暖炉の火は弱まりつつあった。
朝は煌々と燃え盛っていた炎も、昼を過ぎて薪をくべるのをやめると、たちまちその勢いは削がれていった。今は子供みたいなほむらが炭の間に見え隠れしては、時折パチパチと薪の弾ける音が聞こえてきている。それだけでもどこか懐かしさを覚えるのは、やはりこの光景が幼い頃から深く慣れ親しんだものだからだろうか。
このくらいなら、帰宅するまで持つだろう。炭から発せられる真っ赤な照明を押し当てたような光は、それを離れた場所から見つめる私の目をもじんわり灼いた。
最後にもう一度、鏡の前に立って身なりの確認をする。鞄にもその中にも不備はない。
棚の上にある鍵を手に取った時、私の目に入ってきたのは、美しく繊細なデザインをした香水の瓶だった。
まあるく柔らかな曲線を描き、その華奢なフォルムは少しの衝撃で粉々になってしまいそうなのに、それでいて凛とした女性の立ち姿を思わせるガラスの瓶。
一刻ほど前、久しぶりに封を開けたそれの香りが、まだほのかに漂っている気がした。
家を出たのは、日が暮れて空が暗くなり始めた頃だった。指定された店に着くと、待ち合わせの相手は既に到着していた。
店の前の壁に背を持たれるようにして寄りかかっているその姿を見て、思わず心臓が跳ねた。茶色のコート、黒のブーツ、あの頃と変わらない髪色。見てくれで言えば変わったものの方が多いのに、どうしてかその横顔には懐かしい親しみを覚えた。
なんて声を掛けよう。元気だった、とか? 早かったね、とか? できるだけ笑顔で、にこやかに、などと考えていると、向こうの方が先に私に気づいてしまった。
「よお、リンウェル!」
手を上げ、すぐさまこちらに駆け寄ってくるその表情が一気に幼くなる。無邪気で人懐こくて、以前より逞しくなったその身体には些か不釣り合いなその笑顔。
「悪いな急に。呼び出したりなんかして」
「ううん、こっちこそごめんね。シスロディアまで来させちゃって」
「いいんだ、俺が誘ったんだから。それより、元気してたか?」
「見ての通り。ロウの方も、変わらず元気そうだね」
当たり前だろ、とロウはまた無垢な笑顔をして言った。それが俺の唯一の取り柄だからな。
私はその言葉を聞いて、ふっと肩の力が抜けるのを感じていた。よかった、私たちの間の空気はあの頃と変わっていない。さっきまで胃がキリキリしそうなほど緊張していたのに、今はそれすらも思い出せないくらい楽になっていた。
ロウに続いて入った店は、シスロデンでは名の知れた酒場だった。酒場といっても仕事上がりの男衆がなだれ込んでくるようなものではなく、オレンジ色の照明がぼんやり辺りを照らして雰囲気を醸しているような、大人の雰囲気のおしゃれなお店だった。料理も美味しいと評判で、うわさを聞きつけて他領からわざわざやって来る客も少なくないという。
そんな所を待ち合わせ場所に指定された時は驚いたけれど、同時に時の流れも感じていた。ロウもこういうお店を選ぶようになったんだ。
シスロデンに暮らすようになったとはいえ、こんな場所には普段なかなか訪れることもない。どこか緊張気味の私を知ってか知らずか、ロウはまたあの頃みたいな調子で声を掛けてくれる。
「うわさに聞いた通り、洒落た店だな。予約取るの、結構苦労したんだぜ」
「あはは、やっぱり」
「あんまり取れないから、ブレゴンの名前でも出そうかと思ったくらいだ。まあ、最終的には使わなくて済んだけどな」
ロウは小さく笑って、やってきた給仕の男性に脱いだコートを手渡した。どうやらクロークにて退店まで預かってくれるらしい。
「ほら、お前も。コート貸せよ」
「あ、ありがと」
私は羽織っていたコートを脱ぐと、それをロウに手渡す。するとその瞬間、ロウがはっと何かに気が付いたような顔をした。
「あの香水、まだ使ってたんだな」
どきりとした。どう反応したらいいかわからなくて、ただ私は、うん、とだけ頷いた。
「懐かしいな」
そう言って席に着いたロウの目は、正面に座る私をただ一点に見つめていた。
それがあまりに優しくて柔らかくて、どうにもいたたまれなくて、私は上手く視線を合わせることができなかった。
