後悔ばかりの人生だ。
後ろを振り返るたび、これまでの足跡を辿るたび、私は強くそう思う。
自分の背後には、細く、長い道が連なっていた。真っすぐに見えるようで実は微妙に曲がったり、折れたりしている。一本道のようにも思えるのに実際にはいくつか分岐があって、差し掛かっては一つの道を選んできた。それが正しかったのかどうかは分からない。そもそも正解も何もないのかもしれない。
途中で落としてきたものもたくさんあった。落としたことにすぐに気が付いてその場で拾うものもあれば、気が付かないでそのままにしてきたものもあるだろう。
落としたことに気が付いているのに拾わないでいたものもあった。いずれ忘れるから、また拾う機会もあるだろうからと、さほど気にせずに放置したのだ。それが人生で一番大切なものであったのに、その価値にも気が付かないで。
もう二度とそれを拾うことはできない。私は永遠にそれを失ってしまった。
私はまだ悔やんでいる。悔やみすぎて、それのまぼろしが見えるようになってしまうほどには。
今夜も、何もないはずの場所に向かって手を伸ばす。どうかもう一度と縋りつく私は、願うようでも、何かに取りつかれているようでもあった。
◇
星の瞬く夜は読書に最適だ。静けさに集中力も高まって、目で追った文字がするすると頭に入ってくる。
それは夜が深まるほどに上り調子で、昼間〈図書の間〉にいる時よりも捗る気がした。ほかの文献がない分、目移りする必要がないのもまた効率的になれる要因なのかもしれない。
今夜の調査も順調だった。この文献は当たりで、知りたいことが詳細に書かれていた。この分なら明日にはまた新しい調査を始められるかもしれない。そのついでにもう1ページだけ、と本を捲った時、
「おい、また夜更かしか?」
後ろから声がかかって、手を止めた。驚いて振り向くと、そこには寝間着姿のロウが腕組みをして立っていた。
「ちょっと、びっくりさせないでよ」
「声かけたのに返事しなかったのはそっちだろ。時間、とっくに過ぎてるんだぜ」
え、と時計を見やれば先刻声を掛けられてから長針がまるっと一周していた。嘘だ。体感ではまだ5分とか10分とか、その程度しか経っていない。
「まだシャワーも浴びてねえだろ。歯磨きも着替えもこれからやりゃあ充分夜更かしになるんじゃねえの」
呆れた様子でロウは言った。確かに、今からしっかり寝る準備を整えていたら日付が変わってしまうかもしれない。
「シャワーは朝浴びる。今夜はもう寝るから、それでいいでしょ」
私は音を立てて本を閉じると、洗面所へと向かった。ボタンを外してブラウスを脱ぎ、寝間着へと着替える。
寝室の方からはロウの「靴下裏返しにすんなよ」というありがたい忠告が聞こえた。私はその言葉に従うまでもなく、靴下をきちんと表側に返してから洗濯カゴに入れた。
歯を磨いて寝室に向かうと、ロウは薄暗い部屋のベッドで既に寝息を立てていた。昼間はあれだけおしゃべりでやかましいほどなのに、眠るときのロウは本当に静かだ。その呼吸音すら聞こえてこないから心配になったこともある。あの時は胸が上下しているのを見て安堵した。
今夜のロウも静かだった。さっきまであんなにキャンキャン言っていたのに、自分だけ落ち着いて眠りに入るなんてずるい。
ほんの少しの苛立ちを抱えながら、私は毛布にくるまって目を閉じた。胸のざわつきのせいか、意識が落ちるまでには少し時間がかかった。
朝になって目を覚ますと、隣にロウの姿はなかった。代わりにキッチンの方からドタドタと慌ただしい足音が聞こえたと思うと、開いたドアからロウがひょっこり顔を出す。
「お、起きたか」
「うん……」
「俺もう出るな。朝メシ作っといた。簡単で悪い」
ロウがあちこち部屋を動き回りながら鞄に着替えや何やらを詰め込み、早口でまくし立てる。
「家出るときはカギ閉めろよ。昼メシも抜くなよ。夜は遅くなるかもしんねえから」
「うん……」
いってらっしゃい、という声はロウがドアを閉めた音でかき消された。
まだ冴えきらない頭のままベッドから立ち上がると、私はそのまま浴室に向かった。服を脱いでシャワーを浴びる。浴室を出てタオルで体を拭っていると、そこで初めて洗濯カゴの中身が空になっていることに気が付いた。
ロウがいつの間にか干していた洗濯物を眺めながら、ロウの作った朝食を食べる。これは毎日とは言わないまでも、この部屋ではよく見かける光景だ。
ロウが作った朝食はサラダにハムエッグにトースト。今朝はカットフルーツまでついたちょっと豪華版だった。
それをちまちま口に運んでは、グラスに入ったミルクで流し込む。さすがにこのミルクだけは自分で注いだ。買ってきたのはロウだけれど。
ロウと恋人になってから2年。同じ部屋で暮らすようになって1年。ここに越してきた当初はいったいどんな暮らしをしていたかはもうあまり思い出せない。少なくともこんな生活ではなかったということだけは確かだ。
