テュオキサがくっついたのをきっかけに付き合い始めるロウリンの話。すったもんだからのハッピーエンド。(約12,000字)

それはもう、ほとんど誤差

 今日は皆でアルフェンの家に集まって食事をした。リンウェルとシオンが料理担当、俺とアルフェンが買い出しと掃除、キサラはお手製のデザートを持参してきて、忙しい大将は上等な酒を持ってくる役回り。6人で集まるときは大体いつもこんな感じだ。
 今夜も美味い飯を食べながら皆の近況を聞いたり小さな愚痴を聞いたり、こみ上げてくる懐かしさとなんとも言えない心地良さに包まれて、笑いの絶えない時間を過ごした。それもいつも通り。6人でいる時は本当に楽しくて、時間が過ぎるのがあっという間に感じる。
 皿の上の料理もだいぶ減った頃、ふと口を開いたのは大将だった。
「皆に話しておきたいことがある」
 その場にいる誰もが飲み食いする手を止めた。視線も大将に集まった。ただ一人、キサラを除いては。
「私とキサラは交際を始めた。ひと月ほどになる」
 えっ、と声が出そうになった、のを押しとどめた。周りを見回しても驚いているのは自分だけだったからだ。
 皆最初から知っていたような、納得したような顔をしていた。あのアルフェンでさえそうだったのだから、俺はそっちの方にショックを受けた。まさか知らなかったのは自分だけだったのか。
「おめでとう。もしかして、と思っていたけれど、やっぱりそうだったのね」
「今日ちょっとキサラがよそよそしいのも、この話があったからなんだね。良かった、ケンカとかじゃなくて」
「べ、別にそういうつもりはなかったんだが。どうしてもその、こういったことには慣れていなくてな……」
「慣れる必要はないと思うが、俺たちに気を遣わなくてもいいさ。とにかく、二人ともおめでとう」
 皆が祝いの言葉を送った。自分だって同じ気持ちだ。あの頃共に苦難を乗り越えた仲間の新しい一歩を嬉しく思わないはずがない。
「大将、おめでとさん。キサラも頑張れよな、色々苦労しそうだけど」
 そんな祝辞を述べた瞬間、リンウェルに小突かれた意味は理解できなかったが。
 俺とリンウェルがアルフェンの家を出たのは、それから少し後だった。夜が更けきる前に街に戻るように、そして俺はリンウェルをきちんと家まで送り届けるようにとシオンに口酸っぱく言われ、空に星が瞬く街道を二人並んで歩き出した。
「今日も楽しかったね」
「おう。飯も美味かったし、皆元気そうで良かったぜ」
「私たちは結構話してるけど、みんなと会う機会は少ないもんね」
「特に大将とかな」
 ヴィスキントに拠点を置く俺はリンウェルとは宮殿で頻繁に会う。一緒に食事に行ったり買い物に付き合ったりもすることも多くて、たとえどんなに忙しくとも顔を合わせる日が一週間と空くことはないだろう。
 それとは対照的にテュオハリムには会う機会があまりない。姿を見かけることはあってもいつも忙しそうにしていて、声をかけられる雰囲気ではないのだ。
 キサラも同様で、さすがに大将よりかは会話をすることもままあるが、それも仕事や依頼関係のことが多い。そもそもヴィスキントの街の外で暮らすアルフェンたちといえば姿を見ること自体が少ないし、だからこそ今日のような日が待ち遠しい。一緒に旅をしていたあの頃に戻ったみたいで、心が弾む。
「大将といや、今日の話には驚いたな」
 思い出されるのはあの報告だった。テュオハリムの口からあんな話を聞くことになるとは。
「まっさか大将がキサラとくっつくとはなぁ」
「そんな意外? 旅の時からいい感じだったじゃない」
「そうかあ? テュオハリムが世話されてたイメージしかねえけど」
 頭の中の記憶を掘り返してみても、テュオハリムが一方的に服や髪を整えてもらっていた場面しか浮かばない。百歩譲ってテュオハリムがキサラに惚れるのは分かるとしても、キサラの方もそれを受け入れたというのだから、人の気持ちというのは傍から見ているだけでは分からないものなのだなと思う。
「キサラもテュオハリムのこと、結構気にかけてたよ。はじめは主従の時の癖かなって思ってたけど、それもほんの一時だったんじゃないかな。キサラの視線、いつの間にか変わってたもん」
