メナンシアは過ごしやすい。日中でも屋外で長時間活動していられるし、日射しもそこまで強くない。風は爽やかで土埃も混ざっておらず、なんなら肺いっぱいに取り込んでも苦しくもなんともない。
故郷ではこうはいかない。外では暑くて10分も座っていられないし、こんなふうに目を閉じて昼寝をするなんてもってのほかだ。一歩街の外に出ればズーグルの気配は絶えないし、1分1秒だって気を抜いていられない。そういうところがメナンシアとはまるきり違う。
幸運なことに今回は遺跡周辺にズーグルはほとんどいなかった。生い茂ったツタが長い間その侵入を遠ざけていたのだろう。おかげで自分たちがここへ入るのにも少々手間取りはしたが。
つまり今現在、気候は穏やかで敵影は無し。気にかけるべきはその辺に置かれた二人分の荷物くらいで、それを白昼堂々盗んでいくような生き物は存在しない。ここにたどり着くまでに蓄積された疲労を解消するにはまさに絶好のタイミングと言ってもいい。
それだけの条件が整っていて、どうして俺はいまだ気を張っているのか。目を閉じたまま、周囲の気配に耳をそばだてているのか。
疲れていないわけじゃない。昨日の夕方ヴィスキントに着いて、今朝早くに街を出ての遺跡探索だ。疲労困憊というわけではないにしろ、いつ睡魔の手中に落ちてもおかしくない。
正直言えば、このまま眠ってしまいたい気持ちはあった。休める時に休んでおきたいし、それがこんな陽気の中なら短時間で充分な休息になる。これほど効率の良いことはない。
それでもどこか疑わしいものがあった。自分の中にではない。疑わしいのはあいつだ。
ついでに〈疑わしいもの〉という言い方にも語弊があるかもしれない。言い換えるとしたら、〈期待〉とでも言えばいいだろうか。
ふと遠くで声が聞こえた。いや、遺跡の奥から足音や独り言はずっと聞こえていたが、聞こえないふりをしていた。
「ねえ、ロウってば」
足音と同時に近づいてくるその声に、俺は沈黙で返事をした。目をつむったまま、規則正しく呼吸を繰り返すだけ。深く吸って、深く吐いて――。まるで眠っている時そのもののように。
「……寝てるの?」
やや潜められた声は遺跡の壁に小さく反響する。当然、この問いにも反応しない。俺は今眠っている。眠っているように見せている。
そうして近づいてきた足音が、やがて自分のすぐそばで止まった。
「……本当に寝てる?」
間近で聞こえる声に心臓が飛び跳ねそうになるが、それも必死で抑えた。不自然なほど自然に完璧な狸寝入りを決め込む姿は傍から見れば滑稽ではあるが、もう引き下がることはできない。今はひたすら耐えろと、自分に言い聞かせる。
布の擦れる音はおそらく、リンウェルがしゃがむか屈むかしたのだと思う。微かに砂のざらつく音もした。リンウェルがその辺に手をついたのかもしれない。
ふと迫る気配はこちらに触れる寸前で止まった。その体温を肌で感じる。文字通りの意味で。
身じろぎ一つすれば触れそうな距離に、何かがある。――何かとは? 考えるだけで身体中の穴という穴から汗が吹き出しそうになる。心臓が音を立てる。
そうして息を呑みそうになった瞬間、その気配は自分から離れていった。と思うと、
「ねえロウ、起きてよ」
間もおかずに肩が揺さぶられた。
「ん……あ、ああ……?」
わざとらしく瞼を重そうにして目を開けると、そこにはふくれっ面をしたリンウェルがいた。
「もう、荷物番が寝てちゃ意味ないじゃない。せめて鞄抱えながら寝てよね」
「あ、ああ……悪い」
「まあいいけど。もうそろそろお昼だし、ご飯にしよっか」
お弁当作ってきたんだ、とリンウェルは何事もなかったかのように鞄の中身を広げ始めた。その匂いにつられるようにして上着のフードからフルルが起き上がってくる。
