無性に独りになりたくなる時がある。
嫌なことがあったとか、誰かに何かを言われたわけではない。気分が落ち込んでいるわけでもない。
そうなるのはむしろ、それとは全く逆のことが起きた場合の方が多い。ツイていたり、誰かに褒められたり、胸のすくような出来事があった時、その反動みたいにして心に濃い影が落ちる。高いところから滝つぼに落ちた時のように、深く深く沈んでいく。
そのたびになんとかして心を繋いできた。そうとは悟られないよう皆の前ではできるだけ明るく振舞い、作り物の笑顔を貼りつける。気を紛らそうと体を動かしたり、美味しいものを食べたり、あるいは夜中にヴィスキントの街をぶらついてみたりもした。空を見上げては星がきれいだな、なんてガラにもないことを思いながら、他人を、自分を何度も誤魔化し、だましだまし過ごしてきたのだ。
だが今回ばかりは駄目だった。商隊の護衛任務に就いていた際、飛び出してきた”はぐれ”を仕留めた俺は商人たちだけでなく、メナンシアの兵士たちからも随分と感謝された。どうやら今回自分が退治した”はぐれ”は以前からこの辺で暴れ回っていた奴らの親玉だったらしい。討伐隊が行方を追っていたがなかなか足取りが掴めずにいたところをたまたま自分が討ったと、そういうことらしかった。
「助かったぜ、ロウ!」
「あいつにこれまでどれだけの積み荷が駄目にされたか……!」
「これで怪我人たちの無念も報われます」
頭や背中、尻を叩かれ、浴びせられる賞賛と感謝の言葉はあまりにも眩かった。その強すぎる光の反対側に自分の中の何もかもを飲み込む深い影を生み出してしまうほどには。
どうしてそうしようと思ったのかはわからない。
気が付いたらシスロディアにいた。それもシスロデンのような大きな街ではなく、どこかの小さな村に来ていた。元はさほど重要視されないメザイだったのだろう、村にはちょっとした商店と食堂付きの宿屋が一軒あるだけで、他には特に珍しいものも、心惹かれるようなものもなかった。
星霊力が均質化されつつあるとはいえシスロディアはまだまだ寒い。家屋の屋根には氷柱がぶら下がり、木々は重たそうに白雪を抱えていた。風の冷たさはメナンシアのそれとは比べ物にならず、数年間この地で過ごした自分でさえも体を縮こまらせるほどだ。凍えて動けなくなる前にと商店で防寒具を買い、その場で身に纏った。その品質は確かなもので、分厚い毛皮でできたそれは風を通すこともなく、なおかつ熱を逃がさないので、ほんの数分も歩けば体の芯からぽかぽかと温まってきたのが分かった。
とはいえこれからどうするか。自分は足が赴くままここへと来ただけで、何の目的も持っていなかった。携えてきたのは自分がいつも持ち歩いている鞄のみで、その中には財布と下着の替えが数枚、そして常備薬がいくつか入っているだけだ。
空を見上げると、そこには星たちが燦然と輝いていた。やっぱりここでも星はきれいだ。街中より空気が澄んでいる分、よりはっきりと見える気がする。
広がる雪景色に濃紺の空という組み合わせにはあまりにも慣れすぎていて、今が作られたものでない、れっきとした〈夜〉であるということに気付くのには時間がかかった。ならばこれから村を出てどこかへ向かうというのは危ない。”はぐれ”だけでなくその他の動物も活発になるし、何より視界が奪われるのは致命的だ。
ひとまず今夜はここの宿屋を使うことにした。目的もないというのはすなわち急ぐ必要もないということだ。明日のことは明日の朝になってから考えよう。
夕食を摂ろうと隣の食堂に入った時、入れ違いになるようにして席を立った人物にどこか見覚えがあるような気がした。その人物はこちらに背を向けていたし、席を立った後も向こうの階段から宿屋へと戻って行ってしまったので顔は確認できなかったが、それでも背格好や髪形が自分の知る人間にとてもよく似ていた。とはいえここにそいつがいるはずがない。こんな辺境の村で会うことなどありえない。
俺は忘れていた。そんなありえないと思うような出来事を自分たちは何度だって経験してきたのだ。
翌朝、再び食堂に行ってみて思わず大きな声が出そうになった。ぐるりと辺りを見渡して、端のテーブル席に座っていたのがリンウェルだったからだ。
「お前、なんでこんなとこにいるんだよ」
突然現れた俺に、リンウェルの方も心底驚いた様子だった。
「ロウこそどうしたの? ここで会うなんてすっごい偶然」
とりあえず座ったら、と席を促され、俺はリンウェルと同じテーブルに着いた。トレイに乗せた朝食に手を合わせ、皿の上のパンを手に取る。小麦の香りが立ち上る、美味そうなパンだ。
「それで、なんでお前はこんなとこにいるんだ? フルルはどうしたんだよ」
そう訊ねると、リンウェルもまた手の中でパンをちぎりながら言った。
「ちょっと用事があるんだ。フルルは仲間のとこ。昨日杜に送ってからこの村に来たの」
まさかロウが同じ宿に泊まってたなんてね、と笑って、リンウェルは肩をすくめた。それはこっちも同じ気持ちだ。昨夜見かけた見覚えのあるあの影はやはりリンウェルで間違いなかったのだ。
「それで、ロウの方は? 仕事か何か?」
リンウェルの言葉に俺は一瞬口ごもった。どこから、何を説明したらいいだろう。少し迷って、
「昨日、メナンシアで護衛任務してて、そんで、はぐれ倒して」
「うん」
「そいつが前から面倒起こしてたやつだったみたいで、すげえ褒められて」
「ふうん、良かったじゃない。それで?」
「それで……気付いたらここにいた」
リンウェルは食事の手を止め、顔を上げた。
「それだけ?」
俺は黙って頷いた。
