鏡の前で盛大なため息を吐く。
またやってしまった。どうして私って、いつも同じことを繰り返してしまうのだろう。
今日は午前からロウと遺跡探索に出かける約束をしていた。ヴィスキントからそう離れていない場所で、新たな遺構が見つかったというのだ。
周囲は道も悪く、ズーグルの目撃も多い。そのためまだ人の手は入っておらず、まっさらな状態とのことだった。
これに乗らない手はない。念入りに計画を立て、あれこれ下調べをし、その日に向けてこつこつと準備を進めていた。
盲点だったのは、あまりに探索が楽しみすぎて前日の夜になかなか寝付けかったことだ。いくら目を閉じてみても、毛布を頭から被ってみても、一向に睡魔はやってこない。
このままでは埒が明かないとベッドを抜け出したのは、ちょうど日付が変わる頃だっただろうか。本を開けばそのうち眠たくもなるだろうと思いランプに灯を点したが、結局その火が朝まで消えることはなかった。目を覚ましたのは机の上で、お気に入りの1冊は中途半端な位置で開かれたままだった。
時計を確認して思わず飛び起きた。まずい、と思った瞬間、部屋のドアが叩かれ、聞き慣れた声が向こう側から聞こえた。
「リンウェルー。起きてるかー」
もはや観念せざるを得なかった。そのまま放置するにしろ、ドアを開けるにしろ、自分の準備はできていない。寝坊をしたことは一目瞭然で、どうせ等しく呆れられるならと後者を選ぶことにした。
だがそんなに甘くはなかった。部屋に入ってきたロウはその状況を見るなり、訝しげな視線を寄越してきた。
「お前、またそこで寝てただろ」
物の散らばる机を顎でしゃくりつつ、こちらの顔色を窺ってくる。
「え、えっと……」
「またかよ。何回言えばいいんだ? 寝る時はベッドに行けっていっつも言ってるだろ」
呆れプラス苛々したような口調。ため息も加わって、部屋には不穏な空気が流れる。
「ち、違うの。昨日はなんだか寝付けなくって……だからちょっとだけ本でも読もうかなって思ったら、いつの間にか寝ちゃって……」
必死で弁解するが、ロウは聞く耳を持たなかった。
「それといつもの夜更かしの何が違うんだよ。結果は同じだろ。眠くなる前にベッドに行けって言ってんだ」
「そ、そんなの自分じゃわかんないよ。気が付いたら居眠りしてること、ロウだってあるでしょ」
「お前みたいに朝まで寝てるってことはねえよ。つーか今起きたんなら、まだ朝メシも食ってねえんだろ。用意はしてあんのか?」
「……あ」
「……だろうな」
やれやれ、とロウがキッチンに向かう。
「朝メシは俺が作っとくから、お前は顔洗って着替えてこい。さっさと出ねえと、夕方までに帰ってこれねーぞ」
親切心には素直にありがとうと言えばいいものを、
「そんなのわかってるよ!」
この口から出てきたのは可愛らしさの欠片もない言葉だった。
それだけではない。家を出てからも散々だった。
遺跡までの道中、思った以上の悪路に苦戦していると、不意に生い茂った草木の中に隠れたぬかるみに足を取られてしまった。バランスを崩して倒れ込みそうになった時、
「おい!」
ロウが手を引いて体を支えてくれた。
「大丈夫か? 足捻ったりしてないよな」
「う、うん、大丈夫。ありがと」
と、そこまでなら良かったのに、
「ったく、気を付けろよな。お前、足元フラフラしてっから」
まるで子供をからかうような言い草についカッとなり、
「な、なによ。別に助けてなんて言ってないし」などと心にもないことを言ってしまった。
帰り道でもロウが周囲への警戒を怠らないよう注意してくれたのに、「いちいち言わなくてもわかってるから」などと言ったり、数々の失言にひとりで気まずくなったりしてそっけない態度を取り続けてしまった。
もはや遺跡探索どころではない。せっかくロウに予定を空けてもらったのに、それも朝早く家に来るよう言ったのは自分なのに、寝坊はするわ暴言は吐くわでいったい何をやっているのだろう。
さらに悩ましいことに、こういった失態は今回限りではなかった。以前も同じように机の上で夜を明かした時もロウの小言に反論したり、本に夢中になって食事を抜いた時も「食欲がないからつまり体が栄養を欲していないのだ」などとわけのわからないことを主張して拗ねたりしていた。
本当はわかっているのに。ロウがそういうことを口を酸っぱくして言うのは、他ならない自分を心配してくれているからなのだ。
ロウはこの身を案じてくれている。仕事ついでとはいえ、わざわざカラグリアからメナンシアまで来て、都度この部屋を訪ねてくるくらいには自分を気にかけてくれているのだ。
それをきちんとわかっていて、どうして私は素直な言葉を言えないのだろう。どうして「ありがとう」「ごめんね」とまっすぐ伝えられないのだろう。
ひとりきりの大反省会は、ロウと別れて家に戻ってから浴室の中まで続いた。何度ぶくぶくと泡を立て、湯の中に沈んだだろう。髪を洗い、体をどれほど擦ろうとも、後悔はちっとも流れていかなかった。
浴室を出て体を拭う。鏡に映ったのはどことなく落ち込んだ仏頂面だ。それはまるで今の自分の内面をそのまま表しているようにも見えた。
もっと可愛かったら良かったのに。顔も、性格も。――せめて、好きな人の前でくらい。
このもやもやの根源にだってはっきり気付いているのだ。心が痛いのは何も軽率な言葉を吐いてしまったというだけじゃない。その相手がロウだということも、この胸をきつく締め付けていた。
バカだなあ、と思う。一番可愛く見られたい相手に、一番可愛くない態度を取るなんて。自分で自分の首を絞めてどうするのだろう。