私たちがいわゆる恋人同士だったのは、もう3年以上前のことだ。当時私はメナンシアに部屋を借り、古代ダナや魔法使いの一族についての研究に夢中になっていた。ヴィスキントにはキサラがいたし、街道に出ればシオンたちが暮らしていて、食べるものにも着るものにも困らない生活を送っていた。
ロウはといえば、一度は離れたカラグリアに戻り、故郷の復興に当たっていた。〈紅の鴉〉の一員として世界各地を駆け回り、あるいは地元でズーグルの討伐や宅地の開拓を手伝っていた。「世界をどうしたいとか想像はつかない。自分はひたすら目の前の今できること、やるべきことを1つずつこなしていくだけだ」その口癖に違わず、ロウは何事にも真っすぐひたむきに取り組んでいた。
そんな私たちがどうしてそういう関係になったのか、はっきりとした理由はわからない。ただ、そうするべきだとなんとなく思ったことは覚えている。交際してすぐ、ああこれは正しかったんだと思ったことも。
私たちは性格や趣味の方向性が違ってはいても、一緒に過ごすのは楽しかった。どんなくだらないことでも2人で笑えたし、互いの話を聞くのが好きだった。興味があるならどんなことにも挑戦したし、成功も失敗も2人の思い出であり笑い話になった。もちろんケンカも多かったが、でもそれと同じくらい、いやそれよりも笑ったことの方が多かったはずだ。旅をしていた頃のことも含め、一緒にいる時間が長かった分、互いの落としどころはきちんとわきまえていた。
それでも、当時の私は本当に子供だった。年齢もそうだが、はやく大人になりたいと心から願うくらいには子供だった。
特に、2つ年上のロウには置いていかれたくなくて必死だった。それは旅をしている最中からロウが自分より年上の存在だと思っていなかったからかもしれない。どんな小さなことであれ、私は自分の理解できないロウが存在することを嫌った。
例えば、ロウが交際中に香水を買ってきたことがあった。ウルベゼクを訪ねてきた商人に勧められ、気に入って購入を決めたのだそうだ。
私はロウがつけてきたその香水の匂いを嗅いで一言、「あまり好きじゃない」と言い放った。正直言ったらかなり好きじゃなかったが、そう言ったのは当時の私なりの気遣いみたいなものだった。
ロウがロウじゃないみたいだった。普段のおちゃらけた姿からはまるで想像のつかない大人っぽい香り。時間が経つと甘さが増して、ますます好きじゃない。こんな誰かを誘うような、隙を窺って罠にでも嵌めてしまいそうな匂いは、ロウには似合わない。
ロウはそんな私の反応を見てただ苦笑するだけだった。
それでもロウは懲りずにたびたびその香水をつけてきた。本人曰く「せっかく買ったんだから、使わないともったいないだろ」とのことだったが、それがまた自分の意見を聞き入れてもらえなかったような気持ちになって、どうにも気に食わなかった。
とはいえどれだけ疎ましく思ったものであれ、触れ続ければ徐々に馴染んでくるものだ。数か月も経てば、私はロウが纏うその香りにもすっかり慣れてしまっていた。たまたまつけ忘れた日なんかには「あれ、今日はつけてないんだね」などと言い出す始末。そういった身勝手さも含めて、あの頃の私は本当に子供だったのだ。
勝手気ままな私の一方で、ロウは私が買った香水を私以上に気に入っていた。それはシオンと一緒に買い物に行った時に選んでもらったものだったが、柑橘のような爽やかさの中にふわっと香る甘さが好きだったらしい。
「すげえいい匂いする。お前に似合ってる」
いい匂い、すげえ好き、かわいい、などと思いつく限りの褒め言葉を並べながら、ロウはその香りを纏った私を何度もきつく抱き締めた。首筋にまで鼻を押し付けられるのはくすぐったいし恥ずかしかったが、それでもロウが喜んでくれているのがわかって嬉しかった。
私はロウと会うときは必ずと言っていいほどこの香水をつけていた。一緒に出かける時なら手の甲やうなじに、食事に行く時ならウエストや下半身にひと吹き。
今日は食事がメインだからと、お風呂上りに腰のあたりに軽く吹きかけただけだった。それなのに、まさかこうも早く気付かれてしまうだなんて。
ロウは、どう思ったかな。この香りで何か思い出したことはあっただろうか。それはどんなこと? あの表情から少なくとも悪いことではなさそうだけれど。
――ロウの方はどうなのだろう。あの香水を、つけているのかな。
