反撃がしたいリンウェルの話。(約8,300字)

不意打ちへの一騎打ち

 朝食を食べ終えて、2人で後片付けをしている時だった。
「それで、今日はどこに行くんだ?」
 私たちはシンクに並んで洗い物をしながら、これからの予定を話し合っていた。
「うーんとね、まずは本屋に行きたいかな。この間取り寄せお願いした本、そろそろ届く頃だと思うんだよね」
「ふうん。それから?」
「あとは、広場の市も見たいかな。何か掘り出し物があるかもしれないし」
 どこかの時代の遺物とか、もしくは珍しい書物とか。言いながら、想像を膨らませて胸を高鳴らせる。そういうものは基本値が張るものだけれど、見ているだけでも心が躍るのだ。
「ロウは? 何か欲しいものないの?」
「そうだな……」
 ロウは少し考えてから、
「そういや、薬をいくつか切らしてたな」
 と言った。
「えっ、それはちゃんと補充しないと。雑貨屋さんにも行かなきゃだね」
 私は本屋、広場、雑貨屋、と頭の中のメモにしっかりと書き記した。同時にもっとも効率的なルートを描いて、所要時間の計算をする。
「その後でアイス屋さんにも行きたいな。あ、でも、ドーナツも捨てがたいかも。最近新しい種類が出たって聞いたし。フルーツを使ってるって聞いたけど、ドーナツにフルーツってどうなんだろうね? 美味しいのかな? ロウはどう思う?」
 そう言って視線を上げた時だった。不意にロウの顔が近づいて、唇に柔いものが触れる。
「……え、」
 私は呆気に取られた。「なに、どうしたの?」
「いや、なんかはしゃいでて、かわいいなと思って」
 さらりと言って、ロウは洗い物で濡れた手を拭った。
「いろいろ行くとこあるなら、早めに出た方がいいよな」
「え、あ、うん。そうだね」
「じゃあ、準備出来次第出発な」
 ロウは何事もなかったかのようにそう言うと、着替えのため寝室へと消えていった。
 私はと言えば、同じように濡れた手をタオルで拭った後、洗面台の方へと向かった。ロウのいる寝室を通り過ぎ、鏡の前に立つ。
 そうして思わず両手で顔を覆った。
(――何、今の!)
 手のひらに触れた頬が焼けるように熱い。
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。目の前でロウがふっと笑うまで、唇に触れたものの正体にさえ気が付かなかった。
 まさかこんなタイミングでキスされるなんて。わああ、と今にも叫びたい衝動を堪える。
 でも、だってまだ朝なのに。いや、別に朝からそういうことをしちゃいけないわけじゃないけれど。それにしたって洗い物の最中だなんて、想定外すぎる。
 しかも「はしゃいでてかわいい」だなんて。まだ身だしなみさえ整えていないのに。手を開いて鏡を覗いてみても、そこには真っ赤な顔に寝癖を散らし放題の自分が映っているだけだ。
 まただ、と思う。またロウに不意打ちを食らってしまった。
 付き合い始めて半年。知り合ってからそれなりに長い時間が経っているとはいえ、恋人同士になって初めて見えてくることもある。
 その1つがロウの愛情表現だ。ロウがそういう言葉を口にするのが決して得意でないことは告白の時から知っていたけれど、それが無意識下となると大きく変わるらしい。ロウは交際が始まってから、日常の何気ない瞬間にふと甘い言葉を吐くようになった。
「お前、なんかかわいいな」
 初めてその言葉を聞いた時、私は一瞬どきりとしたけれど、その後もロウの態度は特に変わらなかった。照れを隠す様子もなく、ただその場で思ったことをそのまま口にしただけというような、そんな素振りだった。
 それでいて意気込むと言葉を詰まらせるのだ。私が新しい服をお披露目したりすると、ロウはいつかのように顔を赤くして頭を掻いた。そしてもごもごと奥歯に何か挟まったような物言いで、どうにか私のことを褒めるのだった。
 そのずれにどれくらい戸惑ったことか。そもそもその強襲は突然訪れるものだから、私にはなすすべがなかった。天然、あるいは天性のものとも言えるロウの不意打ちは、これまでに何度だって私の心を掻き乱してきた。
 今日だってそうだ。何の気なしにキスをして、おまけに「かわいい」だなんて。おしゃれをしているならともかく、髪もボサボサの寝起き人間のどこがかわいいというのだろう。
 思いながら、洗面台から櫛を取って、跳ねた毛先を撫でつけた。なかなか直らないので水もつける。そんなことはお構いなしにバネのようにしなる髪が憎らしい。
 こんなものぐさな私のどこがいいの。口をへの字に曲げつつ、嬉しくないわけじゃないのがまた悔しい。好きな人にキスをされるのはもちろん、褒められて悪い気がする人間なんていないし、むしろもっとと期待してしまうのは当然のこととも言えた。ロウにそのつもりはないにしろ、これではまるで手のひらで転がされているみたいだ。
 そう思うと、なんだか悔しさが増してくる。今寝室でガサゴソと物音を立てているロウは、こんなふうになっている私のことをきっと知らない。ロウに不意打ちされるたび、必死でドキドキを隠して平然を装おうとしている私のことなんか。
 ――反撃しちゃおうか。ふと思いついたのは、ほんの出来心からだった。
 そもそも私1人がこんな思いをする必要はない。目には目を、歯には歯を。どこかで読んだ本にそんなことが書いてあった気がする。ロウも私から不意打ちされて、同じ目に遭えばいいんだ!
