嵐の夜に一晩を過ごすロウリンの話。(約10,000字)

夜半の嵐

 嵐が来るらしい。
 原因は海水温が高くなることだとか、それによって生まれた積乱雲が集まってどうのとか、天気に詳しい研究者があれこれ説明していたけれど、つまりは私の手のひらで生み出される風の何十、何百倍も大きいものが、今現在メナンシアに近づいてきている。
 たしかに、数日前からその気配はあった。外に出てみるとなんだか生ぬるい風が強まってきていたし、それはどこか湿っているような感じもして、いつも街に吹く風とは明らかに何かが違っていた。爽やかさの「さ」の字も感じられない、言ってみればしつこく肌にまとわりつくような風だった。
 どれもこれも、元を辿れば〈世界合一〉による星霊力の均質化がきっかけらしい。専門家によれば、極端な星霊力の偏りがなくなったことで各地の気候が変動しつつあり、それによってこういった自然現象も本来あるべき形に戻ってきているという話だった。
「そういうわけですので、皆さんは災害への対策をよろしくお願いします。雨風が強まってきたら鉢植えや看板は家の中へ。もちろん家族の一員であるペットも家の中にきちんと入れてあげてください」
 この間もらったチラシにも同じようなことが書かれていたような気がする。聞こえてきた放送に耳を傾けつつ窓の外に目をやると、そこにはねずみ色をした雲がもうすぐそこまで迫っていた。風は昨日よりも強そうだ。このままいけば、夕方には雨が降り始めるかもしれない。
 どんよりした雲よりもさらに重たく、気分は沈む。これからの天候と、それがもたらすものを考えると、地を這うようなため息が出るのも当然のことだった。
 蘇ってくる苦い記憶はつい先日のことだ。2週間ほど前にもヴィスキントの近くを嵐が通り過ぎていった。
「雨嵐が近づいています。警戒してください」
 初めてその知らせを聞いた時、私は「どうせちょっと強い風が吹くだけ」と侮っていた。そうでなくても自分はシスロディアの出で吹雪には慣れていたし、星霊術で小さな林1つくらいなら吹き飛ばしたことがあった。雨風が強まるくらい、そんなに恐れることでもない。もらったチラシもよく読みもせず、棚の上に放置したままだった。
 実際嵐が近づいてみると、それは大きな思い違いだった。風が窓を揺らして吹き荒れ、家全体がガタガタと大きな音を立てる。屋根を打つ雨はまるで猛獣か何かのようで、いつ突き破られるかと気が気でなかった。
 特に夜中はひどくて、暗闇と静寂の中では風の力がいっそう増しているように思えた。迫る恐怖と不安で眠ることが出来ず、私はフルルと身を寄せ合いながら、何とか朝を迎えることが出来たのだった。
 あれがまた来るのか……。低気圧で重たくなった頭がさらに重たくなる。しかも今度は直撃の可能性まであるというのだから、ますます気は滅入る一方だった。
 それでも対策はしておかなければならない。最低限、家にしばらく籠っていられるだけの食材と飲み物は確保しておかないと。
 私は昼食を済ませて身支度を整えると、まだ不気味に静かな空の下、大通りにある市場へと出かけた。
 そこでまさかロウに会うとは思ってもみなかった。私が青果店で野菜を買っていると、横からにゅっと伸びてきた腕が商品の入った紙袋を掠め取っていってしまった。えっと思って顔を上げると、そこには悪戯っぽく目を細めたロウが私の反応を可笑しそうに窺っていた。
「どうだ、驚いたか」
 そんなことを言って笑うロウに、私は一瞬呆気に取られた。そしてすぐさま我に返って、
「もう、やめてよ。びっくりするでしょ」
 と言った。
「悪い悪い。だってお前、俺が隣に並んでもちっとも気付かねえからさ。つい驚かせたくなって」
 私は拗ねたふりをして顔を背けてみせる。そして先程買った野菜の紙袋はロウに預けたまま、混雑する市場の通りを再び歩き出した。
「どうしてヴィスキントにいるの? お仕事?」
「ああ、昨日の夜着いたんだよ。本当は夕方までには着くはずだったんだけどな。いろいろ予定外が重なって遅くなっちまって」
 ロウは、はあと深く息を吐きながら言った。
「気を取り直してゆっくり起きてみりゃあ、さっきの放送だろ。予定が丸潰れだぜ」