俺はあっけにとられた。こういうの、なんて言うんだっけ。狸に、いや、狐につかまれる、だっけ。つまされる? いやもうどうでもいい。落胆8割、安堵2割が混じったような腹の中に、次はリンウェルお手製の弁当が入ってくるわけか。いろいろな意味で複雑だ。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、リンウェルは無邪気に笑っていた。俺はリンウェルの自信作だという卵焼きに舌鼓を打ちつつ、合間に正面のリンウェルを盗み見る。揺れる黒い髪、大きくて吸い込まれそうな瞳。
「どう? 美味しい?」
「あ、ああ、すっげえ美味い」
「良かった! キサラに習ったかいがあったあ」
そして今、言葉を紡いだ唇。
どうしてもそれから目が離せない。会話の、食事の隙間にそれをちらちら覗いてしまう自分がいる。
それもある意味仕方がないことなのかもしれない。勘違いでなければ、先ほど俺に迫っていたのは、リンウェルのその唇だったはずだ。
実は、こういったことはこれが初めてではない。以前にも似たような状況で似たような出来事が何度かあった。いずれもメナンシアにリンウェルに会いに来た時、一緒に街の外へ遺跡探索に出た時にそれは起こった。
初めてその状況に出くわした時、俺は本当に眠っていた。ヴィスキントに着くまでに珍しく激しい戦闘に遭い、いつもよりも疲弊した状態で街に着いたのだ。それでもリンウェルとの約束を違える気はなく、目的の遺跡に着いて早々に眠ってしまった。不安定な格好だったのが良くなかったのか、夢うつつのまま微睡みの中にいると、ふとこちらに近づく気配があった。それがズーグルのものであればさすがに飛び起きるが、そうではないので目も開けなかった。するとどうだろう、みるみる気配は自分へと迫り、唇に何かが触れる寸前でどこかへ消え去った。
当時は夢を見たのだと思っていた。自分の願望が多分に含まれた都合のいい夢だ。だがそうではないと気付いたのは、似たような〈夢〉を何度も、それもリンウェルとの遺跡探索の際、休息をとるたび繰り返し見るからだった。
試しに寝たふりをしてみれば、リンウェルは何も気が付かなかった。何にも気付かないまま、寝ている演技をする俺に迫り、「何か」しようとしてその寸前で去っていく。その「何か」の正体をいまだ掴めていないのは言うまでもない。自分には目を開ける覚悟も、リンウェルを問いただす勇気もないからだった。
もし、もしリンウェルが自分にキスを迫っているのだと仮定する。眠っているこちらの隙をついてそういうことをしようとしているのだとして、正直言って、それはもうとんでもなく嬉しいことで、願ってもないことで、むしろ俺としてはいつでも大歓迎なわけだ。いつまでも「仲間」以上に進めない自分たちを無理やり進展させるのにもうってつけだと思う。自分の不甲斐なさを棚に上げていることはこの際知らないふりをして。
とはいえ何度迫られていようと結局一度もそれが叶っていないということも事実だ。リンウェルがどういう考えで、何を思って躊躇っているのかも分からないが、踏みとどまらせてしまうほどにはまだ俺たちの中は深くないということなのかもしれない。「もうほとんど恋人」と思っているのは自分の思い上がりで、リンウェルにとってはそうではないのかもしれない。
リンウェルの奇襲が未遂に終わるたび、俺はつい落胆してしまう。ほんの少しでも唇が触れようものならすぐにでも抱き締めてやるのに、今回もそれは叶わなかったなと思ってしまうのだ。そうは言いつつもそこに安堵が混じるのもまごうことなき本心ではある。それで交わされたキスが不意打ちとなってしまうのはもちろん、先手を打たれたことにきっと自分は悔しくなってしまうに違いない。
その日も結局、それ以上の進展はなかった。リンウェルの方はと言えば予想外に収穫が多かったらしく、帰り道も上機嫌だった。