それでも対処法はわからない。もっと素直に、意地を張らずにと毎回心がけているのに、出てくるのはあんな言葉ばっかりなのだ。これをどうにかするには、もはや自分が自分でなくなるしか方法は存在しないのではないか。
鏡の前でがっくり項垂れている時だった。
『それ、叶えてあげよっか』
声が聞こえた。
「……え?」
『だから、それ、私が叶えてあげよっか』
思わず背筋が凍る。「何? 誰!?」
言いつつ、その声には聞き覚えがあった。たぶん、いや、これは間違いなく――。
『誰、なんてひどいなあ。いつも一緒にいるのに』
くすくすと笑う声は確かに近くから聞こえた。正面の鏡を覗き込むと、そこには私でない〈私〉がこちらを見て笑っていた。
「――――っ!」
悲鳴をかろうじて飲み込んで瞬きを繰り返す。ところが何度瞼をしばたたかせようと、頬を抓ろうと、鏡の中の〈私〉の笑顔は消えなかった。
『お化けじゃないよ。夢でもない。しいて言うなら、もう一人の自分ってところかな』
「もう一人の、自分……?」
『そう。それでいて違う自分。鏡の中にいるんだから、当たり前といえばそうだけど』
淡々と、それでいて穏やかに〈私〉は言った。
軽いめまいを覚えた。いったい何が起きているのだろう。鏡に映る自分がつらつら言葉を喋っている。
そもそもどうしてこんなことが起きているのだろう。何かの魔法? 遺物の呪い? 心当たりはないようで、逆にごまんとある気もした。
『思った通り、いろいろ考えちゃってるね。やっぱり真面目だなあ、もう一人の【私】は。まるで正反対』
「正反対? どういうこと?」
訊ねると、鏡の中の〈私〉はにこやかに笑った。
『言ったでしょ。これはもう一人の自分であって、違う自分だって』
「うん」
『それでいて鏡の中の自分。だからつまり、〈私〉と【私】は正反対なの』
「……?」
まるで意味がわからなかった。というかそれでは説明として成り立っていない。
『だーかーら、〈私〉はあなたにできないことができるの。わかる? 例えば早寝早起きとか、規則正しい生活を送るとか』
「それは私にだってできるよ。ちょっと気合を入れれば、たぶん……」
『〈私〉は気合を入れなくてもできるの。それだけじゃないよ、ほかにもありとあらゆることができるんだから』
「ありとあらゆること? 何それ」
『うーん、もっと速く走るとか? 暑さに比較的強いとか?』
なんだそんなこと、とリンウェルは小さくため息を吐いた。自分にできないことができるというのだから、もっとすごい魔法が使えるとか拳で戦えるようになるとか、そういうのを期待したのに。
所詮は自分の投影、そんなはずはないかと思ったところで鏡の中の〈私〉は不敵に笑った。
『あるいは、好きな人に可愛く迫る、とかね』
「……!」
思わず息を呑んだ。同時に、最初の〈私〉の言葉を思い出す。
「もしかして、『叶えてあげる』って言ったのは……」
『さすが、やっぱり【私】は頭の回転が速いなあ。その通りだよ、〈私〉が代わりにロウの恋人になってあげよっかって話』
いい考えでしょ、と〈私〉は笑った。
「な、なんでそんなこと……!」
『あれ、だって可愛くなりたいって悩んでたんじゃなかった? ロウの前だと素直になれないって』
「なんで知ってるの!」
『なんでって、〈私〉はあなただし、あなたは〈私〉だし』
さも当然、というふうに〈私〉は言った。
『〈私〉ならなんの苦労もなく可愛い振る舞いができるよ。なんてったって、【私】とは真逆だからね』
得意げに〈私〉は胸を張る。
『〈私〉なら素直にありがとうって言えるし、ごめんねも言える。なんなら上目遣いで可愛くおねだりもできちゃうかもね。ちょっと勇気を出せば、恋人になって、なんてことも言えるかも』
「……!」
そんなバカなこと、と言いたいのに反論は出来なかった。どうしてか鏡の中の〈私〉が言うことには真実味が感じられた。それは彼女がやっぱりもう一人の自分だからなのかもしれない。こうして向き合っていても始終彼女は笑顔だったし、愛想の良さが見て取れた。自分と同じ顔をした、まるで違う自分。彼女なら確かに、ロウに迫ることすら可能かもしれない。
『でも勘違いしないでね。そうなった時、ロウと付き合うのは〈私〉だから』
「えっ!?」
『当たり前でしょ。それこそ何の苦労もなくロウと恋人になれるわけないじゃない。〈私〉だって多少勇気が要るのに』
〈私〉は呆れたように言った。
『もう一人の自分ならわかるでしょ。〈私〉だってロウが好きなの。たとえ同じ顔でも声でも、あなたみたいな意気地なしにはロウは渡さない』
宣戦布告だよ、と〈私〉は笑った。
『ロウは〈私〉が貰うから。何もできないあなたは、黙って指くわえて見てて』
じゃあね、と言って、〈私〉はそのまま鏡の中から消えた。ただ姿を消したのでなく、鏡の中をどこかへ歩いて去って行ったのだ。
それを見て、私はただ呆然とするしかなかった。今のは夢だ、幻を見たのだと何度も思おうとした。
だがそれは無情にも打ち砕かれた。それから何度鏡を覗き込もうと、そこにあるはずの自分の投影はどこにも見当たらなかった。
◇
無神経で無鉄砲で考え無しに動く奴。ロウに対する第一印象は、そんなふうだった。
荷物に紛れて国境を越えたり、ジルファの敵討ちに一人で敵陣に乗り込もうとしたり、正直理解できない行動ばかりを取るロウだったが、一緒にいるうちに段々とただの考え無しではないのだと思うようになった。
確かにロウはあまり頭を使わないが、考えていないわけではない。ただ直感で正しいと思ったことをやり遂げる。体が先に動いてしまうタイプなのだ。
