衝動に任せて行動するのは良くない。
これはロウが過去から学んだ教訓であり、また、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう常々心がけていることでもあった。
世界が破滅を免れ、ダナとレナがひとつになってから1年以上。〈紅の鴉〉の一員としてあちこち駆け回っていると、おのずといろんな人と関わることが増えてくる。中にはけんかっ早い人間や、まだまだダナ人を許せないでいるレナ人など様々だが、それでもロウはあまり感情的にならず、とりあえずは相手の話に耳を傾けるということを意識してきた。かっかしている相手に自分も食って掛かっていけば、それこそ話がまとまらないと思うからだ。仕事をできるだけスムーズに、それでいてお互いに納得がいく結果に持ち込むためには、多少なりとも我慢が必要だということを、ロウはこの1年でよく学んだ。
「大人になったなあ」
昔の自分を知っている人ほど、よくそんなことを言う。何かあるごとにぎゃあぎゃあ騒いでいたガキの頃とは大違いだと。
自分でも少しは成長したかな、なんて思わないこともない。戦闘の腕もまだまだだし、上手くいかないことに腹が立つ日もあるが、それでも頭に血を上らせて荷車に忍び込むなんて真似はもう二度としないだろうと思った。
ある日のことだ。ロウはメナンシアで護衛の仕事を終わらせると、いつものようにリンウェルの家へ向かおうとしていた。
旅を終えた後で家を借りたリンウェルはフルルと2人、ヴィスキントで暮らしている。宮殿にはキサラもいるし、図書の間には大好きな本が溢れていることもあって居住を決めたのだそうだ。
ロウはその直後から機会があればヴィスキントを訪れるようにしていた。別に他意があったわけじゃなく、ただリンウェルは意外とズボラなところがあるし、いくらキサラが近くにいると言っても毎日様子を見に来られるわけじゃないので、ならばもう1人くらい、あいつを気にかける人間が増えたって構わないだろうと思っただけだ。
とはいえ最近では街道のはずれにアルフェンたちが家を建てたので、リンウェルも随分と嬉しそうにしていた。時間が空くたびシオンと約束を取り付けては街に買い物に行くらしい。俺が会いに行ってもそんな表情見せたことないのにな、とそんな考えが一瞬だけ過ったのはここだけの話だ。
珍しいことに、今日のロウの財布は潤っていた。先日給金が出たばかりでなく、先ほど送り届けた商人が太っ腹でチップを寄越したのだ。
こんなこともあるんだなと鼻歌半分で街を歩きながら、ふと良いアイデアが浮かんだ。たまにはリンウェルに菓子でも買っていってやろうか。
何せあいつは甘いものに目がない。古書探しや遺跡巡りも好きなリンウェルだが、街中の美味しい菓子屋巡りにも余念がなかった。一番好きなのはおそらくアイスクリームだろうが、ケーキや焼き菓子もそれに負けず劣らず好物のようで、何かリンウェルの気に入るものでも手土産に持って行けば、多少なりとも嬉しそうな顔が見られるんじゃないかと、そんな下心もあった。
確か広場の近くに菓子を売っている店があったはずだと、ロウがおぼろげな記憶を頼りに街を彷徨い歩き、市場を抜けようとした時だった。宮殿に繋がる階段の下で、見慣れた格好の少女と、その頭の上に浮かぶ真っ白な仔フクロウを見かけた。
「おーい、リンウェ――」
咄嗟に声を掛けようとして、やめた。リンウェルの隣に、見覚えのない男の姿があったからだ。
――誰だ? 年齢は俺らと同じくらいか、あるいは少し上だろうか。その整った服装や振る舞いを見るに、レネギスから下りてきたのだろうと察しがついた。
リンウェルとその男は、それはもう随分と親しげに会話を交わしていた。内容は聞き取れなかったが、リンウェルが手元の本に時折視線を落としているあたり、それに関する話をしているのだろう。男の方も相槌を打ったり頻繁に笑顔を覗かせたりで、2人が以前からの知人関係であることは容易に見て取れた。
リンウェルに友人がいる。ただそれだけのことのはずなのに、なぜかこの胸はひどく重たくなった。
それはその場から一歩も動けなくなるほど。足が鉛のようになって、喉は火で焼かれたかのようにカラカラになった。
同時に腹の底にどろどろとしたものが渦巻いた。ぐつぐつと煮えたぎったそれがたちまち頭に到達して、思考をぼんやりとぼやけさせる。
