仕返ししてやろうと考えていた。
少し前のことだ。外廟の件でみんなで久々に集まった時、ロウの普段の〈紅の鴉〉での働きぶりについて話したことがあった。ロウはズーグル退治の他にも運搬などの力仕事や、街の外に出た子供たちの回収まで手広く仕事をしているらしく、それだけのことを任されているのはひとえに周りからの信頼が厚いからじゃないかとアルフェンが褒めたりしていた。
その際、ロウが以前受けたという護衛の仕事を話題に上げた。なんでも依頼人は行商をやっている女の人で、仕事だからふらふらすることなくきちんと送り届けた、と話がそこまでなら良かったのに、特別なお礼のために張り切っただの、甘いのをたっぷり貰っただの言うので、私はすっかり勘違いして腹を立ててしまった。だって、誰がそのお礼がリンゴだったなんて思うだろう。ロウの思わせぶりな言い方に恥をかかされたあの日のことを、私はずっと根に持ち続けていた。
それで、機を窺っていた。ロウにも同じ思いをさせてやろうと目論んでいた。
材料が揃ったのは最近のことだ。私は鞄の中身を今一度確認して、ロウと一緒に食事に出かけた。
レストランで料理をつつきながら、私はタイミングを見計らって「あ、そういえば」とおおげさな声を作った。
「この間、図書の間で困っている人を手伝ったんだんだけど、その人に今度一緒に出かけないかって誘われちゃったんだ」
「古本市があるらしいんだよね。ここにいるくらいだから、本がお好きなんでしょうって言われて」
言いながら、鞄から一枚の紙きれを取り出す。古本市の日程が書かれたチラシだった。
「年上の、優しそうな人だったなあ。もしかして、これがデートってやつ?」
ふふっと笑ってみせる演技までこなして、私は満足しながら食後の紅茶をすすった。
図書の間で人助けをしたのは事実だけれど、本当は誘われてなんかない。ただ、今度こういう催しがあるんだよとチラシを貰っただけで、さらに言えば助けたのは年上も年上のおじいさんだった。
それでもちょっと誇張してみればロウを騙せると思った。あの日私が勘違いしたみたいに、ロウを動揺させることができると思った。
それなのに、ロウが見せた反応は私の想像とはまったく違うものだった。
「……そう、なのか」
驚いたような顔をしたのは予想通りだったけれど、その後すぐに視線は逸らされた。
「良かったな。楽しんで来いよ」
ロウはそれだけ言って、私の分の代金まで払ってさっさと店を出て行ってしまった。
私は驚きのあまり何か言うことも、引き止めることもできなかった。ただ去って行くロウの後ろ姿を呆然と見ていることしかできなかった。
ひとり家に帰った私はベッドに突っ伏した。先ほど起こった出来事をまだ受け止められていなかった。
ただ驚かせようと思っただけだ。ロウが戸惑い、慌てたところでネタばらしをして笑ってやるつもりだった。「びっくりした? そんなわけないじゃん!」とでも言って、焦るロウをからかってやるつもりだった。
それなのに、あの反応は何だろう。怒りとも悲しみともつかないような表情は、これまで見たことのないロウだった。
あんな顔をされるとは思わなかった。ロウがどんな感情を抱いたのかはわからないが、少なくとも気持ちの良いものではなかったに違いない。
こんなはずじゃなかったのに。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。今更押し寄せる後悔が白波のように私を覆いつくす。
そもそもどうして仕返ししてやろうなんて思ったのだろう。あの時ロウの言ったことを勘違いしたのは自分の方で、ロウにそういうつもりは一切なかった。ただ自分で誤解して腹を立てて、それをロウにも味わわせてやろうだなんて。あまりに身勝手で、八つ当たりも同然じゃないか。
さらに恥ずかしいのは、私はロウの動揺を信じて疑わなかったことだ。どこにもそんな根拠はないのに、私はロウが私の話を聞いて焦るだろうと確信していた。「誰かとデートするかもしれない」と言えばロウは戸惑い、あからさまな態度を取ってくるに違いないと思っていた。
結果として予想は大ハズレ。ロウは焦りとは程遠い反応を示して私の前を去った。これではまるで自惚れで、恥の上塗りだ。穴があったら今にも飛び込みたい。
そんなことをしている場合ではないこともわかっていた。今私がすべきは飛び込む穴を探すことではなく、ロウへの真摯な謝罪だ。嘘を吐いたこと、謀ろうとしていたこと。不快な思いをさせてしまったことについても、私はきちんと謝らなければならない。
大丈夫、ロウならきっと許してくれる。今までだってそうだった。
そう思ったのは、これまで積み上げてきた信頼によるものだった。決して油断していたわけではない。
再び予想外は起きた。ロウはその後なかなか私の前に姿を現さなかった。
待つのは苦手なわけじゃない。それでもこうも長引くと心にもやもやとしたものが渦巻き始める。