「ねえ見てこれ。すっごい昔の意匠だよ。かすれてるけど、たぶん花がモチーフなんじゃないかな」
「へえ」
うきうきと声を弾ませるリンウェルは道中、遺跡で拾ったと思われるどこからどう見てもガラクタのその破片を何度も見つめていた。花のモチーフってなんだ。花はお前の頭から咲いてるぞ。そんな嫌味の一つでも言ってやりたくなるが、遺跡探索を経て浮かれ気分のリンウェルはこれまた悔しくなるほど可愛らしいのだった。
だからなのか、特に進展がなくとも構わないとも思ってしまう。こうしてまた二人で(厳密には3人だが)出かけられたらそれでいいと思ってしまう。
進展を望みつつ、これ以上は踏み込めない。慎重なのだと言いつつ、実際は臆病に近い。あと一歩近づいてその手に触れる勇気がない。
「ねえロウ、聞いてる?」
「……おー」
自分の弱虫に打ちひしがれているうち、リンウェルの声もどこか遠かった。生返事を適当に返してやれば、ふとリンウェルが声を上げた。
「ロウ後ろ! ズーグル!」
「っ!」
慌てて背後に振り向く。が、そこには何もいない。
「はい騙されたー」
後ろからそんな言葉と同時にくすくすと笑い声が聞こえた。
「っ、お前な……!」
「ロウがぼうっとしてるのが悪いんでしょ。今日はこの辺にズーグルはいないって話だったのに」
確かにそうだ。それを確認したのはつい今朝のことだというのに、すっかり失念してしまっていた。
「気を抜きすぎるのも良くないよ。本当にいたらケガしてたかも」
なまじ的外れでもないから反論できない。遺跡探索は家に戻るまでとは自分の方がよく口にしている言葉だった。
「まあ、もし本当にズーグルがいたとしても私が倒しちゃうけどね」
荷物持ちの拳よりは素早く魔法出せると思うし、と笑うリンウェルは、今日一番得意げな顔をしてみせた。
夕飯を食べに来ないかとリンウェルに誘われたのは、その数日後のことだった。昼間、宮殿で顔を合わせた時に「仕事が終わったら部屋に来て」とご丁寧に部屋の鍵まで渡された。
夕方、部屋の前まで来てベルを鳴らす必要がないことに気が付いた。鞄から例の鍵を取り出し、錠を開ける。
ドアを開けた瞬間、いつかのように「遅い!」とか「待ってたんだから!」と罵られる声がするかと思ったが、予想とは裏腹にそこには誰の姿もなかった。無人のキッチンに湯気の立つ鍋が置かれている。ダイニングのテーブルにはまっさらな皿が用意されていたが、それだけだった。いい香りが立ち込める部屋にあいつの姿はない。
「……リンウェル?」
留守かと思ったが、すぐにそれはおかしいと気付いた。食事に誘われたのは自分で、リンウェルはそれを待ち受ける側のはずだ。フルルの姿もないし、出かけているという線もなくはないが、俺が来ると分かっていてそんなことするだろうか。急遽食材を買い忘れたことに気付いたならそれこそフルルに留守番させるだろう。事情を説明できなくとも、すぐに帰宅することは分かる。
だったらどこへ? という疑問には、奥の部屋の扉を見た時に一つ答えが思い浮かんだ。ここはリンウェルの寝室だ。
扉を軽くノックし、一応「入るぞ」というお伺いも立てておく。返事がないのをいいことに隙間から寝室を覗き込んで息を呑んだ。部屋の半分ほどを占める木製のベッドの上には、すやすやと寝息を立てるリンウェルの姿があった。
肩の力が一気に抜けた。自分から食事に誘っておいて寝てるのか、こいつは。呆れつつ、どこかほっと胸を撫で下ろしながら部屋の中へと入り込む。
閉じたドアが音を立ててもリンウェルは何の反応も示さなかった。疲れ果てて眠ってしまったのか、それはもういい爆睡っぷりだ。まるで目を開ける気配もなく、規則正しい呼吸を繰り返していた。
それは俺が眠るリンウェルのそばに腰を下ろしても同じだった。ベッドが軋んでも揺れても、リンウェルは眠ったまま。いつもの服装に、キサラのお下がりだというエプロンを身に着けて。
