桶いっぱいの水に手を浸してみる。指を開いて、少しずつ沈めていく。伝わってくる感覚は冷たいというよりも、痛いという方が正しい。気の済んだところで引き上げるとそれは赤く色づいて、指は思うように動かない。
白く濁る息で指先を温めながら、私はいつものように朝食に使った食器を洗うことにした。たった二人分とはいえ溜め込んでおくのは良くない。こういうのは一気に片付けるのがいいと、キサラから教わった。
食器を片し終えると、窓際の机へと向かう。そして読みかけの本を開き、その世界に浸る。そうして時計の針が進んでいく。外に舞う粉雪が地に重なっていく。
気が付けば随分と時間が経ってしまっていた。本を片し、立ち上がろうとした時、ドアの開く音がして同時に冷たい空気が部屋に流れ込んできたのが分かった。
「さみいー」
髪に白い花を散らしながらロウが午前の仕事から帰ってきた。鼻水をすすって、真っ先に暖炉の前へと駆けていく。
「おかえり。ごめん、今からご飯作るね」
「おう」
ロウが新たに薪をくべると、再び部屋に温もりが戻ってくる。
体の内側からも温められるものを、と考えて私はスープを作ることにした。保存庫にはキャベツとベーコンがある。ついでにタマネギも入れよう、と考えたところで、それがどこにも見当たらないことに気が付いた。どうやら半分ほど腐っていたそれをロウが気を利かせて捨ててしまったらしい。
もう半分は使えたのに、とぼやきながら私は仕方なくタマネギなしのスープを作った。割合で言えばいつもより野菜の減ったそれを、ロウは実に満足そうに平らげていた。
「食材減ってきたろ。帰りに少し買ってくるか」
食後のコーヒーをすすりながら、ロウはそんなことを言った。
「え、いいよ。私が行くから」
基本的に買い出しは家にいる私の役目だ。
「今日外に出ようと思ってたし」
そう言いつつ、メモに『タマネギ』と書き加えたところでそれが横から奪い取られる。
「いいって、ちょうど市場の前通るし。お前は家に居ろ」
な、と念押しされてしまうと、それ以上はもう何も言えない。
「うん、じゃあお願い」
「任せとけって」
明るい調子でそう言うと、ロウは午後の仕事へと出掛けていった。
ドアを閉めて鍵を掛ければ、部屋は再びしんと静まり返る。窓の外で降り続く雪は先ほどよりも重さを増していた。
ロウは何かにつけて私を部屋に留めておこうとする。強制ではないから、決して監禁とは違う。
私はそれを分かっていて、買い物や用事をロウに託している。ある意味、自分で選んで部屋から出ていないのだともいえる。
そうしているのは当然、理由に心当たりがあるからだ。ロウは明言はしないが、考えられる原因なんて一つしか浮かばない。
もうあれから数年が経つ。
私たちは罪を犯した。誰にも言えない、誰も知らない罪だ。
◇
初めて、というのは男女関係において実に口当たりの良い言葉だ。
初めての恋、初めてのキス。
恋に至る一歩手前のときめきや、想いが通じた後に手を繋ぎ合わせたことも含めて、私にはロウが初めての相手だった。
溺れるような恋はまさに光の如く時間を攫い、それにしがみつくのに夢中だった。
ロウとはできるだけ時間を共有していたかった。朝起きてから家を出るまで。帰ってから夜寝るまで。休みの日は一日中。それぞれが仕事や研究をしている以外は、ほとんどずっと同じ空気を吸っていた。
「今日も二人でお出かけですか」
「おう。つっても、そこの牧場までだけどな」
「いやはや、仲が良くてうらやましい」