リンウェルはなにそれ、と笑った。咎めることも問いただすこともせず、次の瞬間には何事もなかったかのように目の前のサラダボウルをつつき始める。
「用事があるわけじゃないんだ?」
「そうなるな」
「でも、じゃあ行先は? 決まってるの?」
「いや、別に」
首を振った俺を見て、リンウェルは口元を僅かに緩ませた。
「なら、私と一緒に来る?」
「……え?」
あっけにとられた俺に、リンウェルは構わず続ける。
「ちょっと遠出する予定なんだ。遠出って言ってもあの頃と比べたら大したことないけど。ロウが良ければどう?」
「どうって……また遺跡かどっかか?」
今度はリンウェルが首を振った。
「違うよ。もっと遠くて、寂しいところ。ひとりだとどうしても気が滅入りそうだから」
リンウェルは笑っていたが、自分にはそれが冗談や誇張であるようには思えなかった。
「……分かった。お前についてく」
そう返事をすると、リンウェルは「ありがと」と言って、朝食の残りに手を付けた。自分も遅れじと急いでパンを口に放り込み、それをミルクで流してやった。
食堂を出ると、リンウェルは村の商店に向かった。
「そんな日数もかからないと思うけど、一応ね」
と言って、食材をいくつか買っていた。複数買うからと店主と交渉し、上手く値切っている。
二人で出かけるのにリンウェル一人に買わせるわけにはいかないと、自分も食材を買った。パンや果物ならそのままでも食べられるし、ハムやソーセージも生肉よりは保存がきく。リンウェルが買った分と自分の分をまとめて一つの袋に入れてもらい、それを背負う。
「こうしてると遺跡に行く前みたいだね」
「でも違うんだろ?」
リンウェルは小さく頷いた。「今日は違うよ」
村を出るとき、突然辺りに大きな音が響いた。振り返ると、村の一番大きな建物のてっぺんで巨大な鐘が揺れている。昨夜は暗かったせいか、あの鐘の存在には全く気が付かなかった。
「あれはこの村のシンボルなんだ。朝と夕の二回、決まった時刻に鳴らすんだよ」
リンウェルはどこか遠い目で鐘を見つめながらそう言った。
「お前、ここには何度も来てるのか?」
「え、なんで?」
「だって街中も歩き慣れてるみたいだし、鐘のこともずっと昔から知ってるような口ぶりだし」
少なくとも初めて訪れた村の商店で値切るようなことはしないだろう。店主の人柄を知っていればこそできることだ。
俺がそう言うと、リンウェルは驚いたように目を見開いた後で、意味深な笑顔を浮かべた。「さあ、どうだろうね」
村の門を出ると、リンウェルは鞄からコンパスを取り出した。どうやら街道からは外れた道を行くらしい。
「シスロディアはどこ行っても雪だらけだから」
迷子にならないための最適解がそのコンパスというわけだ。
確かにこの辺は大きな山も見当たらず、のっぺりとした大地に森や林があるだけだった。標となるような川もないので、ともすればすぐに自分の居場所を見失ってしまうかもしれない。自分もできるだけ何か目印を探しておこうと、辺りを注意深く観察しながら歩いた。
だがそんな心配も杞憂であるかのようにリンウェルの足取りは実に頼もしく、確固たるものだった。時折コンパスの針が指し示す方向を確認する様子は見せるものの、そこに迷いも躊躇も一切ない。時には林の中を突っ切り、時にはけもの道とも言えないような雪深い木々の間を抜けて、真っすぐに目的地まで進んでいく。
はじめこそ会話もあったものの、次第に互いの言葉数も少なくなっていった。体力の温存という意味でもそうだが、何よりリンウェルを纏う空気が重たくなっていくのを肌で感じた。この先自分が導かれる場所はどこなのか、何が待ち受けているのか、まるで想像がつかなかった。ただ、リンウェルの言った「寂しくて気の滅入りそうな場所」という言葉だけが頭の中に残っていた。
森なのか林なのか、あるいは小さな山だったのかも分からない場所をいくつか越えたところで、急に目の前が開けた場所に出た。一面広がる白の絨毯には人どころか獣の足跡すら付いていない。遠くには先の尖った木々が生い茂っているのが見える。雪をかぶったままずらりと横に並んだそれは、まるで侵入者を阻む城壁のようにも見えた。
「すげえな。こんなとこ、〈蛇の目〉時代にも見なかったぜ」
「だろうね」
リンウェルはそう呟くと、また雪深い道なき道を進み始めた。どうやら向かう先はあの棘のような木々の方角らしい。
雪に足を取られながら、それでも必死に足を前に出し続けると、やがて巨大という言葉でも足らないほどの広さを持った森の前に着いた。鬱蒼とした木々の葉はもはや緑を超えて黒々としていて、随分背の高いそれらは得体の知れない大きな怪物のようにも思える。
リンウェルはその森に足を踏み入れようとした。思わず止めにかかろうとするが、心配するまでもなくリンウェルはほんの数メートル先で足を止めた。
ここが目的地だろうか。とはいえ辺りには木と雪以外、何もない。
森の中は見てくれに違わず薄気味悪く、まだ昼間だというのにあまり光が入らなかった。所々で腐った木が横倒しになっていて、それにもまた白い雪が積もっている。
それを軽く手で払いのけて、俺はその腐りかけの木に腰を下ろした。さすがに雪道を長時間歩くのは骨が折れる。朝に出発して、今はおそらく昼過ぎだろうが、経過した時間に比べて身体の疲労は相当なものだ。
自分でさえこうなのだから、道の先を行っていたリンウェルはもっと疲れているに違いない。そう思ったのに、リンウェルは立ちすくんだまま、森の奥をじっと見つめたままだった。
「ここはどこなんだ」