食事に招いたのがシオンたちだったらこうはいかない。料理を終えたら小奇麗な格好に着替えて、部屋のベルが鳴る前からそわそわして、ゲストが部屋を訪ねてきた瞬間ドアに飛びつかんばかりの勢いで歓迎を示すに違いない。そうして熱いハグを交わして、再会を喜ぶのだろう。
つまり今のリンウェルのこの状況は相手が俺だから。今夜一緒に食事をするのが俺なので寝過ごしてもいいと思われているし、待たせてもいいと思われている。
これを敗北と言わずして何と呼ぶ。リンウェルの中では俺はそういう相手で、その程度の相手。家族であるフルルを除けば一番気を遣われていないのではないか。いや近頃ではむしろそれ以下の扱いを受けることも少なくない。
それを少し面白くないと感じてしまうのはやっぱり自分がリンウェルを想っているからで、実に身勝手な気持ちであるというのも理解している。とはいえ面白くないものは面白くないのだ。もう少し緊張感とかないのか。俺が来ると分かっていてこんなメインディッシュよろしく寝転がっているなんて、こいつが俺に食べさせたいのは何なのかよく分からなくなってくる。俺じゃなきゃ食われてるぞ、という警告はあまりにも情けないので言葉にはできないが。
最近、俺にはリンウェルが分からない。関係の進展を迫るような素振りを見せたかと思えば、何も求めていないかのような態度を見せる。俺の気持ちに気付いているようでもあるし、全く気付いていないような屈託のない笑みを見せることもある。
リンウェルは俺に何を求めているのだろう。もし俺の好意に気が付いていて、(あまり考えたくはないが)それをうっとうしく思っているのなら、もっと邪険に扱われているはずだ。夕飯に誘ったり、あまつさえ家の鍵を預けたりはしないだろう。
少なくとも嫌われてはいないだろうが、その先の判断は難しい。恋人になってもいい? それとも友人としてこの関係を続けていきたい? だったらあの遺跡での出来事は? もしかして、あれらは全部俺の勘違いという名の自意識過剰だったりするのか? 考えれば考えるほど沼にハマっていく。俺がギリリと歯を食いしばる一方で、リンウェルはそれはそれは穏やかな寝息を立てている。ずるい。俺も何もかも考えるのを放棄して眠りたい。なんならリンウェルと同じベッドでというのもやぶさかではない。
そんなくだらないことを考えつつ、また振り回されてしまったとため息を吐きつつ、結局そこには笑みが混じるからどうしようもない。きっと明日も明後日もそうだろう。自分は何度だってリンウェルの一挙手一投足に振り回される。これは予感というか予想というか、もうほとんど予定みたいなものだ。
こうして転がされるのもまた、惚れた弱みってやつなんだろうな。惚れたもん負け。負けていると言えば初めからそうだ。勝った試しも、この先勝てる見込みもない。
それでもいいって思うんだから、重症だよなあ。
リンウェルの寝顔を覗き込み、その額にかかる前髪をそっと払った。さらりとした感触が指を撫でる。
そうして現れた柔そうな唇に、ふと遺跡でのことが頭に過った。
――キスか。
キスをすれば何か変わるだろうか。俺の心持も、俺たちの関係も。
リンウェルからのアクションを待つのではなく、もういっそのこと俺から迫ってみるのはどうだろう。とはいえ付き合ってもないのに「キスさせてくれ」なんて言えるわけがない。付き合ってても言えそうにないのに。
だったら今、リンウェルが眠っているこの瞬間は絶好のチャンスなんじゃないか。そう考えている俺の頭に「もし気付かれたら」「もしリンウェルが目覚めたら」なんて〈もしも〉は一切存在していない。行き当たりばったり。まさに俺の人生そのもの。