ヴィスキントの城門を守る兵士にすらそんな惚気を垂れては笑うロウに、私は「恥ずかしい」と赤くなりながらも内心喜びを隠せなかった。
人気がなくなるとよくキスをした。飼われている動物以外にあまり人の現れない牧場などは、格好のスポットとなった。どうしてかは分からないが、室内でするよりずっと興奮した。
セックスを覚えてからは毎晩のように行為に耽った。夜でなくたって、時間と避妊具さえあればキッチンや玄関など、場所を選ばず交わった。酷いときは服を着る間もなかったほどだ。
付き合いがやや落ち着いても、ロウを好きな気持ちは膨らむばかりだった。仕事の邪魔はしたくないと思いつつも、遠出するときはいつだって寂しく思った。
その日、ロウは翌朝早くの仕事に向け、夕方にヴィスキントを出ることになっていた。今にも雨の降りそうな天気ではあったが、ギリギリまで一緒に居たいと言うと、街道の先まで見送ることを許してくれた。
「すぐ帰れよ。雨降るぞ」
「うん、わかってる。ちゃんと帰るよ」
「夜更かしすんなよ、飯も食えよ」
「わかってるってば。ロウも、気を付けてね」
小さくなる背をもっと見ていたかったのだが、鼻先に水滴が当たる感覚がすればそうもいかない。私は思ったよりも早くやってきた雨雲に追われるようにして来た道を引き返した。
間もなく本降りとなっていた雨は弱まる気配を見せず、むしろ勢いは増すばかりだった。目に入った厩舎に普段いるはずの馬の姿は無い。どうやら雨を見越して、主が小屋の方へと移動させたようだった。
少し休ませてもらおうと屋根の下に入ると、木を叩く雨の音が響いた。持っていたハンカチでは髪から滴る水滴を拭いきれなかったが、それでも何もしないよりましかと毛先を撫でた。すぐにびしょ濡れになるそれを絞っては、腕や顔を何度も拭った。
そこへ鎧を着た兵士がやって来た。濡れ鼠となった私の姿を見かねたのかと思い、どうにも恥ずかしくなった。
だがその兵士は私の前に突っ立ったまま何も言わず、これといって何をするわけでもなかった。
「あの、どうかしましたか」
声掛けにも応答はなく、変だな、と思った時、その鎧に包まれた腕が動いた。
ほんの一瞬の出来事だった。突き飛ばされたと知ったのは、土で手のひらが汚れてからだ。
顔を上げたときにはもう口元は手で覆われ、声が出せないようになっていた。腕は一纏めにされ、頭の上で縫い留められている。兵士が脚のあたりに乗って体重を掛けてくると、完全に身動きは取れない。背中が濡れ、布を伝わる冷たい感覚がじわりと広がっていく。
酸素の行き届いていない頭でも、犯されるのだと直感で分かった。必死で手足を動かそうにも、鎧を着た人間を跳ねのけられるほどの筋力は持ち合わせていない。
苦しさに喘いでいるうち口を覆っていた手が離された。大きく息を吸い込もうとして、鼻から入ってきた雨にまた咽(むせ)た。
兵士は馬乗りになったまま器用に口でベルトを外し、右腕の部分の鎧を脱いだ。金属音を立てながらそれが転がっていくのを横目に見て、私は息を呑んだ。
あれよあれよという間に、兵士の手は私の身体を弄っていた。腹のあたりから上へと素肌をなぞる指は、この世のものでは形容しがたいおぞましさだった。
抵抗しなければ。
そう思うのに身体が動かない。頭も追いつかない。
あまりの悔しさに涙が出た。強く歯を食いしばると血の味がした。
「そんな顔して、可愛いのが台無しですよ」
聞き覚えのある声だった。
「ああ可愛い。僕の、僕だけのリンウェルさん」
調子はまるで違うが、この声はよく自分たちに声を掛けてきた城門の兵士のものだった。