旅を終えてからすぐにひとり暮らしを始めた私は、ロウと同棲を開始するまでに随分〈ひとり〉に慣れてしまっていた。汚部屋でこそないものの掃除は適当、夜更かしや食事を抜くのもごくありふれた生活の一部だった。油断すると洗濯物は裏返しのままだったり、どうせまたすぐに使うからと本や書類を机の上に積み重ねたまま寝落ちし、それが崩れた音で飛び起きたりしたこともあった。
それがロウと暮らし始めて大きく変わった。ロウは普段だらしがないように見えて家の中では意外とマメだった。食事は1日3回きちんと摂るし、夜更かしもしない。洗濯物も表に返すし、干し方畳み方はキサラに教えられた方法を今でもしっかり守っていた。
仕事の都合上、比較的朝の早いロウに合わせて生活するようになると早起きは必須、洗濯もこまめにしておかないと追いつかなくなってきた。はじめこそ気合を入れていたものの、それが毎日ともなるとさすがにしんどい。朝食は早く起きた方が作ろうという取り決めは、結局ロウが仕事に行く前の仕事を一つ増やしただけだった。
代わりに私は夕飯をきちんと作るようになった。ひとりの時は果物やパンを一切れ齧るだけで済ませた日もあったが、今はそうもいかない。疲れて帰ってきたロウにそんな食事を出しては失礼だし、ロウに喜んでもらいたい気持ちもあってしっかり献立を考えるようになった。
ロウはいつも私の作った食事を美味しいと言って食べてくれる。スープの一滴だって残したりはしない。そうして私は食事でおなかを満たし、さらにロウの言葉で心まで満たされるのだった。
ロウに合わせて早寝をするようになってからは慢性的な睡眠不足までもが解消されつつある。好きな人と一緒にいられるだけでなく健康まで守られて、自分は随分と恵まれているようだ。こんな幸福の中に生きられるだなんて、ほんの数年前までは想像すらできなかっただろう。
その一方で、たまに、ほんのたまに、以前の生活が恋しくなることもある。
例えば、今こうしてロウが用意してくれた朝食も少し量が多い。朝からそんなに多くは食べられないし、だからといって残すのは作ってくれたロウに悪い気がする。
昨夜読んでいた本だってもう少しで章の終わりだったのに、ああして何度も声を掛けられては中断せざるを得ない。着替えも歯磨きも急かされてしまってはゆっくりベッドに入ることもできなくなってしまう。
ほかにも疲れた日は夕飯を手抜きしたくなるとか、洗濯物についてとやかく言われたくないとか、小さなもやもやは尽きない。どれもこれもロウに直接言えばいいだけなのに、そうしないのは単なる自己保身というか、口にするのはどうしても気が引けるのだった。自分の主張がただのわがままで、ロウの方が正しいと分かっているからこそ、なおさらだ。
――ロウがいなければ、もっと自由なんだけどな。
掠めていった考えにハッとした。すぐに頭を勢いよく振って取り払う。何を考えているんだろう、ロウには感謝してもしきれないほどなのに。
二人で暮らすとはそういうことの連続だ。互いの生活を変えてまで一緒にいることを選んだのだから、以前と同じようにいかないのは当然のこと。ミルクを口いっぱいに含んで、一気に喉の奥へと飲み込んでやる。胸の中に渦巻いたどす黒いものをまるごと洗い流すつもりで。
それでもまだ何かつかえているような気配がするのは、気のせいだろうか。いや、それこそ勘違いだ。私はロウが好きだし、ずっと一緒にいたいと思っている。それは絶対に絶対、嘘じゃない。
どうせこんなの、一過性のものだ。数日もすればくだらない考えは薄れて消える。あるいは今夜また、ロウが「美味しい」と言いながら自分が作った食事を食べてくれればその瞬間、きれいさっぱりどこかへ消し飛ぶはず。
そう自分に言い聞かせて、私は空になった食器を前に手を合わせた。ごちそうさま、とひとり呟いた声が部屋に響くのを聞きながら。
ロウが死んだのはその日の午後のことだ。
メナンシアとシスロディアを繋ぐ海洞で落盤事故があった。たまたまそこを通りがかっていた商隊が巻き込まれ、商人と護衛数名に死傷者が出たのだった。
宮殿の兵士からを聞いた私は、とてもじゃないがそれを現実として受け止めることができなかった。一瞬で全身から血の気が引いていった気がした。すうっと自分の中から何かが抜け出していって、自分自身が希薄になっていくような、そんな感覚がした。
「ロウに会わせて」と無理やり頼み込んだ私が連れられた先は病院ではなかった。
街道にもっとも近い宿屋の一室にロウはいた。ドアノブにかけた手が震えて、部屋に入るのには数秒を要した。
ドアの隙間から覗いたのは、ベッドに横たわっているロウらしき存在だった。全身に白い布が掛けられ、その端々には生々しい血痕が滲んでいる。
ふらりとそれに近寄ると、胸がどきどきと鳴った。そこでふと隣に人の気配を感じて顔を上げたが、そばに立っていたのは白衣姿の男性で、どうやら医師のようだった。