「へえ」
「キサラもミキゥダのこととかいろいろあったからちょっと心配したけど、あの顔見たら安心したよ。すっごく幸せそうだった」
 たしかに、今日のキサラはいつもと違って見えたような気がする。一つ肩の荷が下りたような、心を預ける場所を見つけたような、そんな穏やかな表情だった。
 その預け先があのテュオハリムであったのは偶然か、あるいは運命か。自分はあまりそういうのを信じない、信じたくない性質ではあるが、それでも二人の出会いや今日に至るまでの過程を知っていればこそ、そういう可能性もあるのかもしれないなと妙に納得してしまうところもあるのだった。
「それにしても、あの時の仲間内で二組も恋人になるなんてな」
 視線を宙に投げながら、俺は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。それには何か含みがあるとか裏があるとかそんなんじゃなく、そもそもその意味すらも考えていなかった。
「俺たちも付き合っちまうか、なーんて」
 それが声となってからハッとした。もしかして俺はとんでもないことを言ってしまったんじゃないだろうか。
「何言ってんの?」「バッカじゃないの?」なんて返事とともに、白い眼を向けられると覚悟した。あるいは白い稲光が脳天を貫くのではないかと咄嗟に腕で頭を覆った。肝というか腹の中が全部急激に冷えていく感覚がして、顔に冷たい汗が流れていくのが分かる。
 それなのに次に聞こえてきたのは、そのどれとも異なる言葉だった。
「いいよ」
「……は?」
 今、なんて?
「いいよ。付き合おっか、私たち」
「な、なんで」
 あまりの急展開についていけず、俺は思わず立ち止まる。
「なんでって、ロウが言ったんでしょ」
 小さく首を傾げてリンウェルが言う。その瞳は笑っているわけでもなければ、冗談を言っているようにも見えなかった。
「けど」
「ほら、付き合うの、付き合わないの」
「つ、付き合います」
「うん。じゃあ、よろしくね」
 そこでようやくリンウェルの唇が緩い弧を描いた。次いで一歩、その体が近くに寄るのを感じる。今にも手が触れそうな距離に心臓をばくばくと鳴らしながら、俺はどうにかしてリンウェルを家まで送ったのだった。

 昨夜のことは夢か何かだと思った。あるいはあれはリンウェルのからかいで、翌日になれば醒めて消えるものだと思っていた。だがどうやらそうではなかったらしい。
 翌日宮殿で会ったリンウェルは俺の顔を見るなり顔をほころばせると、今夜は一緒に夕飯を食べようと言ってきた。何故、なんて言うまでもない。自分たちは昨日から付き合い始めた恋人同士だからだ。
 夢みたいだと思った。それは今朝抱いていた感情とはまるで違う。夢心地で気持ちが浮ついてしまいそうだった。いや、実際に浮き立っていたと思う。街を歩く時も向かい合って食事をしている時も、リンウェルが笑って話しかけてくれるというだけで心が満ちた。ちょっと照れた顔を見せるたびに心臓が騒いで、どうにかなりそうだった。以前にも増して可愛く見えるリンウェルが愛おしくてたまらない。こんな幸せなことがあっていいのかと、宿の部屋でひとり頬を何度も抓った。痛みが嬉しいだなんて、後にも先にも今この時だけだろう。
 それから2週間ほど経って、アルフェンとテュオハリムと会う機会があった。昼食を摂ろうと街を歩いていると、二人にばったり出くわしたのだ。
「実はさ、報告があるんだ」
 レストランの席に着くなりそう切り出すと、二人の視線がこちらを向いた。それがなんだかあの日の大将みたいで、なんとなく気恥ずかしくなる。
「り、リンウェルと、付き合うことになった」
「ほう」とテュオハリムが目を丸くする一方で、アルフェンは「そうか」と笑った。どうやらシオンから何か聞いていたらしい。
「おめでとう。やったな、ロウ」
「正直驚いた。が、君もなかなかやる。春の訪れはまだ先であると思っていたが、私の見当違いだったようだ」