直接訊ねる勇気はなかった。だからといって、それがわかるほどに近づく勇気はもっとなかった。
この酒場が有名なのは料理の味や雰囲気の評判だけではない。ここにはほかの店にはない、特別なメニューがあった。
その名も「店長のおすすめコース」。なんと自分で料理を選ぶのではなく、店長がその日に仕入れた食材を吟味し、最も適した方法で調理したものを客に提供してくれるというものだった。
つまりは食堂の「日替わりメニュー」にも近い。ここの場合はサラダからスープ、メインメニューが日ごと、材料ごとに変化する。
毎回訪れるたびに変わるそのメニューに客は目新しさを覚えるとともに、これまたどれも文句のつけようがないほど美味しいというのだから話題にならないわけがない。騒がれたのは少し前のこととはいえまだその人気は健在で、今夜も店は満席のようだった。先ほどからあちこちを行き来している給仕たちも、息を吐く間もないほど忙しそうだ。
話の通り、出てくる料理はどれもとても美味しかった。シスロディア産の野菜を使ったマリネは酸味と甘みのバランスが絶妙だったし、鹿肉のソテーは柔らかくてジューシーで、さらにそれを引き立てる特製のソースが絶品だった。カボチャのスープは香ばしくて身体中に染み渡ったし、付け合わせのパンはお菓子みたいに甘くておかわりしたいくらいだった。こんな手の込んだ食事を食べるのはいつぶりだろう。一口頬張るたびに口の中に広がる芳醇な香りと旨味はまさに幸福そのもので、私はそれらをゆっくりと時間をかけてじっくり味わった。
頼んだものを一通り食べ終えフォークを置くと、ふとこちらに注がれている視線に気が付いた。いや、本当はそうじゃない。本当は、さっきからその視線がこちらに向いていることには薄々気が付いていた。顔を上げると、やっぱりそこにはどこか愉快な様子で私を見つめるロウがいた。
「……どうかした?」
酔ってるの? と訊ねてみたが、ロウはいいやと首を振った。
「すげえ美味そうに食うなって。それもじっくり。この一口に全身全霊をかける、みたいな」
「その例えはおかしくない? ……でもまあ、あながち間違いじゃないかも」
一人(+一匹)で暮らしていて、自分のためだけに毎食きちんと料理をする人間がこの世にどれだけいるだろう。昔のようにまるまる一食食べ損ねるということはなくなったとしても、簡単にパンとミルクだけで済ませることだって少なくない。材料費はもちろん、作る手間とかその後の片付けのことも考えると、どうしても食事には手を抜きがちだ。
そんな日々の中に突然こんな贅沢が現れたのだから感激しないわけがない。ゆっくりじっくりと一口を噛み締めていたのは、せめて1秒でも長くこの時が続けばいいと思ってのことだった。次にこんな料理を食べられるのは果たしていつになるだろう。高級レストランとまでは言わなくとも、街のお手頃な食堂すら恋しくなることもあるのだから。
「たまには料理もするけどね。いい食材が手に入った時とか、なんとなくそういう気分になった時とか。しばらくやらないでいると腕が鈍る気もするし。って、ロウはどうせ鈍りっぱなしなんだろうけど」
「そりゃあな。ああでも、焼くのと煮る以外ならできるぜ。あと、蒸すのと揚げるのも」
「それって切るだけでしょ。昔と何も変わらないじゃない」
バレたか、とロウは笑った。この言葉をもしキサラが聞いていたなら、思わず頭を抱えていたことだろう。あの頃一通り教えたはずなのにいったいどうして、なんて嘆く姿が目に浮かぶ。
「何作るんだ?」
「何って?」
「料理だよ。たまにはするんだろ?」
ええと、と少し考えてから「スープ、とか?」と答える。
「へえ。他には?」
「あとは、カレーとかかな。数日分作り置きできるし。あとはビーフシチュー」
「ああ、お前の作ったやつ美味かったもんな。肉がすげえごろごろ入っててよ」
「あれはお肉が安く手に入った時だけだよ。今はそんなでもないから、ほとんど野菜ばっかり」
「もうそれビーフシチューじゃねえだろ。野菜スープだろ」
「豚肉が入っててもポークシチューにはならないでしょ。……ならない、よね?」
どうだか、と言ってロウが笑うので、私もつられて笑った。どうしてロウといるとどんなにくだらないことでも笑えてしまうのだろう。どうしてどんな時間も楽しく、一瞬で過ぎ去ってしまうように感じられるのだろう。
