こういう時の備えはできていた、はずだった。
一人(+一匹)での生活となれば頼れるのは自分だけなのだから、日ごろから食料を多めに備蓄したり、薬の類も切らさないようにしたり、ある程度の事態には一人で対処できるよう心掛けていたつもりだった。
想定外だったのは、体調を崩したタイミングだ。昨日の夜まで特に変わったところもなくぴんぴんしていたのに、まさか朝になってベッドから起き上がることもできなくなっているとは思わなかった。頭はぼうっとするし、体中が軋むように痛む。寒いやら熱いやらひとくくりにできないこの感覚は、高熱の時の症状だろう。
はて原因は、と考えてみたところで正直心当たりしかない。ここ数日は新しく見つけた古書に夢中になり、朝食も夕飯もパンひとつで済ませたり、果物だけかじったりと食事もおろそかにしていた。昨日は運悪く雨に降られ、宮殿から家までの道を走って帰宅することになったのにも関わらず、軽く体を拭っただけですぐにシャワーを浴びなかったのも良くなかった。
言ってしまえば自業自得。反省したところで時すでに遅し。くらくらと揺れる思考の端から病魔は私の体を少しずつ蝕み始めている。
「フル! フル!」
視界の外でフルルの焦る声がする。というのも、体がだるくてそちらを向くことすらできないのだ。首をもたげることすら難しい。大丈夫だよ、ただの風邪だよと声を掛けてあげたいのに。
当然声など出るはずもなく、それでもなんとかこの状況を乗り越えなければならない。まずは薬かな。その前に少し、水を飲みたいな。必死で腕に力を入れてベッドから起き上がろうとしてみるけれど、なかなか体は持ち上がらない。
あれ、もしかして結構重症? なんだか遠くで幻聴みたいなのも聞こえるし――。
ドンドン、と戸を叩くような音がするけれど、こんな朝早くからこの家を訪ねてくる人なんかいない。いるとしたら私とは少し生活習慣にズレのあるあいつくらい――。
「リンウェル!」
バンとドアが開いて誰かが名を呼ぶ声が聞こえたのと、私が意識を手放したのはほとんど同時だった。
次に目を覚ました時、視界に広がったのは見慣れた部屋の天井だった。
「フル! フルル!」
枕元でフルルが羽をはばたかせ、その声を合図にするようにばたばたと忙しない足音がこちらに近づいてくる。
「起きたか」
ドアのところからひょっこり顔を出したのは、ロウだった。
「ちょっと待ってろ。火ぃ止めてくる」
ロウはそう言って一度顔を引っ込めたが、そもそもまずどうしてロウがここに?
というか何が起きたんだっけ。私が今置かれている状況は?
ぼうっとした頭で記憶を遡ってみて、ああそうかとあらゆることを思い出す。そうだ、私は体調を崩して熱を出したんだっけ。
ベッドから起き上がれないでいるところに、何の偶然かロウが訪ねてきてくれた。玄関のドアの鍵を開けたのはフルルだろう。その焦った様子に何事かとロウが部屋に飛び込んできて――。
その後の薄っすらとした記憶では私は誰かに着替えさせられて、寝かされて、頭に濡れたタオルを押し付けられていた。その冷たさが心地良くて、すぐに眠ってしまって、起きたらこの状態だった。そういえば、途中で薬も飲まされたような気もする。どれが夢でどれが現実なのか、あまり定かではないけれど。
それにしても私を寝かしつけるその手際の良さときたら、今思えば目を見張るものがあった。それはまるで母さんのようで、医者のようでもあった。それをロウがしてくれたの? いやまさかね。心の中で首を振る。
「気分はどうだ?」
部屋に戻ってきたロウは、私の顔を覗き込みながら言った。
「熱の他に具合悪いとかは? 頭痛かったりしねえか?」
「ううん」
私は「だいじょうぶ」と呟き、ゆっくりと瞬きをした。
「ロウが、ぜんぶやってくれたの?」
私の問いに、ロウは「まさか」と首を振った。
「あの後すぐ、キサラを呼びに行ったんだよ。訓練中だったけど、抜けてきてもらったんだ」
それを聞いて得心する。あの記憶に残っているてきぱきとした手はキサラのものだったのか。朦朧とした私を着替えさせ、体を拭い、ベッドに寝かせてくれた。考えてみれば当然のことなのに、どうしてか私はものすごくほっとしていた。
キサラがそういったあれこれを担当している間、ロウは街へ買い出しに行っていたらしい。市場のあちこちを巡って指示通りのものを買い込み、その後はキサラの手伝いをしていたのだそうだ。
「礼ならキサラに言えよな。ほとんどキサラがやってくれたし、俺一人じゃ何にもできなかったし」
どこか口惜しそうな表情を浮かべるロウに、私はううんと首を振った。
「キサラを呼んでくれたのはロウでしょ。それこそ私一人じゃどうにもならなかったし、ありがとう」
フルルもね、とその白い羽を撫でると、フルルは嬉しそうに体を震わせた。
「それにしても風邪なんて、久しぶりに引いたなあ。旅で体力もついてたから、そう簡単に悪化するとは思わなかったんだけど」
「家に来てみていきなり倒れてる奴を見たこっちの身にもなれよな。ほんと、肝が冷えたぜ」
ロウは呆れたように肩をすくめる。
