パチン、パチン。ひとりの部屋に乾いた音が響く。
バケツに水を張って、私は今日貰ったブーケの花の水切りをしていた。水切りとは茎の先を水の中に浸しながら茎を切ることで、こうすると生花は長持ちするのだそうだ。
茎を斜めに切り終えたら、要らない葉やつぼみも取ってしまってね。水も毎日取り替えること。そうしたらもっと長く花が楽しめるから。
そう教えてくれたのは花屋に勤める新婦だった。その隣でさすがだなと笑う彼。微笑み合う二人。空気に溶ける私。
それで当然。だって今日の主役は二人だった。私という背景はほかの参加者と一緒に霞んでぼやけるだけ。空気も同じ。無色透明。
どうして彼の隣にいるのが自分でないのか。そんなのは遅すぎる問いだ。今更放ったところでそれも空気に溶けるだけ。誰の耳にも届かない。
それに、その問いの答えは誰より自分が一番よく知っている。
手を伸ばすべき時に伸ばさなかった。言うべき言葉を言わなかった。
全部自分のせいなんだよ。
あの日の私が瞼の裏でこちらをじっと見つめている。
◇
元仲間で、友人で、誰よりも近しい存在。旅が終わってからの私たちは一言で言えばそういう間柄だった。
ヴィスキントで暮らす私にロウはよく会いに来てくれた。本人曰く「仕事のついで」らしいけれど、それにしてはそれなりの頻度だったと思う。
こちらに顔を出してはやれ食事を抜くなだの、睡眠はきちんととれだの小言を吐くロウをちょっと面倒に思いながらも、私自身ロウに会えることが嬉しくて仕方なかった。一緒に食事をしたり買い出しに付き合ってもらったり、時には街の外に遺跡探索に行ったりもした。心許せる相手との時間は何にも代えがたい。そういうありきたりな理由で隠した自分の本心にも私はきちんと気が付いていた。
おそらく、それはロウも同じだったんじゃないかと思う。一緒にいて気が楽。楽しい。その根本を辿れば、私たちの気持ちはきっと一致していた。
実際、ロウが私に向かって何かを言いかけることもあった。私を呼び止めては言葉を詰まらせ、「やっぱりなんでもない」と視線を逸らして頭を掻く。そのたび私は額に、背中にうっすら汗をかいた。心臓も壊れそうになるくらいドキドキした。
そうした期間がどれだけ経っただろう。とうとうその時は訪れてしまった。遺跡探索についてきてもらった日の帰り道のことだ。街の城門の手前で、ロウはふと私の名前を呼んだ。
「なに?」
振り返ると、夕日のせいでないとはっきり分かる程度には顔を赤く染めてロウが次の言葉を言い淀んでいた。
「あのさ、お、俺……!」
来る、と思った。ついに来てしまう。
「お前のこと――」
「待って」
考えるより早く、声が先に出た。
「その先は、言わないで」
今になって思えばどうしてそんなことを言ったのか分からない。気が動転していたか、あるいは「まだ言わないでほしい」のつもりだったか。
怖かった。ロウとの関係が新しいものになるのが。これまでの心地よい関係を壊してまで先に進むべきなのか、迷っていた。
「待っていて」と言えば良かったのかもしれない。私の心の準備ができるまで、もう少し時間が欲しいと。
その時ロウはどんな表情をしていただろう。顔を上げられないまま俯いた私には分からなかった。
ただ、その後ロウが私の元を訪れる機会は目に見えて減っていった。
◇
外はもうすっかり暗くなっていて、空にはたくさんの星が瞬いていた。
きらきらと輝く星。しんと静まり返った夜なのにどこか賑やかなようで、歌っているようでもあって、まるで夜空まで祝福に満ちているようだと思った。
ところで星というのは小さく見えるけれど、本当はとても大きいらしい。ほとんどが太陽よりも大きくて重たくて、煌々と燃え続けているのだとか。
いいな。こんなにたくさんあるのだから、ひとつくらい落ちてこないかな。まっすぐこっちに向かって落ちてきて、世界を壊してくれないかな。
なんなら壊すのは私だけでもいい。あるいはあの二人だけでも。
そんなことを考えながらハサミを動かしていると、ようやく全ての花の茎を切り終えた。
私はその花たちをグラスに生けた。きちんと処理をしたからか、心なしか花たちもさっきより上を向いているように思える。黄色がかった花びらもみずみずしい。
多くが花開く中で、一つだけつぼみのものがあった。それはきゅっと詰まったできたてのつぼみではなく、今にも開きそうなのに開かないまま今日を迎えてしまったもののようだった。
あなたは、私と似ているね。咲きそうで咲けなかった。間に合わなかった。手遅れになった。
ああでも、あなたには私と違って『明日』があるね。
私には、ないの。私の恋にもう『明日』はやってこない。
◇
「彼女ができたんだ」
照れくさそうにそう口にするロウに、私は何も返すことができなかった。
「そ、そうなんだ」
ようやく声となったそれは自分でも分かるくらいに震えていたと思う。それでもロウは浮かれていたからか、そんなことなんかまるで気にも留めずに『彼女』の話をし始めた。
花屋で働いてんだ。カラグリアのショクセイ? に興味があるとか何とかで、調査についてきてほしいってことで知り合ってさ。すげえ真面目な子で優しくて、料理も上手いんだぜ――。
ロウの言葉は右から左に流れていった。残ったのはロウが最初に言った『彼女ができたんだ』というそれだけ。彼女。彼女……。