そういえば、私たちは互いが嫌になって別れたのではなかった。あの時はどうしてもそうせざるを得なかっただけだ。
あの頃、カラグリアでは大規模な開発が行われようとしていた。元々そこに住んでいた住民とレネギスからやってきた人、それに各地からの移民で急激に人口を増やしたカラグリアは、住宅を建てる土地さえ足りていなかった。
状況を打破するため、〈紅の鴉〉では集中的かつ局地的に土地の開発をすることに決めた。それだけではまだ足らない可能性も含め、候補地もいくつか用意した。人数はどのくらい必要で、工期はどのくらいになるか。必要な資材は果たしてどれだけか。不透明な点は多くあっても、やらないわけにはいかなかった。慢性的な人数不足の問題を抱える〈紅の鴉〉としては、かなり思い切った判断だったに違いない。
「しばらく会えなくなるかもしれない」
ロウに告げられた時、私は驚き、戸惑った。そもそも普段から一緒に暮らしていたわけでもなく、ロウはカラグリアとメナンシアを行き来して私に会いに来てくれていた。そのロウが「しばらく会えない」と言ったのだ。これはただ事ではないと思った。
「しばらくって、どのくらい?」
「さあ……」
「本当に全然、会えなくなっちゃうの?」
「……」
ロウの返事は曖昧だった。カラグリアの内情は聞かせてくれたが、詳しいことはわからない、の一点張りだった。おそらくロウ自身も戸惑っていたのだろう。これから直面することがあまりに未知数すぎて、不安が拭いきれない。それはきっとロウだけではなく、当時の現地の人々は皆同じだったはずだ。
「私が会いに行ってもだめなの?」
「会えるかもしれないけど、会えないかもしれない。その時俺がどこに居るかもわかんねえし」
「そんな……」
愕然とする私に、ロウは「ただ」と声色を変えた。
「ただ、参加しないって手もある」
「え……?」
ロウの瞳は真っすぐに私を捉えていた。
「参加しないって、どういうこと?」
「そういう開発はあいつらに任せて、俺は俺で自分に出来ることをするってことだ」
それを聞いて、私は思わず首を振った。
「だ、だめだよそんなの。カラグリアを放っておいていいの?」
「よくは、ないだろうな」
「なら……」
「……悪い、」
ロウは俯いた後で、
「少し考えさせてくれないか」と言ったのだった。
私自身はロウに伝えた通り、ロウは当然カラグリアの開発に参加すべきと思っていた。これまで故郷の復興のため、さらなる発展のために力を尽くしてきたのだから、参加しない理由はないと思っていた。
一方で、あの時のロウの瞳が忘れられなかった。私をただ正面に捉え、それだけしか映さない瞳。あの時のロウは今までには見たことのない表情をしていた。
もし今ロウが故郷と私を天秤にかけてくれているのだとしたら。私と会えなくなることと故郷を再び捨てること。考えた挙句に後者を取ろうとしているとしたら。
そう思うと、胸が締め付けられる思いだった。それがただの自惚れであったならどんなにいいか。それを易々と否定できてしまうくらいの目を、あの時のロウは覗かせていた。
とはいえ答えなどひとつに決まっている。人一人と国一つ、大げさかもしれないが、それは比べるまでもないことだった。
だから私は、ロウはすぐに答えを出すと思っていた。半日、いや、数時間もかからないうちにもう一度話をすることになるだろうと思っていた。
ところがロウは1日経っても、数日経っても答えを出さなかった。できる限りの休暇は取ってきたとは聞いていたが、まさかここまでかかるとは思っていなかった。
メナンシアを発つ前日になっても何も言わないロウに、私は腹を立てつつあった。ロウは迷っているのではなく、私が背中を押すのを待っているのではないか。私から何かを切り出すのを期待しているのではないか。疑いは募り、みるみる深くなっていく。
そこまでして悪者になりたくないのか。しびれを切らした私は、とうとうその言葉を吐いた。ロウを鼓舞し、こちらのことは気にしなくていいというような、そんな別れの言葉だった。これでロウも清々しい気持ちでここを離れられる。当時の私はそう信じて疑わなかった。