ますます頭は混乱する。あの人が何故。何故こんなことを。
「やめて……」
蚊の鳴くような声では何も止められない。変えられない。
嘆くしか出来ない自分の非力さに、涙はとめどなく溢れてくる。
下半身に男の手が伸びる。大腿に寒気がするような温い感覚がして、それがさらに上へと動こうとした時だった。鈍い音とともに身体の上から重みが消えた。
ガシャン、と隣に何かが転がった。それが兵士の身体で、音を立てたのは鎧だと知って一瞬呼吸が止まった。見上げた足元にはロウが立っていた。
ロウは呻(うめ)く兵士へと近づくと、その顔を覆っていた面を剥ぎ取り、拳を振り上げた。何度も何度も、何も言わずに拳を叩きつけていた。
「やめて」「死んじゃう」そう言いたいはずなのに、何故か声は出なかった。いや、声は出ていたのかもしれない。単に雨に掻き消されたか、誰の耳にも届かなかっただけで。
どれだけ時間が経っただろう。いつしか音を出しているのは、雨音の他には、男を殴りつけるロウの腕先だけになっていた。
動かなくなった男をぞんざいに地へと投げつけ、ロウは冷たい視線を彷徨わせた。その先に流れる川を見つけると、鎧の足先を掴み引き摺っていく。
その意図するところを汲み取って必死で立ち上がると、私ももう一方の足を持ち上げた。滑る鎧の表面に四苦八苦しながら、川べりまで兵士だったものを運んだ。
辺りがすっかり暗くなっている中、二人で鎧の隙間に石を詰めた。転がっていた面や腕の部分も手探りで適当に嵌め込んでやると、ロウは何も言わず、それを水の中に蹴り落とした。そのつま先が完全に沈んだのを見た瞬間、私は膝から崩れ落ちた。
「行くぞ」
低い声で言ったロウに腕を掴まれ、そのまま引き上げられる。
その手は血だらけで、目を背けたくなるくらいに腫れ上がっていた。当然だ、あれだけ殴ったのだから。
「大丈夫なの」
「別に、初めてでもねえだろ」
降り注ぐ雨粒よりもずっと冷えた声でロウは言った。その表情は暗くてよく見えなかった。
借りていた部屋に二人で戻ると、私はまずはシャワーを浴びた。知らないうちにあらゆるところに傷ができていたようで、石鹸の泡が染みて初めて気が付いた。
ロウはその間、自分の怪我の手当をしているようだった。終わるなりこちらへとやってきて、構わずシャワールームへと入ってきた。
「痛い?」
答えは分かりきっているのに、問わずにはいられなかった。ロウがそう口にするはずもないのに。
できるだけ傷に当てないようにして、私はロウの身体に湯をかけた。泥なのか乾いた血液なのか、薄暗い浴室ではよく分からなかったが、ロウの身体も随分と汚れていた。泡立てた石鹸でそれらを擦っていると、背に腕が回される。
「……なに?」
ロウからの言葉は無かった。ただ腕に力を込めて、私を抱いていた。私はそれを受け入れたまま、排水溝に水が流れていくのをじっと見つめていた。
シャワーを浴び終えると、私はロウを求めた。
あの兵士にペニスを挿入されたわけではなかったが、あの時感じた恐怖心は拭いきれていなかった。
何度も何度もキスをして、触れられていないところがないと断言できるくらいに愛撫されると、頭の中が徐々に蕩けていった。ロウから与えられる快楽に、あの兵士のことは記憶から消え失せつつあったが、どうにもはじめの一回だけは濡れなかった。
どうしてもロウが欲しいと強請った私に、ロウは唾液を使ってなんとかそこをこじ開けた。まだ充分でないのに、もういいからと上に乗ったのは私の方だ。準備した避妊具も放置したままで、ロウのペニスをそこへと擦り付けた。半分ほど萎えたそれが再び硬さを取り戻した瞬間、先端からそれを飲み込んでいく。当然痛みは感じたが、寧ろそれが丁度いいくらいだった。