「ご覧になりますか」
その言葉に小さく頷くと、医師はロウの顔に掛かった布を捲ってくれた。
布の下から現れたロウは、まるで眠っているようだった。いつも部屋のベッドで見るのと何ら変わらない。ロウ、と声を掛ければ今にも起き上がりそうなのに、二度と起き上がらないのだろうなということもはっきり分かった。
布に隠れた胸を見て、かつて「寝息が静かすぎる」と理不尽な文句を垂れたことを思い出す。ロウの胸はもう上下しない。ロウは静かな寝息を立てているのではなく、もう本当に、息をしていないのだ。
どうして――。途端に視界が滲んだ。
昨日まで、今朝家を出る時まで元気だったのに。遅くなるかもと言いつつ、いつもと似たような時間に帰ってきて、今夜も一緒に夕飯を食べるものだとばかり信じ込んでいた。
だって、疑う余地なんかない。あるはずもない。まさかロウが突然死んでしまうなんてそんなこと、考えたこともなかった。
たとえ考えたことがあったとして、じゃあこの事実を素直に受け止めることができたかと問われれば、それは到底無理な話だ。同じように衝撃を受けて、同じ涙を流すに決まっている。
勇気を出して触れたロウの額はひんやりとしていた。家の戸棚にある食器みたいだ。これは器。もう中身はない。
擦り傷の付いた額、端の切れた唇、血の通っていない頬。どれもこれも、ロウの一部なのにそうじゃない。
誰なんだろう、これは。
目の前に横たわるロウは本当にロウなのか。偽物なんじゃないのか。もしそうだったらどんなにいいだろう。
今なら許してあげるよ。私を驚かそうと思ったって、物陰から現れても笑い飛ばしてあげる。そう心の中で呟いた声には、誰からの返事もなかった。
その後、宿にシオンたちがやってきた。皆同様に息をのみ、そしてすぐさま部屋は嗚咽に包まれた。
私の肩を抱いたのはシオンとキサラだった。二人の手も震えていた。三人で丸まるように涙を流していると、私たちを大きな影が覆った。アルフェンとテュオハリムだった。そうしてまた5人で泣いた。一度に5人もの大人を泣かすなんて、ロウはなんて罪作りなんだろう。
ロウの葬儀の準備はテュオハリムが中心になってくれた。大事にはしたくなかったが、ロウには知り合いも多いだろうと各地に知らせを出したようだった。
実際に葬儀に集まった人の数は予想以上だった。これだけの人がロウを慕っていたのかと驚き、また誇らしかった。そんな人の恋人で、一緒に居られて自分は本当に幸せだったのだ。
皆が涙ながらに別れを告げ、最後は火葬でロウを送った。これは私の提案によるもので、ロウにはどうしてもダナに還って会ってもらいたい人がいた。同じ葬られ方じゃないと会えないだろ、と言ったのはいつかのロウだ。それをまた、それもこんなにも早く繰り返すことになるなんて思いもしなかった。せめてあちらの世界でジルファに少し怒られていてほしい。
葬儀を終えた日の夕方、私は一度家に戻ることにした。
「本当にひとりで大丈夫?」
「しばらくうちに来てもいいんだぞ」
声を掛けてくれたのはシオンとキサラで、その表情は心底私を憂いているようだった。
その気持ちも充分理解できる。もし自分が逆の立場なら、同じように声を掛けるだろう。
それでも私は首を横に振った。これは強がりからではない。
「大丈夫。いつまでも家を空けるわけにもいかないから」
あそこは、あの部屋はロウと過ごした大切な場所だ。それを辛いからといって放置するのは良くないし、遠ざけられるロウも可哀想だ。
「ちょっとずつでも向き合わないと。心配しないで。辛くなったら真っ先に二人を頼るから」
そう言って二人の背に腕を回す。
「その時は、うんと甘えさせてもらうね」
「ええ、わかったわ」
「夜中でも明け方でも、いつ訪ねてきてもいい。遠慮はいらない」
二人の腕もまたこちらの背に回ると、再び鼻の奥が痛み出した。このままでは離れがたくなってしまうのは重々承知していたので、私は無理やり笑顔を作って二人と別れた。
自宅に戻るのはロウが死んだあの日以来だった。葬儀を終える今日までは宿に泊まったり、準備に追われたりで一度も家に帰っていなかった。
久々に見る部屋の周辺はなんだかいつもと違っている気がした。雰囲気が違うというか、やけに静まり返っている気がする。
それもそうか。家主がしばらく不在だったのだから。むしろいつも通りである方がおかしいのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は鞄から鍵を取り出した。これを使うのも久しぶりだなと思いつつ、錠を回す。
ドアノブを回して自然と「ただいま」の声が出た。もうその返事を返す人はいないのに。虚しさに息をついた瞬間、
「おー、おかえり」
聞こえるはずのない声が聞こえた。顔を上げると、ダイニングの椅子にロウが座っているのが見える。
どうやら自分は相当疲れているらしい。幻覚が見えてしまうほどに。
