「ねえ、今度の週末、何の日か覚えてる?」
ふとリンウェルが訊ねてきた。街で買い物をした帰り道だった。
「え、週末?」
「そう、週末」
俺はどきりとした。ちょうど似たようなことを考えていたからだ。俺が考えていたのは週末じゃなくて、明日のことだったが。
「いや……なんかあったっけ?」
「もう、ロウってばすぐ忘れちゃうんだから」
リンウェルは呆れたように息をつくと、俺の手から荷物を奪って言った。
「じゃあ宿題ね。明日までに思い出すこと!」
「宿題ぃ?」
「ヒントはね、『ニ』だよ」
ちょっとおどけてみせながら、リンウェルは右手でピースサインをつくってみせる。なるほど、『ニ』というのは数字の『2』らしい。
「じゃ、そういうことだから。今日はありがとね」
「え、あ、おい」
言うなりなんなりリンウェルは「おやすみ」と手を振ると、そのまままっすぐ自宅へと入っていってしまった。ちょっとそっけなさすぎないか。仮にも彼氏だぞ。明日、付き合って1周年を迎える彼氏だぞ。
そうはいってもリンウェルが戻ってくる気配は当然ない。ひとり外に取り残された俺はどこか虚しさを抱えながら、宿までの道を寂しく歩いたのだった。
週末、記念日、2。
宿屋の一室でベッドに寝転がりながら、リンウェルの言っていた言葉を何度も繰り返してみる。記念日とははっきり言っていなかったが、あの口調なら誰かの誕生日とか、何かの周年とかそういうめでたいことのはずだ。
とはいえ思い当たるものはさっぱり見つからない。近しい仲間の誕生日、でもないし、なにか大切なことの周年、というのも思い当たらない。しかも2。なんだ2って。2歳の誕生日? フルルか? いやフルルはもっと年を食っているはずだ。
それはそれとして、俺たちの記念日というなら明日だろう。恋人になってちょうど1年の節目の日だ。それを記念日と言わずして何と言う。
実を言うと、俺は明日という日にかなり前から狙いを定めてきた。コツコツ金を貯め、ちょっとしたプレゼントも用意した。とはいえそれを大っぴらにするのもなんだか気恥ずかしくて、何も気づいていない、覚えていないふりを今日まで続けてきた。
そこでリンウェルが突然「週末は何の日でしょう」なんて言い出したので、内心ものすごく焦った。明日じゃなくて、週末というところにはかなり引っかかったが。
俺が明日に向かって気を昂らせている一方で、リンウェルからはそういう気配を微塵も感じられないでいた。今日だってそうだ。いつもみたいに、いや、いつもよりもかなりつれない感じでさっさと部屋に引っ込んでしまうなんて。
リンウェルは明日のことを覚えていないのかもしれない。それはそれで仕方ない、とは思いつつも少し寂しい気もする。確かに1年前、リンウェルに告白したのは俺の方からだった。気持ちの大きさに差があると言われたら、そうなのかもしれない。
どうしよう。明日プレゼントを渡した瞬間、「そんなこといちいち覚えてるの?」「ちょっと気持ち悪い」なんて言われたら。いやいやいや、リンウェルがそんなこと言うはずない。……ない、よな?
一度沼に入った考えはそのままズブズブと飲まれていく。逃れようともがけばもがくほど底に沈んでいくだけだった。
悪い考えを取り払うためにと俺が選んだのは、眠ることだった。すべての考えをシャットアウトして、何も考えないようにする。つまりそれはリンウェルからの宿題をも放棄するということでもあった。
翌日は午後からリンウェルと会うことになっていた。待ち合わせ場所の噴水前でリンウェルを待つ。
今朝目を覚ましてから今この瞬間まで、頭の中でずっと宿題について考えているが果たして答えは出ていない。そもそも俺はそこまで記憶力が良くない。今日の1周年を覚えていることの方が奇跡なのだ。
足りない頭を捻っていると、待ち合わせ場所にリンウェルが現れた。今日は時間通り、遅刻はない。
「おはよう。もしかしてその顔、まだ思い出せてない?」
「全然。さっぱりわかんねえ」
やっぱり、とリンウェルは笑った。
「仕方ないなあ。もう一つ、ヒントあげる」
そう言うとリンウェルは広場へと繋がる階段を下り始めた。
ヴィスキントの街は今日も人が多かった。雲一つない晴天というのもあるのかもしれない。
リンウェルはその街の中を真っすぐ、脇目もふらずに進んでいった。いつもはあちこち寄り道して回るのに、今日はアイスクリームの屋台にも見向きもしないので驚いた。
「なあ」
「なに?」
「どこ向かってんだ?」
「どこって、ヒントのお店」
ヒントのお店とは。
首を傾げていると、リンウェルの目線の先に見えてきたのは市場の一画にあるこじんまりとした花屋だった。
そこでリンウェルは真っ白なバラを一輪手に取ったと思うと、店主に向かって声を掛ける。
「これください」
「ラッピングは?」
「じゃあ、お願いします」
はいよ、と言って、店主は慣れた手つきでバラに透明のシートをかぶせ、リボンを結んだ。
そんなやり取りを見ても、俺はますます混乱するだけだった。花? 白いバラ?