私は怒った。泣いた。喚いた。ロウのバカ、と罵った。心の中で。
全部全部、表に出すことはできなかった。「良かったね」「ロウにはもったいないんじゃない?」作り笑いで包んだ言葉を吐いて、その場でのたうち回りたい気持ちを必死で堪えた。
「今度お前にも紹介する。すげえいい子だし、努力家だからお前とも気が合うんじゃねえかな」
どこまでも能天気なロウはそう言って笑った。一言何かを口にするたびに私の心をズタズタに引き裂いていることなんかこれっぽっちも気が付かずに。
その後、ロウは本当に彼女を私に引き合わせた。どんな話の流れかは覚えていないが、一緒に昼食を摂ることになったのだった。
話に違わず彼女はとてもいい子だった。真面目で優しくて、素直で可愛らしい。
こんな子に敵うわけない。そう思いつつ、私は二人の関係の終焉を祈った。酷いケンカをしたらいい。話が嚙み合わなくなればいい。取り繕った笑顔の裏で二人に呪いをかけ続けた。そうなったところで自分が隣に立てるわけでもないのに。
何のいたずらか、その後も私と二人の関係は続いた。何度も一緒に食事に行ったし、三人で買い物に出ることもあった。
それぞれの相談に乗っては助言もした。もちろん下心は孕んだまま。それとなく仲違いさせるようなことも言ったかもしれない。地獄の釜に入れられているようなものなのだからそれくらいは許されるはずだ、なんて自分勝手なことを思いながら。
私の努力もむなしく、二人の絆はほどけるどころかますます強固になっていった。そうして送られてきた招待状。差出人はよく見知った二人。深いため息が自室の床に落ちた。
◇
濃紺のドレスに金色の髪飾り。
私は今日、夜空になろうと思って家を出た。
婚礼の儀自体は素晴らしいものだった。たくさんの人がお祝いに来ていて、誰もが笑顔に満ちていた。
仮面を被っていたのは私だけだっただろう。いかにも喜んでいますというような、二人の幸せを心から願っているかのような表情を貼りつけて、内心ではそれとは全く逆のことを考えていた。
上手くいかなければいいのに。終わってしまえばいいのに。これまで何度も繰り返した願いを、今日も呪詛のように心の中で呟き続けた。
「来てくれてありがとな」
式も終わる頃、ロウが私の元へと訪れた。
隣にはきれいな衣装を身にまとった新婦の姿。穏やかに微笑む姿は、今日この場で咲くどんな花よりも美しく見えた。
「こちらこそお招きありがとう。素敵な式だったね」
「リンちゃんにそう言ってもらえて嬉しい。今日まで準備頑張ったから」
直前まで黙っていてごめんね。本当は相談したかったけど、婚礼の儀だけは自分たちの力だけでやり遂げたかったの。ほら、これから二人で暮らしていくんだし、いつまでも頼ってばかりもいられないなと思って。
無垢な言葉はどこまでも私の心を抉った。貫かれてくりぬかれたそれにはぽっかり大きな穴が開いている。このままでは中身が全部漏れてしまう。
できるだけ早くその場を去りたかった。「おめでとう」「お幸せにね」そう言って二人を〈祝福〉して、〈いい友人〉のまま今日を終えたかった。
何か理由を付けてでも離れようかと思った時、
「二人で話し合ったんだけど」
ロウと顔を見合わせて新婦は言った。
「このブーケはリンちゃんに受け取ってほしくて」
差し出されたのは新婦が手にしていたローズのブーケだった。
「リンちゃんには感謝してもしきれないよ。今まで私たちのことを見守ってくれてありがとう。必ず幸せになるから、これからも見ていてほしいな」
ダメかな、と新婦が声を小さくする。
私は「そんなことないよ」と言おうとして、その言葉が喉の奥に詰まるのを感じていた。手のひらに汗がにじむ。頬がこわばるのを感じる。
ブーケを受け取るのを躊躇っている私を見て、ロウは新婦の手からブーケを奪った。そうしてそれを私の手元に半ば無理やり押し付けてくる。
「ほら遠慮すんなって。ほかの奴らも俺らが決めたことならいいって言うだろうし」
屈託のない笑みを浮かべてロウは言った。
「今度はお前の番だな」
手の中のブーケはそれはそれはきれいだった。何も知らない子供みたいな純粋さで輝き、自分の茎に棘があることにも気が付いていない。
私はすべての感情を堪えながら、その場でできる限り精いっぱいの笑顔を作った。
「ありがとう」
決別の言葉を口にする、ただそれだけのために。
私は夜空。太陽のような二人に呪いをかける存在。
それも終わり。先に終焉を迎えたのはこちらの方だったようだ。
生けられた花はきらきらと輝いていた。光を受けてしゃんと前を向いている。その立ち姿はまるでどこかの二人を彷彿とさせた。
燃やしてしまえたらどんなにいいだろう。切り裂いてしまえたら。凍らせて、粉々に砕いてしまえたら。
でもできない。これは供花だ。私の恋の最期を彩る供花。太陽にも星にもなれなかった、私に対する供花。
とどめを刺したのはロウだった。
直接ロウに手渡されたそれを無下に扱うことは私にはできなかった。これはきっとロウが私にくれる最後の贈り物だろうから。
外に出て空を見上げる。滲む光がひとつふたつ、徐々に増えていく。
増えていって、やがて何も見えなくなった。私はこの涙を止める術を知らない。
ならせめて枯れるまでは弔いを続けよう。呪いが祈りに変わるまで、水を与え続けよう。
さようなら。お疲れ様。よく頑張ったね。
あなたは夜空。もう眠っていいの。
終わり