いた後で、嬉しそうに目を細めたからかもしれない。
 その後は昼食を挟みつつ、もうしばらく遺跡の探索を続けた。目新しいものだらけで興味は尽きなかった。新発見を逃すまいと小部屋の隅まで気を張り巡らせた。
 とはいえ惜しむらくは遺跡が小規模だったことだ。部屋中を見て回ってもそこまで時間はかからない。全部屋を見終えたのはまだまだ日も高い午後の時分だった。
「お、もういいのか」
 ロウはここへ来た時と同様、遺跡の入り口付近にいた。荷物のところで水を飲んでいるフルルの姿も見える。容器に水を注いだのはおそらくロウだろうと察しがついた。
「……うん」
 返事が晴れていないことくらい自分でもよく分かっていたが、それは別に遺跡探索に不満があったからというわけではなかった。
 むしろ収穫としては上々で、もちろんもっと大きな遺跡だったら何度も通いたい気持ちもあったとはいえ、それは気分を落ち込ませる理由には到底ならない。
 言ってしまえば、私は惜しんでいたのだ。これで今日が終わってしまうのが寂しくてならなかった。もうこれからヴィスキントに向かって家に帰るだけなんてひどくつまらない。
 だからだろうか。気が付けば私は帰り道を歩きながら、「今夜うちで夕飯食べていかない?」なんて大胆なことを口走ってしまったのだった。
「……え?」
 ロウの返事にも間があったのが良くなかった。どうせならもっと気軽にOKをするか、断るかしてくれれば良かったのに。自分たちの間の空気がなんだかぐにゃりと歪んだ気がして、私は慌てた。
「ほ、ほら。今日はカレーが食べたい気分なんだけど、カレーって一人分だけ作るの難しいから。ロウもいてくれると助かるなって」
 咄嗟に思いついた言い訳は我ながら酷かったと思う。それでもロウは疑うような様子など微塵も見せずに「そういうことか」と納得した顔をした。
 街に着いてからはそのまま市場に直行した。今夜使う食材に加えて足りなくなっていた物資もついでに買った。ロウが持ってくれるというから、その言葉につい甘えてしまったのだ。
 お礼というわけではないけれど、カレーのお肉はちょっと多めに買った。ロウはそんなことには気づかないのだろうが別に構わない。ロウが喜んでくれるなら、それでいいと思った。
 自宅に戻ると二人で夕飯の準備をした。結局手伝わせてしまったけれど、おかげで少し早く支度が出来たと思う。
 テーブルに皿を並べて一緒に手を合わせた。その瞬間、夕飯を待ちきれなかったフルルが自分の食事が用意された皿に勢いよく顔を突っ込んだので、結構な量のエサがテーブルに散らばった。その様子を見て私はロウと二人、顔を見合わせて笑った。フルルは不思議そうに首を傾げながらも、零したエサをひとつひとつ摘まんでいた。
 宿に戻るというロウを見送ってからは、心が満たされる半分、どこか寂しさも拭えなかった。夕飯に使った皿やグラスを洗いながら、つい先ほどまでそこにいたロウのことを思い出す。また今日みたいな日が早く来ればいいのに。そんなふうなことを考えてばかりいた。
 寝る準備をしてベッドに入っても、読書をしようと本を開いてみても、心のどこかに何か、誰かがひっかかっていた。このままだと無駄に夜更かしをしてしまう。そんな予感がして早々に部屋の明かりを消すことにしたのだった。結局朝になってもまた楽しかった時間のことを思い出してしまったけれど。
 ロウは今日もどこかで誰かの依頼を受けているのだろう。到底無理なものでない限り、ロウは依頼を断ったりしない。頼られればカラグリアにだって、ガナスハロスにだって迷わず出向く。ロウはそういう人だ。
 だったらその動向を気にする必要はない。ないというか、気にしても無駄だ。ロウがヴィスキントを空ける時は、その必要がある時だから。
 だから次いつ会えるかを考えるよりも、今日自分が何をするのか考えた方がいい。楽しかった昨日の記憶はあくまで昨日のこと。忘れろとまでは言わないけれど、切り替えて今日のことを考えなければ。
 そうして家を出た私は宮殿の図書の間に行くことにした。昨日遺跡で見つけた意匠について、もう少し詳しく調べてみようと思ったのだ。
 椅子に座りノートを取り出すと、昨日描いたスケッチを眺めた。うまくいかなくていくつか大きなバツ印を付けたものもあったが、最後残ったものは比較的よく描けていた。線がガタガタになっているところもあるが、意匠の形ははっきり分かるから及第点というところだろう。
 ロウはこれを見て「上手い」と褒めてくれた。隠す必要もないし、褒め言葉は素直に受け入れろとも。そんなこと言われても、恥ずかしいものは恥ずかしいのだけれど。
 胸にじわりと熱いものが込み上げてきた感覚で、また昨日のことを思い出してしまっていたことに気が付いた。こうしてはいられない。早く作業に没頭しないと。
 ダナの古い書物と自分のノートを照らし合わせる作業は昼を過ぎて夕方過ぎまでかかった。一旦挟んだ昼食以外は図書の間を出ていないから、ほとんど丸一日籠っていたことになる。
 参考になりそうな文献は見つからず、成果はあまり得られなかったがそれでもいいと思った。古い書物にも載っていないほど珍しいものだと思えばかえって気分は昂ってくる。これが世紀の大発見だったらどうしよう。
 そんなことを思いながら足取り軽く宮殿を出ると、足は自然と市場の方へと向いた。宮殿の帰りは市場に寄ることが多いから、体が勝手に動いたのかもしれなかった。