それにロウは絶妙に人に気を遣うのが上手だった。普段はデリカシーのないことを言ってキサラやシオンを怒らせていたが、いざきちんとフォローしなければならない時は的確な言葉を使って気持ちを伝えていた。「自分は頭が悪いから」というのはロウの口癖みたいなものだったが、そのロウの言葉で救われた人だっている。自分もその一人だ。
ロウのまっすぐな言葉は、いつもまっすぐこの心に届いた。嘘偽りのない、飾らない言葉。下手に慰められたくない時、誤魔化されたくない時。ロウの言葉はこの胸の深いところに静かに重たく響いた。
無神経で無鉄砲なところは相変わらず。それに加えて能天気で鈍感で頭を使うのが誰より下手なロウなのに、気が付けばその姿を目で追うようになっていた。ふとした瞬間、今何してるかな、元気にしてるかなと考えてしまうのだ。あわよくば、会って話せたらいいのに、などと願ってはひとりため息を吐くようになってしまった。
この気持ちにどんな名前がついているのかは知っている。図書の間で辞書を開いて、その言葉の意味を調べたこともあった。
――恋。相手に特別の愛情を抱いて思い慕うこと。
まさか、と思いながら、どこかで納得する自分もいる。認めざるを得ないくらいには、その存在は既にこの胸の中で大きく膨らみすぎていた。
今にも割れそうな、風船みたいなこの気持ちをどう扱おうか考えあぐねている時だった。ライバルが現れるだなんてそんなこと、思ってもいなかった。
しかもそれはもう一人の自分と来た。まるでどこかの本に書かれたお伽話みたいだ。私と〈私〉でロウを取り合うことになるなんて。
いまだに夢なんじゃないかと思うこともある。だが残念ながら、そうじゃない。
朝起きて顔を洗うたび、夜シャワーを浴びて体を拭うたび思い知らされる。何も、誰の姿も映さない鏡を見るたび、あれは夢幻なんかじゃなかったと突きつけられるのだった。
あれから私はもう一人の〈私〉を探してヴィスキント中を歩き回った。図書の間はもちろん、宮殿内のその他の場所、街の広場や市場もくまなく探し回った。
できるだけ早く〈私〉を見つけたかった。同じ見目をした人間が同時に存在したら騒ぎになってしまうだろうし、こちらの預かり知らぬところで〈私〉がどんなことをしているのかと思うと肝が冷えた。
だがどこにも〈私〉の姿はなかった。そもそも鏡の中の人物が普通の人間と同じように外を歩けるのか、あるいはもっと別の場所を移動しているのか、それすらわからなかった。
とぼとぼと通りを歩きながら、店のガラスを見てぎょっとする。ぴかぴかに磨かれたそこにはやはり背景以外の何も映っていなかった。
これでは街もおちおち歩いていられない。こんな光景を誰かに見られてしまったら、それこそ騒ぎになってしまう。
逃げるように家に向かいながら必死で考える。早く何とかしなければ。他に〈私〉が行きそうなところは――。
そこまで考えて、ふと思いつく。そういえば〈私〉は宣戦布告をしてきたのだった。ロウは〈私〉が貰っていくから、と。
だったら向かう先は1つだ。
私は家に戻るなり荷物をまとめるとすぐにまた家を飛び出し、街の中心部に向かった。
目的は荷馬車に乗るため。カラグリアに向かうそれを捕まえるため、大通りをほとんど駆け足で歩いたのだった。
カラグリアには翌日の午前中に到着した。好天に恵まれ、道中も穏やかな旅路だったので疲労はさほど感じなかった。
荷馬車を降り、まずはロウに会いに行こうと決めたところで、
「あれ、リンウェルか?」
聞き慣れた声が聞こえた。振り返ると、そこには驚いたように目を丸くして立ち尽くすロウの姿があった。
「どうしたんだよ、急に。何かあったのか?」
「え、えっと、そうじゃないんだけど……」
目を泳がせながら、しまった、と思った。目的ははっきりしていたが、そのためのロウへの言い訳をまったく考えていなかった。
「何かの調査か? もしくは探し物とか」
「ま、まあそんな感じかな。調べ物してたら、手がかりがカラグリアにあるっていうから」
そう言うと、ロウは何ら疑う素振りも見せず「そうか、わざわざ大変だな」などと言っては頷いていた。
急な訪問だったのにも関わらず、私に行くあてがないことを知ると、ロウは自分の部屋を拠点として使うことを薦めてくれた。
「ここなら中心部も近いし、何かあったら〈紅の鴉〉の奴らに言えばいいし。日中は俺も外に出てるから好きに使ってくれていいぜ」
私はありがとうと言って、その申し出に心から感謝した。
ロウが仕事に戻ると言った時、そういえばと重要なことを思い出した。
「ねえ、ロウ」
「うん? なんだ?」
「ロウって、私と会うの久しぶり、だよね……?」
自分でも変な質問をしたことはわかっていた。だが、他にどう聞けばいいのかわからなかった。私じゃない〈私〉に会ったりしてないよね、と聞いたところでロウにはわけがわからないだろう。正直言って自分でも何が起きているかよくわかっていないのに。
「はあ? お前何言ってんだ?」
ロウは予想通りの反応を見せた。
「少し前にメナンシアで会って以来だろ。ほら、遺跡行ったあの日だよ」
「そ、そうだよね」
「お前が机で夜更かしして寝坊した日な。覚えてるか?」
お前が朝早く迎えに来いって言ったのにな、などとわざと煽るような言い方に、またついカチンときてしまった。
「だから、違うって言ってるでしょ! もう、わかったからさっさとお仕事行ったら!」
「なーに怒ってんだよ。そんなカッカしてちゃじゃ探し物も見つからないぜ」
じゃあな、と言ってロウは街の方へと去って行った。その背中に「いってらっしゃい!」と強めに吐き捨て、部屋のドアを閉める。
もう、ロウってばなんだってあんな言い方をするのだろう。確かに、あれは寝坊した私が悪いんだけど!