しびれを切らしてそう訊ねたが、リンウェルは何も言わなかった。代わりにその辺に生えている木の一本に手を当て、上までをゆっくりと見上げていた。そんなことをして積もった雪が落ちてきたらどうする。浮かんだ言葉に滲む自分の中の僅かな苛立ちに気付いて、俺は思わず口を閉じた。
やがてリンウェルが口にしたのは、予想すらしていなかったものだった。
「ここにはね、私たちの集落があったの」
俺は驚きのあまり言葉が出なかった。
「正確には森の向こうなんだけど、この辺も活動範囲ではあったから」
薪用の木を切ったり食料探したりね、とリンウェルは懐かしむように言った。
「ずっとじゃないけどね。私たちの一族はいろんなところを転々として暮らしてきたんだ。長くても数年で次の住処に移るの。私が生まれたところも、もっと山が見えるような、そんな場所だったよ」
リンウェルがどこかへと投げた視線は木々に阻まれる。それを気に留めるようなこともなくリンウェルはこちらへと歩み寄ってくると、木の幹に乗った雪を払い、俺の隣へと腰かけた。
「どこから話そうかな。聞いてくれる?」
そうしてリンウェルはぽつぽつと自分の過去を語り始めた。これまでどんなところでどんな生活をしてきたか。父親はどんな人で、母親はどんな人だったか。一族の仲間や昔から伝わる風習まで、まるでどこかに書き記されているかのように正確な語り口で話してくれた。
それも当然のことではある。リンウェルはほんの数年前まで、その魔法使いの一族の中の一人だったのだから。
「ここに来たのはいつだったかな。前住んでたところが結構長くて気に入ってたから、移るの嫌だったの。それにほら、ここって何もないでしょ? 毎日退屈だったなあ。同じくらいの年の子たちとこの森で遊ぶくらいしかすることもなくて、あとは勉強だけ。嫌になっちゃう」
リンウェルの口調からは悲壮感など微塵も感じられなかった。遠い昔のことを話しているような、どこか別の国の出来事を話しているような、そんなふうにも聞こえる。
俺はそれをただ黙って聞いていた。時折打つ相槌は不自然だったかもしれない。気まずかった。その先の結末を知っているからこそ余計に。
「せっかく教わった魔法は使っちゃいけないって言われるし、それにも納得いってなかった。じゃあなんで教えたのって。不満ばっかり。何か楽しいこと見つからないかなって毎日思ってた」
やがて、それまで真っすぐ前を向いていたリンウェルの視線が下に落ちた。
「それで、この森で、私は魔法を使ったんだ」
え、と出した声は随分間の抜けたものになってしまった気がする。
「使っちゃダメだったんだろ」
うん、とリンウェルは小さく頷いた。その口元にたたえた笑みは何かを必死にこらえているようにも見えた。
「私は約束を破ったの。どうしても一度やってみたくて、見てみたくて、この森でこっそり魔法を使ったんだ」
風の魔法だったと、リンウェルは言った。
「自分の周りに星霊力が集まるのが分かって、きらきら光るそれがきれいで、嬉しかった。自分にこんなことができるんだって。なんでこんなきれいなものを大人たちは禁じるんだろうって思った」
手のひらを見つめながら、リンウェルが呟く。
「そのあとすぐに、アウメドラが来たの」
リンウェルの手に震えが走るのが分かった。
「すごい偶然だよね。私が魔法を使った直後にそうやって来るなんて」
自嘲気味に、明るさを保とうとする声が痛い。
「まるで、何かに引き寄せられたみたい……」
その言葉を引き金に、リンウェルの口からとうとう嗚咽が溢れた。一度決壊したそれは波のように押し寄せて、留まることを知らない。
「父さんが、地下に掘った穴に、私を隠したの。動くんじゃない、声も出すな、って。それが最期の言葉になっちゃった」
「頭の上で、すごい音がしたの。悲鳴も、はじめて聞いた。耳を塞ぎたかったけど、できなかった。動いたら気付かれちゃいそうで、怖かったの」
リンウェルの大きな瞳から、雫が落ちた。それは次々と滴って、防寒具にいくつも黒い染みを作っていく。
「私が壊したんだ。私が、家も家族も、みんなが築いてきたもの全部、壊しちゃったんだ」
リンウェルはその細く薄い肩を震わせて泣いた。この世の果てまで聞こえそうな、それでいて自分以外誰にも聞かれることのない声を上げてわんわん泣いた。こんなリンウェルの姿は今まで見たことがなかった。泣き終えたらリンウェルはこの世から消えてしまうんじゃないか。そう思うくらい激しい泣き方だった。
それなのに、そんなリンウェルを見てもなお自分は何も言えず、黙ったままだった。下手な慰めで傷を抉りたくない。軽率な同情で重荷を増やしたくない。何よりリンウェルがそのいずれも望んでいない気がした。
それでも隣にいることを許された自分にできること。そう考えて伸ばした腕で、俺はリンウェルの肩を抱いた。強く引き寄せるでもなく、煮え切らない自身そのものみたいな腕は、ただリンウェルの肩に触れるだけだった。せいぜい今はそれが限度。辛さも後悔もリンウェルだけのもので、それ以上自分が深く踏み込むことはできない。
ならば今一時、一緒に心を痛めさせてほしかった。分け合おう、分かち合おうなんて思っちゃいない。勝手に自分が心を痛めて、勝手に打ちひしがれるだけ。そんなのほとんど独りよがりだ。頭の中では分かっていても、そうせずにはいられなかった。
しばらく身を寄せ合っていると、やがてリンウェルが洟をすする音が聞こえた。
「……もう大丈夫」
「あ、ああ」
慌てて肩から手を離すと、リンウェルは立ち上がって言った。
「聞いてくれて、ありがとね」