 今日は私が奢ろう、とテュオハリムがメニュー表を広げた。好きなものを頼んでいいと、そういうことらしい。
 俺はハンバーグを、アルフェンは「俺まで悪いな」と頬を掻きながらマーボーカレーを頼んだ。テュオハリムは昼間だというのに珍味の盛り合わせと酒を注文していた。キサラが見ていたら激怒しそうな組み合わせだ。
「まさかこうも立て続けに嬉しい報告を聞くことになるなんてな」
「もしや、我々の交際に感化されたとか」
「いやまあ、実はそうなんだよな」
 あの夜、帰り道での出来事を話すと、途端に二人の表情が変わっていった。それはなんだか、悪い方向に。
「……それで、その後は?」
「後? 普通に一緒に街に戻って、リンウェルを送ってったけど」
「それだけか?」
「? それだけだな」
 アルフェンはテュオハリムと顔を見合わせると、
「ロウ……それはあんまり良くないんじゃないか」
 と苦笑いを浮かべて言った。
「へ?」
「そういうのはきちんと――」
「アルフェン」
 制したのはテュオハリムだ。
「気持ちは分かるが、こういうことは本人が気づかねば意味がない。口で教えることだけが全てではないはずだ」
 そうだな、とアルフェンが引き下がる。
「ロウ、」
 ごく静かな口調でテュオハリムが言った。
「今一度よく考えてみたまえ。君の行動のどこに問題があるのか、我々が何を言いたいのか。その先に君のすべきことが見えてくるはずだ」
 二人に背を叩かれ、食事を終えるとそのまま店の前で解散した。
 その最中も帰ってからも、俺はずっと頭の中で考えていた。問題って、何が問題なんだ。別にリンウェルとケンカをしているわけでもなければ、険悪になっているわけでもない。デートもするし、食事にも行く。付き合うってそういうことじゃないのか。
 考えをいくら巡らそうと、そこに問題点など見当たらなかった。あの二人はきっと、俺の話を聞いて何か勘違いしたんじゃないか。きっとそうだ。
 そんなことを本気で思ってしまうくらいには自分は盲目になっていて、周りのことなんか一切見えなくなっていた。リンウェルの不安になんて、これっぽっちも気付いていなかったのだ。

 それから少しして、リンウェルと街に出かけることになった。買い物、いわばデートだ。
 今日も今日とて俺は浮かれていた。まずはどこへ行こうかとか、昼食はどこで食べようかとか、思いつく限りのプランを思い浮かべる。
 デートの際、予定よりも早く待ち合わせ場所に着いてしまうのは癖というか、もうほとんど習慣化されてしまっていた。ギリギリまで宿にいたってつまらないし、だったら街をぶらついていた方がいい。それでいて、もし万が一リンウェルが早めに着いたとしたらそれはそれで待たせるのは悪いので、結局かなり早い時刻には二人で待ち合わせ場所と決めた噴水の前に来てしまうのだった。
 とはいえそれも全く苦にならない。待つのは決して得意ではないが逸る気持ちを抑えるのには都合が良いし、脳内のデートプランをまとめる時間としてもちょうど良い。今日リンウェルは欲しい本があると言っていた。ならばまずは書店に向かって好きなだけ本を眺めさせてやろう。その後は広場に行って屋台で何か食べてもいいし、いつも通りアイスを買ってもいい。ああでも、昼飯前だから食べ歩きもほどほどにしないと。
 そんなふうに計画を練っていると、ふと目の前を一人の女性が通り過ぎて行った。目に留まったのはその個性的な服装のせいだろう。脚のラインが分かるパンツに背中の大きく開いたトップス。豊かな髪を上でひとまとめにして優雅に街を歩く姿には、男なら誰だって目を奪われてしまうというものだ。ああいった服はどこで売られているのだろうか、やっぱりレナのデザインなのか、などとぼんやり考えていれば、後ろから近づいてくる気配にも気付けないでいた。
「わっ」
「うわっ!」
 突然背中を叩かれ、心臓が飛び跳ねる。振り返るとそこには、いたずらっぽい笑みを浮かべたリンウェルが立っていた。
「お前、いきなり脅かすなよ」
「ごめんごめん。ロウが珍しく隙だらけだから、つい」