思えばこの数日はまともに睡眠時間を取っていない。あんなことがあっては眠れるはずもないが、それでも休息らしい休息すらとれていなかった。
強引にでも少し眠った方がよさそうだ、と思いながら、着替えを済まそうと寝室に向かおうとした時だった。
「おいおい、無視すんなよ」
突然目の前に映ったその人の顔に、私は息をのんだ。
「きゃああああっ」
そして一歩遅れて悲鳴を上げる。ロウだ。死んだはずの、ロウだ。
「な、なんで……っ」
足が震えて、声が震える。全身から力の抜けた私は、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「やっぱそういう反応になるよな。無理もねえか、死んだ奴が部屋にいるとか、そりゃビビるよな」
ぼりぼりと頭を掻くロウの仕草は生前とまるで変わらない。いや、よく見ると少し違っていた。違うというか、体がちょっと透けている。ロウの体を通して部屋の向こうが見えるのだ。
「……ゆ、幽霊?」
「そうなんのかな。なんでか知らねえけど、気が付いたらここにいたんだよ」
ロウは困ったような顔でそう言った。
ロウ曰く、目覚めたのはつい先ほどのことらしい。目を開けたら部屋のダイニングに座っていて、一時間もしないうちに鍵を開けて私が部屋に入ってきたのだとか。
「な、なんで死んだってわかるの? 覚えてるの?」
「はっきりじゃねえけど、なんとなくな。岩が落ちてきたことまでは覚えてて、そこから先の記憶がねえんだから、そりゃもう死んでるだろ」
そう言ってロウが肩をすくめる。
「ご、ごめん……」
「なんでお前が謝んだよ」
「嫌なこと思い出させて……」
そう言うと、ロウはけろりと笑って言った。
「別に、嫌でもなんでもねえよ。仕方ねえだろ、当たっちまったもんは。運が悪かったんだよ」
もう二度と返らないその出来事を、ロウはまるで気にしていないようだった。
「それより、お前どこ行ってたんだ?」
「どこって、ロウのお葬式」
「げっ、葬式!? なんだよそれ、んなことしなくっていいってのに」
「そういうわけにもいかないでしょ。ロウはこう見えて交友関係広かったんだから」
「こう見えてって、失礼だな。真面目に働いた結果だっつの」
もちろん理解している。それはもう痛いほどに。あれだけの人が集まって涙を流してくれたのだ、ロウの人望は相当なものだった。
「みんな、悲しんでたよ。シオンもアルフェンも……」
「そうか……」
ロウが小さく俯く。
「お前は?」
「……え?」
「お前は、悲しんでくれたか?」
どこか寂しそうな色をしたロウの瞳がこちらに向けられて、私は咄嗟に、
「当たり前じゃない!」と叫んでいた。その声はきっと、隣の部屋にも周りの家にも響き渡っていたと思う。
「当たり前でしょ……! ロウが、死んじゃったんだよ……!」
途端に鼻の奥が痛んで、視界が滲んだ。それを今日まで何度こらえてきただろう。
「……悪かった。辛い思いさせて」
ロウが私の肩に触れようとした手は、すっと肌を通り抜けていった。目にはそう見えているものの実際には何も感じず、部屋の重たい空気がただそこにあるだけだ。
「けど、ちょっと嬉しいとこもあるな。お前がそうやって悲しんでくれりゃ、俺も生きてきた価値があるってもんだろ」
どうしてまたそんな悲しいことを言うのだろう。ロウが死んでしまって、皆がどれだけ悲嘆に暮れたことか。あの葬儀の様子をロウにも見せてあげたかった。
「まあそんな悲しまなくてもいいぜ。俺もうしばらくここにいるから」
「え……?」
私が顔を上げると、ロウは小さく笑っていた。
「なんかよく分かんねえけど、まだ消える気がしないんだよな。成仏する気がしないっていうか」
ロウはあちこち自分の身体を見回しながら首を傾げる。
「なんでだろうな。お前にも会えたし、思い残すこともねえんだけど」
うーんと顎に手を当て、ロウは考え込む素振りをしているが、それはまるきり真面目でないことも分かっていた。
「というわけで、もうしばらくよろしくな!」
そう言ってロウが見せた満面の笑みには、私は戸惑いつつもただ頷くしかできなかった。
本人の申告通り、夜になってもロウは消えることはなかった。以前と同じように部屋を歩き回り、会話を交わして同じベッドに入った。
それでも当然変化はある。幽霊なのだから当然といえばそうだが、お腹は空かないらしい。ロウ曰く、「食べたところで何をどこから出すんだよ」だそうだ。
あとは睡眠に関しても同様で、特に疲れたり眠くなったりということもないらしい。食事と違うのは、睡眠はとろうと思えばとれるということだった。どういう仕組みなのかは分からないが、目を閉じていれば自然と意識が薄れていく感覚がするとのことだ。
「死ぬってこういう感じなのかもな」
ベッドの上で笑うロウにとってはほんの冗談だっただろう。でもそうなっている姿を実際に、それもついこの間目の当たりにした私にとってはあまりにも重すぎる言葉だ。