そしてここへ来た当初に眺めていた木に駆け寄って、再びてっぺんを見上げる。
「これが皆のお墓代わりなんだ」
少し目を細めてリンウェルは言った。
「今日はつまり、お墓参りに来たの」
お墓、という言葉には正直馴染みがなかった。カラグリアではそういうものは基本的には建てないし、ほとんど見たこともない。だがリンウェルの一族では違ったらしい。状況などにもよるができる限り死者は火葬して弔い、骨をその土地に埋葬するのが習わしだったのだという。
「骨も何も見つからなかったけどね。何かを埋めてあるわけでもないんだけど、それでもないよりあった方がいいかと思って」
一緒に上を見上げると、枝の一部が不自然に切り落とされていた。目印になるようにとリンウェルが魔法を使って傷をつけたらしい。
「地面に作っても雪で埋もれちゃうから。でも大きなものは作れないし、木なら枯れるまではそこにいてくれるでしょ。ここなら切り倒される心配もないし」
そう言って手を合わせ始めたリンウェルにはぎょっとした。慌てて自分もそれに倣う。なんとなく雰囲気に合わせて咄嗟に目を閉じたが、何を祈ればいいのかもわからない。リンウェルの健康か、あるいは産み落としてくれたことへの感謝か。いやまずは自己紹介すべきかと頭の中でぐるぐる考えていると、ふと視線を感じた。目を開けるとリンウェルが可笑しそうにこちらを見つめていて、その口元からはくすくすと笑い声が漏れている。
「なんだよ。なんか間違ってるか?」
「ううん。嬉しくて。私の家族と仲間のために祈ってくれて、ありがとう」
リンウェルは穏やかに微笑んだ。だからこそ、その目の赤みが余計気になって仕方ない。あれだけ泣いて気が済んだだろう、というのはそれこそありえないことだ。逆に何年過ぎてもあれだけ泣けるのだと言った方がいい。その刺さった棘の深さは如何ばかりか。いつかその棘が根本から抜け落ちる日が来るのか。そうでなくとも今度こそその涙は自分が。そんなことを頭の中に浮かべつつ、拭うと言い切る勇気も、止めると契る覚悟もないことこそが、何より悔しかった。
「いずれお墓も建て直したいんだ」
森を出て元来た道を歩きながら、リンウェルはそんなことを言った。
「こんなところじゃ寂しいでしょ? それに私ももっと通いやすい場所が良いなって」
リンウェルは年に数回、この地を訪れているらしい。ヴィスキントからあの村を経由地にして、このシスロディアの奥深くまでひとりでやってくるのだと、リンウェルは言った。
「誰かを連れてきたのは今日が初めて。フルルだって連れてきたことないよ。ちょっと恥ずかしいとこ見られちゃったけど、許してよね。それから、このことは誰にも内緒だから」
私が泣いたことも含めてね、と笑ったリンウェルは、自分のよく知るリンウェルだった。吹っ切れた、と言うわけではないにしろ、一旦は落ち着いたのだろう。
ここへ来る時のあの重苦しい空気もすっかり消え去っていた。むしろリンウェルの足取りは村を出た時よりもずっと軽くなっているようにも見える。ついさっきまでこの世の終わりみたいな泣き方をしていたというのに、まるでそんなことがあったふうには見えない。なにはともあれ、リンウェルの気が少しでも軽くなったのならそれでいい。
「あれ、ちょっと待って」
歩き出してしばらく経った頃、リンウェルが立ち止まって言った。
「道、間違ってるかも」
辺りをぐるりと見回したと思うと、今度は鞄を漁って地図を取り出す。それを険しい顔で眺めながらうんうん唸っているところを見ると、どうも現在地を見失ってしまったらしい。
森を出たのが夕刻前ぐらいで、今は日も落ちかけているというのに、付近には人の足跡一つ見当たらなかった。言われてみれば、確かに来る時はこんな道を通らなかったようにも思う。とはいえどこで道を違えたかも分からないので戻りようもない。
「方角は間違ってないと思うんだけど。どうしよう」
「どうしようたって、こんな開けたとこで野営するわけにはいかねえだろ」
自分たちが今立っているのは言ってしまえば平原にも近い。身を隠す場所もなければ風を凌ぐ方法もなく、二重の意味で危険に晒されてしまう。
「せめて林の中とか廃屋とか、そういうとこ探そうぜ」
日は一旦落ち始めると後が早い。星が浮かび始める濃紫の空を見る限り、辺りが暗闇に包まれるまではもはや時間の問題だ。
視界が取れるうちにとランプを取り出すと、手早く火を点けた。ズーグルが光に寄ってくる可能性もあるが、自分もリンウェルもこんな状況であっても戦闘は出来る。視界の悪さに足を踏み外すよりよっぽどいい。
リンウェルは何か言いたそうな顔をしたが、すぐに諦めたのか何も言わずに俺の後ろについた。
「ゆっくり歩いてよ」
上着の裾を引かれる感覚に、俺は言われなくともとできるだけ歩幅を小さくして一歩一歩前へと進んだ。
そのうち見かけた林は身を隠すのに適しているように見えた。木々の間を縫ってやや進むと、獣が通った後だろうか、木の生えていない部分が線を引くように続いていた。
「なにこれ不気味……」
「巨大ズーグルの足跡じゃねえといいんだけどな」
「嫌なこと言わないで」
軽口を叩き合いながら、連れだってそれを辿っていく。できればこの先に野営のしやすい、木々の陰になった場所があればいい。そう願っていたのだが、自分たちを待ち受けていたのは予想だにしていないものだった。
石、いや、レンガ造りの建物。小ぢんまりとはしているが、正面には大きな扉が付いていて、そびえる尖塔はどことなく荘厳さを感じさせる。
「なんだ、こりゃあ」
呆気に取られて見上げるばかりの俺に、リンウェルはぽつりと言った。