何度か深呼吸をすると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。そうだ、こんなことに腹を立てている場合ではない。一刻も早く〈私〉を探さなければ。
荷物を部屋の隅に置き、小さな鞄に持ち替える。手回り品だけ身に着けると、私は何故かこそこそ忍ぶようにロウの部屋を後にした。
カラグリアには何度か来ているが、地理には詳しくない。いつもロウの後ろにくっついて案内を受けるばかりだからだ。
だから人探しをするどころか、隣の集落を訪れるのですら苦労した。建物が少ないせいもあって、目印となるものが周囲に見当たらないのだ。
とりあえずウルベゼクを訪ね、あちこち歩き回ってみる。往来する人はそこそこいるが、〈私〉のような姿をした人はいない。
お店の主人や荷馬車の受付をしている人に、最近自分と似たような服を着た人を見なかったかと訊ねたりもしてみた。だが誰の答えも1つだった。「いいや、見なかったね」
手がかりは見つからない。メナンシアからカラグリアまで〈私〉が移動したとして、徒歩というのは考えづらい。だから荷馬車なり何なりを使っているのは確実だと思ったのに、目撃者は誰一人として存在しなかった。
あるいは移動手段は別にある? ごく普通の人間と同じではなく、鏡の中の住人にはそれなりの方法があるのだろうか。それはいったい何? そもそも〈私〉はカラグリアに来てすらいない? 今頃メナンシアで大きい顔をしている〈私〉がいたらどうしよう。
あれこれ考えながら、時折街でドーナツ休憩を挟みつつ、私はひたすら〈私〉を探し歩いた。
でも結局、何の成果も得られなかった。〈私〉がいた痕跡ひとつ、ヒントひとつ見つけられなかった。
気が付けば日は傾きつつあり、疲労も感じ始めていた私は一旦ロウの部屋に戻ることにした。
部屋に置かれている唯一の椅子に腰かけるなり、大きく息を吐く。ああもう、どうしよう。せっかくここまで来たのに。ロウのところまで来て、〈私〉の行方は何もわからないままだなんて。
もっと範囲を広げるべき? あるいはシスロディアにも向かった方が良いのかな。あれやこれやと考えては眉間にシワを寄せる私を見て、どこかで〈私〉がせせら笑っているような気がした。
ダメだ、1度仕切り直そう。気合を入れ直すため、洗面台で顔を洗っている時だった。
『苦戦してるね』
目の前にある鏡に映ったのは、ごく愉快そうにこちらの様子を窺う〈私〉の笑顔だった。
「!」
思わずその鏡に両手で掴みかかると、大きな声を上げる。
「やっと見つけた!」
『違うでしょ。見つけたんじゃなくて、出てきてあげたの。あまりにも手がかりがなくって落ち込んでるようだったから』
得意げな言葉尻が気に食わない。その言い方はまるでこちらの様子を陰からずっと観察してきたかのようだ。
『大変だったでしょ。荷馬車乗り継いでこんな遠くまで来て、おまけに一日中歩き回って』
「別に。前はもっと大変な旅してたし、それに比べたら」
『それもそうだね』わかったように〈私〉は言った。
私は一呼吸おいて、それからゆっくり〈私〉に向かって問いかけた。
「こっちに来てたってことは、やっぱりあなたの目的はロウなんだね。あいつをどうするつもり?」
『だから言ってるじゃない。可愛く迫って〈私〉を恋人にしてもらうの』
「どうやって? そこに居たんじゃ話しかけることもできないでしょ?」
すると〈私〉は再び得意げに笑った。『できるよ』
ふと鏡の中から2本の腕がにょきにょきと伸びてくる。それは境界をいとも簡単に越えてきて、鏡を覗き込む私の頬にそっと触れた。
「……!」
『できるよ。鏡からはそんなに離れられないし、ちょっと頑張らないといけないけどね』
たじろぐ私に、〈私〉は囁くように言った。
『知ってた? この世界ではより強く存在を望まれた方が力を持つんだよ』
「より強く……?」
『そう。だからロウが〈私〉を強く想ってくれたら、〈私〉はあなたに勝てる。そっちに行ける。代わりにあなたは――』
そこで言葉を切って〈私〉は不気味に笑った。その冷たい笑みに思わず背筋が凍った。
『まあそんなことしなくたって、今このまま替わっちゃってもいいんだけどね』
いつの間にかその手は私の首に掛かっていた。自分と変わらない温度のそれが、じりじりと距離を縮めていく。
鏡の中から身を乗り出した〈私〉がもうすぐ目の前にまで迫った。吐息がかかりそうなくらいの距離で見つめられ、思わず息を呑んだ時、
「リンウェルー。戻ってるかー?」
部屋の方から呑気な声が聞こえた。ロウが戻ってきたのだ。
その瞬間、私を捉えていた腕がぱっと離れる。
『残念。力の使い時はまだここじゃないってことだね』
またね、と言って、〈私〉は再び鏡の中に消えた。数秒の間の後、背後の半開きになった扉からロウが覗き込んでくる。
「あれ、お前ここにいたのか。つーか何やってんだ?」
「え、あ、ちょっとね、転んじゃって」
私はと言えば、すっかり腰を抜かしてしまっていた。人様の家の洗面台前で尻もちをついていれば、そりゃあ何やってんだとも言いたくなる。
「大丈夫か? ほら」
ロウに手を引かれて立ち上がる。
服に着いた砂埃を払って「ありがとう」と礼を言ったところで、ロウが「うわっ!」と声を上げた。
「何? どうしたの?」
「どうしたのって、お前それ……!」
ロウが指さす先の鏡。そこに映った世界からはやはり、私の姿だけがすっぽり抜け落ちていた。
見られてしまっては仕方ない。私はロウに自分が急遽カラグリアを訪れた理由を打ち明けた。