 どうやらロウは嵐のことなどまったくもって知らなかったようだ。次の仕事も入っていたが、自然災害はズーグルよりもはるかに恐ろしいということで、通り過ぎるまで街で待機することになった。
「時間も空いたから、ちょうどお前ん家行こうと思ってたんだよ。そしたら道中、やたらそっくりなやつがいるなって」
「でも、だからって驚かすことないでしょ。白昼堂々の泥棒かと思ったじゃない」
 私はまた大げさにむくれてみせた。まったく、もしあの場で悲鳴を上げていたらどうする気だったのか。
「罰として、買い出し付き合ってよね。これからまだ何軒か回らないといけないから」
「へいへい。言われなくても」
 言葉とは裏腹にロウは穏やかに微笑んだ。そうして押し付けられた紙袋を片手に抱え直すと、私の後を忠犬よろしくついてきてくれた。
 ロウとは市場のお店をいくつか回った。野菜のほかにもお米やお肉、果物なんかを買って、足りていない飲み物も補充した。
 最後にパンを買いに通りのベーカリーに向かったところで、ロウが「おい、あれ」と顎をしゃくった。視線の先ではちょうどベーカリーの奥さんが、店の看板を中にしまっているところだった。
「えっ、」
 と思わず短い声が出て、私は慌てた。もしかして、手遅れだっただろうか。
 とはいえガラス窓越しの店内には、パンがまだいくつか残っているようにも見えた。レジに並ぶお客さんの姿もちらほら覗いている。
 私は思い切って奥さんに声を掛けてみた。「お店、もうおしまいですか?」
 すると奥さんは「いえ、まだやってますよ」と微笑んだ。
「風が強くなってきたから、先に片付けちゃおうと思って。ごめんなさいね、勘違いさせちゃったかしら」
 いえいえ、と私は手を振って、内心胸を撫で下ろした。どうやらまだ売り切れてはいなかったようだ。
「でも、今日はどのお店も早く閉めるつもりみたいね。向こうの食堂もレストランも、もう閉じちゃってたわよ」
 それを聞いて「げっ」と言ったのはロウだ。
「まじか。夕飯どうすっかな」
 両手にいっぱいの紙袋を抱えてため息を吐くロウに、私は少し考えてから言った。
「……じゃあ、うちで食べていく?」

「はあー美味かった! ごちそーさん」
「はい、お粗末さまでした」
 ロウは私が夕飯にと作ったカレーライスを、それは気持ちいいほどきれいに平らげた。余った分は明日の朝にでも、という見通しは甘かったようで、食べ盛りの育ち盛りはそれこそ鍋1つに近い分量をあっという間にお腹に収めてしまった。
 見事な食べっぷりは、むしろ作りがいがあるなと思えるくらいだった。食事の時にシオンを見つめるキサラの気持ちがなんとなく理解できた気もする。
 今度は何を作ろうかな。ロウはお肉が好きだから、やっぱり肉料理かな。
 あれこれ考えながら食器を洗っていると、不意にロウが隣に立った。
「……あのさ、」
 その声色は、つい今しがた上げたものとはまるで違った。まるで誰かに叱られた後のような、何か罪を犯してしまったかのような沈んだ声。
「どうしたの?」
「いや、その……本当に良かったのか? って、食い切った後に何言ってんだって話だけど」
 どうやらロウは、せっかく買い足した食材を減らしてしまったことを悔いているようだった。存在しないはずの耳と尻尾が萎れて見える。
「だってお前、これからの天気に備えて買い出しに行ったんだろ。それなのに俺、調子乗っておかわりまでして」
 大真面目にロウがそんなことを言うものだから、私はつい声を上げて笑ってしまった。
「そのくらい何? そもそも私が提案したんだし、その程度で困ったりしないから」
 夕飯を食べさせたくらいで食材に懸念が出るようなら最初から誘ったりしない。いつもうちでご飯を食べる時はそんな心配はしないのに、こういう時に限って妙に不安がるからロウは不思議だ。
「ロウは余計な心配しなくていいんだよ。というか、それにしてはさっきまで何の憂いもなく食べてるように見えたけど?」
 からかうつもりで言ったのに、
「だって仕方ねえだろ。本当に美味かったんだから」
 ロウはそんなふうに言った。頭を掻きながらばつが悪そうに、それでも嘘はひとつもないとわかる声だった。