 許して、と首を傾げられて、俺はすべてを許した。その可愛らしい笑顔と仕草に、脅かされたことも多少の遅刻も全部どうでもよくなってしまった。
 そうして始まった今日のデートもおおむね順調だった。リンウェルの欲しかった本は無事手に入れられたし、そのほかにもめぼしい古書をいくつか見つけたようで、それら購入した本は俺が責任を持って運ぶことになった。
 昼食に選んだのは、この間アルフェンとテュオハリムと行ったレストランだった。あのとき食べた料理が絶品だったので、リンウェルにも食べさせたいと思ったのだ。
 料理を待つ間、頭に過ったのはあの日のアルフェンとテュオハリムの言葉だ。二人は俺に問題があると言った。あれからふと思いついた時にその言葉の意味を何度も考えてはいるが、結局いまだ答えは出ない。
「なあ、リンウェル」
「なに?」
「俺って直した方がいいとこあるか?」
 リンウェルに助け舟を求めるのはどうかと思われそうだが、解決に近づくためにはこれが一番早い。俺にある問題を知っているとすれば、それはリンウェルしかいないだろう。
「え? なにそれ」
「いや、ふと思ってよ。なんかあるなら教えてくれよ」
 俺がそう言うと、リンウェルは少し考えた後で言った。
「うーん、ありすぎて、無理」
「えっ」
「全部直してたらロウ、おじいちゃんになっちゃうよ」
 リンウェルはそう言ってからりと笑う。
「例えばそれってどんな」
「もう、たくさんあるんだから自分で考えてよね」
 そこでちょうど運ばれてきた料理に話は中断され、結局自分の直すべき点についてはヒントも何も貰えなかった。リンウェルは笑っていたが、きっと直すべき点がたくさんあるというのは嘘でも冗談でもないのだろう。なんとなく、そういう気がする。
 レストランを出ると、ふとリンウェルから視線を感じた。
「なんだ? どうかしたか?」
「手、今日は繋いでくれないの?」
 唐突なおねだりに、心臓がどきりと音を立てた。
「え、あ、その」
「イヤ?」
 違う。決してそういうわけじゃない。ただ、この間初めて女子――リンウェルと手を繋いだ自分にとっては、いまだに少し戸惑ってしまうところがある。
「嫌とかじゃなくて、ほら、まだ慣れていないっつーか、俺手汗すげえし」
 焦って咄嗟に手のひらを服で拭うが、その手もリンウェルに半ば無理やり取られてしまう。
「もう、そんなの気にしないよ」
 自分の手のひらとリンウェルの手のひらが重なって、指同士が触れ合う。伝わってくる温度は自分のものなのか、リンウェルのものなのか、混乱した頭では判断がつかない。緊張が頂点まで来て、さっきレストランで食べたものがすぐそこにあるような感じがした。
 そこでふと覗いたリンウェルは、耳までも赤く染めていた。それを見た瞬間、俺の胸はぎゅっと強く締め付けられる。喉元までこみ上げてきたハンバーグなんか忘れてしまうくらい。
 リンウェルだって当然緊張しているのだ。それでも手を繋ぎたいと言ってくれた。逆に言えば、言わせてしまったということだ。情けない俺を責めることもせず。
 思わず繋いでいない方の手で自分の頬を抓った。自分の不甲斐なさへの戒めと、ここが現実であるかどうかの確認だ。ちゃんと痛い。夢じゃない。
 夢じゃないが、この夢みたいな時間はできるだけ長くあってほしい。そう願いを込めると俺は歩幅を小さくし、リンウェルの調子に合わせてゆっくり歩いたのだった。
 その日のデートは、そこまでは順調だった。二人で手を繋いでヴィスキントの街を歩き、リンウェルを家に送り終えた時までは。
「じゃあ、また明日な」
「うん、ありがとう」
 またすぐに会えるとはいえ、名残惜しさは当然。今日一日を楽しく過ごしたのであればなおさら。
 向き合ったまま、なかなか宿に向けての一歩を踏み出せない俺に、リンウェルが言った。
「ねえ、ロウ」
 時刻は夕暮れだったが、その頬の赤みは夕日によるものでないことくらい、俺にもはっきりと分かった。
「キスして」
 ――キス!?
 俺が上げた声は、声にもなっていなかっただろう。
 キスって、あのキスか!? 待て待て待て、いやそんな、キスって、リンウェルから、そんな!