男が立ち去ったのを確認すると、すぐさまリンウェルの元へと駆け寄った。男に手を振っていたリンウェルがこちらに気付いて、振り返る。
「あれ、ロウじゃない。どうしたの?」
「今のやつ、誰だよ」
気付けばそんなことを口にしていた。
「今のって?」
「知り合いか?」
ロウの言葉に、リンウェルはきょとんとしながらも「うん」と頷いた。
「宮殿帰りにたまたま会ったの。いつもは図書の間で会うんだけど」
「会うって、約束してか?」
「ううん、そういうわけじゃないけど。たまに顔合わせるくらい。いい本屋さん知ってるから、教えてもらったりして」
「他には? それだけか?」
「それだけだけど……どうかしたの?」
なんか変だよ、と言われて、誰のせいだと思った。
お前が、他のやつにあんな顔を見せるからだろ。あんな隙だらけの、無邪気な笑顔。
リンウェルの腕を取ったのは、ほとんど無意識からだった。
「えっ、なに?」
痛いよ、というリンウェルの声も聞こえなかった。ただ胸の中に秘めてきたものが一気に膨れ上がって、もうすぐの喉元まで迫るのがわかる。
「俺は、お前が――」
その瞬間、
「フルーーッ!」
側頭部に走った鋭い痛みは、フルルの頭突きによるものだった。
「痛ッ!」
衝撃で我に返る。目の前で驚きと戸惑いに揉まれているリンウェルを見て、はっとした。
「わ、悪い……!」
「う、ううん。それより大丈夫?」
フルルが鬼の形相でこちらを見つめる中、頭をさすった。耳の上の辺りが僅かに熱を持っているようだ。
「ごめんね、フルルが。ほら、フルルも謝って」
「フルッ」
フルルは吐き捨てるように鳴き、そっぽを向いた。リンウェルの言うことを聞かないフルルなど、そうそう見られるものではない。
「こぶにならないうちに冷やしたほうがいいかもね。とりあえず、今日はこのまま家に行こっか」
ロウは頷き、大人しくリンウェルの言うことに従った。その道中もフルルはずっとこちらに強い視線を向けたままだった。
リンウェルの家で文字通り頭を冷やしながら、ロウはひどく後悔していた。
先ほどの自分の行動が許せなかった。リンウェルが嫌がるのも聞かず、腕を無理やり掴むなんて。フルルが怒るのも当然というもので、むしろ正気に戻させてくれたことに感謝したいくらいだった。
おまけに自分は何を口走ろうとしたんだろう。長い間秘めてきたそれに嘘はないとはいえ、あんなタイミングで吐き出すものではないことくらい明らかだ。
すんでのところで言葉にならなかったのが唯一の幸いだ。これに関してもフルルには感謝しなければならない。今度リンウェルには内緒でおやつでも買ってやろうとロウは心に決めた。
「どう? 大丈夫そう?」
リンウェルがこちらを心配そうに覗き込みながら、氷嚢を交換してくれる。
「ああ、だいぶ腫れはひいたな。悪かったな、手間かけさせて」
「ううん。元はといえばフルルが作ったこぶだし。ロウの仕事に支障が出ても大変でしょ」
「別にこれくらい平気だろ。なんともねえよ」
ロウの言葉に、リンウェルは「ちがうよ」と首を振った。
「ロウじゃなくて、依頼主がびっくりするじゃない。護衛の頭の形が変だなんて」
「なんだと!」
フルルと顔を見合わせてリンウェルが笑う。ロウは声を荒げながらも、いつも通り、もう何度も目の当たりにした光景にほっと胸を撫で下ろしてもいた。
とりあえずはそれで一件落着、のはずだった。
だが思いのほか、その出来事は尾を引いた。主に、ロウの中で。
ロウは、街でリンウェルを見かけるのが恐ろしくなってしまった。リンウェルが誰かと一緒にいるのを目撃することもそうだが、その後自分が取るであろう言動がまったく信用できなくなってしまったのだ。
またあんなふうにカッとなってリンウェルを傷つけたらどうしよう。この前は未遂で終わったとはいえ、次いつ同じことをしでかすかはわからない。勢い任せの行動には良いことなんかないと、よくわかっているはずなのに。
頭ではそんなことを考えつつ、心の奥底ではリンウェルに会いたいと思う気持ちも持ち合わせている。街を歩きながらそっと視線を彷徨わせ、似た背格好をした人物がいないかつい探してしまっていた。
本当に厄介だと思う。ままならない自分の心も、そうなってしまうほどすっかり棲みついてしまった誰かへの大きすぎる気持ちも。
そんなふうに頭を悩ませている時だった。所用のためヴィスキントを訪れるというテュオハリムに食事に誘われたのだ。
「キサラにいい店を紹介してもらったんだが、肉と酒が美味いと聞き及んだ」