私が何も言えないでいると、ロウが「悪かった」と言って手を伸ばしてきた。
ロウの指が髪に触れる。感覚はないが、それでもその指が優しいことは分かる。
「……おやすみ」
その言葉をもう一度言えるだけでも奇跡なのだ。そう思って私は無理やり笑みを作ってみせ、数日ぶりの深い眠りへと身を委ねたのだった。
翌朝になって目を覚ますと、隣にあるはずのロウの姿はなかった。さあっと青ざめて飛び起き、寝室を出ると、そこにはキッチンに立つロウがいた。その半透明になった背中に思わずほっと胸を撫で下ろす。
「もう、おどかさないでよ。消えちゃったかと思ったじゃない」
「悪い悪い。朝メシくらい作れねえかなって思って」
どうやらロウは料理をしようと奮闘していたらしい。
「でもやっぱ触れないんだよな。当たり前っちゃそうなんだけど」
フライパンを手に取ろうとするが、やはりその指は柄をすり抜けてしまう。もっと軽いものならとトマトを持ち上げようとしても、それを揺らすことすら叶わなかった。
「くっそ、やっぱダメだ。触れねえ」
「椅子に座ったり、ベッドに寝転がったりは出来るのにね」
その際も当然椅子が音を立てたり、ベッドが軋んだりということはない。物に対して、音が鳴ったり目に見えたりするような影響は与えられないということなのだろうか。
「どっちでもいいよ。幽霊になってからもロウに料理させるなんて、怠け者にもほどがあるでしょ。これくらい自分でやらないと」
「それができなかったんだろ、今までのお前は」
「だから気持ちを入れ替えるって言ってるの。ロウも応援して」
私はそう言って、ロウの代わりにキッチンに立った。寝間着のままフライパンを握るのは随分と久しぶりのことだ。
朝食を食べ終えて身支度を整えると、ロウとともに家を出た。
「私以外にも、ロウって見えるのかな」
「いやあ、どうだろうな」
「声も? 私にしか聞こえないの?」
「そうだと思うぜ」
言った途端、ロウが通りの真ん中で大声を張り上げる。私は驚いて、その気恥ずかしさに顔を熱くしたが、通りを歩く人は誰一人としてその声には気が付いていないようだった。
「ほらな」
「ほらな、じゃないよ! いきなりびっくりしたじゃない!」
「お前こそ、そんな声で話してると周りから変な目で見られるぜ」
はっとして顔を上げると、近くにいた数人の通行者が私のことを怪訝そうな目で見ていた。
「気を付けろよ。俺もできるだけ黙ってるし」
ロウはそう言うと、本当に口を閉じてしまった。その目がやけに悲しそうに見えて自分も閉口すると、宮殿までの道をできるだけ早足で歩いた。
〈図書の間〉に着くと、奥の書架へと真っ直ぐ向かう。ここならあまり人も来ないし、静かなので小声で会話ができる。
道中、数名の友人たちに会ったが、皆どこかよそよそしかった。さすがに恋人を失った相手に何を話していいのか分からないのかもしれない。それも今は好都合と言えばそうだ。遠巻きにしてくれる分、ロウと気兼ねなく話すことができる。
「改めて聞くけど、ロウは成仏したいんだよね?」
私が訊ねると、ロウは「おう」と大きく頷いた。
「いつまでもお前の世話になるわけにはいかねえからな」
「それは別にいいけど……問題はその方法だよね」
今日はそれを調べるためにここへ来た。こんな超常現象について記載がある書物など見当もつかないが、それでも調べないわけにはいかない。
とりあえずと、それらしい本を片っ端から集めてはページを捲った。それらしくなくとも、パラパラと適当に捲ったところに「霊」なんて文字が見えただけでその本は手に取るに値した。
それでもやっぱり有力な手掛かりは見つからなかった。そもそもそういった「幽霊」に関しての記述がある本自体が少ない。あったとしてもそのほとんどが創作の物語で、体験談や伝承などはほとんど見当たらなかった。
「そっか、やっぱ見つかんねえか」
「さすがにちょっと難しいかも。レナは科学が発達してるから、なおさらそういうのは信じてこられなかっただろうし」
レナの本には特に記載がない。ダナの本は数自体が少なく、書物から調べるとなると他領に赴く必要も出てくるかもしれない。
「別にそこまでしなくても、って言いたいとこだけど、そういうわけにもいかねえよな」
ロウが分かりやすく肩を落とす。
「一応物語とかにも目を通してみたんだけど、成仏できないのは心残りがあるとか、やっぱりそういう描写が多かったよ」
「心残り、か……」
「何かある?」
「いや、さっぱり。もう一回お前に会えたらなって思ってたけど、それはもう叶っちまったしな。それ以外って言われたら何にも思いつかねえ」
お手上げ、というふうにロウは肩をすくめた。
「ロウ自身では思いつかなくても、仕事仲間の人とか、誰か何か知らないかな」
「さあ、どうだろうな」
「じゃあ、直接聞きに行ってみない? どっちみち私たちだけじゃ分からないんだし」