上下に腰を揺すって、さらにロウを感じる。膝立ちでは動きづらく、ロウの方へ開脚する形になればその動きもスムーズになった。
自分の中の壁をロウのペニスが擦り上げている。それだけに意識を集中させていれば、次第に溢れてきた愛液で結合部が汚れた。
私の下で快感に耐えるロウを見ると、ああ、今自分はロウと繋がっているんだなと実感できた。とうにあの男のことは忘れ去っていた。
ロウは風邪を引いたということにして、数日間部屋から出さなかった。そんな短期間では怪我が治るはずもなかったが、腫れが収まると見た目にはあまり違和感を感じなくなった。
あまり休んでいては怪しまれると、ロウが仕事に出始めたのはそれからほんの数日後のことだ。まだ本調子でないと言い訳をして、ズーグルとの戦闘は避け、それ以外の荷運びをしていたらしい。何にせよ怪我の悪化は免れた。
「兵士が一人行方不明なんですよね」
世間話でそんな話を聞くと、私は決まって驚いた顔をしてみせた。もし見かけたら知らせます、といかにもな言葉も添えておいた。
心配するふりをして、内心では特に何も思っていなかった。
見つからない、見つけられない。だって私はあの男の顔も知らないのだから。
きっと雨の強い日だったことが幸いしたのだろう。目撃情報もなければ手がかりもない。川から海へとつながる水門は開けられていて、水死体の情報も聞こえてこない。
唯一、嘘の下手なロウには心配もしたが、最近は風邪で寝込んでいたと言えばそれ以上聞かれることはなかったようだ。
雨の日の一件から、ロウはあまり私を一人にしなくなった。朝、宮殿に向かうとき以外は大抵ロウが迎えに来るようになった。元々一緒に居た時間が多かったのもあって、それについて誰かが言及してくるということもなかった。違和感を抱いていたのはただ一人、私だけだったのだろう。
それでもロウの意図するところが分かるようになると、私ももう何も言わなかった。ロウは私を守りたいだけなのだ。そう思うとロウのことがまた堪らなく愛おしくなった。やがて宮殿に行く頻度も減っていった。
ヴィスキントから居を移したのはロウの仕事関係の事情だ。どうしても人手が足りないという〈銀の剣〉から正式にメンバーに加わってくれと依頼が来たのだ。
住まいと充分な給料、その他提示した条件が噛み合い、承諾に至った。二人で住めるような家は郊外にしかないと言われたが、街中より静かな環境が気に入り、入居を決めた。
ヴィスキントに住んでいた頃よりも街が遠くなった分、食材などの買い出しは大変になったが、それ以外に不満はない。今となってはそれすらロウが仕事帰りに済ませてくる有様だが、ロウが面倒になったなら休日にまとめて済ませばいい話だ。
平穏だ、何もかも。
朝起きるとロウがいて、一緒に食事を摂って、仕事に送り出して。帰ってきたらまた食事を摂って、同じベッドで眠る。
これ以上に幸せなことなどない。
私の心は凪いでいる。今日も明日も、きっとその先も。
一度だけ、ロウに問われたことがある。
「後悔してるだろ」
はじめは何を言っているのか分からなかったが、その哀しい表情があの雨の日を彷彿とさせた。
「してないよ」
私が間を置かずそう答えれば、ロウは「そうか」と言った限り、それ以上何も言わなかった。
何を後悔するというのだろう。
あの男を殺したこと? 川に沈めたこと? 自首しなかったこと?