 俺の頭の中はかつてないくらい混乱していた。ついこの間初めて手を繋いだばかりで、それでもうキスなんて。いや、俺が知らないだけで実はそれが普通なのか? 俺らは遅れている? そもそも普通ってなんだ。
 ぐるぐる考えたまま何も言えないでいると、リンウェルが不安そうにこちらを見上げてきた。
「……イヤ?」
 ああもう、その顔はやめてくれ。そんな顔されたら何もかも全部許してしまうし、全部お前の言いなりになってしまいそうになる。
 でもここはちょっと考えるべきだ。恋人同士なら当然手を繋いだりキスをしたりするものだろうし、さっきはリンウェルをリードできなかった情けなさが募るとはいえ、さすがにこれはいくら何でも展開が早すぎやしないか。
 このペースではさすがに心が追いつかない。今でも手を繋ぐだけで心臓がせわしないのに、キスともなればどうなってしまうかわからない。ここはきちんと、一度落ち着いた方がいい、ような気がする。焦ることはないのだ。自分たちにはまだまだ時間があるのだから。
 俺はゆっくり口を開いた。その視線はどこかへと泳がせたまま。
「あーその、なんだ、嫌とかじゃなくて、」
 言い淀んだ言葉を持て余して、頭を掻く。
「こないだ手繋いだばっかだし、なんかその、まだ早いんじゃないかって」
 そう言い終えて、沈黙が落ちる。
 ふと目端に映ったリンウェルの顔は、――ものすごく悲しそうな表情をしていた。
「リ、ンウェル?」
「……やっぱり、私じゃダメなんだね」
「え?」
 唇をぎゅっと引き絞って今にも泣きだしそうな顔を見せた後で、リンウェルは逃れるようにして家の中へと入っていってしまった。
 リンウェル、と出た情けない声ももう届きはしない。すぐに追わなきゃいけないことも分かっていた。分かってはいたが、足が動かない。
 自分にその資格があるのか? なぜリンウェルがひどく悲しそうな顔をしたのかも、その放たれた言葉の意味も分からない俺に今言えることが何かあるのか?
 頭の中でテュオハリムの言葉が呼び起こされる。
「今一度よく考えてみたまえ」
 俺はどこで何を間違ってしまったのだろうか。

 ひとり宿に戻ると、俺はベッドの上で必死に考えた。あの時のリンウェルの顔。ひどく悲しそうだった。キスはまだ早いんじゃないかと言って拒んだにしても、あんな表情になるだろうか。
 それにその後の言葉。
「やっぱり私じゃダメなんだね」
 ダメって何だ。それより、やっぱりって何だ。そんな〈誰かを想いながらリンウェルと交際している〉みたいな言い方をされる覚えはない。今も昔も、自分が好きなのはリンウェルだけだ。
 それなのに俺は何か疑われているらしい。知らないうちに自分はまずいことを言ってしまったのだろうか。今日どこかでリンウェルを怒らせるようなことを言ったかと記憶を辿っても、それらしいものは思い当たらない。リンウェルは始終、機嫌が良かったように思う。
 ここ最近は、と付き合い始めた頃のことも思い出してみるが、それにも覚えはなかった。あの夜から今日、さっきまでケンカらしいケンカもしていない。もちろん泣かせたり悲しませたりということもなかった、はずだ。
 ならば一体、リンウェルは何に失望したのか。キスを拒まれたのがそんなにショックだったのか。たとえそうだったとしても、その後の言葉に繋がらない。やっぱり、なんて言葉は今日一日の出来事から出てくるものじゃない。
 だとしたらリンウェルの涙の原因はどこにある。俺の知らないところにある何かが悪さをしているのか。
 そうして思い浮かんだのはアルフェンたちの言葉だった。俺は何かを見落としている。再度よく考え直して、その後でもう一度きちんとすべきことがある。
 それはきっと、今リンウェルを悲しませているものにも繋がっている気がした。アルフェンたちの言う「すべきこと」を見出すのは、リンウェルとのことを解決するのにも役立つ。
 じゃあそれは一体何かと問われればやっぱり心当たりはない。少なくとも、ここ最近の自分の中にはまるで見当たらなかった。
 ならどうするか。簡単だ、方法は一つしかない。今日できなかったことを、そのまま実行に移すだけ。
 リンウェルの表情も言葉の意味も結局は分からなかったが、それを問う決心はついた。自分に足りないものと向きあう覚悟も。
 たとえリンウェルにこっぴどく罵られようと、全て受け入れようと決めていた。結果自分たちの関係が終わりを迎えてしまうことになってしまっても、それは自分の至らなさが引き起こした結果だと。