 たちまち覚悟は決まった。私は鏡を見つめて気合を入れると、直らない寝癖をまとめて髪留めに収めたのだった。

 私たちは2人揃って家を出ると、予定通り本屋へと向かった。本屋には、私が以前注文してあった本が届いていた。
「はい、これ。いつもありがとうね」
 店主のおじいさんが本を紙に包んでくれる。私はそれを受け取りながら、
「ううん、こちらこそ。いつも無理聞いてもらっちゃってありがとう」
 とお礼を言った。
「いいや、リンウェルちゃんみたいなお客さんがいてくれて本も喜んでいるよ。また気になる本があったら、いつでも言ってくれ」
「うん、そうさせてもらうね」
 私は弾む気持ちで本を胸に抱くと、ロウが待つ書架の方へと向かった。
 狭い通路で目に入ったのは、お団子よろしく丸まった背中だった。その場にしゃがみこんだロウは、じっと何かを読みふけっているようだった。
「何読んでるの?」
 屈んで覗き込んでみると、手元にあったのは1冊の図鑑だった。どうやらダナの植物や動物を集めたものらしい。
 ロウは顔を巡らせると、目を細めて言った。
「いやあ、懐かしいなって思ってよ。ガキの頃、こんな本読まされたっけ」
「そうなの?」
 ああ、とロウが頷く。
「まったく同じってわけじゃねえと思うけどな。親父がどっかから拾ってきた本で、文字の読み書きさせられたんだ。ついでにいざという時、拾って食えるものも覚えとけとか言われてよ」
 絵だけで覚えられるはずねえのにな、とロウは呆れたように笑った。それでもその目は優しくて、どこかあたたかくもあった。思いがけず呼び起こされた遠い日の記憶に思いを馳せているのかもしれない。
 そんな横顔を見てはっとした。思い出したのは、今朝思い立った決心だ。
 ロウは本に夢中になっていて、その頬は無防備だった。今なら、そこに不意打ちを食らわせられるかもしれない。
 よし、と呼吸を整えて拳を握りしめる。そうしてロウの隣に同じようにしゃがみこんだ時、
「そういえば、リンウェルちゃん」
 店主のおじいさんが書架の間からひょっこり顔を出した。
「えっ、あっ、はい!」
「あれ、ごめんね。驚かせちゃったかい」
「い、いいえ! そんなことないです!」
 変に敬語になる私に訝しげな視線を寄越したのは、ロウも同じだった。「どうかしたか?」と言わんばかりに2人で首を傾げてくるものだから、私は何もないと弁解するので必死になった。
 おじいさんが知らせてくれたのは、少し前に珍しい古書が手に入ったという情報だった。
「リンウェルちゃんが喜びそうだと思って取っておいたんだが、あれ、どこにやったっけな。確か赤い表紙の……」
 あれでもない、これでもないとおじいさんは片っ端から店の箱を開け始めた。もともとゆったりとした性格の店主だが、高齢ということもあってさらに動きはゆったりだ。売り物を勝手に触るのは良くないと思いつつも、これではいつになるかわからないと思い、私たちも捜索に加わることにした。
 古書、特に私が好むようなものは分厚くて重たいものが多い。1つの箱を開けて中身を確認するのも一苦労だ。
 私が箱の奥底にある本を取り出そうと、他の本の束を持ち上げた時だった。予想外のその重量に、思わずバランスを崩しかける。
「う、わっ」
「っと、あぶねえな」
 揺らいだ身体を支えてくれたのはロウだった。肩に回された腕が直に肌に触れて、熱い。
「おや、頼りがいのある彼氏だねえ」
「へへ、まあな。つーかじいさん、赤い表紙のってこれか?」
 ロウが掲げた本に、おじいさんは「それだ!」と大きく頷いた。私は注文してあったものと、おじいさんが見繕ってくれたものの2冊を購入すると、おじいさんにお礼を言って本屋を後にしたのだった。
「目当ての本があって良かったな」
 路地を歩きながら、何故かロウが上機嫌そうに言った。その足取りもどこか弾んでいるように見える。
 一方の私は、ロウの言う通り買い物自体には満足しながらも、どこか歯痒い気持ちも抱えていた。せっかくチャンスがあったのに、復讐を成し遂げられなかった。勝負に出るタイミングを見誤った。
 いや、あれはタイミングというより、場所が悪かったのだ。人もまばらな古書店とはいえ、人の行き交う往来には違いない。たとえおじいさんが話しかけてこなくとも、他の誰かが近くを通りすぎる可能性は充分にあった。