 ずるいなあ。私はそう思いながら、「まあ、カレーを不味く作る方が難しいかもね」と言った。我ながら、相当かわいくない返事だと思った。
「天気、悪くなってきたな」
 窓際に立ったロウが、空を見上げながら言った。風は静かだったが、それでも木々の揺れ方は相当だ。午後から降り始めた雨は窓を強く叩いて、道に出来た大きな水たまりの水面が激しく波打っていた。
「もっとひどくなるかな」
「どうだろうな。少なくとも、雨はもうしばらく続きそうだけど」
 やっぱりかあ、とため息を吐きつつ、ロウの隣に並び立つ。もはや分厚い雲が黒々として元の空の色が思い出せない。風が窓をぴしぴしと鳴らし始めていて、たちまち脳裏にはこの間の夜のことが過った。もし瓦礫や枝などが吹き飛ばされてきて、窓を割ったらどうしよう。それが誰もいない、夜中のことだったら。私はもう二度と、寝室から出てこられないかもしれない。
 心の中に、それこそ重苦しい雲が広がったような気持ちになっていると、ふとロウと肩同士が触れ合った。
「わり」
「ご、ごめん」
 咄嗟に顔を上げると、ロウと思い切り目が合った。――今日一番近い距離で。
 息を呑んだのは、どちらだっただろう。私か、ロウか。あるいはどちらもか。
 数秒ののち、私ははっと我に返って言った。
「そ、そうだ、お茶でも淹れよっか。ロウも飲む?」
「あ、ああ、そうだな」
 私は再びキッチンに向かい、湯を沸かすためにケトルに水を注いだ。コンロに火を点けながら、ロウには気付かれないくらいのため息を吐く。
 言ってしまえば良かったのかな。「行かないで」、「今夜はここにいて」と。
 いや、と心の中で首を振る。ダメだ。それはやめておいた方がいい。こんな日であればなおさら。
 だって、私はロウが好きなのだ。そしておそらくそれはロウも同じで、声に出して確認したわけでもなければ、誰に聞いたわけでもないけれど、私たちはどこか互いの気持ちに気づいている節はあった。
 だからこそ、その言葉を言うわけにはいかない。もし口にしてしまえば、ロウは迷うことなくそれを承諾するだろう。これは気持ちとは関係なしに、ロウとはそういう人間だからだ。
 一方の私はといえば、きっと混乱してしまうに違いない。同じ屋根の下でロウと一晩過ごすということにどんな意味があるのか、わからない年齢ではなくなった。
 ロウの気持ちが薄っすら見え隠れしている今、そうした先で何が起こり得るのか想像できないわけではない。こんな状況でもなければ期待ともとれるその気持ちは、今日に限っては毒に近しい刺激物のはずだ。とはいえ激しい雨風の音から気を逸らすという意味では、効果的なのかもしれないけれど……。
 それでも、今夜吹き荒れるであろう強い風に、敢えてもうひとつ嵐を起こす必要はない。

 2人でお茶を飲み終える頃には、空はすっかり暗くなってしまっていた。雨風もみるみる強まり、ごうごうと強烈極まりない音が窓の外から聞こえてくる。
 幸いなことに、ロウの宿はここから近かった。ロウの足なら数分もかからない。かからないだろうけれど……。
 引き止めるつもりもないが、積極的に送り出すこともできなかった。この先の天候がどうなるのか予測できないことも考えれば、早いうちに宿に戻るに越したことはない。
 わかっているのに、なかなか切り出せない。「早く戻った方がいいんじゃない?」その一言が、言葉にできなかった。
「じゃあ、そろそろ行くかな」
 そう言ったのは、ロウの方だった。椅子から立ち上がるその挙動が、やたらと重たく見えたのは気のせいだっただろうか。私は「うん」と頷いたきり何も言わず、ロウを玄関のところまで見送った。
 その場に立ち尽くすと、自然と指先に力が入った。何も言わなかったんじゃない。本当は、何も言えなかったのだ。本当の気持ちを告げる覚悟も、願う勇気もなかった。ロウが「じゃあな」と言って、ドアノブに手を掛ける。
 そこに突然飛び込んでくる影があった。これまで止まり木で大人しくしていたフルルが、何事かいきなり飛んできてロウの服を掴んだのだ。
「お、おい、どうした」
「フル! フル!」
 フルルは裾に小さな鉤爪を引っ掛けて、ロウを部屋の中へと引き戻そうとした。もちろんそんな力はないので、布地はいたずらに引きつれるだけ。