たとえそもそもの原因が自分にあるとしても。本当はこうならないうちに解決するつもりだったのに。
ロウはあれから姿を見せない。これまでヴィスキントを訪れていた際は必ずと言っていいほど家を訪ねてきてくれていたのに、それがとんと音沙汰がない。避けられている、というのはさすがに疑いの余地もなかった。
ロウを知っている人にも聞いたが、最近はメナンシアにも来ていないようだった。どうしたんだろうな、と皆が口々に言ったが、「原因は私です」とも言えず、同様に心配する素振りをしておいた。
私を避けるだけでなくメナンシアまで避けるとは。どうやらロウはそこまでしてでも私と顔を合わせたくないらしい。もやもやは徐々に怒りへと色を変えていき、腹にはマグマにも似たものが煮えたぎった。人間とは哀しいかな、物事を忘れるのが常で、例に漏れず私もまたその根本の原因が自分にあることを忘れつつあった。
情報を得たのはたまたま寄った八百屋の店主からだった。
「そういえばさっき、久々にロウを見たなあ」
元気そうで何より、と笑うおじさんに、私はすぐさま「どこで!」と迫った。ものすごい剣幕になってしまった自覚はあったが、そうも言っていられない。今は取り繕う余裕さえなかった。
おじさんの目撃情報通りに階段を上がると、奥の豪勢な扉の前に立つ。宮殿近くでロウを見たというなら、向かう場所はある程度限られてくる。ここはその中で最も可能性が高い場所だった。
私は思い切ってその扉を開けた。中を見回して数秒、藤色の上衣に銀色の狼を付けた見慣れた後ろ姿がそこにはあった。
ロウは修練場で行われている訓練を興味深そうに眺めていた。観衆の目が集まる中央で繰り広げられている熱戦に自分の闘志も燃え上がるのか、時折拳を握りしめたり、それを手のひらに打ち付けたりしていた。
興奮が高まると思わず身を乗り出す。その隙をついて、私はロウの腕を後ろから思い切り掴んだ。こちらを振り返った目が、一瞬にして大きく見開かれる。
「げっ、リンウェル!」
げっ、とは何よ! と言ってやりたい気持ちは山々だけれど、こんな騒がしい場所ではまともな会話もままならない。私は何も言わずその腕を掴んだまま、ロウを闘技場の外へと引っ張り出した。
人気のないところまで来ると、そこでようやくロウの腕を離す。ロウは口をへの字に曲げていたが、逃亡の意思は見られなかった。
「どういうつもりだよ」
不機嫌そうにロウが言った。「まさかお前がここに来るなんて」
「それはこっちのセリフなんだけど!」
私もすかさず反論した。
「家には来ないのに修練場には来てるなんて! 聞けばメナンシアにもあまり来てなかったって言うじゃない。ロウが私を避けてるのはバレバレなんだからね!」
避けている、との言葉に反応したのか、ロウは「別に……」と何かを言いかけた口をそのままつぐんでしまった。
一方で私はロウを続けざまにまくしたてる。
「ロウを捕まえるのに本当に苦労したんだからね! いろんな人に話聞いて回ったり、宮殿に通ったり……。今日だって八百屋のおじさんがロウを見かけたって教えてくれなかったら、また会えずにもやもやしたままだったんだよ!」
「もしかして、ずっとこのまま会わない気でいたの? 残念だけど、それは難しいと思うよ。ロウが私を避けてメナンシアに来なくても、私がロウに会いに行っちゃうから。世界の果てまで逃げようったって、どこまでも追っかけるからね」
溜まりに溜まった鬱憤だった。自分の過去の行いはすっかり棚に上がってしまって既に視界にも入っていない。
ロウは何も言わずに私の話を聞いていたが、ずっと何か言いたげな表情をしているのは変わらなかった。そのたびに口を開いては何も言えずに閉じるだけ。言葉が喉のすぐそこまで出かかっているのに出てこない。そんな様子だった。
「そもそもどうして避けようなんて思ったの?」
私がそう言った時、ロウの腕がぴくりと動いたのがわかった。
「私が何も思わないとでも思ったの? そんなはずないじゃん。ロウに会えなくなってそのまま同じ気持ちでいられるわけないでしょ!」
「お、お前が悪いんだろ……!」
これまで黙っていたロウがとうとう言葉を発した。
「お前が、あんなこと言うから……!」
あんなこと、と言われて言葉が詰まったのは今度は私の方だった。あの日のことがたちまち脳裏に蘇る。
自己満足のための企み。軽い気持ちでついた嘘。ロウのひどく傷ついた顔。
「……そうだよ、私が悪いんだよ。全部全部、私が悪いの」
私はすべて白状した。ロウに恥をかかされて悔しかったこと。仕返ししてやろうと思ったこと。あれこれ考えている時に都合よくチラシを受け取ったこと。
「ロウをからかってやろうと思って、嘘をついたの。本当は誘われてなんかないの。ただ、本探しの手伝いをしたらおじいさんがチラシをくれただけ」