そう言うと、ロウの表情が少し曇り始めた。
「そいつらに会って、何を聞く気だよ」
「うーん、ロウが生前気にかけてたこととかありませんでしたか、とか?」
「誰も何も知らねえと思うけどな」
そっけなくロウが言う。
「何その態度。何か隠してることでもあるの?」
「別に、そういうんじゃねえけど」
「だったらいいでしょ、はい決まり」
「でもよ……」
珍しくロウが渋る。私はそれを聞こえなかったふりをして、話をその場で切り上げた。
翌日からは宣言通り、ロウの知人に会いに行った。といっても私はほとんど面識がないので、ロウに教えてもらって声を掛ける。
「あの、」
「僕ですか? 何でしょう」
初めに会った彼はロウの同僚だった。ダナ人だが剣術に長けていて、護衛の任務で一緒になることが多かったのだという。年も近いので同じ任につく時はよく行動を共にしていたらしい。
「私、ロウの」
そこまで言うと、彼は一瞬ハッとした顔をして目を大きく見開いた。そして頭を下げ、言う。
「今回は本当に、何と言っていいか……」
「……驚きましたよね。私も、そうでした」
彼はその日、違う任でヴィスキントに留まっていたらしい。緊急の知らせで事故を知り、現場にもいち早く駆け付けたのだとか。
「いつも通りなら同じ任務についてただろうな。何にせよ、こいつが無事でよかったぜ」
ロウは私の横でそう言って息をついた。もちろんその声は彼には聞こえていない。
「今日はちょっと、ロウについてお話が聞きたくて」
「ロウのことで? 何でしょう?」
彼が小さく首を傾げる。
「ロウが生前気にかけていたこととか、何かありませんか」
「気にかけていたこと?」
「小さなことでも何でもいいんです。ほら、突然あんなことになってしまったので、何か心残りでもあれば解決してあげたくて」
私にできることであれば、ですけど、と付け加えると、彼は少し考えた後で言った。
「そういうのは、特に思い当たらないですね。ロウが何かに悩むとか、そういう姿もあまり見ませんでした」
でも、と言って彼が小さな笑みを作る。
「あなたのことはいつも気にかけていましたよ。帰りが遅くなりそうな時は、早く帰らないとって焦ったりして」
「そ、そうだったんですか」
密かに隣を見やるが、ロウはこちらからは見えないよう顔を背けている。
「ロウが嬉しそうな顔をしている時は、いつもあなた絡みの話でした。惚気話もたくさん聞きました。本人はあまりそのつもりはなかったみたいですけど」
「す、すみません、恥ずかしい話を聞かせてしまって」
いえいえ、と彼は首を振った。
「ロウに心残りがあるとしたら、あなたのことだと思いますよ。きっと、もっと一緒に居たかったと思いますから」
去って行く彼の背中を見送りながら、私はロウへと視線を移した。ロウはそれを受けてか、再び顔をどこか違う方向へと向ける。
「そんなに私のこと話してたの?」
「……」
「嬉しそうに話してたって。惚気話も聞かされたって」
「くっそ、だから嫌だったんだよ!」
ロウはそう言ってその場に頭を抱えてしゃがみ込んだ。その様子を見るに、どうやら彼の話は嘘でも誇張でもないらしい。
「幽霊でも顔は赤くなるんだね」
「うるせー」
「自業自得でしょ。でも」
ありがとね、と言ったが、ロウはずっと顔を隠したままだった。
その後も数人に話を聞いたが、皆口にすることは同じだった。
「心残りは思い当たらない」
「あるとしたらきっとあなたのこと」
まるで皆が皆口裏を合わせたかのようなので、私は心底驚いた。
「ロウってば、みんなに私のこと話してたの?」
「めちゃくちゃ恥ずいなこれ……」
相変わらず顔を赤くしたままのロウは、もう勘弁してくれと言わんばかりにそう言った。
今日最後に会ったのは、ロウによく仕事を紹介してくれていた宮殿の兵士だった。
「心残りですか……特にそういったものには心当たりはありませんが」
「そうですか……」
そこで兵士はふと何かを思いついたように言った。
「カラグリアに行ってみてはどうでしょう。ロウは故郷のこともよく口にしていましたから、もしかしたら何か分かるかもしれません」
兵士と別れた後で、
「どうする? カラグリア行ってみるか?」とロウに訊ねられた私は、少し返答に迷った。
カラグリアには行ってもいい。というか、このままだといずれ向かうことになるだろう。
だが文献のこともまだ諦めてはいない。何か参考になる本がどこかにあるかもしれないし、だったら途中でシスロディアにも寄りたい。
そう考えるとまだ準備が足りない。ヴィスキントにはまだロウの知り合いがいるわけだし、その人たちに話を聞いてからでも遅くはないはずだ。
「行くけど、もうちょっと先かな」
「分かった。けど少し心配だな」
「何が? また何か恥ずかしいことでもあるの?」
「ちげえよ」
ロウは呆れたように目を細める。
「あっちは暑いだろ。お前の体が心配なんだよ」