 それなのに実際はというと、リンウェルは話すらさせてくれなかった。それどころか目を合わせてもくれず、俺をまるきり存在ごと無視した。
 昨日の今日で気まずいことは分かる。でもそれにしたって、そんな意固地にならなくたっていいだろう。
 宮殿にて様子を窺っていても出てくる気配はまるでない。待ち伏せしても違う扉、裏口から出て行かれる始末。なんだよ、そんな俺と話したくないのか。
 このままだと埒が明かない。あまり使いたくはなかったが、最終手段を使わせてもらう。
 俺は頼み込んで早々に仕事を切り上げると、そのまま真っ直ぐリンウェルの自宅へ向かった。家の前で帰宅するリンウェルを待ち構えるという、恋人という肩書が無ければ犯罪スレスレのグレーな方法だ。
 リンウェルもさすがにこの方法には思い至らなかったようで、すっかり油断していたようだった。自宅の前に佇む、俺の姿を認めるまで。
 こちらを見た途端、リンウェルは身を翻して逆方向へと走り出した。だがもう逃がすわけにはいかない。温存していた脚を存分に振るう時だ。
「なんで逃げるんだよ!」
 石畳を蹴って全力で駆けると、その距離はあっという間に縮まった。時間にしてほんの十数秒、城門前の橋のところでリンウェルに手が届く。
「待てって!」
「やだ!」
 腕をつかんで無理やりこちらを向かせると、リンウェルは首を振って抵抗した。
「ちょっと話聞けよ」
「やだ! 聞きたくない!」
 その素振りはまるで、駄々をこねる幼子のようだ。
「ロウはもっと大人の人のがいいんでしょ!」
 リンウェルの声が辺りに響く。
 と同時に俺は首を傾げた。なんだそれ、俺そんなこと言ったっけ。
「前言ってたじゃん。キサラみたいに大人の女の人がいいって!」
 言ったような気もするが、言っていないような気もした。俺の記憶はひどく曖昧だ。そんな曖昧になってしまうほど自分にとってはどうでもいいことを、リンウェルはどこかで聞いて、ずっと覚えていたらしい。
「私となんか、遊びだったんでしょ。彼女が出来ればいいって。本命じゃないから、キスしてくれないんでしょ」
 はあ? なんだそれ。
 少し、いや結構、頭に来た。そんなふうに思われてたのか。本気じゃないって。俺がどれだけ浮かれて、お前のことばっか考えてたかも知らないで。
「だってロウ、好きだって言ってくれないし……!」
 リンウェルが言った一言でふっと我に返った。え、と間の抜けた声が出る。
「……もしかして、俺お前に好きって言ってないのか?」
「言われてないよ。だから、そういうことなんでしょ」
 唇を嚙みながらリンウェルは俯いた。潤んだ瞳からは今にも涙が零れそうだ。
 なんてこった。みるみる血の気が引いていく。そりゃあ勘違いされてもおかしくない。好きだとも言わないで、デートでヘラヘラ浮かれている男のどこに本気度を感じ取れというのだ。
「彼女になったら振り向いてくれるかなとも思ったけど、ダメだった」
「デート中も女の人見てるし、やっぱり私なんかじゃ足りないんだって。ロウが好きなのは大人の人なんだって」
 さらに追い打ちをかけられて頭を抱えそうになる。違う、誤解だとも言えない。誤解は誤解だが、女性を目で追っていたことには確かに覚えがあった。
「年下なんかダメだよね。ほら、こんな子供っぽいことばっか言っちゃうし」
「そんなこと……」
 ダメだというなら俺の方だ。好きだとも言わないで不安にさせて。アルフェンたちが言っていたのはこのことだろう。二人が俺に言いたかったのは、自分の気持ちをちゃんと伝えろということだったのだ。
 おまけにほかの女を目で追うなんて。しかもデートという大切な時間の最中だ。これまでどれだけリンウェルを傷つけてきたか、自分で自分を殴りつけたくなってくる。
「俺は……!」
 お前が、と言いかけて、リンウェルが首を振る。
「もういいの。年齢は変えられないもんね」
 もうそれは完全に諦めたような声だった。
「……ロウより早く生まれてればよかったのに」
 悲しく微笑むリンウェルをそのままにしてはおけない。いや、もう二度と、そんな顔をさせてたまるか。
 俺は掴んだ腕を引くと、リンウェルの体を胸の中に収めた。手を繋ぐ以上に触れるのは初めてのことで、心臓がばくばくと鳴る。
「悪かった。お前が好きだって、てっきりもう言ったと思ってた。何回も言ったつもりだった」