「じゃあお前は、そのいなくなった鏡の中の自分を探してこっちに来たってことか?」
「うん」
「行先がカラグリアだってのは、そいつが言ってたんだよな? なんでカラグリアなんだ?」
「さ、さあ……?」
私はよくわからない、という表情を作って首を傾げて見せた。
「よくわかんないけど、ロウに用事があるって言ってた」
「俺!? 俺、鏡の中のお前に何かしたっけ……?」
慌てるロウをよそに、私も落ち着かない胸を必死に押し隠していた。
本当のことなど言えるはずがなかった。〈私〉がロウに言い寄ろうとしていて、私はそれを阻止するために来ただなんて。
そもそもの原因が、自分がロウの前で可愛くなれないと悩んでいたからだなんて。これではもう自分の気持ちを全部ロウに伝えることと同じだ。
だから今はロウに、標的が自身であるということだけを知らせることにした。どうやら鏡の中の〈私〉はロウに用があるらしい。それがどんな用かはともかく。
「向こうの狙いが掴めないうちは何があるかわからないし、もしかしたら星霊術だって使ってくるかもしれない。だからロウは自分の身を守って。私もロウを守るから」
「お、おう……」
「それから鏡には近づかないこと。あくまで予想だけど、もう一人の〈私〉は鏡の中を移動してる。危害が加えられるとしたら鏡のそばだから、できるだけ距離を取って」
幸い、ロウの部屋の鏡は洗面台に備え付けの1つしかない。それを壁付けして鏡の面を隠してしまった今、おそらく〈私〉がそこから現れるということはないだろう。
「他にも鏡っぽいものには近づかないようにして。ピカピカのガラスとか、波の立たない水たまりとか」
「わかった」
ロウは素直に頷いた。
「状況はよくわかんねえけど、警戒しとくに越したことはないよな」
「うん。外でも家の中でも注意してね」
「おう。そんで、そいつを見つけた時はどうすりゃいいんだ? まずはお前に知らせるだろ。そこからどうすんだ?」
その質問には少し迷った。
「うーん……とりあえず話し合いたいんだけどな。前みたいに鏡の中? いつもの鏡? に戻ってもらいたいし」
「話し合えるのかよ。さっきだってお前に掴みかかってきたんだろ?」
「う、うん、まあね」
最初に掴みかかったのは私だけど、と内心で苦笑いする。
確かに、話し合いでどうにかなるものなのだろうか。相手は〈私〉であるとはいえ鏡の中の住民だ。言葉は通じても常識が通じるとは限らない。鏡の境を越えようとしているような存在に、理屈などあってないようなものかもしれない。
より強く存在を望まれた方が力を持つ、と彼女は言っていた。その理屈さえ私は聞いたことがない。あれはもしかしたら彼女が私を怖がらせるためだけのハッタリだったのかもしれない。実際に彼女は私が怯えているのを見て愉しんでいたのだから。
でも、だからといってまるきり嘘と決めつけるのも怖かった。
『代わりにあなたが――』
彼女が言いかけた言葉の続きは、容易に想像がつくものだったから。
とはいえ本当にロウが〈私〉を望んでしまったら、強く想ってしまったら、それこそ私はすっかり気力を失ってしまうのだろう。2人を見ていられず、鏡の中であれどこであれ、姿を消すことになる。つまりはすべてが彼女の思い通りになるのだ。
そうならないために、私には何ができるだろう。考えてみたところでいい案は何ひとつ思い浮かばない。
先ほど私に迫った彼女の目を思い出す。あれは本気の目だった。本気でロウを手に入れようとしている目。本気で私になり替わろうとしている目。
そんな彼女に本当に対抗できるの? どうやって?
ぐるぐる考えを巡らせていた私は、ロウの声掛けにさえ気が付かないでいたらしい。
「おーい、リンウェル。聞いてるか?」
「え、あ、何?」
「だから、今夜どうするんだって話だよ。泊まるとこはあんのか?」
「……あ」
そういえば失念していたなと思ったが、それに対する案ならすぐに思い浮かんだ。というか、これ以外にない。
「今日はずっとここにいる。だっていつどこで〈私〉が現れるかわからないから」
〈私〉がロウを襲うとしたら、私がいない場所を選んでくるに違いない。ならばロウが一人になる夜中は最適解ともいえる。就寝中なら無防備になるし、何よりベッド上の奇襲は普通に迫るより効果的である、とあの〈私〉なら考えそうな気がした。
「はあ? それって……」
「私をここに泊めて。って言っても、寝るつもりはないけど」
一晩中見張っていないと気が済まない。それでなくとも不安で眠れそうになんかないのに。
ところがロウはなかなか首を縦には振らなかった。
「事情はわかるけど、それはさすがにマズくないか?」
「マズいって、何が」
「いろいろだよ、いろいろ」
もごもごと言葉を濁しながら、ロウは腕組みをして「うーん」と唸り続ける。やがてそれに混じったのは、ぐう、という気の抜けた音だった。
「ダメだ、腹減った」
窓の外に目を向ければ、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。ロウが帰ってきた時はまだ青空が広がっていたのに、私たちは随分と長いこと話し合っていたらしい。
「先に腹ごしらえしようぜ。その後のことはその後考えりゃいいだろ」
相変わらず能天気なロウを見て、私は思わず笑った。お腹と頭が直結しているのが実にロウらしいなと思った。
「いいよ、そうしよっか」
ロウは私を夜のウルベゼクに連れ出してくれた。ロウの行きつけだという食堂は安くて美味しかったし、店の主人も優しくて親しみやすい人だった。