「ちょっとフルル、どうしたの!」
 私もフルルを引き剥がそうとするが、なかなか離れない。こんなフルルを見るのは初めてのことだった。
 ようやくフルルがロウの服を離した時、その目は何かを訴えているようにも思えた。まるで「本当にいいの?」とでも言われているかのようで、ずきりと胸が痛んだ。
 私は意を決して、
「ロウ、あのね……」
 と声を振り絞った。明らかに震えている語尾に気恥ずかしさが募って、また身体が縮こまってしまう。唇が上手く動かない。言葉が出てこない。
 そもそもこういう時、何と言えばいいのだろう。何を言っても正解で、何もかも間違っているような、そんな気がした。
「あのさ、」
 沈黙を破ったのは、ロウだった。
「今日、泊まっていってもいいか」
「え……?」
 思わず気の抜けた声が漏れる。
「ほら、こういう天気だし、お前らのことも心配だし。何かあった時、2人だけじゃ心細いだろ。俺がいれば、何か手伝ってやれることもあるだろうし……」
 みるみる小さくなっていく声は、そっくりそのままロウの自信のなさを表しているようだった。
 それでも必死に頭を悩ませ、真っすぐ気持ちを伝えてくれる。ロウの言葉に嘘はひとつもないと思える。
 きまり悪そうに頭を掻いて、ロウは言った。
「もちろん、お前が許してくれるなら、だけど」
 私の答えは決まっていた。
「いいよ」
 私は頷いた後で、
「ありがとう」
 と笑ったのだった。

 寝室の窓がガタガタと揺れる。屋根を大粒の雨が打ち付ける音がするが、私はそれどころではなかった。
 どうしよう。いろいろあってのこととはいえ、結局ロウを泊めることになってしまった。
 先に休む準備を済ませ、ロウを浴室に送り出したのがついさっき。ベッドの縁に腰かけ耳を澄ませてみると、壁一枚を隔てた向こうからは微かな水音が聞こえてきていた。不規則に途切れるそれがいっそう自分以外の誰かの存在を思わせて、たちまち鼓動は早鐘を打つ。どうしよう。この後どんな顔をして、ロウに会ったらいいんだろう。そばにあった枕を抱きかかえては、強くそれに力を込める。
 気持ちを何とか落ち着かせようと深呼吸を繰り返す私をよそに、この状況を作るきっかけとなった張本人はすでに棚の上の止まり木で舟を漕いでいた。
 ふと廊下の向こうでドアの開く音がした。続けて足音が近づいて、寝室のドアがノックされる。返事をすると、髪を濡らしたロウが隙間からひょっこり顔を出した。
「シャワー、ありがとな。それとタオルも」
「う、ううん、別に」
 それくらい平気。口にしながら、大噓吐き、と思う。何も平気じゃないくせに。
 ロウとは上手く目を合わせられず、頭の中ではその場を凌ぐ話題探しに必死だった。何と声を掛けるべき? 縋るように時計を見やるが、おやすみを言うにはまだ早すぎる時間だ。
 そんな私の様子に気が付いたのだろうか。ロウが「大丈夫か?」と心配そうに声を掛けてきた。
「え?」
「だってお前、すげえ不安そうな顔してるから」
 誰のせい、と思いかけて心の中で首を振った。いや、別にこれはロウが悪いわけじゃないんだけど。私が一人で焦っているだけなんだけど。
 何も言えないでいると、ロウは何かを考える素振りを見せた後で、
「なら、眠くなるまで何か話でもするか?」と言った。
「話?」
「音が聞こえるから気になるんだろ。他のことで気を紛らわそうぜ」
 どうやらロウは、私が外で吹き荒れる風に怯えているものだと思っているらしい。それもあながち間違いではなかった。その証拠に、どこかでバケツの転がるような音が響くたび、私の肩は大きく震えた。どうにもこういった不意の物音には慣れないのだ。
 どちらにしたってまだしばらく寝付けそうにない。私はその提案を受け入れ、ロウを寝室へと招き入れることにした。
 ロウとはいろんな話をした。ロウが聞かせてくれたのは昨夜ヴィスキントに送り届けたという商人の話で、彼はこれまた類を見ないほどにおっちょこちょいだったのだそうだ。
「途中でシスロデンに寄ったのはいいけど、宿に忘れ物したとかで一旦戻る羽目になったんだよ。それだけならまだしも、財布が見つからねえって言うだろ。一緒になって探したけど見つからなくて、そしたらどこにあったと思う? 普通に鞄の底に入ってたんだぜ。信じられるか?」