 今更すぎる言い訳だとか、ご機嫌取りに聞こえるかもしれない。それでも自分は真っ正直に伝える以外の術を知らない。
「お前と付き合えることになって、浮かれてたんだ。すげえ嬉しくて浮かれすぎて、まず一番にお前に気持ちを伝えなきゃいけなかったのにそれも忘れて、何やってんだって話だけど、」
 今度こそ、目を見て言わなければ。
「俺、お前のことが好きだ。ずっと前から、ずっと好きだった」
 心の中では何回、何十回と叫んできた言葉だった。それがこれまで一度も発されていなかっただなんて。
 どれだけリンウェルを不安にさせてきただろう。昔の自分が言ったことを今までずっと気にして、そういう素振りを間近で見せられて、それでいて浮かれてデートに来る男にリンウェルは笑顔を無理くり作って取り繕ってきたのだ。本当なら愛想を尽かされていたっておかしくない。それだけのことを俺はした。
 それでもこうして腕の中に収まってくれているリンウェルの気持ちが愛おしくてならない。まだ切れてはいない互いのこの気持ちをより強固にできるとしたら、何をどうしたらいいだろう。
 そう考えて頭に思い浮かんだのは、ごく単純なものだった。リンウェルの手を取って、俺は言う。
「お前は俺より早く生まれたかったっていうけど、二年だろ」
 二歳差なんてあってないようなもの、というのは大人の言い分だ。たった十数年しか生きていない自分たちとは価値観が違う。お前と同じくらいしか生きていない俺にはその重さも違いも同じように分かるつもりだ。
 だからこそ、ここではっきり言っておく。
「二年なんて大したことねえよ。俺たちがこれから一緒に過ごす時間に比べたら」
 そう、大したことない。俺たちはこれから今までの何倍もの時間を生きる。その間に積み重なるのはなにも時間だけじゃない。俺とお前の間の絆だって深くなるのだ。
 その間の二年なんて気にならない。あってないようなもの。俺よりずっと大人なお前なら、なおさらそう感じるはずだ。
「それでも、お前がどうしても気になるっていうんなら、二歳差が誤差になるまで、大したことないって思うまで、ずっと一緒にいりゃあいいんじゃねえの」
 リンウェルが大きく目を見開いた。
「……それってもう、プロポーズだよ」
「そう、なるかもな」
 否定する気は毛頭ない。あの時は軽口を叩いてしまったかもしれないが、心にもないことを言ったわけじゃなかった。リンウェルを好きだという気持ちは当然本物だし、それをこの先持ち続ける自信も覚悟もある。
 とはいえそれを証明する方法は一つしかない。未来を約束するなら、その隣で見届けてくれる人が必要だ。
「それくらい、俺はお前とずっと一緒にいたいって思ってる。明日から……いや、今から、悪いとこも、直すべきとこも直す。いくら時間がかかっても、約束は果たす」
 たとえどれだけ年を取ろうとも。それを他の誰でもない、お前にすぐ隣で見守っていてほしいのだ。
 一世一代の告白には、リンウェルは戸惑いと驚きを孕んだ目をしていた。そして小さい声で口にする。
「……ずっとかはわかんない」
 そうしてリンウェルは顔を上げて、こちらの目を真っすぐに捉えた。
「でも、ロウのこと見ててあげる。約束が果たせるかどうか」
「おう」
 答えとしては、今はそれで充分。
「でも、ロウも言ってよね」
「言ってって、何を?」
「私に悪いところあったら言って。直すから」
 ほんのり頬を赤く染めて、リンウェルは言った。
 これはもう良い返事をもらったということで間違いないだろう。安堵からか、ほっと心が緩むのを感じる。
 とはいえここで終わりにはしない。もう一つ、俺には果たすべき使命があるのだ。
「リンウェル」
 その手を引いて肩を抱くと、あっけに取られているその顔に俺はそっと唇を寄せた。ほんの数秒、表面が合わさるだけのキスは、昨日の俺が果たせなかったものだ。
 触れて、離れてみれば大したことはない。昨日の自分は何を躊躇っていたのかと問いたくもなる。とはいえそれも互いの気持ちがよりはっきりしたからこそ感じることなのかもしれないが。
「……昨日はまだ早いって言ったのに」
 呟いたリンウェルは分かりやすく拗ねていた。不満そうに口を曲げ、それでいて染まる頬は照れと怒りの両方を含んでいるのかもしれない。
 俺は苦笑いで答えた。
「誤差だと思って許してくれよ」
 昨日するのも今日するのも変わらない。そう、俺たちがこれから一緒に過ごす長い時間に比べたら。
 
終わり