眠れないリンウェルと、手助けしてくれるロウの話。(約5,900字)

インソムニアと朝

 真夜中の森を駆けていた。
 体力はもうほとんど限界を迎えていた。ぜえぜえと浅い呼吸を繰り返しながらも、その足を止めることはない。前に前にと体を傾けるが、ブーツにまとわりついてくる雪がそれを阻んでくる。脚が、体が、肺が、重い。
 それでも後ろを振り返ることはしなかった。この世のものとは思えないおぞましい気配がもうすぐそこにまで迫っている。逃げなくては、せめて私だけでも。うしなった家族や仲間のことを思えば、なおさら諦めることはできなかった。
 必死で足を持ち上げ、前に送る。吐息で白く濁った空気が暗闇に溶けた。遠くへ、もっと遠くへ。
 刹那、踏み出した足は地を捉えられなかった。大きく傾いた上体はそのまま宙へと投げ出され、私はその瞬間、足元に広がる黒々とした闇を見た。――落ちる!
 はっとして目を開けると、そこに広がっていたのは濃紺の空に雲のごとく煙る満天の星々だった。辺りには各々毛布を被り、寝息を立てている仲間たちの姿がある。転がる繭のような寝姿は、もはや野営の夜のお馴染みといってもいい光景だった。
 しんと静まり返る穏やかな夜に思わず安堵の息を吐いた。と同時に、またか、と思う。また良くない夢を見てしまった。
 このところ、どうも夢見が悪い。普段はそれほど夢を見る方ではないし、たとえ見たって翌朝には忘れてしまっていることがほとんどだった。こんなふうに夜中に飛び起きたり、その後なかなか寝付けなかったりするなんてそうそうなかったことだ。
 原因はと言われたら、きっとある。アウメドラのことをはじめ、シオンを救うためにヴォルラーンと戦ったことや慣れないペレギオンでの生活、レネギスから打ち込まれた楔など、ここ最近は身の周りでありとあらゆることが起きすぎた。私の心はおそらくそれらに追いついていないのだろう。まるで渦に巻き込まれたまま、ずっと抜け出せないでいるみたいな気持ちだ。ゆっくり腰を据えて物事を考えたいのに、それを時が許してくれない。
 旅暮らしが再開したこともひとつ理由になるのかもしれない。ついこの間まではペレギオンの住民の世話に忙殺されていたため、そのほかのことを考える余裕などなかった。夜になれば皆で泥のように眠る毎日を繰り返していた。
 その負担が少し減ったことで心に余裕というか、物事を考える余地ができてしまったのかもしれない。毎晩ではないとしても、私は頻繁に夢を見るようになってしまった。それらはどれもお世辞にも心地良いものとは言えず、何かに追われる夢だったり、囚われる夢だったり、あるいは命の危険に晒される夢だったりと様々で、その度にはっと目を覚ましては「夢で良かった」と胸を撫で下ろす日々が続いている。とはいえその後の寝つきが悪いことを考えるとちっとも良くはないし、翌日寝不足で集中力に欠けることも含めると状況はかなり芳しくなかった。
 こんな夜がいつまで続くのだろう。そう考えては途方に暮れた。日常生活や戦闘に影響が出ることももちろんだが、大好きな星が瞬く夜を、悪夢を見るからなどというつまらない理由で恐れたくはなかった。
 そんな日々の最中、ひとつ悪夢に対する対処法を思いついた。どうせ良くない夢を見るなら、眠る時間を短くすればいい。夕飯を食べた後の焚火の火の番に自ら立候補した。
 これがなかなか良かった。火の番をするという理由なら焚火の前で好きなだけ本が読めるし、眠るタイミングも自分で決められる。長く夜更かしをしてから床に就くと、心なしかいつもよりも眠りにつくのがスムーズなような気がした。
 とはいえ完全に夢を見なくなったというわけではない。火の番をしても悪夢にうなされることもあれば、そうでないこともあった。ただ、悪夢を見た後に寝付けず、毛布の中で苦しみながら過ごす時間が減っただけ。それだけでも充分効果があったと感じていた。
「お前、最近火の番してるの多いよな」
 ロウがそんなことを口にしたのは、とある野営の夜のことだった。
 焚火の前でいつものように本を読んでいた時だ。私はぱちぱちと薪の弾ける音を聞きながら、最近手に入れたばかりの本のページを捲っていた。
 ロウはどうやら夜の鍛錬から戻ってきたところのようだった。近くの川で汗を流してきたのか、襟足のところが少し濡れているように見えた。
「ここんとこ、俺が戻ってくると、いつもそこで本読んでるお前がいる気がする」
「そう? 気のせいじゃない?」
「明らかに違うだろ。こんな何度も続くかっての」
 いつもは3歩歩けば何もかも忘れてしまうのに、ロウはこういう時だけやたら記憶がいい。目ざといなあと思いつつ、私は素知らぬ顔で本を読み続ける。
「日中のあくびも増えてるよな。もしかして、その夜更かしが原因なんじゃねえのか」
 そう言われて思わずぎくりとした。まさか寝不足であることも気付かれていたなんて。ロウってこんなに鋭かったっけ。
 いやおそらく、ロウがそう思うくらいならほかの皆も気付いているはずだ。ただ単に今回声を掛けてきたのがロウであるというだけで、私はどうやらいつの間にか皆に気を遣わせてしまっていたらしい。明日からはもっと気を付けよう、と一人心の中で決意を固めたところで、ロウが呆れたような口調で言った。
「昼間眠くなるくらいなら、夜に早く寝ればいいだろ。寝不足に夜更かし重ねてますます眠たくなるだけじゃねえか」
 正論がロウの口から出たことへの反感と、事情も知らないくせにという悪態が同時に湧きあがった。
「早く寝たって眠れないんだもん、仕方ないでしょ」
 口走ってしまってから、しまった、と思った。ロウがこちらを近く覗き込んでくる。
「眠れない?」
「ゆ、夢見が悪いっていうか、良くない夢で起こされちゃうの。その後もう一回寝ようと思ってもなかなか寝付けなくて……本読んでから寝ると、ちょっとだけ調子が良いの。それでもダメな時もあるけど、前よりはマシになったから」
 だから積極的に火の番してるの、と言うと、ロウは一度は納得したように「なるほどな」と呟いた。
「けど、それで結局寝不足は寝不足なんだろ。解決はしてねえじゃねえか」
 それはごもっとも、と思いながら、とはいえ今はこれ以上の策がない。根本の原因を取り除けたらいいものの、それにはおそらくもう少し時間が必要だ。
 するとロウは何か思いついたように言った。
「じゃあ、今度悪い夢見たら俺を起こせよ」
「……え?」
 はじめ、ロウが何を言っているのかよくわからなかった。私はゆっくりと確認するように訊ねる。
「起こすって、私がもし悪夢を見ちゃったら、その場で寝てるロウを起こすってこと?」
「おう。俺もなるべくお前の近くで寝るようにするから」
 さらりとロウは言ったが、ますますわけがわからなかった。どうして私が眠れないからといってロウまで起こす必要があるのだろう。二人で夜な夜な起き上がって、その辺の散歩にでも行こうというのだろうか。そんなことをしたらロウだって寝不足になって、被害は二重になってしまうというのに。
 ロウは詳しいことは何も言わなかった。ただ「絶対起こせよ。そのままにして次の日あくびしてたら許さねえからな」などと言って、そのまま寝床へと去って行ってしまった。
 腑に落ちない点は多々あったが、私はとりあえず「わかった」とだけ頷いておいた。ぼんやりとした焚火の前で再び本を開きつつ、ロウに言われたことを頭の片隅で思い返していた。