改めてリンウェルを見やると、心臓が大きく跳ねた。薄く開いた唇からは静かな寝息だけが聞こえる。無防備で不用心なそれに、今触れようとしている。
身を屈めてそっと近づくと、頬が熱くなるのを感じた。それが自分が発したものなのか、あるいは目の前のリンウェルの肌の温度なのかは分からない。
ただ近くて、近すぎて、眩暈がした。くらくらとして何も考えられない。何も見えない。もうだめだ、と思った時には飛び退くカエルのごとく、俺はリンウェルから距離を取っていた。
無理だ。俺にはできない。例えリンウェルが眠っていようといまいと触れることはできそうになかった。指の一本でも難しそうだと思うのに、それが唇と唇だなんてとんでもない。
落胆も失望もしなかった。している余裕がなかった。大して乱れてもいない身なりを整えると、俺はそっとリンウェルの肩を叩いたのだった。
その後は目を覚ましたリンウェルと約束通り一緒に夕飯を食べた。「寝ちゃってごめん」と謝りつつ、リンウェルはそこまで反省していないようにも見えたが、それでも用意してくれたビーフシチューは美味しかった。
「そういやフルルは?」
「仲間とお散歩だって。夜には戻ってくるんじゃないかな」
散歩と言ってもヴィスキント周辺をめぐるだけの手近なものらしい。どこからかやってきたダナフクロウたちに紹介するように、街をぐるりと回ってくるのだとか。
「私の気のせいだとは思うんだけど、たまにフルル、心なしかふっくらして帰ってくるんだよね」
「それ確実に餌付けされてるだろ。あるいは拾い食いしてるか」
「フルルはそんなことしませんー。……たぶん、しない、はず」
小さくなった語尾にはあまり自信が持てないようだ。「夕飯足りてないのかな。でもあまりあげると太るし、飛べなくなっちゃうし」
「あいつも大変なんだな。俺はんなこと気にしないで、食べたい時に食べるけどな!」
「ロウは単純でいいよね~」
空になった皿を見て「おかわりいる?」と訊ねてきたリンウェルに、俺は「いる!」と返事をした。ついでに余っていたパンももらうことにして、実質2食目だ。
席を立ち上がったリンウェルは、「そういえば」と何かを思い出したように言った。
「ところでロウ、さっき私が寝てる時何かした?」
「へあっ!?」
唐突な質問に思わず声も舌も裏返る。
「な、何かってなんだよ!」
「別に、ちょっとね」
リンウェルは小さく笑ったかと思うと、涼しい顔をして皿にシチューを盛り付け始める。
「変な夢見たから、ロウが何かちょっかいでもかけたのかなあと思って」
変な夢とは。気になったが、聞けなかった。内容がどうであれ、それを聞いてしまってはさっきの出来事を上手く誤魔化せる自信がなかった。
泳ぐ視線の先に水の入ったグラスを見つけると、俺はそれを一気に喉の奥へと流し込んだ。冷たいものが体の真ん中を通っていく感覚に、頭が冴え冴えとしていくようだ。
「……何にもしてねえよ」
呟くように言って、俺は二杯目のシチューに手を付けた。
嘘は言っていない。俺はまだ何もしていない。何もできなかったのだ。
心の中だけで唇を噛んで大きく一口シチューをすすった。腹の中はもやもやしているはずなのに、リンウェルが作ったシチューはやっぱりどうしたって美味かった。
それからも俺たちのいたちごっこは続いた。遺跡探索に行けばリンウェルから迫られたし、俺自身もあれに懲りず隙を見ては幾度か迫ろうとした。
だがそれらも結局俺たちの関係を変えるには足りなかった。どれもこれも既成事実には至らなかったからだ。
もはやお互い意地になっていたかもしれない。どちらが先に触れるのか、我慢できなくなるのか。決定打を放つのはどちらか。互いの思惑に気付いているようでそうでない。ほんのスレスレを彷徨う期間が続いた。
そうして届いたのがシオンからの手紙だ。外廟の封印のために俺たちは再び集まった。