 呆れ混じりにロウは言ったが、根はそう悪い男ではなかったらしく、道中はそれなりに楽しかったようだ。お詫びにとチップが弾んだのも、ロウが機嫌を良くする一因だったに違いない。
 私の方はと言えば、最近買った椅子の話をした。最近長時間作業をすると疲れが溜まりがちだとキサラに相談したところ、「それなら椅子を買い換えたらどうだ?」とアドバイスを貰ったのだ。ひじ掛けにクッション付きのそれはなかなか座り心地が良く、とても気に入っていた。疲労も感じにくくなった気がして、いい買い物をしたなと満足していた。
 ベッドのそばに置かれたその椅子には今まさにロウが座っているが、これがまたまったく似合わない。それをからかってやると、ロウは「別にいいんだよ、俺は。テュオハリムみたいに、ずっと座って仕事してるわけじゃねえし」と言った。確かにそれもそうだ。たとえ万が一そういう立場になったとしても、ロウは我慢できずに外に出て行くのだろう。
 やっぱり、ロウと話しているのは楽しい。ずっとこうしていられたら、時間も何もかも忘れていられるはずだったのに。
 現実に引き戻されたのは、ほんの一瞬のことだった。
 どこかで強い風が吹いて、建物が軋む音がした。同時に、部屋の照明が一瞬落ちる。
「うわあっ」
 突然のことに驚いて、私は目の前にあったロウの腕を掴んだ。
「おい、大丈夫か?」
 至近距離で顔を覗き込まれて、私はすべてを思い出してしまった。外の状況。今日一日の出来事。ロウが今ここにいる理由。
 収まっていたはずの鼓動は再び大きくなって、私の胸を強く打ち付けた。
「……っ」
 大丈夫、の返事もできなかった。言葉が喉の奥で絡まって、ぐるぐると渦巻くだけ。
 ダメ。今この気持ちに気付かれてしまったら、それこそ取り返しがつかなくなってしまう。
 平静を装いたいのに、胸が苦しくて上手くいかない。ロウの腕を離したいと思っても、私の指は思うように動いてはくれなかった。
 とその時、
「リンウェル」
 ロウの手が、私の手に重なった。思わず息を呑む。
 たまらずぎゅっと目をつむった瞬間、ロウが呟いた。
「安心しろよ。お前が不安がってるようなことは、何もしねえから」
 驚いて顔を上げると、視線の先でロウが小さな笑みを浮かべていた。
「き、気付いてたの」
「まあな。つーかこの状況で意識するなって方が難しいだろ」
 それはそうかもしれないと思いつつ、手のひらにじんわり汗が滲むのを感じる。
「けど、いつまでもそうしてたらお前も休まらねえだろ。そうするためにここにいるわけじゃねえんだし」
 諭すような調子でロウは言った。ロウはきちんとわかっていたのだ。私の気持ちはもちろん、心配事も、それを踏まえてどうして欲しいかだって。
「まあ結果的に、お前を疲れさせちまったかもしんねえけど」
「そ、それはちがう!」
 咄嗟に首を振る。
「私は、ロウがいてくれて嬉しいの……! ただ今日はちょっと余裕がないだけっていうか……!」
 ロウがいると安心するし、心強い。一緒にいてくれてほっとすると同時に、ついドキドキしてしまう自分もいて、あっちこっち行き来する自分に頭が追いつかない。
「嬉しいけど、嬉しいからこそ緊張するの! 落ち着かなくなっちゃうの! わかるでしょ!」
「わかる、わかるって」
 宥めるように言いつつ、どこか可笑しそうに笑ってロウは言った。
「けど、だから、今日はそういうのナシな。お前を困らせるようなことは何もしねえし、言わない」
「……うん」
 私は素直に頷いた。
「でも言っておくけど、別に迷惑なわけでも、困るわけでもないからね」
「わかってる。今日のところはって話だ」
 そう言ってロウは柔らかく笑った。目を合わせて2人で笑い合うと、さっきまでの過度な緊張もいつの間にか消えていた。
「わがままついでに、もう1つお願い聞いてくれる?」
 私はロウの手に触れたまま、その気色を窺いながら言った。
「今日、一緒に寝てくれない?」
「お前……結構無茶言うよな」
「やっぱりダメ?」
 訊ねると、ロウは息を吐いて言った。