 とはいえ今日は買いたいものは特にない。昨日ロウと来た時に大方買ってしまったし、夕飯も真面目に作る気はなかった。パンでも適当に齧ろうかと思っていたところだ。
 それでも私の目は何かを探していた。露店の品物を見るふりをしてきょろきょろと視線を彷徨わせていたのは、人が大勢いる通りの方だった。
 何を期待しているんだろう。ここで会える確証なんてものはない。いやむしろ現れない確率の方が高い。今ロウがこの街にいるかどうかも分からないのに。
 無謀だと知っていても、その視線を下げられなかった。いくら可能性が低くてもゼロじゃない限り、私の目は近くを、遠くを、左右を見渡し続ける。
 夕暮れ時の市場には人が溢れる。自分の背後を飛ぶフルルが人波に呑まれそうになったのを見て、私はようやく通りを抜けることにしたのだった。
 フルルに申し訳なく思いつつ、帰路につく。差し込んだ夕陽に伸びた影が随分と長くなったなと思った時、そこに近づいてくるもう一つの影に気が付いた。
「リンウェル」
 振り向くと同時に声が掛かった。そこには額に軽く汗をかいたロウの姿があった。
 どうして、という声は、声にならなかった。一瞬走った驚きは、こみ上げてくる熱いものにすぐ上書きされる。
「やっぱりお前だった。違ったらどうしようかと思ったぜ」
 ロウはそう言って、安堵したように息をついた。どうやら仕事が終わって仲間たちと解散した直後だったらしく、その帰り道でたまたま自分を見かけたのだとか。
「お前、なんでこんなとこにいんだよ。宮殿の帰りとか?」
「う、うん。まあそんなとこ」
 私は視線を逸らしながらそう答えた。本当はもっと早く宮殿を出ていたけどロウを探して市場を歩き回っていただなんて、そんなこと言えるわけもなかった。
「じゃあこれから家戻って、晩メシか?」
「うん、そうなるかな。まだ何作るか決めてないけど」
 食べないという選択肢も用意していることは内緒にしておいた。それを聞いたらロウはきっと呆れ、怒るだろうから。
 ロウと道を歩く中で、私の歩幅はいつの間にか最初よりも小さくなっていた。だって、そうでもしなければこの時間はすぐに終わってしまう。通りを抜けて角を曲がって、路地に入ってしまえばそこはもう私の家だ。ロウは何も言わないけれど、そこまで送ったらきっとロウとはまた別れてしまう。昨日の夜みたいに。
 そう思うと惜しいのだ。せっかくまた会うことができたのにそれがほんの十数分で終わってしまうなんて。
 そう思うならまた食事にでも誘えばいいのにとも思うけれど、昨日みたいな都合の良い言い訳が今日は思いつかない。せいぜい一緒にいられるこの時間が少しでも延びるようにと悪あがきをするだけ。
 そうこうしているうちに私たちは通りの端まで来てしまっていた。周りを歩く人の姿も極端に減っている。
 その角を曲がろうとしたところで、ふとロウが歩みを止めた。
「なあ」
 そして視線をぎこちなくどこかへ彷徨わせたと思うと、頭を掻きながら言った。
「お前が良かったらなんだけど、今からメシ行かね?」
「……え」
 私は息をのんだ。
「ほら、昨日美味いカレー作ってくれただろ。今日少し金入ったし、夕飯くらいなら奢ってやれるし」
 高い店はキツいけど、と頭を掻いたロウの顔がやや赤く見えるのは夕焼けのせいだろうか。
 私はそれを見て思わず笑った。ロウの慌てた様子が可笑しかったのもあるけれど、何より誘ってくれたことが嬉しかったのだ。
「うん、行く!」
 弾んだ声は隠しきれない。いや、もう隠す必要なんてないのかもしれない。
「いっておくけど、フルルも入れる店にしてよね」
 フル! とフルルがロウの肩で翼を広げる。
「フクロウOKとか聞いたことねーぞ……」
 ロウはそう言って頭の中でいくつか候補を挙げているのか、考え込む素振りを見せた。
 それを見て、私はまた心の中で笑う。緩む口元に気づかれないよう力を込めながら、ロウの横顔を見つめている。
 ロウは私を嬉しくさせる天才だと思う。私が望みながらも、でも自分ではそうと気づいていない優しさや言葉をくれる。昨日よりも今日、今よりも数秒先の自分をちょっとだけ幸せにしてくれるのだ。
 たとえ少しずつでも、紙一枚、スプーン一杯の幸せだったとしても、それが毎秒毎日積み重なっていったとしたら。ロウのくれたあたたかい気持ちで満ち溢れた毎日を送れたとしたら。
 私の幸せに敵う人なんか世界中のどこにもいなくなってしまうのだろう。幸せは比べるものでも何でもないけれど、そんな確信が持ててしまうほどには今私は嬉しい気持ちでいっぱいだ。
 ロウもそうだったらいいのにな。私のことを、私がいないところでも考えて、嬉しくなったり寂しくなったりしてくれればいいのに。
 そしてできることなら、それが私だけに向けられればいいのに。世の中のために尽くして皆を幸せにしてほしい気はするけれど、それとは違った意味で私だけを幸せにしてほしい。
 欲張りであると分かっている。この欲張りな気持ちには、きちんと名前がついていることも。
 それを告げるのはいつになるだろう。明日かもしれないし、今夜食事を終えた時かもしれない。
 先のことは分からない。でもきっと、明日の私は今日よりももっとロウを好きなのだろうなと、それだけは分かった。

終わり