それがただの思い込みであったと気付いたのは、もっとずっと後になってからだ。ロウは私からの後押しを期待していたわけでも、悪者になりたくなかったわけでもない。ただ本当に本当に、答えが出せなかっただけだった。
それからほとんど間を置かず、私はメナンシアを離れた。ヴィスキントはロウと長い時間を過ごした街だったが、そこにいまだ息づく思い出の中を一人生きていくのはさすがに堪えた。
幸運なことに次の住処もすぐに決まり、私は何の縁あってかシスロデンに暮らすことになった。この場合は故郷と呼ぶべきか怪しいところはあるけれど、気候や環境としては馴染み深いものであることに変わりはない。かつての古巣である〈銀の剣〉やブレゴンのサポートもあり、今ではメナンシアにいた時とさほど変わらない生活ができている。依頼と称されたズーグル討伐に駆り出されることもあるが、それは昔のよしみということで快く引き受けることにしていた。どんな立場にあっても人助けの精神だけは忘れないようにと心がけているのは、あの頃の旅の記憶が脳裏に蘇るからでもあった。
そんな日々を送る私にロウからの手紙が届いたのは、つい3か月ほど前のことだ。自宅に突然「贈り物です」と木箱が届き、送り主にまったく心当たりのなかった私は驚いたが、中に同梱されていた手紙の名前を見てもっと驚いた。まさかあのロウが、手紙を書いて寄越すなんて。カラグリアとメナンシアで離れて暮らしていた時も、その後交際に発展してからも、一度も送ってくれたことはなかったのに。
中には簡単な挨拶と、近況が記されていた。たどたどしい字は読めないというほどではないけれど、おそらく書き慣れていないのだろう。あちこちに傾いた文字を見つけては、私は密かに笑った。可笑しいからではなく、そこに垣間見える私のよく知るロウの存在が嬉しくて笑ったのだった。
そうして最後の一文を読んだ時。私は自分の鼓動がたちまち早まるのを感じた。
〈もう一度会えないか〉
それから何度かやり取りをして、今日の日に至る。
日取りも店も、決めたのはロウだった。まるであらかじめ筋書きされていたかのように定まっていくそれに、私はただ頷くしかできなかった。まさに怒涛の展開というのはこういうことを言うのだろう。
こうしてロウと向き合って食事をしたことで、ようやく心が追いついた気がする。その証拠に、今の私はロウの目を真っすぐ見つめることができていた。あの頃から変わらない、翡翠色の大きな目。あの時ロウが手紙と一緒に贈ってくれた箱の中にもそれによく似た石が含まれていた。それを見た瞬間、真っ先にロウの瞳を思い出したくらいだ。
「そういえば、」
私はそこでふと気になったことを訊ねた。
「どうやって私の住所を知ったの?」
ロウはええと、と視線を宙に浮かべる。
「引っ越したってのは聞いてたんだよ。けど行先はわかんなかったから、シオンに聞いた」
「シオンに?」
「ああ。最初なんか、すげえ剣幕だったんだぜ。『何の用なの。吐きなさい』って銃撃つみてえな目で聞かれてよ」
思わず「うわあ」と声が出た。それは何とも、想像に難くない光景だ。
シオンには私たちのことは伝えてあったが、詳しいことまでは話していなかった。話したら泣いてしまいそうで、それでまた心配をかけるのが嫌で、どうしても言えなかったのだ。
メナンシアを離れると言った時も、シオンはとても残念そうにしていた。私自身も何よりそれが心残りだった。ヴィスキントを離れることそのものより、キサラやシオンに会えなくなることの方が辛かった。
新しい住所をロウに教えなかったのは、別に隠したかったわけじゃない。もし本当にそうしたいならシオンやキサラにも口止めしていたはずだし、何より手紙なんか無視していただろう。
知らせなかったのはひとえに、知らせる勇気がなかっただけだ。
グラスの中身を飲み干した時、ふと給仕がさりげなくテーブルに何かを置いていった。それは小ぶりのガラス器に盛り付けられたアイスクリームで、私は驚いてロウの方を見た。
「さっきこっそり頼んどいた。お前、好きだったろ」
イタズラをする子供のような無邪気な笑顔でロウは言った。恩を着せるふうでもなく、ただ単純な善意とも取れる行動はいかにもロウらしい。
あるいはもっと、別の感情によるものか。それが痛いほどに伝わってきて、胸がぎゅうっと苦しくなる。
「あ、悪い。もしかして要らなかったか」