皆との久々の旅は楽しかった。その一言だけでは済まされないような大変な出来事もたくさん起こったが、終わってみればやっぱり有意義な時間だったと思う。
「ナザミル、今どの辺にいるかな」
「さあな。世界は広いからな。けど、案外近くにいたりするんだよな、そういう時って」
俺たちの日常も戻ってきた。この旅で俺たちは仲間を一人増やし、今は再会を待ちわびる日々だ。
日常が戻ってきたということは、俺たちの関係も振り出しに戻ったということだ。いや、振り出しというよりも最中というか、いたちごっこの真っ只中に戻ってきた。――多分。
というのも、旅を終えてからリンウェルに遺跡探索に誘われるのは今日が初めてだった。長い間カラグリアを空けていたせいもあって、帰った途端ネアズに仕事をこれでもかと回されたのもあった。
ようやく取れた休みにメナンシアを訪れてみれば、そこには以前と変わらずのリンウェルがいた。長く空いた再会に拗ねるでもなく「遺跡についてきて!」とこれまた予想通りの言葉を発したリンウェルと、今日も朝早くから街を出たのだった。
「フルルは今日も杜か?」
「うん、今朝早くに仲間たちが迎えに来て一緒に飛んでったよ。運動不足解消にはちょうどいいのかも」
旅で意識を入れ替えたフルルは現在、ダイエットに励んでいるらしい。散歩途中のつまみ食いも我慢をして、元の体型に戻るよう懸命に努力していると聞いた。
近くに居れば影響を受けるとはいうがどこまでも徹底的なのは誰に似たんだか。横顔を盗み見る俺の視線にリンウェルは気付かず、「家にフルルがいない時間が増えて寂しい」などとぼやいている。
「お前は? 最近どっか行ったりしねえの?」
「うーん。そう言われるとあんまり外に出てなかったかも」
視線を宙に浮かせて、リンウェルが言った。
「誰かさんがなかなか来てくれないから」
こちらに視線を寄越し、そこで初めてリンウェルは口をへの字に曲げた。拗ねていなかったのではなく、そう見せないようにしていただけだったのだ。
「わ、悪かったよ。次はあんまし待たせねえから」
「待たせない、ねえ」
訝しげに目を細めるリンウェルは、次の瞬間には笑っていた。
「まあいいよ。ロウも忙しいんだろうなって思ってたし。今日来てくれただけでも嬉しいから」
そんなことを言われ、たまらず心臓が跳ねる。あれ、こんなリンウェルって可愛いことを言う奴だったか? いや可愛いのは前からそうだったが、こんなに素直に「会えて嬉しい」とか口にするタイプだったっけ。
うるさい鼓動と耳まで熱くなった頬に混乱しながら、それでいて数歩先を歩くリンウェルの表情は窺えないのでますます緊張は高まる。
「何? どうしたの?」
「い、いや、別に」
振り返った時の表情さえ愛おしくて、胸が詰まった。なんだこれ。急激な感情の波が次々押し寄せて、今にも溺れてしまいそうだ。
そうこうしているうち、目的地はすぐそこまで迫っていた。遺跡に到着しリンウェルの調査が始まると、俺はいつも通りその辺の柱を背もたれに腰かけた。入り口付近のズーグルはざっと片付けてきたのでおそらくそれ以上の邪魔は入らない。あとはリンウェルの調査が終わるまで待つだけだ。
頭の後ろで手を組み、目を閉じたところで考えた。いつもならこのまま寝たふりをしてリンウェルの気配を探るのが常だったわけだが、果たしてその必要があるのだろうか。
以前はリンウェルのそういった挙動に期待して、目を閉じていた。呼吸の仕方さえ偽って、あいつが近づいてくるのを待っていた。
今日ももしかしたらそうかもしれない。俺が眠っているのを見て、リンウェルは〈いつも通り〉迫ってくるかもしれない。でも、それはまた同じことを繰り返すということで、その後もきっと同じだ。奇襲は未遂に終わり、落胆する。
それでいいのか? 街へ戻れば互いになかったことになってしまうその一連の流れに意味なんかあるのか?