「知ってる。本で見たことあるよ。多分、教会っていうやつ」
「キョウカイ?」
リンウェルは引き寄せられるようにして建物に近づくと、その大きな扉に触れた。
「ずっと昔の話だけど、人々が集まって祈りを捧げる場所だったんだって。ダナに残ってるなんて思わなかった……」
感慨深そうにそれを撫で、仰ぐ仕草はあの森で見たものによく似ていた。だがそれも、ほんの一瞬で終わる。
「入ってみない?」
「え?」
「中見てみたい!」
ぱあっと表情を変えたリンウェルの目は好奇心で満ちていた。これは拒否したところで無駄だ。ひとりでも勝手に入っていってしまうだろう。
仕方ない、と扉に近づき、手を掛ける。木製のそれは随分長いこと使われていなかったせいか、ともすればあっさり砕けてしまいそうだった。
「壊さないでよ」
「わ、わかってるっつの」
圧をかけられながらも、大きなハンドルをゆっくりと引く。ぎぎ、といかにもな音を立てて開かれたそれの内側には、見たこともない空間が広がっていた。
まず目に入ったのは整然と並んだいくつもの木椅子だった。真ん中に一本道を通すようにして両脇に控えた椅子たちは、ひたすらに真っすぐ前を見つめている。
ランプの明かりをかざしてやれば、奥の壁には格子のはめられた大きな窓が取り付けられていた。左右の壁にもいくつもの窓が対称になるように並んでいて、それだけでもこの場所が単なる住居でない、特別な場所なのだと理解できる。
「すげえな……」
「うん。小さいけど、やっぱり教会だと思う。こんな森の中に隠されてたなんて知らなかった」
侵攻したレナも知らなかったのか、あるいは歯牙にもかけなかったのか。どちらにしても手つかずのままここに放置された建物はこの三百年の時を生き長らえたらしい。とはいえ長い間風雨にさらされた建物は壁こそ残っているものの、天井の一部は崩れ落ち、大きな穴が空いていた。そこから降った雪が端に積もっていて、ここは外なのかそうでないのかも曖昧だ。
「ほんとすごいね。おとぎ話の中にしか存在しないと思ってたよ」
それでもリンウェルの機嫌は上々だ。遺跡とはまた違った古代の建物に触れて、はしゃいでいるのだろう。こんな薄闇の中でもその瞳が光り輝いているのがわかる。
「あ、ちょっと。ロウ、こっち来て!」
リンウェルが手招いた先には、何か箱のようなものが置いてあった。それもただの箱ではない。高さが人の背丈ほどもある大きな木製の箱で、外から見る限りでも中に大人が数人は入れそうだ。ランプで明かりを照らしてみると、案の定というべきか、その両端には扉のようなものがついている。
「なんだよ、これ」
「多分だけど、告解室じゃないかな」
「こ、コッカ……?」
リンウェルの口から、また聞き慣れない言葉が出てくる。それも今度はとても言いにくい。
リンウェルが片方の扉を開けて言った。
「ロウはそっちに入って」
「え?」
「いいから」
言われるまま扉を開ける。が、中にはこれといった装飾も何もなかった。あるものといえば人が腰掛けられそうな位置に板が一枚張ってあるだけで、扉を閉めてしまうとその狭さに息が詰まりそうになる。
「聞こえる?」
壁を挟んだ隣の空間からはリンウェルの声がした。どうやら壁に付いているこの格子状の小窓から聞こえてくるようだ。その先にリンウェルがいるのだろうが、暗くて中はよく見えない。
「聞こえるぜ。なんなんだよ、これは」
木の板に腰を下ろそうとして、これが300年以上前の遺物であることに気が付いた。うっかり壊せばまた雷が落ちるだろうなと思い直し、壁に背を持たれるに留めておく。
「もしかして、かくれんぼ専用か?」
「そんなわけないでしょ。ここはね、罪のゆるしをもらうところなんだよ」
「罪のゆるし?」
リンウェルの放った言葉はこれまでのものとは違って意味は分かる。分かるが――。
「ここで自分が犯した罪を告白して、反省して、ゆるしてもらうんだって」
本で読んだ、とリンウェルは言った。
「ゆるしてもらうって、誰に」
「それは知らないけど。教会には神父さんっていう偉い人がいて、その人に聞いてもらうとかなんとか」
「へえ、なかなかの趣味だな。そのシンプって人は」
人の罪を聞き出して反省を促すとは、結構な身分をお持ちのようだ。
「だから顔が見えないような作りになってるらしいよ。誰がどんな罪を犯したか分からないようになってるんだって」
「なるほどな」
それでこの格子窓かと納得する。確かにこれなら声は聞こえても、外の扉をわざわざ開かない限り顔まで確認することはできない。まさか、この時代は罪人にまで配慮がなされていたなんて。それ以下の扱いだった奴隷の自分たちはつまり、罪人よりも下の存在だったというわけか。
「はいじゃあ、どうぞ」
突然リンウェルが言った。
「どうぞって、何が」
「決まってるでしょ。罪の告白だよ」
さも当然のように言われて、俺は面食らう。
「罪?」
「あるでしょ、一つや二つくらい。私が聞いてあげる」
「顔も何もかも知られてるお前に言ってどうすんだよ」
「そこはしょうがないから、他言無用ってことで」
リンウェルが小さく笑ったのが分かった。
「私の罪は聞いたでしょ」
その言葉にはどきりとした。
リンウェルの罪。あの森で聞いた話が頭の中に過る。
「だから、今度はロウの番」
おどけた調子でリンウェルが言った。「何か悔やんでいることはありますか?」
俺はとうとう観念して息をついた。
己の罪。己が犯してきた過ち。
「そんなの、ありすぎるだろ」
悔やんでいること、償いたいこと。むしろ自分のこれまでの足跡はそれらでできているといっても過言ではない。