あちこちでロウの知り合いに会った時は普段のロウの話を聞くことができた。カラグリアでの仕事ぶりや子供と遊んでいる時の話、ロウの親切エピソードなど、中には初めて聞く話も多かった。
「なんかすげえ恥ずかしいな」
頭を掻きながらロウは言ったが、私は楽しかった。ロウの知らない一面をさらに知れたような気がして、素直に嬉しかったのだ。
部屋に戻ったロウはもうしばらく考え込んだ後で、とうとう私が部屋に泊まることを許してくれた。
「けど、一晩中起きてるってのは認めない。そんなのどう考えたって体に悪いだろ」
私は反論した。
「そんなこと言ってる場合じゃないじゃん。命に関わるかもしれないのに」たぶん、いや十中八九関わらないと思うけれど。
「いいや、そこだけは譲れねえな」
ロウは頑なだった。
「つーか自分の身くらい自分で守れるっての。俺のことも信用しろよな」
そんなのはじめから信用している。ロウの戦闘の腕に不安はないけれど、今回そこは重要じゃないのだ。
ロウは自分のベッドを軽く整えると、「お前が使え」と言ってきた。
「え、じゃあロウはどこで寝るの」
「俺は……どこだって寝られるんだよ。床でも椅子でも」
そう言って近くにあった椅子に乱暴に腰かける。腕を組んで足を組んで、その体勢のまま眠りにつく気だ。
「だ、ダメだよそんなの。だったら私がそっちで寝る!」
だが腕を引っ張ってもロウの体はびくともしない。「もう遅いぜ。これは俺の椅子だからな。諦めてお前はそっちで寝ろ」
「……ふーん、そう。わかった」手のひらに力を込め、「天雷の裁き――」
「ちょ、ちょっと待て! それは反則だろ!」
慌てて止めに掛かるロウの隙をついて椅子を奪う。
「はい、私の勝ちー」
鼻を鳴らす私を見て、ロウは呆れたように肩をすくめた。
「わかった。じゃあこうしようぜ」
ロウはそう言って私の手から椅子を取り上げると、そのまま腕を引いてベッドの縁へ座るよう促してきた。
「な、何?」
どういうことかと首を傾げていると、ロウもすぐ隣へと腰かける。
「お前が寝ないってんなら、俺も付き合う。2人で起きてりゃいいだろ。その間、適当に話でもしてようぜ」
な、と笑いかけられて、思わず心臓が跳ねた。うん、と私は小さく頷いて、何か話題はないかと必死に脳内を検索した。
緊張したのはほんのはじめだけだった。ロウと話をしているうち、すっかりいつもの調子に戻った私は思いついた話題を次々と口にしていった。
それでもなかなか話は尽きなかった。ついこの間顔を合わせたばかりだというのに、その時もそれなりに会話をしたはずなのに、どうしてこうロウといると時間を忘れておしゃべりしてしまうのだろう。不思議だなと思いながら、やっぱりそれは私が抱えているこの気持ちに起因するのかなとも思った。とはいえロウとはそうじゃなくても会話が弾みそうな気もするけれど。
そうしてどれだけ時間が経っただろう。ふと気が付くと、私はベッドの上にいた。窓の外が明るい。青い空に鳥が何匹か連れだって飛んでいくのが見えた。
咄嗟に飛び起き、辺りを見回すと、そこには昨日取り合いをした椅子に腰かけ、すやすやと眠るロウがいた。腕を組み足を組み、昨日見た格好のまま、器用にバランスを取りながら寝息を立てていた。
どうやら先に寝落ちたのは自分らしい、というのは体に掛けられた毛布を見て気が付いたことだ。限界を迎えた私を見かねてロウがベッドに寝かせてくれたのだろう。こちらには毛布を掛け、自分は椅子で眠る。結果としては何もかもロウが想定していた通りになった。
してやられた、とちょっと悔しくなる。でもきっとそうじゃない。ロウはあの時、本気で一緒に徹夜してくれる気でいただろうし、私の寝落ちを期待していたわけでもないだろう。
文句の1つや2つ、出たかもしれない。言い出しっぺのくせに、と呆れ笑いをするロウの顔が浮かぶ。
それでもこうして掛けてくれた毛布は、紛れもなくロウの優しさだった。夜中でさえ熱風の吹くこともあるこのカラグリアでは、お腹を出して寝ていたって風邪を引く心配さえないというのに。
ベッドから抜け出す時、木製のそれが軋んだが、ロウはまだ目を覚まさなかった。相変わらず微かに前後に揺れて、まるで自身がゆりかごになっているかのようだ。
私のことはベッドに寝かすのに、それでいて自分はこんな不安定な椅子で眠ってしまう。どれだけ狭いといっても、私を壁側に追いやれば少しのスペースくらい作れただろう。
そういうところだ。静かに手を伸ばし、ロウの一房垂れ下がった前髪にそっと触れる。そういうロウの不器用でまっすぐな優しさが、私は――。
「すき、なんだけどな……」
呟いた瞬間、ロウの体ががくっと大きく傾いた。咄嗟に手を引っ込め、一歩後ろに退く。
「ん、あれ、リンウェル……?」
「あ、お、おはよう。起きた?」
ロウはぐっと腕を上に伸ばし、何度か目をしばたたかせたところで「おはよう」と欠伸混じりに言った。
「珍しいな、お前の方が先に起きるなんて」
「ま、まあね、たまにはそういうこともあるでしょ」
そうか、と目じりを擦るロウは昨日と何ら変わらない様子だった。大丈夫、さっきの独り言は聞かれていない。内心ほっと胸を撫で下ろす。
それでもなんだか目が合わせられなかった。いたたまれなくなった私は鞄から財布だけを取り出すと、
「あ、朝ごはん買ってくるね!」
とロウの部屋を飛び出したのだった。
街の食堂にてハムサンドとたまごサンドを包んでもらう。ロウの友人だからとカットフルーツの詰め合わせまでオマケしてもらったというのに、私の心はどうにも晴れないままだった。