そこで真っ先に思いついたのが、自分とアルフェンだったらしい。何かの催しでもないのに丁寧な書簡を送ってくる辺りが、実にテュオハリムらしいなと思った。
久々の再会に加え美味しい食事とあれば断る理由などない。ロウは二つ返事で了承すると、仕事と休暇を調整してもらってメナンシアへと向かった。
店で顔を合わせた2人はとても元気そうだった。アルフェンとは街道に越してきて以来何度か顔を合わせていたが、テュオハリムの方も多忙ながらもなんとかやっているようだ。
乾杯して杯を空けながら、ロウはメニュー表を眺めてどの料理を注文しようか吟味していた。今日はテュオハリムの奢りだと聞いていたが、さすがに手当たり次第というわけにもいくまい。味については保証するとテュオハリムだけでなく、あのキサラが太鼓判を押しているならなおさらだ。
それなのにアルフェンときたら「俺は辛いのがいいな」などといつもの調子で言う。テュオハリムもすぐさま料理を決めていたが、よくわからない生き物のよくわからない部位のソテー(ソテーしか聞き取れなかった)を注文していた。2人ともそういうところでさえ相変わらずなのかと思う半面、相変わらずであるということに温かい湯に浸かるような安堵を覚えた。
悩んで悩んで、結局ロウは骨付きの豚肉を選んだ。濃い味付けと食べ応えのある大きな肉は、まさに求めていた味だ。
2人とは近況から世間話まで、色々な話をした。アルフェンはシオンと一緒に暮らし始め、はじめこそ慣れないことの連続に戸惑ったのだという。
「しばらくは結構苦労したな。同じ家に暮らしていて伝わらないこともあるなんて、思いもしなかった。言葉にすることの重要性を改めて思い知らされたよ」
「意外だな。君ほど直球しか投げない男がそういったことを言うなんて」
「ある意味じゃ過信していたのかもしれない。言わなくてもわかってくれるだろうと思い込んでたんだ。すれ違って激しい言い合いもしたが、いい勉強になったよ」
穏やかに笑って、アルフェンは自分のグラスに口を付けた。
「すれ違いというなら、テュオハリムの方こそ大変じゃないのか? 普段はあまり会えないんだろう?」
「どうかな。君たちが思っているほど苦労している気はしないが……何せこの街にまだ私の名が残っている以上、〈仕事〉と称すればいくらでも融通はきくものでね」
「でもそれじゃあくまで〈仕事〉だろ? もっと日常から離れて2人でどっか行きたくなることとかねえのかよ」
「あいにく、根が真面目なものでね。この世界のどこにいたって役目からは逃げられない。彼女もまた、それを望んではいないだろう。むしろ私が書類に向き合った分だけ近道になる可能性すらある。そう考えるとあの多少きらびやかすぎる部屋に籠るのも悪くないと思えてくるから不思議なものだよ」
これが大人か、とロウは思った。ふっと一瞬緩んだテュオハリムの口元には、余裕すら垣間見えるようだった。
「それで、君の方はどうなのかね」
テュオハリムの視線がこちらに向いて、ロウは料理を食べる手をいったん止めた。滴った肉汁がテーブルの皿に落ちる。
「いや、俺の方は別に何も……」
「そうかね。私の見立てによれば、君は何か悩みごとを抱えていると思ったのだが」
テュオハリムの言葉に、アルフェンが驚いたように目を丸くする。
「えっ、そうなのか」
「い、いや、特には……って、なんでそう思うんだよ」
「ふむ、まずは1つ。今日、君は肉料理を1品しか頼んでいない。私の奢りであるにもかかわらず、だ。これは何か料理が喉を通らない理由でもあるに違いない」
「なるほどな」
アルフェンが頷く。ロウは内心小さく息を吐きながら、普段の自分はいったいどういうふうに見えているのかと思った。
「そしてもう1つ。私の問いかけに君は明らかに動揺している。嘘のつけない君は、もう答えを言っているようなものだ」
「……」
そこまで指摘されては逃げられない。ロウは意を決すると、いつもよりも随分と控えめな声で呟いた。
「わ、笑わないで聞いてくれよ」
そうして頭の中で内容を整理しつつ、この間の出来事を打ち明けた。
2人は黙って話を聞いていた。グラスに口を付けつつ、時折頷くような素振りを見せながら、お世辞にも上手くまとまっているとはいえない話に耳を傾けてくれた。
「それで俺、すっかり怖くなっちまって」
一通り事情を呑み込んだ後で、アルフェンは気遣うように言った。