そう問われ、咄嗟に首を振った。違う。そうじゃなくて、ロウの私を見る目があんまり眩しいから――。
「……ありがとう」
そう声を振り絞るので精いっぱいだった。スプーンを手に取り、アイスクリームを一口頬張る。
「美味しい!」
と思わず声を上げる私を見て、ロウはまた柔らかく笑った。バニラのように甘くて優しい笑顔だった。
店を出る時にはすっかり外は冷え込んでいた。吐いた息が白く濁り、一瞬で宙に溶けていく。
幸い空には星が見えるので、今夜は雪が降るということはないだろう。以前より穏やかになったとはいえ、まだまだこの地の気候は厳しいものがある。暖炉にくべる薪を切らそうものなら、それこそ命に関わってしまう。
そんな他領から訪れた人なら誰しも閉口してしまいそうな気温の中を、ロウは「少し歩かないか」と言ってきた。私は「いいよ」と言って、ロウの隣に並び立った。
歩きながら、いろんな話をした。シスロディアに来た時のこと、それからどんな暮らしをしていたかということ。ほとんどメナンシアの時と同じような日々を送っていると言ったら、ロウは笑っていた。曰く「なんとなく想像がつく」のだそうだ。
ロウの話も聞いた。カラグリアでの開発は成功し、今では大きな住宅地と新たな街ができたのだという。意外にもレネギスから来た技術者たちが親身になってくれて、期間もそれほどかからなかったそうだ。
それを聞いて私はほっとした。大きな事故も事件もなく開発が終わったこと。ロウがケガもなくここに立っていることに心から安堵した。
「なんやかんやあったけど、一件落着ってとこか」
ロウは大きく息を吐きながら言った。その鼻は街灯の薄明りでもわかるほどに赤くなっていて、時折すする音も聞こえてきた。
「俺はまた、前みたいにあちこち出向くことになりそうだけどな」
「そっか……」
忙しくなるね、と言いながら、ふと思った。これで、いいのかな。
せっかくまた会えたのに、こうして話すことができたのに、これで終わりにしていいのかな。
思えばきっかけをくれたのはロウだった。わざわざ住所を調べて手紙を送って寄越したのも、会いたいと言ってきたのもロウの方からだった。
ここで私が何もしなかったら、勇気を出さなかったら、またロウは遠くへ行ってしまう。いつの間にか数歩前を行っていたロウの後ろ姿が、あの日のロウと重なった。
気が付けば、私はその背中に思い切り抱き着いていた。
「リ、リンウェル?」
驚いて目を丸くするロウに向き直ると、私は喉の奥から声を振り絞るようにして言った。
「今から、家に来ない……?」
扉が閉まるなり、私たちはどちらからともなくお互いの背に腕を回した。あの頃何度も触れたロウの匂い。と、それに混じる、あの懐かしい香り。
「これ……」
見上げると、ロウは照れくさそうに笑っていた。
「今日お前に会うから、引っ張り出してつけてきた」
その言葉を聞いて思わず笑った。なんだ、私たち、同じことを考えてたんだ。
それはきっと今も、昔も。あの時だって、私たちは同じ思いでいたはずだ。
「あの時はごめんね。勝手にロウの気持ちを決めつけて、無理やり離れるようなこと言って」
「いや、俺の方こそ悪かった。お前に辛いこと言わせたよな。本当なら、俺が決めなきゃならなかったのに」
それでも、あれは間違いじゃなかったとロウは言った。私もそう思う。あのまま苦し紛れに続けるようなことがあったら、それこそ互いが嫌になってしまっていたかもしれない。
私たちは正しかった。こうしてもう一度抱き合うために、辛いながらも正しい判断をしたのだ。
数年ぶりに重ねた唇からは、ほのかに酒精の香りがした。それもお揃い。なんだか気恥ずかしくなって、ぷっと吹き出してしまったのもお揃い。
寝室に向かう前に、私は「ちょっと待って」とロウを引き留めた。そうして暖炉に向かい、すっかり小さくなってしまった火に薪をくべる。
新たな薪に燃え移った炎が少しずつ大きくなっていく。もう数分もすれば、やがて真っ赤なほむらに育つのだろう。
これで大丈夫。私は呟いて、ロウの腕に自分のそれを絡めた。横目で暖炉の炎を眺めつつ、リビングを後にする。
とはいえ、そこまで大きな心配はいらないのかもしれない。今夜私を包んでくれるのは、毛布一枚、布団一枚だけではないのだから。
終わり