天を仰ぐと、頭の後ろが狭い個室の壁にぶつかった。黴臭いにおいが、どこからか紛れてくる。
「国を出たことも、その先で仲間を死なせちまったことも、生きるためだからって〈蛇の目〉に入ったことも、全部悔やんでる」
「おまけに親父は死なせちまうし、相変わらず中途半端に生きてるし、今だって仕事もみんなほっぽり出してよくわかんねえ場所をふらふらしてんだぜ。罪ってんなら数えきれねえよ」
本当に、数えきれない。傷つけた人、償わないといけない人。〈蛇の目〉に与していた頃も含めて、犯した罪の数はどれだけだろう。生きるためには仕方なかったとはいえ、与えた痛みはなかったことにはならない。
「それなのにのうのうと生きて、手柄立てたら褒められて、へらへら笑ってんだからよ。俺を憎んでる奴からしたら面白くねえよな」
逃げ癖がついたのはいつからだろう。国を捨てた時からか、シスロディアで仲間を失った時か。あるいは生まれつきそうなのかもしれない。
いつかの自分は、強大な敵を前に怖気づいて逃れることを恐れていた。いざという時、仲間を見捨ててしまうんじゃないかと、それを何より怖がっていた。
ところが今の自分はどうだ。目の前に敵なんかいない。頼もしい仲間たちの手は自分を確実に前へと導いてくれている。
それなのに自分はまだ何かに怯えている。怯えて、震えて、ひとりここまで逃れてきた自分が真に恐れていること。
「俺は恵まれすぎてる」
恵まれすぎて、怖くなる。
世界にはもっと自分なんかより恵まれていい、恵まれるべき人間が大勢いるはずなのに。どうして自分なんかが光を浴びているのだろう。
「ロウは、」
リンウェルは静かに言った。
「ロウは、赦せないんだよね。たくさん罪を重ねてきた自分が。そんな自分が幸せに暮らしていていいわけがないと思ってる」
「……」
「心のどこかで裁かれたいと思ってる。裁かれるべきだって、そう思ってるんでしょ」
返事はできなかった。肯定して悲劇ぶることはしたくない。だからといって否定で心を欺くこともできない。リンウェルの言う通り、自分は自分を罰したくて仕方ないのだから。
「ロウは多分、一生自分を赦せないんだと思う。何があっても、どんなことをしても、きっと赦せない」
リンウェルの声は予言めいて聞こえた。それはその口調からか、あるいはこの異様ともいえる場所がそう感じさせるのか。
確信というよりもただあるがままの事実を述べているようにも聞こえたそれは、じわりとインクが滲むようにして俺の中に染み込んでいく。
「ロウは生きている限り、自分を赦せない。自分のしてきたこと、犯した罪を胸にいくつも刺したまま生きていく」
催眠に掛けられたような、どこか自分が自分じゃないような心地でそれを聞いていると、
「でも、だから、」
リンウェルがごく穏やかな口調になって言った。
「私だけはロウを赦してあげる」
それこそ何か魔法のような言葉だった。
「ロウがどんなに自分を赦せなくても、私は赦すよ」
赦す。
俺の罪を、過ちを。
「幸せになっちゃいけないって思ってても、私だけはそれを赦すから、だから――」
「ああ、」
俺は静かに呟いた。
「何があっても、リンウェルがどれだけ過去を赦せなくても、俺だけはお前を赦す」
赦す。
リンウェルの罪を、過ちを。
「だから俺もお前も、自分を赦さなくっていい。そういうことだろ」
「いつか赦せるならそれに越したことはないけどね」
その日はきっと来ない。自分もリンウェルもきちんと分かっている。分かっているからこそ、互いが必要なのだ。
「約束だよ」
リンウェルが格子の小窓からこちらを覗き込んできた。
「ああ、約束する」
差し出された小指に、見よう見まねで自分のそれを絡める。これも古くから伝わるおまじないのようなものなのだと、リンウェルは言った。
風を凌ぐならこれ以上の場所はないと、今夜はここで一晩を明かすことにした。リンウェルは周辺から枝をかき集めてくると、躊躇うことなくそれに火を点ける。
「いいのかよ、こんなとこで」
半分くらいは朽ち果ててしまっているとはいえ建物の中だ。それも隅でなく、こんなど真ん中に焚火を焚くなんて。
「仮にも祈りを捧げる場所なんだろ」
俺がそう言うと、リンウェルは少し驚いたように言った。
「へえ、ロウでもそういうの気にするんだ」
「そりゃ、少しはな。こんな大げさな装飾見せられたら、嫌でも実感させられるだろ」
ここは他より特別な場所で、祈りをささげるという行為を大事にしてきた人間がいる。自分はそれとは何の関係もなければ信仰心も持たないが、それを蔑ろにするのはまた違う。
「ロウの心配ももっともだけど、大丈夫だよ」
リンウェルははっきりと言い切った。
「教会は確かに祈りを捧げる場所なんだけど、救いを求める場所でもあったんだ。私たちは今夜一晩救いを求めてここへ逃れてきたってわけ。それをダメだなんて言うはずないでしょ」
「そんなもんか?」
「そんなもんそんなもん。ほら、パン焼けたよ」
リンウェルが軽く炙ったパンに焼いたソーセージを挟んで寄越した。こんな時簡単に出来上がるホットドッグは重宝する。
それを頬張りながら辺りをぼうっと見回していると、リンウェルが何かを思いついたように言った。
「そういえば、教会でできることがもう一つあるんだけど、なんだと思う?」
また突拍子もないことを。今日初めてその存在を知った俺に分かるわけがない。
「さあ?」
「ちょっとくらい考えてよ! ……って言いたいところだけど、ロウには難しいかもね。実演してあげよっか」
「実演?」
「そう、実演」