答えはもう分かっていた。こんな駆け引きに意味も役割もない。都合のいい言い訳にして、結論を先送りにしてきただけだ。
ここへたどり着く道中で、いっそのこと「俺も会いたかった」と正直に告げれば良かったのだ。恥ずかしがらずに目を見て、自分の気持ちを伝えるべきだった。
それができたら苦労しない。できないからここまで来てしまったんだろう。何度も何度も、人の手の入らない森の奥の遺跡まで。
俺はいつも後悔ばかりだ。思い当たるものはたくさんある。まだそれほど長く生きていないはずなのに心当たりがあまりにも多すぎる。
でも今回ばかりは違う。なぜならまだ手遅れではないからだ。まだ完全に失っていないのなら、何度だってやり直せる。
ならどうする。善は急げと言うが、今調査を楽しんでいるリンウェルに敢えて声を掛けることもない。昼飯や帰り道、機会は何度だってあるだろう。
などと考えているうち、ふと向こうからリンウェルの声が聞こえた。
「ロウー?」
急なことに驚き、咄嗟に俺はいつもの癖で目を閉じてしまった。腕は頭の後ろで組んだまま。そうしてもはや反射のごとく、呼吸まで深くなりだした。
「あ、また寝てるの?」
声が近づいてくるのが分かって、思わず冷や汗が流れそうになった。どきどきと心臓が痛む。鼻息が今にも荒くなりそうだった。
じゃり、と砂の音がした。もうすぐそこにリンウェルがいる。いつになく大きくなる鼓動を必死に抑えながら、それでもまだ狸寝入りを止められない俺はこの上ない弱虫だ。
ふっと離れていった気配にどこか安堵した。すると、思いがけない言葉が聞こえてきた。
「起きてるんでしょ」
ぶわ、と身の毛がよだつ。今の言葉はもしかして俺に投げかけられたものだろうか。
「だって、気付かないはずないじゃない。ナザミルが姿消してもロウはその気配感じ取ってたよね。私がこれだけ近づいて、ロウが気付かないはずない」
強い口調で断言されても、目を開けることはできなかった。どうしよう、どう弁解しようとただそれだけを考えていた。
「……これだけ言ってもまだ寝たふり続けるんだ」
リンウェルの声が低く、小さくなった。まずい。これは完全に怒っている。さっき引っ込んでいった冷や汗が額にだらだらと流れ始めるのを感じる。
やや空いた間に嫌な予感がした。まさか、これはアレがくるんじゃないのか。天雷の裁き――!