「……ありがと、大丈夫だよ」
私は小さく笑ってそう答えた。
それからは再び〈図書の間〉に通ったり、時間を見つけてはロウの知人に会いに行ったりという日々を繰り返した。
〈図書の間〉では見逃しが無いようにと書架を端から端まで漁ったが、やはり新たな情報は得られなかった。各地から集められてくる新たな本にも目を通したが、結果は同じだった。
ロウの知人に関してもそうだ。やはり誰も心当たりはない。アルフェンたちにも話を聞いてみたが、皆何も聞いていないという。
一方のロウも私と一緒に話を聞いて回るだけでなく、日中は時折どこかに出かけているようだった。よく通っていた場所に行けば何か思い出せるんじゃないかと思ってのことだったようが、それも上手くいかなかったらしい。
その間にもロウとの生活は続いた。朝、目を覚ますと大抵ロウはすでに起きていて、ダイニングに居たりベッドで私の寝顔を眺めていたりした。家を出てからは一日行動を共にすることもあれば、通りに出てすぐ別々に分かれることもあった。
この頃になると、日中ロウの姿を見ていなくても帰ってこないんじゃないかという不安はすっかりなくなっていた。ロウがまだ消えないと言うのだから、きっとその通りなのだろう。
案の定、ロウはいつもちゃんと帰ってきた。あの日は帰ってこなかったのに、死んでしまってからはきちんと家に帰ってくるなんてちょっと皮肉だ。
夕飯を食べる際にはロウは欠かさずテーブルの向かいに座って、私と、用意した料理をまじまじと観察してきた。味どころか匂いすら分からないのに、それでもロウは私の作る料理を「美味しそうだな」と言ってくれた。ロウはやっぱりどんな姿になってもロウなのだ。
そうして一日を同じベッドの上で終えるのは、当たり前のようで実際はそうではない。半透明になって毛布も要らないロウだが、寝顔だけは変わらない。穏やかに静かな寝息を立てているように見えるが、よく見るとやっぱりその胸は上下していないのだった。
星の瞬くどこかの夜で、私はロウに訊ねた。
「ロウはどうして成仏したいの?」
「なんだよいきなり」
「ちゃんと理由聞いてなかったなって。ほら、せっかく戻って来れたんだから普通はずっとこのままでいたいとか、留まってたいとか思うはずじゃない?」
そう言うと、ロウは呆れたように息をついた。
「あのな、さすがに俺だってここが自分のいちゃいけない場所だってことくらい分かってるからな」
「ふうん?」
「死んだ奴は死んだ奴の世界にいるべきなんだよ」
ロウはきっぱりと断言する。
「それに、俺がここに居ちゃ、お前のためになんねえしな」
「私のため?」
どういうこと? と首を傾げたが、ロウは何も言わず、微笑むだけだった。優しさと慈しみで覆ったその笑みには、どこか物悲しさも潜んでいるように見えた。
そうこうしているうちに2週間が経った。もうこのメナンシアでできることはほぼ尽くしたといっていい。
ロウと話し合ってカラグリアに行くことを決めた。出立は明日の早朝だ。
「なあ、」
ベッドに寝転がったロウがふと問い掛けてくる。
「俺に心残りってあんのかな」
「どうしたの、急に」
私がロウの方に寝返りを打つと、ロウは顔だけをこちらに向けて言った。
「だって、こんだけ探しても見つからないんだぜ。そもそも俺に心残りなんかないんじゃないかって」
「じゃあどうして消えられないの」
「それは、分かんねえけど。もっと違う原因があんのかも」
再び顔を上に向け、ロウは呟く。
「むしろ、こんな見つからない心残りって何なんだろうな。それって本当に心残りなのか?」
遠い目をして、ロウが言った。その視線は天井を向いているようで、その先の星空を眺めているようでもあった。
その無数の星たちの中からとある一つを探す。あれでもないこれでもないと、自分が求めるものはどこかと選り分けていく。
それはロウの心残りを探すのに似ていた。途方もない作業。目に見えないものまで探すとなると、終わりは分からない。
それでも私は知っていた。うすうす気が付いていた。そこに私たちの求めるものはないと。ロウを繋ぎとめている鎖はもっと別のものだと。
全ては私の心残りなのだと。ほかでもない私自身が、ロウをこの世に引き留めている。
途端に視界が滲んだ。薄暗い部屋の天井がぼやけていく。
「おい、どうした」
すぐに気が付くところがロウだなと思う。いつもはあんなに鈍いのに、どうしてこういう時だけ敏いのだろう。敏すぎて、憎らしくなるくらい。
「……っ…………」
ずっと悔やんでいた。私があの日、ほんの一瞬でも「ロウがいなければ」なんて思ってしまったから、ロウは死んでしまったんじゃないか。
私がロウを呪い殺したんじゃないか。私の身勝手で幼稚なわがままが、ロウをこの世から連れ去ってしまったんじゃないか。
だって、ロウは何も悪くない。私に懸命に尽くしてくれて、私だけを想ってくれていた。どこかでズレを感じていた自分とは違って、ロウは真っ直ぐ愛してくれていた。