「でも、ロウのその気持ちに嘘はないんだろう? ふと勢いで言ってしまいたくなるのは、なんとなくわかる気がするけどな」
「お、俺だって、タイミングによっちゃそうした方がいい場合もあるってわかってるんだぜ。けど、あの時は違ったっていうか……」
募ったのはリンウェルを想う気持ちではなく、どちらかというと怒りにも近い感情だった。
「腹が立ったから告白するなんて、おかしいだろ。お前がほかの奴といるのを見たくないから、俺と付き合ってほしいだなんて。それじゃまるで、俺のものになれって言ってるのと同じじゃないか。あいつは誰のものでもないし、そういう相手だってあいつ自身が決めるべきなのに……」
独り占めしたいと、そう思ってしまった。誰の方にも向いてほしくない。笑いかけるのは自分にだけであってほしい。
こんなのは到底ふさわしくない感情だとわかっている。こんな相手を縛ろうとするような気持ちは、想うということとまるで正反対だ。
だからこそ悩ましかった。好きな相手に向ける感情がこんなどろどろしたものでいいのか。もっときれいに、それにふさわしいものに磨き上げてから想うべきじゃないのか。なんならいっそのこと離れたほうがいいんじゃないか――。
「それで、あいつにどう接したらいいかって悩んでて……」
大きく息を吐いたロウに、アルフェンが口にしたのは予想もつかない言葉だった。
「えーと……よくわからないんだが、独り占めしたいって思うことの何が悪いんだ?」
「え……?」
呆気に取られるロウに、テュオハリムも落ち着いた声色のままで追い打ちをかける。
「私も、概ねアルフェンと同意見だな。直接彼女を傷つけるようなことはもちろん許されないが、その気持ち自体が何か悪影響を及ぼすのかね」
「え? え?」
ロウは狼狽えた。2人の言っていることがすぐには理解できなかった。独占欲があるのは悪いことじゃない? 悪影響はない?
そんなはずはない。だったらなぜ自分はこんなにも悩んでいたのだ。まだ軽く混乱したまま、思いついた疑問を投げかける。
「け、けど、あまりにも自分勝手すぎるっつーか……好きだからって、何してもいいわけじゃねえだろ」
「ふむ。ならば君は、実際彼女とそういう関係になったとして、誰かと会うことを制限したり、外出を禁じたりするつもりかね?」
あまりに突飛な質問には、口に含んだ水を思わず吹き出しそうになった。
「そ、そんなわけねえだろ! しねえよ、んなこと!」
「なら問題あるまい。むしろ、その感情は相手を想うことと表裏一体と思うが」
余裕そうな表情は一切変えず、平然とそう言ってのけるテュオハリムをロウは改めて感心した。独占欲の何が悪いのかと本気で思っているアルフェンにも。
ロウは、なんだか己の両肩からふっと力が抜けていくような気がした。そう難しく考えないで良かったのかもしれない。自分が思っているほど、片思いだの恋愛だのは美しいものというわけでもなかったようだ。
「ロウは衝動で動いてしまうことが怖いんだろう? なら、よく考えて行動した結果なら大丈夫ってことだ」
そう言うと、アルフェンは街道にあるきれいな小川の場所を教えてくれた。
「遺跡からの帰りにでも寄ってみてくれ。昼ののどかな雰囲気もいいが、夜は特にきれいだぞ」
それと自分の悩みに何の関係があるのかさっぱりわからなかったが、ロウは素直に「ありがとう」と請け合った。
機会はほどなくして訪れた。リンウェルとフィールドワークに行った時、ロウはその小川のことを思い出した。
帰りは陽も落ちかけた頃だったが、「ちょっと寄り道してかないか」と言ったロウに、リンウェルは何を疑うわけでもなく頷いた。
「寄り道って、どこに行くの?」
「きれいな小川があるらしいんだよな。アルフェンから聞いたんだ」
「へえ、アルフェンが」
教えられた通りの道を進むと、その小川はひっそり気配を隠すようにして存在していた。周囲に民家はなく、静まり返った空気にせせらぎの音だけが聞こえるような、そんな場所だった。
アルフェンが此処を勧めてくれた理由はすぐにわかった。澄んだ水の流れるほとりには、たくさんの蛍がふわふわと舞うように飛んでいた。
「……きれい……!」
リンウェルはたちまち顔を綻ばせると、目を輝かせながら小川に近づいていった。宙に視線を投げかけ、そっと伸ばした腕で蛍を追いかける。その姿はまるで、夜空に輝く星を掴もうとしているようにも見えた。