反省していた。さっきの自分の態度、あれはなかなかに酷かった。朝の挨拶もそこそこに家を飛び出してしまうなんて。
昨日のことについても謝罪もお礼も言えないままだ。先に寝ちゃってごめん。ベッドを使わせてくれて、毛布を掛けてくれてありがとう。どうしてそれだけのことを素直に告げられないのだろう。
やっぱり可愛くない、とため息を吐いて、思い出したのは鏡の中の〈私〉のことだ。〈私〉なら、きっとありのままの気持ちをまっすぐ伝えられるのだろう。気恥ずかしさに逃げたりせず、目を逸らしたりもしない。
本当なら、ああいう子の方がロウにもお似合いなんだろうな。見た目はともかく、恋人にするなら素直で可愛い子の方が良いに決まっている。
そもそもこの胸の焦りは彼女に対する劣等感から来ているのだとようやく気付いた。自分が彼女に勝っている部分がまるで見当たらない。顔も声も同じで戦闘力だって変わらないのであれば、それはもう、愛嬌がある方が勝つに決まっている。誰だって自分に怒ってばかりの人間より、いつでも微笑みかけてくれる相手と居た方が幸せな気持ちになれるのだから。
真正面から勝負して勝てないとわかっているから焦っている。先に迫られたら最後、決着はついてしまう。
だから私はその口を先に塞ごうとしている。はじめから勝負を諦め、あろうことかその勝負すらなかったことにしようとしている。
〈私〉の言う通り、私はどこまでも狡くて意気地のない奴だ。顔も性格も可愛くなくて、おまけにこれだけマイナスがあるなんて。
こんな自分じゃ、と思う。こんな自分がロウの隣に並ぶ資格なんか――。
その時だ。集落の方から何かガタンと音がした、ような気がした。はっとして辺りを見回すが、その方向に家屋は一軒しか見当たらない。
まさか。自然と歩幅は大きくなり、ほとんど駆け足になってロウの部屋にたどり着くと、私はその扉を勢いよく開けた。
目が合ったのはもう一人の〈私〉だった。
「へ!? 本物のリンウェル!?」ロウの叫びがむなしく部屋に響く。「お、俺はまだ何もしてねえぞ!」
〈私〉はあろうことか備え付けのミニキッチンにロウを押し付ける形で迫っていた。ロウはほとんどシンクに乗り上がっていて、迫られているというより、詰られているようにも見えた。
『なんだ、もう帰って来ちゃったの』
残念そうな顔をして〈私〉は言った。『もうちょっとだったのに』
「間に合ったなら良かった」
私は声を低くして言った。「さっさとロウから離れて」
『そんなの嫌に決まってるでしょ。せっかくこうして触れられるのに』
ね、と言って〈私〉はロウの腕に自身の腕を絡めた。ロウはいまだ目の前の状況が掴めていないのか、ただ戸惑い、狼狽えるだけだ。
「そもそも、どこから出てきたの。鏡はなかったはずだけど」
『何言ってんの。自分がちゃーんと用意していってくれたんじゃない』
〈私〉の目線の先には、ベッドに転がった手鏡があった。その傍には私の鞄がぞんざいに投げ出されていて、それは紛れもなく自分自身がこの部屋を出る際に放ったものだった。
まさに不覚。あれほど気を付けていたのに、私自身が手助けをしてしまうなんて。
『あまりに状況が出来すぎてるから、もしかしてわざとかな、なんて思ったのに』
「そ、そんなはずないでしょ! いいからロウから離れてよ! 私に見つかった時点であなたの負けなんだから!」
それはどうかな、と〈私〉は笑った。
『決着はついてないよ。まだ返事もらってないもん』
そう言うと〈私〉はロウに向き直り、
『ねえロウ、さっきも言ったけど、〈私〉、ロウのことが好きなの。だから〈私〉の恋人になって』と言った。
「えっ、と……」ロウの視線が揺らぐ。
『〈私〉はリンウェルだけど、あの子とは違うの。もっと素直だし、暴言吐いたりしないよ。早起きもできるし、夜更かしもしない。ちゃんと毎食ご飯も食べるよ』
彼女の言うことにおそらく嘘はひとつもない。私には、いや、私だからわかる。彼女は私じゃないから。正反対だから。
恋人にするなら、きっと彼女みたいな子の方が良い。いつもにこにこしていて、素直に言葉を伝えてくれる子の方が。彼女のような子を選んだ方が、幸せになれる。――でも。
『ね、だから私と――』
「ダメっ!!」
気付けば大きな声が出ていた。
「ダメ! 私の方がロウを好きだもん!」
え、とロウが声を漏らす。へえ、と〈私〉が挑戦的な視線を寄越す。
でも、自分の言葉に一番驚いていたのは私だった。私今、なんて言ったの。
そんな戸惑いはまるでお構いなしで、口は再び勝手に動き出す。
「いつも酷いことばっか言っちゃうし、素直になれないけど……でも、本当は、ずっとロウを想ってきたの!」
もはや〈私〉を止めたいのか、ロウに気持ちを伝えようとしているのか、それすらもわからなかった。
「ロウがほかの誰かと付き合うなんて嫌! ロウが誰かと一緒にいるところなんか見たくない! ロウにはずっと私の隣にいてほしいの!」
とんでもないわがままを口にしているという自覚はあった。恋人でも何でもないのに、いったいどれだけ自分勝手なのだろう。
それでも、吐き出したことに嘘偽りはひとつもなかった。素直でまっすぐな言葉というならこれ以上のものはない。
私はロウが好きなのだ。他の誰かと並んでいたり、触れ合ったりするのが許せないほど。それがたとえ自分とまったく同じ顔をした〈私〉であったとしても。
怒りやら羞恥やら興奮がない交ぜになって視界が滲んだ。みるみる霞んでいくその中で、やがて動くものがあった。
『ふうん。なるほどね』