ほら立って、と夕餉もそこそこにリンウェルに腕を引かれ、無理やり連れられたのは建物の中央、祭壇らしきものの真ん前だった。
「はい、こっち」
そこで手を取られたままリンウェルと向かい合う形になり、俺の心臓は騒がしくなる。なんだこれは、何かの儀式みたいだ。
「たしか、『病める時も健やかなる時も』……だっけ」
リンウェルは時折視線を宙に投げ、記憶の中を探るように遠い目をしながらぽつぽつ言葉を呟く。
「えーと次は、『富める時も貧しき時も』……だったかな」
そうして最後に何かをはっきり思い出したかのように目を輝かせると、こちらの目を真っ直ぐ見つめて言った。
「『相手を敬い、慈しむことを誓いますか?』」
「……はあ?」
思わずそんな声が出た。出てきた言葉が難しすぎて意味が分からないのだ。
そもそも文章がこま切れになりすぎている。たとえ繋げてみたところで、自分には理解できないのだろうとは思うが。
それでもリンウェルはじっとこちらを見つめたまま手を離そうとしない。その目にはどこか期待のようなものも浮かんでいるような気がする。
期待とは。一体俺は何を期待されているというのか。
「あー……えっと……」
言葉を濁して返事に戸惑っていると、とうとうリンウェルがしびれを切らした。
「いいから、誓うの? 誓わないの?」
強い口調で迫られ、俺はつい、
「ち、誓う……! 誓い、ます……?」
何かを誓わされてしまった。
「そっか、誓うんだ」
ふふ、と笑みを漏らしたリンウェルはそこでようやく俺の手を離すと、スキップ混じりに焚火の元へと戻っていく。
「ちなみに今のは、結婚式の誓いの言葉だよ」
「け、結婚!?」
「皆の前で、相手を一生大事にしますって約束するんだって」
なんてこった。知らず知らずとはいえ、俺はリンウェルに一生の愛を誓ってしまったのか。
「お、俺は別にそんなつもりじゃ……!」
動揺を隠しきれない俺にリンウェルは、
「分かってるよ。今のはただのお遊戯。実演だって言ったでしょ」
と小さく息を吐いた。
「それに、無理やり言わせたんじゃ意味ないし」
「え?」
「なんでもなーい」
それよりほら、とリンウェルが指を差したのは、崩れた天井の隙間だった。
瓦礫の凸凹に切り取られた夜空が頭上で星を瞬かせている。それは今にも零れ落ちてきそうなほどで、手を伸ばせばそのどれかに届きそうな気がした。
「メナンシアでも星は見えるけど、なんでだろう、シスロディアの方がきれいに見える気がする」
「やっぱりそう思うか? 俺もそんな気がしてた」
冷たく凍えるような空気がそうさせているのか。とはいえ昨夜あの小さな村で見た星たちよりも、今見ている星の方がずっときれいだと思えた。
それは何故だろう。考えてみても答えは一つしか浮かばない。横目に空を見上げるリンウェルの横顔を盗み見る。その瞳の輝きは空の星を映しているからか。あるいはリンウェルの瞳そのものが星なのかもしれない。
どちらにしたって、自分はひとりで星空を見上げるなんてやっぱりガラじゃないなと思った。誰かに示されてふと視線を上に向けるくらいがちょうどいいのだ。
焚火の火が小さくなる。ふと動いた影はリンウェルのもので、じりじりとこちらに寄ってきたそれは俺のすぐ隣で動きを止めた。
「今日は寒いから」
そう言ってリンウェルが俺の肩に頭を乗せる。薪の弾ける音以外は静まり返ったこの空間で、自分の心臓だけがうるさい。
それでもと俺は毛布を鞄から手繰ると、片方の端をリンウェルの肩に掛けた。そしてもう片方を自分の肩へと引き、心持ちリンウェルの方へと身体を寄せる。
今はこれで許してくれ。そう心の中で呟くと、仕方ないなあ、とリンウェルが小さく笑った気がした。
翌朝、目を覚まして手早く荷物をまとめると、俺たちは早々に建物を後にした。夜はまだ明けきらないとはいえ、充分視界も取れるしズーグルの気配もない。これから道を取り戻すのにどれくらいかかるかは分からないので、出立が早いに越したことはない。
林を抜けて見晴らしの良い平原に出た後、リンウェルは昨日同様コンパスを片手にうんうん唸っていた。握り続けた地図には皺が寄っている。このままではそのうち穴が開いてしまいそうだ。
「方向は間違ってないと思うんだけどなあ」
そう言ってリンウェルはどこか不安げに針の指し示す方へと歩き出した。村を出たときはあんなに自信満々に歩みを進めていたのに、今はその影も見えない。
俺は黙ってリンウェルの一歩後ろをついていった。小さい足跡だな、とか、当たり前だが、自分より歩幅が小さいなとか、色々なことを考えながらその背中を追った。
いつの間にか自分たちは林の中に入っていたらしい。線の細い木々の合間をすり抜けつつ前へと歩みを進めていると、ぽつりとリンウェルが言った。
「ごめんね」
はじめ、それが何に対して発されているのか分からなかった。
「何がだよ」
「無理やり言って付いてきてもらったのに、迷うことになっちゃって」
それを聞いて俺は、なんだそんなことか、と思った。
「別に、大したことじゃねえよ」
「そう? 辛気臭い場所にも連れてっちゃったし、楽しくない話も聞かせたのに」
「ついてくって決めたのは俺だろ。話だって、お前のこと知れて嬉しかったぜ」
距離を縮められたなんて言わないが、本当のリンウェルを少しだけ垣間見た気がした。それはきっとまだほんの一部なのだろうが、それでも俺は嬉しかった。それを見せてもいい相手として認められたようで嬉しかったのだ。
「見たことないもんいっぱい見れたし、お前といると飽きねえよ」
「それなら、良かったけど」
良かった、という声色には聞こえないが。
