星を見に行こうとするロウリンの話。(約5,100字)

天狼星をさがして

 週末のヴィスキントは人で溢れかえる。今日は特にそうだ。街の広場で催しが開かれるとなれば、メナンシアだけでなく他領からもたくさんの人が訪れる。
 覚悟はしていた。通りが人で埋まることも、その人波に揉まれるであろうことも。いつも目印にしていた場所が催しの看板やら装飾で使えなくなることも知っていた。
 それでも待ち合わせを街中にしたのには理由がある。いや、それはちょっと違うか。理由はないけれど、確信があったのだ。
 家を出たのは夕刻前。催しは日が暮れてから本格的に始まるので、まだ猶予はある。とはいえ広場では午前から露店が立ち並んでいたし、食べ物を売る屋台も良い香りを街中に巡らせていた。家の中にいながらそそられる食欲に何度お腹を鳴らしたか分からない。
 それらの誘惑をぐっと堪えて準備をした。服装には迷わなかったとはいえ、シャワーを浴びたり髪を整えたり、やることはいくらでもある。珍しくてきぱきと動く私に、フルルも丸い目をさらにまん丸くしていた。
 そうして余裕を持って家を出て、通りを一本を曲がったところで早速人波に飲まれた。これも想定内。人の流れも思った通りの方向だ。
 目的地が近づくと、人ごみの中からぐっと首を伸ばしてみる。いつか図鑑で見た潜水艦のように、首から上だけをキョロキョロと動かして辺りを探った。どうやらこの辺には居ないらしい。
 さらに流れは進んで広場が近づく。いい香りにまたお腹がぐうと鳴り、舌の根元が唾液を滲ませた。甘い香りにスパイスの香り。おそらく今夜の広場には世界各地の料理が揃っていることだろう。それらを満喫できないのは些か残念でもあるが、機会が二度と訪れないわけでもない。今日はちょっと我慢、それだけのこと。
 人波に押し流されているうち、私のレーダーがびびっと働きだした。すぐさま顔を上げてその方向を見やれば、人波を避けた街灯の下に見慣れた人影が覗いた。
「ロウ!」
 張り上げた声は人の合間を縫ってロウへと届く。
 ロウもこちらに気付くなりすぐさま手を振り返してきた。トレードマークの銀の狼が右肩で夕陽のオレンジ色を反射している。
 広場から外れた通りでようやく合流すると、ロウは安堵したように肩の力を抜いた。
「大丈夫だったか? すげえ人だっただろ」
 ケガはないかとロウが私の体をあちこち見まわす。まるで凶暴なズーグルと対峙した後みたいな扱いをするので、思わずふふっと笑ってしまう。
「平気だよ。こうなるって大体予想できてたし」
「分かってたならなんでここで待ち合わせたんだよ。別にお前の家に行っても良かったんだぜ」
「それはそうだけど。ほ、ほら、私の家ってちょっと広場から離れてるし。ロウにわざわざ迎えに来させるのもあれかなって」
 考えあってのこと、というふうにアピールすれば、ロウはもうそれ以上何も言わなかった。どうやら上手いこと誤魔化せたらしい。
「それで、どこで祭り見るんだ? っつっても、どこもかしこも人だらけだけど」
「ああ、それなんだけどね」
 これまた問われるであろうと思っていた問いに、満を持して私は胸を張った。
「今日は街の外に出ようかと思って」
 え、と目を見開いたロウの反応も期待通り。ぽかんと開けた口まで見事に裏切らない。
「いいのかよ。せっかくの祭りじゃねえのか?」
「祭りだからだよ。今日なら街に人が集まるから、山の方はきっと静かだよ。雲もないし、星を見るのにはこれ以上ない条件なんだから!」
 星、というワードを口にしたところでロウはようやく合点がいったようだった。
「なんだ、そういうことか。お前がはしゃいでるのって、祭りのせいじゃなかったのかよ」
「お祭りも好きだよ? でもヴィスキントじゃ別に珍しいことでもないし、今日の天気の方が魅力的なだけ」
 満天の星空を静かな山頂で見上げる。なんて贅沢な夜だろう。ここ最近は天気が崩れがちだったこともあってあまり星が見られずにいた。宮殿からの帰り道も味気なく過ごしていたところだ。
「あ、もしかしてロウはお祭りの方が良かった?」
「別に、そういうわけじゃねえけど。お前がいいならそれに付き合うぜ」
「またそういうこと言って。まるでこっちがわがまま聞いてもらってるみたいじゃない」