シスロディアに付いてきたことだって、何一つ後悔してはいない。
――ロウは後悔しているの。
私が投げかけた視線は、ロウに届くことはなかったが。
ここのところ、稀ではあるがシスロディアにも雨が降ることがある。ダナとレナの融合による星霊力の影響とみられるが、この白い景色に銀花でない水滴が降るのを見るとなんだか不思議な気持ちになる。空から降り注ぐものとしては何も変わらないのに、どことなく違和感を覚えるのだ。
今夜も雪から雨に変わるようだ。既に霙となった粒は降るというより落ちてくるといった方が正しい。
水滴がまた一つ窓に当たり、透明な線を描いて落ちていく。その軌跡を指でなぞるのは思いの外楽しい。伝った水滴はゆっくりと時間をかけて下へ下へと下りていき、やがて地面を濡らすのだろう。
水は循環するのだと、本で読んだ。空から降った雨や雪は地表に染み込み、地下水となって流れゆく。それらは川や海へ注ぎ込み、その過程で蒸発して再び空へと戻っていく。
私は水に触れるたび思う。この水の中に、あの男を知っているものがあるだろうか。
川の流れに終わりはない。いずれ到達する先がどこかの海だったとして、ずっとそこに留まるわけはない。
だからあの男を纏った雨も、川の水も、今も絶えず循環の中にある。その一滴に今自分が触れているとしたら。皮膚を湿らせ喉を通る水に、あの男の要素が少しでも混じっているとしたら。
そんな恐怖にも似た感覚は私を震え上がらせる。あの時男が滑らせた指がまだ肌を這っているかのように背筋が粟立つ思いがするのだ。
どこへ行こうとも、どれだけ時間が経とうとも、逃げ場はない。
水は見ているのだ。雨となって、雪となって、あの男の一部となって。
雨の降る夜には、私は決まって先にベッドへと向かう。「おやすみ」とロウに声を掛けて、毛布を顔まで被る。そうして規則正しい寝息を立てては、完璧な狸寝入りを決め込む。
しばらくしてロウの気配が近づいてくる。ベッドが軋み、布の擦れる音がしたと思うと再び部屋が静まり返る。そうして数分も経たないうちに聞こえてくるのは、苦しそうなロウの呻き声だった。
雨の夜はいつもこうだ。ロウは何かに魘(うな)されている。
当の本人だって気づいていない。朝になれば何事もなかったかのようにしている。寝不足を感じていても嫌な夢でも見たかな、程度にしか思っていないのだろう。
私の方もはじめこそ気にはなったが、やがてこれは口にしてはいけないことなのだと気がついた。
私は寝返りを打つふりをして、ロウの方へと身体を向ける。暖炉の火が消えてしばらく経った部屋は肌寒いほどだというのに、ロウの額には汗が滲んでいた。
――私だって後悔してないわけじゃないよ。
荒い呼吸を繰り返す横顔に向かって、私はそう微笑みかける。
後悔していないわけじゃない。
だがそれはあの男を殺してしまったことに対するものではない。あんな男、心底どうだっていい。
私はそっと、ロウの胸に置かれている手に触れた。温かくて力強くて、誰より優しい手だ。
私が後悔していること。それはロウの手を、人殺しの手にしてしまったことだ。
私があの日、あんな目に遭わなければロウが手を汚すこともなかっただろう。私が雨宿りなんかしなければ、そのまま走って帰っていれば。ロウの優しい手が、人を殺めることもなかった。
ロウは優しい。優しいから、こうして魘されている。普段は何ともないように過ごしているが、心の奥底で自分を許すことが出来なくて、夢の中で苦しんでいるのだ。
出会った時からロウは変わらず優しいままだ。後悔の雨に苛まれてもなお、それを表立って明かしたりはしない。雨の日の、夢の中でだけあの日のことを懺悔している。
そして、そんなロウの姿を見て私はおかしいくらい安心している。変わらないままずっと隣にいてほしい。そう願いながら、呻くロウをただ見つめている。
ふと、ロウが寝返りを打った。手の感覚に気づいて目を覚ましたのかと思ったが、ただこちらに背を向けるような体勢になっただけだった。
――どこへ逃げるつもり?
後ろから抱くような形でぴたりと身体を合わせれば、ロウの体温が伝わってきた。背に耳を押し当ててみると、確かに鼓動の音がする。まだこんなにも生きている。
――逃げられないよ。
朝も明日もやってくる。この音がする限り、ずっと。
私たちは罪を抱えながら生きていかなければならない。毎日石を拾い、それを胸へと積み上げて、徐々に重たくなる身体を引き摺って歩いていかなければならないのだ。
抱えきれなくなったら、それを重りに二人で沈もう。せせらぎを胸に、暗くてかなしい水の底まで落ちていこう。明日その日がやってきても、私は大丈夫だよ。
瞼を閉じると、とっぷりと闇が視界を覆った。水の底はきっとこんなふうなのだと、私は小さく笑った。
終わり