花なんかいつ買った? それも白いバラなんて、まるで覚えがない。
店を出て歩き出すと、リンウェルがこちらを覗き込んでくる。
「まだ思い出せないの?」
「んなこと言ったって、花屋なんか来ねえし」
「確かに、あの時もキサラと買いに来たんだったっけ。でもロウもちゃんと見てるはずなのに」
痺れを切らしたのか、リンウェルは「じゃああと1分ね」と言い出した。
「1分!?」
「昨日一晩あげたのにロウが思い出さないのが悪いでしょ」
確かに、と思いつつ、何かそれらしい答えをと頭の中を探ってみるが何も思いつかない。
そうこうしているうちに時間は過ぎ、リンウェルの元気な「時間切れ!」という声が聞こえた。
「降参。正解は?」
「正解はね、」
リンウェルは少しためた後で、
「シオンとアルフェンが結婚してから2年、でした!」と声を上げた。
それを聞いて、俺はなんだか拍子抜けした。いやまあ近しい人物のなにかだとは思っていたが、それは誕生日でもなく、まさかの結婚記念日だったなんて。
「よくそんなの覚えてたな」
「覚えてるよ。大好きな人たちの大切な日なんだから!」
そう口にしたリンウェルの表情は晴れやかで、まるで自分のことみたいに顔をほころばせていた。
思えばはじめはあんなに目の敵にしていたのに、今ではシオンを大切な人だと言い切るリンウェルがなんだか可笑しかった。きっと本人にそう言っても、「昔はそんなこともあったね」と笑われてしまうのだろう。まだあれからほんの数年しか経っていないというのに。
「大切なもの、ずいぶん増えたんじゃねえの」
「そうかもね。でも良いことでしょ? 大切な人も記念日も、多ければ多いほど楽しいんだから」
その笑顔は復讐に心囚われていたあの頃とはまるで違う。リンウェルはあの時シオンの言った「この先どう生きるのか」をついに見出したのかもしれない。
大切なもの、大切な人たちに囲まれて、人生というこれから先まだまだ続く長い道を思う存分楽しく歩いていくのだ。
「それにしても結婚記念日か。2の意味もやっと分かったぜ」
「今日は私たちの1だけどね」
リンウェルがふふっと笑って言った。思わず、え、と声が出る。
気が付けば自分たちはリンウェルの家の前まで来ていた。リンウェルが鍵を開け、ドアノブに手を掛ける。
促されて入った部屋はきれいに片付けられていて、可愛らしく飾り付けもされていた。テーブルには整然と皿が並び、その真ん中の花瓶にリンウェルは先ほど買った白いバラを差した。
「昨日ロウと別れた後、急いで掃除したの。気付かれないようにこっそりやるの、大変だったんだから」
今日の待ち合わせが午後だったのも、朝から料理の仕込みをしていたからだった。キッチンから良い香りが漂ってくる。今日はキサラ直伝ソースの掛かったハンバーグらしい。
「どう? 驚いた?」
「驚いたってか……」
俺は鞄からプレゼントを取り出して、リンウェルへと差し出した。
「覚えてるの、俺だけかと思ってた。お前、そういう素振り見せなかったし」
それを受け取ったリンウェルは箱ごとそれを胸に抱いた。そして目を細めて言う。
「覚えてるに決まってるでしょ。好きな人から告白された日だよ」
開けてもいい? との声に頷くと、包装を解く音がして小さく歓声が上がった。ガラスでできたペンは思いのほか気に入ってもらえたらしい。
「私もあとで何か買うね」
「いいって別に」
「違うの、私があげたいの」
こういうときのリンウェルはどうにも強情だ。ここは素直に頷いて、真心も受け取ることにしよう。
「これからもよろしくね」
ふいに飛び込んできたリンウェルに一瞬動揺しながらも、俺はその背中にそっと腕を回したのだった。
終わり