「そんなふうに言われて、断れるわけないだろ」
 私がベッドに寝転がり、壁際に寄ったのを見ると、ロウも毛布をめくり上げて中に入ってきた。2人分の重さにベッドが軋んで、不安定な音を立てる。
 くるりと寝返りを打つと、もうすぐそばにロウの身体があった。思わず身を縮めながらも、少しだけ腕をロウの方へと伸ばしてみる。今にも触れそうで触れない距離。まるで今の私たちみたいだ。
 ふと目線だけを動かすと、ロウの視線はぼんやり宙を泳いでいた。「何か考え事?」と訊ねると、ああ、いや、とロウはよくわからない返事をした。
「すげえ久しぶりだなって思ってさ。こうしてお前ん家泊まるの」
「そういえば、そうだね」
 思い出すのは私がこの街に暮らし始めた当初のことだ。その時はロウも〈紅の鴉〉に入ったばかりで、口を開けば「金がない」と嘆いていた。
「それで最初、宿がわりにさせてあげてたんだよね」
「代わりに朝飯は俺が作ったりしてな。出かける時に起こしたりもしてたよな」
「全然気付かなくって、朝ごはん冷たくなってたこともあったっけ。ロウがしっかり起こしてくれないから」
「誰だって『起きたよ~』って手まで振り返されたら、すっかり起きたもんだって思うだろ。俺は悪くねえよ」
 そんな日々も、いつからか変わっていった。何か揉め事や不満を溜めたわけでもない。私たちはこれまで通りヴィスキントで顔を合わせながら、部屋に寝泊まりする機会だけをなくしていった。
 思えば、その頃には気付き始めていたのかもしれない。自分たちの気持ちと、その先に起こりうること。それらを考えたら、このままではいけないと本能的に察知したのかもしれない。
 そうして互いの間に引いた線を、私たちはこれまで律儀に守ってきたわけだ。誰に言われたわけでもなく、間違いなく自分たちの意思でその距離感を保ってきた。ぎりぎりのところで崩れない均衡は、その匙加減が決して間違っていなかったということだろう。
 ロウはその線を今夜も、いや、今夜だけは越えないと宣言した。嵐に掻き乱されて曖昧になったその境界を、今夜ばかりは侵さない。
 それを聞いてどれだけ安堵したことか。やっぱり私は、ロウのそういうところが好きだ。
 毛布の中で伸ばしかけた腕を、私はそっと引っ込めた。ロウが思いやってくれるのなら、自分もそれに応えるべきだ。
「どうかしたか?」
 訊ねてくるロウに、私はううんと首を振った。毛布に顔を埋めて、緩んだ口元は隠したまま。
 大きく息を吸い込むとロウの匂いがした。今日は同じ石けんを使っているはずなのに、ロウのものだとすぐにわかるのはどうしてだろう。あったかくて優しくて、どこか安心する匂い。この匂いにこのままずっと包まれていたいとさえ思う。
 目を閉じた途端、急激な眠気に襲われた。さっきまであんなにドキドキしていたのに、今夜は眠れるのかと心配していたのに、それすらもどこ吹く風だ。
 意識はあっという間に遠ざかる。私は心地よい匂いと毛布越しに伝わってくる高めの温度に身を委ねながら、夢の中へと落ちていった。

 翌朝はカーテンの開く音で目が覚めた。隣に自分でない誰かの抜け跡があるのを見て、はっとする。
「おう、起きたか」
 顔を上げると、ロウが廊下でカーテンをまた1枚開けたところだった。
 昨夜あれだけ降りしきっていた雨は、すっかり上がっていた。風も随分穏やかになって、空には晴れ間が覗くほどだった。
「噓みたい。昨日あんなにひどかったのに」
 私は窓際に立つと、その澄んだ青空を見上げた。徐々に射しこみ始める朝日が眩しい。木々に止まった小鳥たちは、早くもさらなる晴天を期待しているようだ。
「まあ、天気なんてそんなもんだろ。気まぐれで、気短」
 隣に並んだロウがそう言って小さく笑う。
「その様子なら、もう大丈夫そうだな」
 ロウが私を見て言ったが、一瞬何のことかわからなかった。すぐに思い直して、
「あっ、うん。昨日はありがとう。いろいろ助かったよ」
 もう大丈夫、と頷く。
「そうか、大丈夫か」
「うん……?」
 首を傾げかけた時、
「……リンウェル」
 ロウの真っすぐな瞳が、私を真ん中に捉えた。
 そうしてロウが次に紡いだ言葉に、私は思わず息を呑んだのだった。

 終わり