そう思って目を開けると、
「きゃっ……!」
思った以上に近いところにリンウェルの顔があった。
「うわっ……!」
驚き、飛び上がると同時に柱に強かに頭を打った。ぼやけていた視界が一気に晴れるほどの衝撃だ。
「いってえええええ…………!」
「な、なんかごめんね?」
至近距離でこちらを覗き込むリンウェルとようやく目が合う。途端に熱くなる頬はリンウェルも同じだったようで、互いになんとなく次の言葉を飲み込んでしまう。
「ねえ」
沈黙を破ったのはリンウェルの方だった。
「何か……言うことあるんじゃないの」
リンウェルは意味深な視線をこちらに寄越したが、俺はそれに何も言えなかった。言うべきことも言いたいこともありすぎたのだ。
「言わないんだ」
「いや、それは、その……」
「私にキスしようとしたくせに」
「なっ……!」
心当たりのありすぎる言葉に思わず声が出た。
リンウェルはやはり気付いていたのだ。自分同様寝たふりをしてその気配を窺っていた。俺がこの関係をどう変えるのか試していた。
「それはお前が先に……!」
「先とか後とか今さら関係ある?」
そう言われ、俺はうっと言葉を詰まらせる。確かに、この期に及んでどちらが先とかはもう重要ではない。
「大事なのは理由なんじゃないの?」
大きな瞳を見開いてリンウェルはこちらをじっと見つめていた。見つめ、待っていた。俺の口から紡ぎだされる言葉を。
「理由は……」
「理由は?」
「多分、お前と同じ……なんじゃねえの」
「同じって?」
泳ぐ泳ぐ、視線が泳ぐ。これだけ整った条件でこの体たらく。だって仕方ないだろう、俺はこういうの初めてなんだ!
今にも盛大なため息を吐かれると思ったが、リンウェルはそんなことはしなかった。俺の脚に軽く跨ったままで、じゃあ、と小さく笑った。
「ならこうしよっか。同時に言うの。それなら文句ないでしょ?」
二人の気持ちが同じであればそれも自ずと重なるはず。リンウェルの言いたいことはそういうことらしい。
とはいえ心の準備はなかなか定まらない。こればかりは二人ではんぶんことかそういうわけにはいかない。
「じゃあ、せーのでね」
「え、あ、おい、ちょっとまて」
「はい、せーの」
有無を言わさず声を上げたリンウェルが息を吸うのが見えて、その瞬間腹をくくった。
「……すきだ!」
吐き出した想いはその勢いのまま、遺跡の壁にあちこち跳ね返って反響する。そうして耳に届いたそれは一人分、自分の分だけ。
「あ、あれ?」
「ふ、ふふっ……」
戸惑う俺と、肩を震わせるリンウェル。上げた顔は赤に染まっていて、目じりには涙も浮かんでいた。
「あははっ、また騙されたね。こうもすんなりひっかかってくれるなんて、さっすがロウ!」
「お、お前な……!」
今いまだ鳴りやまない心臓の俺に、「でも嬉しい」とリンウェルは笑った。
「やっと言ってくれた。いくらなんでも待たせすぎ」
そう言ったリンウェルに今度は一切の躊躇もなかった。こちらへ顔を近づけてきたかと思うと、そのまま唇が重ねられる。時間にしたらほんの一瞬。でも確かに触れたと分かるキスだった。
「……!」
「ロウに任せてたらいつになるかわかんないから。寝てる間にされても困るし」
どの口が言う、と思いつつも敗者はこちらだ。反論する権利もない。
リンウェルは立ち上がると、膝についた砂を払った。そして柱にぶつけた俺の後頭部に触れ、「ちょっと腫れてるかも」と心配そうに言った。
そんなありふれたやり取りがどこか不思議だった。おそらく今日俺たちの関係が変わろうがそうでなかろうが、俺が頭をぶつけたことをリンウェルは心配したに違いない。そっと患部を手のひらで撫で、タオルを水で冷やしたものを当ててくれたに違いない。
それでもこの心持の違いは何だろう。リンウェルがそばにいて、そうしてくれているということが嬉しくてたまらない。どこか緊張もしているが、それ以上に弾んだ胸が足取りまでも軽くする。まるで何かに勝利した気分だ。
勝ってなんかいないんだけどな。今日だけでも一体何度敗北しただろう。惚れたもん負け。勝敗はやっぱり覆らなかった。
でも今はただ噛み締めたいと思った。ようやくついた決着と、情けなくもじわりと広がる安堵の気持ち。
「今日は早めに帰ろっか。夜ご飯、一緒に食べようよ」
そして可愛い恋人の笑顔。この上ない贅沢を両手に抱えて、頭の痛みすら幸福に替えて、俺はただ「おう」と頷いた。
終わり