 その日は思いのほかすぐにやってきた。火の番は繕い物をするというキサラに任せ、いつもより早めに床に就いた夜だった。
 見たのは冷たい暗闇の中で誰かに追われる夢だ。前も後ろも、右も左もわからない道を必死に駆け、息も絶え絶えになって、やっと見つけた出口に手が届きそうなところで誰かに腕を掴まれ、そこで目を覚ました。僅かに呼吸は上がり、額にはうっすら汗をかいていた。体は休まるどころか、疲れがどっと増したようだ。
 皆は夜と同じ静けさで眠っていた。枕元のフルルも私が眠る前に脱いだ上着に包まってすやすや寝息を立てていた。
 隣を見ると、穏やかな寝顔で眠るロウがいた。あの日からロウは律儀にも私の隣の寝床を確保している。今夜もきちんとそれに従い、昼間の様子とはまるで似つかわしくない落ち着いた寝姿を保っていた。
 そんなロウを起こすのはやや気が引けたが、そうしろと言ったのはロウの方だ。こうなったら夜通しの散歩でもおしゃべりでも、とことん付き合ってもらおう。
 私は毛布から身を乗り出してその肩を掴み、そっとロウを揺り起こした。布の擦れる音で皆が目を覚まさないよう、細心の注意を払った。
 ロウはすぐに目を覚ました。まだ瞼を重たそうにしていたが、自分を揺さぶったのが私だと知ると、こちらにごろりと寝返りを打って言った。
「見たのか? 良くない夢」
 うん、と私は小さく頷いた。その頼りなさといったら自分でも驚くほどで、まるで虫か蛙が鳴くようだった。
「そうか」
 呟いた後で、ロウはごそごそと毛布の中から自らの両手を取り出した。
「ほら、手よこせ」
「手? どうして?」
「いいから」
 ロウは半ば強引に私の手を取ると、それを自分の手のひらで包み込んだ。
「今夜はこうしててやるから、このまま寝とけ」
 え、と声を上げる間もなく毛布が肩まで引き上げられる。向かい合わせになったロウの顔は思いのほか近くにあった。
 私は軽く混乱した。この状態で寝るの? 朝まで?
 訊ねる前にロウは既に目を閉じていた。と思うと、規則的で微かな寝息が聞こえてくる。
 もう、こうなったら仕方ない。私も思い切って目を閉じた。どきどきと鳴る心臓を深呼吸で鎮めて、ただ夜に溶けることに徹する。
 繋がれたロウの手は温かかった。太陽に照らされたみたいにぽかぽかとした熱が手のひらから腕を伝って、やがて体じゅうにじんわり広がっていく。次第に内側からもぽかぽかが伝わってきて、私はまるで湯に浸かっているような、あたたかいスープを飲んだような心地よさを覚えた。
 何より強まったのは安心感だった。繋がれた手はそばに誰かがいてくれるという確かさそのもので、その心強さに胸が熱くなるのを感じた。
 それこそ涙が出そうなくらい。私は何度も悪夢に囚われるうち、すっかり気が弱くなってしまっていたらしい。
 それも今夜でおしまいだなと思った。はじめこそ感じていた緊張もいつの間にか忘れてしまった私は、ほどなくして眠りに落ちた。ここ最近ではほとんど感じることのできなかった深くて長い、そして清々しい眠りだった。