「そんなことねーよ。むしろ外の方が好都合かもって思ってるくらいだ」
「なにそれ、どういう意味?」
 ロウはこちらの問いなど聞こえなかったようにして「行くぞ」と混みあう広場の方へと歩き出す。
「ちょっと、どこ行くの」
「ずっと外にいるんだろ。何かあったかいもん買ってこうぜ」
 祭りにそれほど興味は無くとも美味しいものには目が無いらしい。それには割と同意できるかも、と思いつつその背中を追った。
 広場を出てタルカ池側の城門をくぐると、人気はすっかりなくなった。祭りもそろそろ本格化する頃で、城内に人が集まっているのだろう。
 腕には屋台で買った食料を抱え、私たちは街から離れる方向へと進んでいった。明かりも少なくなり、ズーグルには気を付けなければならないが、こちらにはフルルがいる。もし危険が近づけば誰より早く気づくはずだ。
「それにしてもお前って急だよなあ」
 スパイスの香る串焼き肉を片手にロウが言う。
「いきなり星見に行く、なんて言い出すんだからな」
「だって思いついたのが今朝だったんだもん。外見たら晴れてるし、雨も降りそうになかったから」
「そうなったら普通、祭りの日が晴れて良かったーとか思うんじゃねえの? 俺が行きたくないって言ったらどうなってたんだよ」
「……たしかに」
 言われてみれば、そういう可能性については全く考えていなかった。今朝この提案を思いついてから自分は揚々とその準備を進めた。いつもより大きい鞄には星を見るための道具しか入っていない。
「そんなこと、全然考えてなかった。ロウに断られるなんて微塵も思いつかなかった」
 ロウに言われる今の今まで。ロウが祭りを楽しみたいとか、疲れているから外には出たくないと主張する可能性だって充分あったのに。
 そのもしもを考えて今さら肝を冷やしていると、ロウがけらけらと笑った。
「俺が断るはずないってか。随分信用されてんな」
 信用。悔しいけれど、その言葉選びは的確だ。悔しいけれど。
 もうすぐ麓、というところで不意に空を見上げる。濃紺の天幕には既に星々がぶら下がっていて、瞬き一つの瞬間に輝き方を変えるそれらは星というより、絨毯にこぼした砂糖の粒のようにも思えた。
「ちょっとおいしそうだよね」
「フゥル!」
 フードから顔を出したフルルの賛同が聞こえて、私は再び視線を宙へと投げる。これから山道を行けば天との距離も近づいていく。どれだけ迫れば粒は砂糖菓子へと変わるだろう。色とりどりの星たちは瓶詰にされたそれにそっくりだというのに、ちっとも手に届かないのが惜しいところだ。
「なんだ、食いもんの話か?」
「違うよ。そうだけど、そうじゃない」
 首を振りながら、この男に風情の話をしても無駄だろうなと思った。訝しげに頭を傾げるロウに、私はつい先日読んだ本のことを思い出す。
「知ってる? 星には名前のついてるものもあるんだよ」
 例えばあれ、と指をさしてみせたのは散りばめられた砂糖の粒の中の一つ。それが放つ青白い閃光は鋭く、一直線に地上に刺さる。
「地上から一番明るく見える星なんだって。だから昔の人はそれを方角を知るのに使ったり、目印にしたりしてたらしいよ」
 そんな説明の間もロウは首をあちこち傾けたり、目を細めたりしている。どうやらなかなかその星が見当たらないらしい。
「どれだ? 俺には全部一緒に見えるぜ」
「ほら、あれだよ。もう少し上で、右」
 しばらく一緒に視線を彷徨わせたところで、私の指の先とロウのそれがようやく重なった。
「ああ、あれか。確かに他のやつより明るい気がすんな」
「気がするんじゃなくて、本当に明るいの」
 私の主張など気にも留めず、ロウはじいっと食い入るようにその星を見つめていた。
「つーか、誰がどうやって決めたんだろうな。人によって見え方とか変わりそうなもんだろ」
 突然のロウの言葉は的を射ているように思えた。視力の良し悪しや天候などの条件で変化しそうなのに、どうして昔の人はあの星が一番明るいなどと断言出来たのだろう。
「意外と単純だったりしてな」
「単純?」
「明るいって言った奴がすげえ偉かったとか」
「反論できなくてってこと? やだよそんな決め方」