どうもこいつは変なところで気にしすぎる部分がある。俺にまでそんな気を遣う必要はないのになと内心ため息を吐いていると、突如リンウェルの声が上がった。
「あっ! あれって街道じゃない?」
リンウェルが指差した先には、確かに木々のない開けた道が一本走っているように見えた。とはいえまだここからでは少し距離があり、どの程度の幅の道なのかも分からない。
「街道に出ればさすがにどこかの街には繋がってるよね!」
「おいおい、そんな急ぐなって」
それでなくともこの先には急斜面が広がっている。足を踏み外せば雪玉のごとく転がり落ちていってしまいかねない。
「大丈夫大丈夫。ゆっくり下りれば……」
そう言ってリンウェルが一歩目、二歩目を踏み出した時だった。
「あれ?」
リンウェルの身体が前方に傾く。反射的にその腕を掴み、引き留めようとするが、遅かった。
「きゃあああっ」
リンウェルの悲鳴とともに、前のめりになった自分までもが重力を失う。踏みとどまろうと思った場所に地面はなかった。雪と、それを支えていた植物の触れ合う乾いた音だけが耳に届いた。
体が浮くような感覚に息を呑む。思わずぎゅっと強く目を閉じる。
だがそれもほんの一瞬で終わった。背と尻に軽い衝撃、そして降りかかってくる冷たいもの。おそるおそる目を開けるとそこには自分同様、頭の上からへたり込んだ脚にまで白雪を纏わせているリンウェルの姿があった。
リンウェルは呆然としていた。まるで何が起きたか分かっていない表情で、こちらをぼうっと見つめている。
「おい、大丈夫か?」
その声に小さく反応を見せると、リンウェルは辺りをきょろきょろと見回し始める。そうしてようやく自分の状況を把握したようだった。
「ケガないか?」
「うん……でも、」
リンウェルが何度か目をしばたたかせる。
「死ぬかと思った」
それは自分もちょっと覚悟した。覚悟し終わる前にはもう、地面に着いていたが。
俺は脚に力を込めて立ち上がると、リンウェルの腕を引いた。
改めて見るとお互いすごい恰好だ。防寒具は白く染まって、ブーツの隙間から入った雪が冷たい。髪はまるで水を被ったみたいに濡れてしまっていた。
「ロウ、ひどい髪だよ。ぺっちゃんこ」
「お前こそすごいことになってるけどな。額にワカメみたいに張り付いてんぞ」
互いの顔を指してそんなことを言い合っていれば、じわじわと笑みが込み上げてくる。次第にそれは大きくなって、辺りの木々に反響した。
「もう! びっくりさせないでよね! 本当にもうダメかと思った!」
「俺こそ肝が冷えたっつーの! ちゃんと足元確かめてから下りろよな!」
まったく、迷い道から帰り道を見つけて、その途中で黄泉路に入るなんて笑い話にもならない。行先を知る人が互いしかいない時に限ってどうしてこうも危ない橋を渡りがちなのだろう。
それでいて笑いが止まらないのも不思議だ。もしかしたら恐怖のあまり、二人とも頭のどこかのネジが外れてしまったのかもしれない。
あるいは心が緩んだからか。
「あー生きててよかった!」
その安堵は何に向けられたものか。ほんの数メートルの崖を転がったにしては歓喜に満ち満ちたその声に自分も大笑いで同調すると、同時にやっぱり飽きないなと過去の自分の発言を再確認したのだった。
リンウェルが見つけた道はやはり街道だった。しかもそこそこの大きさを持つあたり、きちんと地図にも記載のあるものだったらしい。
「よかった。これでちゃんと帰れるね」
リンウェルはそう言って息をつく。その逸る気持ちがあの崖転落を引き起こしたというのに、そんなこともすっかり忘れているような声色だ。
一方で俺はといえば気が重い。リンウェルがついた息とはまったく違う毛色のため息が、雪の積もる地面に落ちていく。
「何よ、まだ独りでいたいの?」
「ちげえよ。今帰ったら、すげえ怒られるだろうなって」
何せ仕事を全て放り出してきたのだ。しかも何の連絡もせず、どこにいるのかの所在も不明ときた。誰からそうされるかは見当がつかないが、長いお説教を食らうことは間違いないだろう。
「なんだ、それなら私が一緒に怒られてあげよっか?」
リンウェルはあっけらかんとそんなことを言った。
「誘ったのは私なんだし」
「バカ言うな。んなみっともねえことできるかよ」
たださえ仕事をサボったというのにその間女――リンウェルと一緒にいただなんて、皆に知られたら冷やかされるどころじゃ済まない。加えてその女を連れて謝罪に現れるとか、親父が見たら卒倒モノだ。これまでの人生に胸は張れなくとも、せめてこれ以上の恥の上塗りは避けたい。
とはいえ何をどう説明しよう。リンウェルの故郷に行ったことは秘密だと約束してしまったし、この足りない頭でうっかり口を滑らせやしないかとそれも少し心配ではある。
考えれば考えるほど心は重たくなっていく。まあそれもこれまでの自分の行いの結果であることは否定のしようもないのだが。
「怒られて、それでまたいじけたら、いつでも会いに来ていいんだよ」
「いじけたとは言ってねえだろ」
「いじけてなくても、会いに来ていいよ」
「……そうだな」
それでも、これからはきっと大丈夫だと思えた。おそらく俺はもう独りで見知らぬ場所を彷徨うことはない。
どこかで星を見上げた時。鐘の音を聞いた時。俺はきっとこの日のことを思い出す。
「あ、鐘の音」
遠くで響いたのは聞き覚えのある鐘の音だ。どうやらあの村が近いらしい。
リンウェルが跳ねるように足を早める。それに遅れないよう、自分も前へ前へと足を送る。
空には光が射し始めていた。
夜が明ける。今、黎明を告げる鐘が鳴る。
終わり