 翌朝目を覚ました時にはロウの姿は既になかった。夜更かししがちの私とは真逆で早寝早起きを信条とする彼は、今朝も誰より早く床を抜けたらしい。
 朝食を食べ終わり、川で使った食器を洗うロウを見つけると、私はその隣に並び立って言った。
「き、昨日はありがとう」
「へ? 昨日?」
「夜中のこと! ほら、起こしたでしょ」
 そこまで口にしてようやく「ああ、あれな!」とロウが思い出したように言ったのでほっとした。何も寝ぼけてあんなことをしたわけではないらしい。
「よく眠れたか?」
「うん、おかげさまで。久しぶりにすっと起きれたよ」
「そりゃ良かった」
 ロウは朗らかに言って、がちゃがちゃと皿を濯ぐ。
「お前が良くない夢で眠れてないって聞いて、昔のこと思い出してさ。ほら、言っただろ、俺もシスロディアでのことよく夢に見てたって」
 そういえば、とロウがかつて口にしていたことを思い出す。シスロディアで仲間を殺されてからというもの、その光景は夢の中で何度も繰り返された。まるで己の過ちを忘れるなと言われているようで、その度苦しめられてきたと。
「夜中起こされた時の不快感とか、その後寝付けなくて苦しんだ記憶とかもいろいろ蘇ってきてさ。お前もあの時の俺と同じようにしんどい思いしてるって聞いたら、何とかしてやりたいって思ったんだよ。ぱっと思いついたのがああすることだったんだけど、その場しのぎでも効いたなら良かった。顔色も良さそうだし、安心したぜ」
 そう言ってロウは嬉しそうに笑った。まるで子供が手柄を褒められた時みたいな、無邪気な笑顔だった。
「うん、ありがとう」
 私はもう一度お礼を言って、ロウが洗った皿を手に取った。水浸しのそれを布巾で拭い、脇に重ねていく。
 手を動かしながら盗み見たロウの横顔は、何の翳りも浮かんでいなかった。かつての夢のことを思い出したと言っていたのに、何ひとつ昏いものを感じさせない、前向きな表情をしていた。
 ロウはやはり、過去を克服しつつあるのかもしれない。まだ完全ではなくとも、過去を過去のものとして扱えるくらいには強くなったのかもしれない。それでいて心にはきちんとそれを刻んでおく。決して忘れず、自分の一部とする。それはまさに私自身が目指すところの姿でもあった。
 そうして穏やかに過ごせるようになるまで、さっきみたいに笑えるようになるまで、果たしてロウはどのくらいの夜を乗り越えてきたのだろう。たった一人で悪夢に追われながら、どのくらいの夜を駆けたのだろう。
 そこでふと思い至った。もしかしたら昨夜のあれは、ロウが誰かにしてほしかったことなのかもしれない。悪夢に苦しみ、夜に押し潰されそうになった時、ロウは誰かの手に縋りたかったのかもしれない。
「ロウ」
 洗い物を終え、皆のところに戻ろうとするロウを呼び止めて言った。
「もしロウがまた悪い夢見るようなことがあったら、今度は私を起こしてくれていいんだからね」
 ロウは少し驚いたような顔をした。
「もう夜中に独りで苦しまなくていいからね。眠れなかったら一緒に散歩したり、おしゃべりしたりして時間潰そうよ」
 もしロウが苦しむ夜があるなら、その力になりたいと思った。
 夜は独りには暗すぎて、長すぎる。だったらそれを分け合えばいい。二人ならきっと寒さも和らぐし、寂しさも感じない。
 もう独りじゃないんだよと教えてあげたい。昨夜ロウがそうしてくれたように。
 するとロウは、
「起こす? 朝もなかなか起きてこないお前を?」とからかうように言った。
「うっ……それは……」
「気持ちはありがたいけど、まずは朝ちゃんと起きられるようになってからだな」
「わ、わかったよ。……努力する」
 小せえ声、とロウが笑ったので、私は苦手な早起きを克服することを心に誓った。ロウやキサラほどとまではいかなくても、せめて起こされたら1度で目を覚ませるくらいにはなりたい。
「どうだかな。先は長いぞ」
 わかってる、と呟く。そう簡単な道のりではない。でも、明けない夜もない。
 空から降り注ぐ陽の光が強まり始めていた。まるでこの先に新たな一日があると、教えてくれているようでもあった。

 終わり