 そうは言いつつも、古代の階級制度によっては否定しきれないところが憎らしい。ロウは知識こそ持っていないものの、意外と鋭い指摘をすることがある。発想の根本が異なるのだろうが、思いがけない意見には舌を巻くこともあるので侮れない。
「現実的過ぎるっていうか、学問と関係ない決め方は嫌だな」
「ならお前はどうやって決めたと思う?」
「うーん、そうだなあ……」
 少し考えて、 
「誰かが言ったから、そう見えるようになってきた、とか?」
「なんだよそれ。俺が言ったのとあんまり変わんねえだろ」
 ロウが呆れたように小さくため息を吐く。
「なら、たくさん人集めて、どれが一番明るいか皆で指差したとか」
 今度の意見にはロウもなるほどと頷いた。
「多数決ってのは一番納得できるかもな」
「皆違うの指差したらそれこそケンカになっちゃいそうだけどね」
 確かに、と笑う声が静まり返った夜道に響く。街の喧騒もとうに消え、他に聞こえるものと言えば自分たちが踏みしめる砂利の音だけだ。
 こんな夜を待ちわびていた。穏やかで、時間の流れなど微塵も感じさせないゆったりとした夜。だからと言ってそれをひとりで求めようとは思わなかった。この空の美しさは誰かと分かち合いたかった。一緒にいて心を緩めることのできる、大切な誰かと。
 不意にロウの視線がこちらに刺さった。
「そんで、なんていう星なんだ?」
 思わず「え」と間抜けな声が出る。
「お前が言ったんだろ。名前のついてる星があるって。それがあの星なんだろ」
「あ、ああ、えっと……」
 私は一瞬口ごもり、その後で、
「なんだったっけ? ど忘れしちゃった」
 と頭を掻いた。
「なんだよ、ここまで引っ張ったくせに」
「ごめんって。話に夢中になってたら、つい」
「ったく、思い出したら言えよな。気になるだろ」
 私はうんと頷き、ロウには気づかれないようその横顔を盗み見た。やや浮いた視線はまだ先ほどの星を追っているようだ。
 僅かに大きくした足音にロウはおそらく気づいていない。高鳴る鼓動をなんとか誤魔化そうと必死になっている私にも。
 あの星の名前は天狼星。この全天で最も明るく見える星。昔から誰かの目印になってきた星。
 忘れていたものを思い出したわけじゃない。そもそも忘れるわけがない。あれだけ詳しく調べ上げた星の名前を記憶から消し去ることの方が難しい。
 口をつぐんだのは、急に恥ずかしくなったからだ。この星の名前を告げることで、何もかも悟られてしまう気がした。
 ロウには教えてやらない。あの星の名前も、由来も、私がこの星の名前を知って一番に誰のことを思い出したのかも。今日の天体観測はその星を眺めるためのものだということも。
 そんな私の内側に宿るもの。今ようやく熱を帯び始めたそれにロウはまだ気づかなくていい。
「おーい、早くしねえとおいてくぞ」
 いつの間にか遅れをとっていた私に、少し先でロウが声を張る。
 そんなことしないくせに。距離が空いたら今みたいに待っていてくれるに決まっている。
 やっぱり私はロウを信用しているのだ。かつて古代の人間が星を眺めていたように。いつもそこにあるものとして崇めていたように。
 少し駆け足でロウに寄れば、自然と歩幅が重なった。気遣いを通り越してもはや習慣となってしまったそれに当人は気づいておらず、私は一人ほくそ笑む。
「暗いんだからあんまし離れんなよ。迷ったらどうすんだ」
「ごめんごめん。星がきれいだったから」
 言い訳としては充分。実際のところは嘘じゃないにしても、そうならないと分かっていればこそ。
 私が迷うわけはない。私だけの目印が、空でないところで眩く光っているから。
「どうかしたか? 何笑ってんだよ」
「ううん、なんでもない」
 誰より優しい光に思わず目を細めたくなる。私の、私だけの星。
 人の溢れる街中でだって、街灯のない山道でだって見つけられる自信がある。確信がある。
「ほら、もう少しで山頂だ。そこで思う存分眺めようぜ」
 うんと頷いて、私はその隣に並び立つ。そうして心の中で密かに願うのだ。
 どうか、いつまでも絶えることなく光り輝いていてね。私が迷わないように。すぐこの場所にたどり着けるように。
 その光を受けて、私もずっと光り輝けるように。
 あなたの星でいられるように。

終わり