「私だって予想外だったんだよ。そうはいってもひとり暮らしだし、準備はしてあったつもりなんだけどなあ。万が一に備えて薬とかは用意してあったし」
「飲む前に倒れてちゃ意味ねえだろ。つーかそもそも、寝不足とか雨に濡れたとか、何か原因があったんじゃねえの」
図星をつくようなロウの言葉には「どうだったかなあ」ととぼけておいた。本当のことを知ればロウはきっとお説教をしてくるに違いない。ただでさえ熱でぼうっとする頭にやかましく言われては休めるものも休めない。
ロウはそんな私に何か言いたそうにしていたけれど、小さなため息1つで見逃してくれた。その無言で送る視線の意味は「見逃した」というよりは「次はないぞ」という圧だったかもしれない。まったく、これでは優しいのかそうでないのか分からないけれど、一つ確実なのはロウは親切ではあるということだ。
「そういや腹減ってねえか。食欲あるなら、食いもん持ってくるけど」
そう言ってロウが運んできたのは、湯気の立つ小ぶりの土鍋だった。中身は出来立ての卵がゆで、先ほどの「火を止めてくる」というのはこれのことだったらしい。
スプーンでひとすくいしたそれを口に運ぶと、やさしい味わいにふっと心が解ける感覚がした。おかゆなんて慣れ親しむほど口にしていないはずなのに、どうしてか懐かしい気持ちになった。
「すごく美味しい。けど、どうしたのこれ。キサラが作っていってくれたの?」
私が訊ねると、ロウは少し照れくさそうに「俺が作った」と言った。
「えっ」
「あ、いや、作り方はキサラに教えてもらったんだ。手順をメモに残してもらって、その通り作ったっつーか」
それでも味付けなんかはロウが自分で調整したのだろう。濃い味好きのロウにしては控えめな塩分は、私に合わせてくれたということだろうか。
「簡単そうに見えて、結構手間なんだな。焦がさないように火加減も気ぃ遣うし、鍋から離れらんねえし」
自分で作ってみて初めて気が付いた、とロウは笑った。確かにロウの得意な料理はそこまで繊細なものではないし、そういった料理をロウは好まない。
それでも今日は敢えて挑戦してくれたのだ。こう言っては自惚れに近いかもしれないけれど、他の誰でもない、私のために。
「……どうしてそこまでしてくれたの?」
ふと発した疑問に、ロウは僅かにたじろいだようにも見えた。
「ど、どうしてって……」
「キサラを呼んでくれただけじゃなく、買い出しにも行ってくれるし、苦手なはずの料理もしてくれるし」
今日だってもしかしたら仕事もあったのかもしれない。それよりも私を優先してくれたのは、どうしてなの?
ロウは少し考えこんだ後で、
「お、お前だって、前俺が風邪引いた時に看病してくれたろ」思いついたように言った。
「ほら、俺が宿屋で熱上げた時だよ。お前、いろいろやってくれたろ」
宿屋、と言われて思い出す。そういえばそんなこともあったっけ。あの日はロウと買い物の約束をしていたけれど、ロウが急に体調を崩してしまったのだった。宿の部屋でぐったりしているロウを見つけて自宅に薬を取りに行ったり、街に買い出しに行ったり、ロウが目を覚ますまでその様子を観察していたりしていたんだっけ。
「そんなこと覚えてたの」
「当たり前だろ。俺は義理堅いんだよ」
ふん、とロウは鼻を鳴らしたが、それにしては少し焦った表情をしているような。
じゃあこれは借りを返しているだけ? と問おうとして、やめた。ロウはきっとそんなつもりはないのだろうと思った。
ロウは自分が正しいと思ったことを真っすぐやり遂げる人だから。今回のことも、ロウなりに考えて行動に移した結果なのだろう。ロウはまるでいつかの恩返しかのようにいうけれど、別にそういった過去がなくたってロウは力を尽くしてくれたに違いない。
あるいはもしかしたらロウは私が言った言葉を覚えていたのかもしれない。誰だって体調崩せば寂しくもなる、とあの日私がベッド際で口にした言葉を。
覚えていて、そばにいてくれたのかもしれない。あの日、私がロウにそうしたように。
私はもう何も言わずに、ロウが作った卵がゆをきれいさっぱり平らげた。これだけ食欲があるのなら体調もすぐに良くなるだろう。
鍋をロウに渡しながら、私はふと思ったことを口にした。
「やっぱり、備えは出来てたのかもね」
「え?」
ロウが不思議そうな顔をする。
「私の体の話。ロウが来てくれるって察知して、そのタイミングで体調崩したんじゃない?」
だったらもういつ風邪引いても大丈夫だね、と笑う私に、ロウは呆れたようにため息をついた。と思うと指先で軽く鼻を摘ままれて、思わず「うわ」っと間の抜けた声が出る。
「こんな心臓に悪いこと、二度とあってたまるかっての。馬鹿言ってねえで、さっさと寝とけ」
毛布を引っ張り上げられ、額にタオルを当てられては大人しくするしかない。端の揃わないまま畳まれたそれが実にロウらしい。
思わず零れそうになった笑みは、口元まで引き上げた毛布で隠した。そうしてそっと目を閉じて、今は体を休めることにする。
目を覚ましたら、もう一度お礼を言おう。来てくれてありがとう。キサラを呼んでくれてありがとう。そして、そばにいてくれてありがとう、と。
終わり