ほとんど薄闇に紛れたリンウェルの笑顔を、蛍の小さな灯りが照らす。それを見て、ロウは自分の心にも小さな灯が点ったような気がした。
大丈夫だ。あの時とは違う。
ロウは自分に言い聞かせて、リンウェルの隣へと立った。
「あのさ、リンウェル」
「なに?」
リンウェルは視線を宙に向けたまま返事をした。
「こ、こないだは、悪かったな」
「こないだって?」
「えーと、ほら、俺がフルルに頭突きされたやつ」
その言葉に反応してか、フルルがフードから顔を出した。じっと向けられた視線が、ちくちくとロウを刺す。
「頭突き?」
「ほ、ほら、街でお前のこと見かけて、それで……」
「ああ、あれね」
そこまで言ってリンウェルはようやく理解したようだった。「別に気にしてないよ」とリンウェルは言ったが、緩んだ口元を見る限りその言葉に嘘はないのだろう。とはいえそれはこちらがそうしない理由にはならない。
ロウは改めてあの日のことを詫びた。無理やり腕を掴んでしまったこと。リンウェルが痛いと訴えているにも関わらず、フルルに止められるまで離さなかったこと。
「俺、ついカッとなっちまって……お前が俺の知らない奴と楽しそうに話してるの見て、すげえもやもやしたんだ。だからってあんなふうにしていいわけないよな。本当に悪かった」
ロウが頭を下げ、視線を戻すと、驚いたような顔をしたリンウェルと目が合った。その指は相変わらず蛍を追っていたが、視線はいつの間にかこちらに向けられていた。
リンウェルはその場に立ち尽くしたままで、唐突に言った。
「どうしてそういうふうに思ったの?」
「……え?」
「なんでロウが、私のことでもやもやするの?」
「それは……」
真っすぐこちらを見つめる瞳は、小川の水面のようにゆらゆら揺れてきらめいていた。空に浮かび始める星も、辺りを舞う蛍も、すべてがリンウェルの背景になっていく。
「俺が、お前を好きだから」
これは勢い任せでも衝動からでもない。今告げるべきだと、単純にそう思った。
「それって、私に恋人になって欲しいってこと?」
「え!? あー……」
ここまで言っておいて何を濁すことがある。ロウは大きく頷くと、「そういうことだ」とはっきり告げた。
「そっか……」
リンウェルは何かを考えるような素振りを見せた後で、
「ちょっと考えさせてくれない?」
と言った。
「少しだけ時間が欲しい、かな」
「わ、わかった」
ロウはもう一度頷いて、たちまち大きく鳴り始めた鼓動を必死に抑えたのだった。
ヴィスキントまでの道は、静かだった。いつものようにたわいもないおしゃべりもなければ、今夜の夕飯の予定を話すこともない。ただロウはできるだけいつもと同じくらいの距離を保ちながら、リンウェルの隣を歩いた。
街に着いて家の前まで来たところで、リンウェルがこちらに向き直った。ロウは例のごとく「じゃあまたね」だとか「帰り、気を付けてね」などという、別れの挨拶をされるのだと思い込んでいた。
ところがリンウェルが口にしたのは、思いもよらない言葉だった。
「さっきの返事だけど、いいよ」
へ、と気の抜けた声が出たが、理解はなかなか追いつかなかった。
「…………え!?」
数秒遅れて、それが告白の返答だと知る。
「で、でもお前、少し時間が欲しいって」
「うん。だから帰り道、歩きながらいろいろ考えたんだ。考えてみて、答えが出たから」
リンウェルはそう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。なんだこれ、まさか夢か。
「り、理由は?」
「えっ、理由? そこまで考えてないけど……でも強いて言うなら、私もロウと同じように思うだろうなって」
首を傾げたロウに、リンウェルは拗ねたように口を曲げて見せた。
「だから、ロウがほかの女の子と話してたら、ちょっと嫌かもってこと。ああもう、変なこと言わせないで!」
街灯に照らされたリンウェルの頬は赤く染まっていた。きっと自分も同じなんだろう。手のひらを当てるまでもなかった。
思わず顔がにやけそうになって、それを誤魔化すようにロウは言った。
「時間あるなら、これから一緒に飯でも行かないか」
ロウの誘いに、リンウェルは間を置かず頷いた。フードから飛び出してきたフルルは恨めしそうにこちらを見つめていたが、あの時のように頭めがけて飛んでくることはなかった。
街を歩きながら見上げた空には満天の星が輝いていた。ロウはそれを先ほど見た蛍に重ねつつ、今日のことは一生忘れないのだろうなと思った。
終わり