「デートに誘われたって言ったら、ロウがちょっとくらい焦るんじゃないかって思ったの」
あるいはそれこそが私の願望だったのかもしれない。私が誰かとデートすると聞いて、ロウに衝撃を受けてほしかったのかもしれない。
だってあの時、ロウは私のことをなんとも思っていないようだったから。ロウが女の人から「特別なお礼」を貰ったと聞いて動揺する私の気持ちなんて、何ひとつ理解していないようだったから。
悔しかった。まるで一方通行みたいだと、そんなのは寂しいと、どうにかして訴えかけたかったのかもしれない。
それでも、私がしたのは悪いことだ。
「ずっと謝りたいと思ってたの」
私は両手を下に揃えると、そのまま深く頭を下げた。
「ロウの反応を見て面白がってやろうなんて考えて、本当にごめんなさい」
ロウを傷つけたかったわけじゃなくとも、嘲る気持ちがあったならそれは悪意と変わらない。ロウから同様のことをされたわけじゃないのなら、その罪はなおさら重い。
私は頭を下げたまま、顔を上げられなかった。全部自分が悪いのに、原因を作ったのは自分なのに、それでいてロウが自分を避けていることに腹を立てて無理やり闘技場から連れ出して文句を言って、なんて勝手な奴なんだと自分でも思う。正直私がロウの立場なら「わけがわからない」と一蹴しているかもしれない。それくらい、私のしたことは独りよがりで横暴といってもいい行動だった。
それなのに、ロウが次の瞬間口にしたことといえば、
「……あ~~……よかった~~……」
まるで熱い風呂に浸かったように心の底から漏れ出た声だった。
「ほっとした……」
へなへなとその場にしゃがみこみ、ロウは頭を抱える。
そんなロウを見て、私は戸惑った。おそるおそる顔を上げると、そこでようやくロウと目が合う。
「……よかったって、何が?」
私は思わず訊ねた。「何にほっとしてるの?」
「いやだって、お前が誰かにデートに誘われたとか、嘘だったんだよな?」
「うん」
「だからデートはないわけだろ?」
「うん」
「あーよかった」
ロウは胸を撫で下ろして見せたが、わけがわからない。私は嘘をついていたのに、それがどうして「よかった」のか。
どうやらロウはそのことについてはあまり気にしていないようだった。
「こないだのことなら、俺も少し反省してたんだ。アルフェンにも変な言い方するなって怒られたしな」
「お前が怒ってる理由はわかんなかったけど、勘違いさせたのは悪かった。お礼にリンゴ貰ったって、そのまま言えば良かったよな」
それが発端なら俺にも少し非はあるだろ、と言って、ロウは私がしたことを全部許してくれた。
いや、そもそもはじめから怒ってなどいなかったのかもしれない。それくらい軽い調子で、ロウは私の嘘を笑い飛ばした。
「これで一件落着だな!」
私はどうにも腑に落ちない部分もあったが、先ほどまでとは打って変わっていつものように陽気に笑うロウを見ているうち、なんだか心がふっと解けていくような気がした。もやもやは次第に晴れて、あれだけ沸き立っていたマグマもいつの間にか消え去っていた。
まただ。またロウの優しさに救われてしまった。明らかに私が悪いのに、俺も悪かったと言ってすべてを吸収してしまうその懐の広さにはどうにも敵わない。
同時に、もう二度とあんな真似はやめようと心に固く誓った。仕返しだなんて馬鹿な真似は誰の得にもならないのだ。
話したいことは全部話し終え、ロウも修練場での鍛錬の途中だった。話はまた今度家に来た時にでもと、解散しようとした時だった。
「そういやさ」
ロウがふと、私を引き止めた。
「お前いろいろ嘘ついたって言ったけど、古本市のことは嘘じゃないんだよな?」
「う、うん、」私はおずおずと頷いた。
「催しがあるのは本当だよ。準備も進んでるって話も聞いたし」
手元のチラシを開くと、日付はすぐ近くまで迫っていた。最近図書の間の辺りが賑やかなのもそれが関係しているのかもしれない。
古本市ということはなかなかお目にかかれない古書たちも並ぶのかもしれない。珍しい本がたくさん積み上がっている光景を想像しては胸が膨らむ。どのくらい古い、どんな装丁の本が並ぶのだろう。ダナの歴史について書かれた本はあるだろうか。
ひとり胸をときめかせていると、
「だったら、それ俺と行こうぜ」
とロウが言った。え、と声が出て、チラシから顔を上げる。
「他に誰かと行く約束してるのか?」
「し、してないけど……」
「じゃあ、俺と行こうぜ。お前の気が済むまで付き合う。その後メシにも行きたいよな、歩けば腹減るだろうし」
一通り話してからロウは急に声を小さくして、
「……まあ全部、お前が良けりゃの話だけど」と言った。
私は口をパクパクさせたまま、しばらく固まっていた。頬に熱が上ってきて、心臓がどきどきと痛い。
これはデート? なんて聞くまでもなかった。視線を逸らしながら頭を掻くロウの耳もまた、真っ赤に染まっているのが見えた。
終わり