そんなロウが不運に見舞われてあっさり命を落とすなんて、そんなことあっていいはずがない。私がロウを殺したのだ。誰よりも幸せになるはずの、ロウを。
謝りたかった。赦してほしかった。裏を返せばそれは、自分が楽になりたかったのだ。
「……ごめん……なさい…………」
そんな言葉を吐く自分はやっぱり狡い。これではロウは何のことか訳が分からないし、泣くなんて赦しを強制しているのと同じだ。どこまでも勝手な自分に吐き気がする。
「泣くな、リンウェル」
それでもロウは優しく私に触れる。触れたように見える。でも何も感じない。ロウはもうここにはいないのだ。
ロウのことが好きだった。本当に、心の底から。大好きだった。絶対に絶対、嘘じゃない。
でもそれと同じく、ロウがいなければと思ってしまったことも本当だった。嘘、冗談では済まされない。実際にロウはいなくなってしまったのだから。
もしロウに何か心残りがあるなら力になりたい、解決してあげたい。そう思う一方で、私は心のどこかで目を光らせてもいた。ロウにも何か薄暗いものがあるんじゃないか。陰で私に言えないようなことをしているんじゃないか。むしろ、そういったものが見つかって欲しいとさえ願っていたかもしれない。
でも、話に聞くロウはどこをとっても潔白だった。それどころか私への愛情で満ち満ちていた。心残りがあるならあなたのことでしょう、と誰もが口を揃えるくらいには。
込み上げる胸の苦しさは喜びからきたものか、あるいは後ろめたさによるものか。いずれにしたってもう私は正面からロウとは向き合えない。そんな資格はない。ロウからの愛情を受け取って素直に笑うことなど二度と出来はしない。
そんな自分がロウにしてあげられること。ロウをきちんとあの世へ送ってあげること。その方法は、たった一つしかない。――本当のことを打ち明けて、赦しを乞うしか。
でも、だとしたら、どうして本当のことを言えるだろう。
「ロウとの生活に嫌気が差していました」
「ロウがいなくなればと思いました」
死んでからもロウを傷つけろと? 傷をつけたままあの世に送れと?
言えるわけがない。これは墓場まで持っていく。墓場に行ってからだって、誰かに打ち明けたりするものか。
ならばこのまま、幽霊になったロウをこの世に引き留めたまま一生を過ごすのか。誰にも見えず、互いに触れることもできない存在と同じ部屋で暮らし続けろというのか。
それを喜んで受け入れられたら良かった。どんな姿形になったってロウと一緒に居られるならそれでいいと、諸手を挙げて歓喜にうち震えられたら良かった。
でもそうは出来ない自分がいる。そんなふうにこの先の人生を半透明になったロウと過ごしていく自信なんかない。ロウの顔を見るたび、ロウと言葉を交わすたび、あの日のことが頭に蘇ってきてしまうのに、それを一生続けるだなんて到底耐えられそうにはない。何よりロウを「逝かないで」と引き留められないでいるのが証拠だ。
「……ねえ、ロウ」
「なんだ」
涙で曇った声は蚊の鳴くようなものだ。そんな声にも、ロウはきちんと耳を傾けてくれる。
「お願いが、あるの」
そんな優しいロウなら、きっと私の今の願いを叶えてくれる。
「私を、殺してよ」
首を絞めてでも、刃物で胸を刺してでも、あるいは鼻と口を塞いでくれたって良い。
「私を、殺して。もう嫌だよ。ロウと一緒に、逝きたい」
そうしてもらって初めて、私は今度こそあの世でロウと心の底から笑い合える気がした。もうそのくらいしか自分を赦せる道は残っていない。自分のエゴでロウを呪い殺した私には。
「ねえ、殺して。今すぐ」
「できるわけないだろ、そんなこと」
ロウは言う。ものすごく悲しい表情をしたままで。
そうだ。ロウはそんなことしない。それはロウが私に触れられないからではなく、たとえ触れられたってそうはしないだろう。
嗚咽が零れる。溢れる涙が頬を伝っていく。
狡い、狡いよ。私だけ悪いなんて。ロウも一緒に悪くなってよ。
心の叫びはロウには聞こえない。これから先、私は悲鳴を上げたまま生きていかなければならない。自分の中で、誰にも届かない声を上げ続けながら、ずっと。
ロウの指が私の頬をさらう、仕草をする。すり抜けないようにと注意を払いながら、涙を拭う、素振りをする。
その間には何があるのだろう。私とロウを隔てる空気の膜。それはあの世とこの世、どちらなのだろう。
私の目から滴った涙。ロウの指をすり抜けてシーツにしみ込んだそれは、あの世に行ってもう一度こちらへ戻ってきたのだろうか。
あの世はすぐそこにあるのに。私はまだそこへは辿り着けないなんて。
目を閉じて、世界を遮断する。
どうかこのまま二度と目覚めませんように。あるいは、次に目覚める場所がこの世ではありませんように。
そう願いながら、私は瞼の裏に思い描く。
ロウの優しい両手が自分の首に回るのを何度も何度も、夢に見る。
終わり