〈私〉はロウの元を離れ、こちらに近づいてきたと思うと、優しく肩に触れて言った。
『今のはなかなか可愛かったんじゃない? やればできるじゃん』
「え……」
『決着はついたね。あとはちゃんと2人で話し合うんだよ』
「ちょ、ちょっと」
〈私〉はベッドの上にある手鏡を手に取ると、穏やかな笑みを見せた。
『隙を見せようものなら、また盗りに来るから。気は抜かないようにね』
じゃあね、と言って、〈私〉は鏡の中に姿を消した。光も音もなく、ほんの一瞬の出来事だった。
呆気に取られながらも、私はふと視線を戻した。そこには相変わらずキッチンのシンクに寄りかかりながら同じく呆気に取られているロウの姿があった。
目が合うと、たちまち顔に熱が上った。今にも火が出そうなほど恥ずかしい。そういうことを自分は口にするどころか、大きな声を出して叫んでしまったのだ。
いまだ困惑したような顔をしながらも、ロウはゆっくりとこちらに迫ってきた。
「……なあ」
どこかぎこちなく頭を掻きつつ、顔を覗き込んでくる。
「今言ったの、本当か?」
私は半分怯えながらも頷いた。この状況、こんな顔ではどうあがいたって否定はできない。
それにもう、恥ずかしさに紛らせて誤魔化すこともしたくなかった。自分の気持ちを打ち明けるなら今しかないと思った。
「ロウが、好き。ずっと前から好きだったの。でも素直になれなくて、いつも思ってもないことばっかり言っちゃって……」
こんなの今さらな言い訳でしかない。こんなことになるならもっと早く対処しておけば良かった。とはいえそれができなかったからこそ、もう一人の〈私〉が出てきてしまったわけなのだが。
「ロウが好きなのは、本当に本当。だからあの子に取られたくなくて、つい……」
そこまで口にしたところで、不意に強く引き寄せられる。背中に腕が回ったと思うと、苦しいくらいに力が込められた。
「良かった、安心した」
「安心って……何それ」
「夢とか聞き間違いだったらどうしようって思ったんだよ。いくらなんでも都合が良すぎやしないかって」
聞き間違いって。この距離、この空間でそれはあり得ないんじゃ……。
思わず笑いそうになったところで、ロウが私に向き直って言った。
「リンウェル。俺も、お前が好きだ」
「うん」
「恋人に……なってくれるか」
「……うん!」
私は大きく頷くと、今度は自分からその胸に飛び込んだ。背に腕を回し、ぎゅっと力を込めて縋りつく。
いつまでも、何度でもこうしていたいと思った。あれほど素直になれなかったのが嘘みたいだ。
人は、一歩踏み出せば違う自分になれるのかもしれない。ほんの数十分前、うじうじと悩んでいた自分が、今ではまるで別人のように思えた。
その後は買ってきた朝食を食べながら、ロウに事の一部始終を話すことになった。恥ずかしいけれど、ロウが関係者である限り説明からは逃れられない。私はこれまで自分に起きた出来事を、できるだけ噛み砕いてロウに話して聞かせた。
ロウは半分わかったような、わからないような反応をしながら話を聞いていた。
「じゃああのもう一人のお前が出てきたのって、自分が可愛くないって悩んでたからなのか?」
「たぶん、そうなるんだと思う。あの子もそんなようなこと言ってたし」
今となっては真実はわからない。〈私〉は鏡の中に消えた後、姿を見せていない。
鏡には以前のようにそのままそっくりの私が映るようになった。私が笑えば笑った顔を、怒れば怒った顔を映す、何の変哲もない鏡に戻った。
元通りになったことにほっと胸を撫で下ろしつつ、〈私〉の行方が気にならないでもない。とはいえあの子のことだから、今もきっとどこかで私の様子を見ているような気もした。
「一件落着、なのかな。とりあえず鏡に映るようになって良かった」
「つーかそもそもそんなことで悩むなよな。鏡からもう一人の自分が出てくるくらいって、どんだけだよ」
「そんなこととは何よ。当時の私には深刻な悩みだったの!」
むくれる私にロウは呟くように言った。
「まあ、2人のお前に迫られるのは悪くなかったけど」
「……へえ?」
「あ、いや、そうじゃなくて、だから、」
あー、と言葉を濁した後で、
「だってお前、元から可愛いだろ」とロウは言った。
一瞬何を言われたかわからなかったが、数秒もすると頭が理解し始めた。たちまち顔には熱が上って、耳まですっかり熱くなる。
ロウも同じだったのか、顔をふいとそちらに背けてしまった。それは狡い。言い逃げは許さない。
「じ、自分で言って照れないでよ!」
「仕方ないだろ! 慣れてねえんだよ、こういうの」
どことなく気まずい空気が流れながらも、次の瞬間には顔を見合わせて笑っていた。恥ずかしいけど、胸がどきどきと痛いけれど、同じくらいそれらが心地よくもあった。
それからはまあ、穏やかな交際が続いている。以前と変わらずカラグリアとメナンシアを互いに行き来する日々だが、ごく順調と言ってもいいだろう。
私のロウへの言葉づかいも多少ましになったと思う。ロウの気持ちを知っている分、変な憶測もなくなって、以前よりかは素直な言葉を伝えられるようになった。
まだまだ〈可愛い〉とは程遠いかもしれない。それでも、いや、だからこそ私は努力を続けなければならない。
気を抜けば〈彼女〉がまた現れるかもしれないから。『ロウは貰っていくね』と掻っ攫われてしまうかもしれないから。
そうならないよう常に心掛ける。素直さを心に持ち続ける。
「だから見守っててね」
鏡の前でそう呟けば、
『――せいぜい頑張ってみたら』
誰かが笑ったような気がした。
終わり