 そう思うと、急に恥ずかしくなってきた。あんな公衆の面前で、私はいったい何をしようとしていたのだろう。仕返ししようと躍起になって、もう少しで街を歩けなくなるところだった。
 おまけに半分事故とはいえ、ロウにまたドキドキさせられてしまったし……。目的の1つも達成できなかったどころか、どちらかと言えばマイナスだ。何が差し引かれているのかは、自分でもよくわからないけれど。
 そんなことを考えているうち、いつの間にか広場に着いていた。ロウが「どこから回る?」と辺りを見回す。
「あっち、お前の好きな骨とう品じゃねえか?」
 ロウの視線の先には、それらしき露店がいくつか並んでいた。
「向こうはシスロディアの店と、その奥はカラグリアの鉱石の店か。どっちも工芸品とか、アクセサリーとか売ってそうだな」
 これだけあると迷うな、と笑ったロウはいつになく楽しそうだ。
 それを見て、思わずふっと心が緩む。私は鞄を肩にかけ直すと、とりあえずさっきまでのことは一旦忘れることにして、賑やかな広場の中へと足を踏み入れた。

 収穫でいえば、カラグリアの鉱石を使ったアクセサリーが1つ。骨とう品や工芸品は見ているだけでも楽しいので、満足度でいったらその限りではない。
 ただ、手元に残ったもので言うならそれだけだ。あとは途中で小腹が空いてドーナツを買って食べたけれど、そのほかに得られたものは何もなかった。
 つまり、買い物としては成功だったものの、結局反撃には失敗したのだった。私は広場を見て回っている間、ロウに何ひとつ仕返ししてやれなかった。
 機会なら何度かあった。本屋でのようにロウが隙を見せたことは何回かあったけれど、そこを見計らって何かを仕掛けることはできなかった。
 何せ広場は人が多いのだ。路地の奥の本屋とは比べ物にならず、さすがにそこで頬にキスを落とすことなどほとんど不可能も同じだった。
「いやあ、楽しかったな」
 ロウはそんなふうに言って満足げに笑った。が、私はまたしても半分しかそれに同意できなかった。
 またチャンスを逃してしまった。いやいや、あれはチャンスとはいえ、どうにもならないチャンスだったわけだから仕方ないのでは? でもそんなことを言っていたらいつになるかわからない。そうこうするうちに反撃なんか忘れてしまって、またロウに不意打ちされるかもしれない。そうして再度執念を燃やすことになって――。
 そんな堂々巡りになることは目に見えていた。こういうのはできるだけ早めに解決するに越したことはない。
 だからといって具体的な策も浮かばない。もしあるとしたらそれはただ1つ、私自身が思い切って行動するかどうかだけだ。
 雑貨屋に行ってロウの薬を買い終えた時だった。背後から「よう、坊主」と声を掛けられ、私たちは揃って後ろを振り向いた。
「ちょうどいいところに。ちょっと頼まれてくれんか」
 そう言ったのは、街道で牧場を営むおじいさんだった。
「急で悪いんだが、少し手伝ってもらいたくての。なに、そう時間はかからない。あいつらに餌をやってほしいんじゃ」
 なんでも、今朝作業の途中で腰を痛めてしまったらしい。餌袋が重たくて運べず、どうしたものかと困っていたようだった。
「おいおい、大丈夫なのかよ。しばらく休んだ方がいいんじゃ……」
「なあに、心配はいらん。薬も買ったし、今から念のため医者に診せに行くところだ。自分の足で歩けるうちは大丈夫じゃろうて」
 ほっほ、と陽気そうにおじいさんは笑う。腰を痛めている以外は本当に調子が良さそうだ。
「それで、引き受けてくれるか?」
 おじいさんの言葉に、ロウは私に視線を移しながら、
「……ってなわけだけど、行ってきてもいいか?」と少し申し訳なさそうに言った。
「じいさんももちろんだけど、あいつらも心配だし、しばらく顔も見せてなかったし」
 ややしょげるロウに、私は肩をすくめて言った。
「もちろん。ダメなわけないよ。っていうか、自分だけで行こうとしてない?」
 え、とロウが目を見開く。
「私も行くよ。力仕事で役立つかはわからないけど、そっちの方が早いでしょ」
 ロウはぽかんとしていたが、すぐにくしゃっと表情を崩したと思うと、
「ありがとな」
 と嬉しそうに言ったのだった。
 私たちはおじいさんを見送ると、早速街道の方へと向かった。城門から牧場までは目と鼻の先だ。青葉の香りがする街道を急ぎ足で抜け、牧場の門をくぐった。
 すると、いきなり熱烈な歓迎を受けた。ロウの気配に気づいたのか、牧場の動物たちが一斉に入り口に押し寄せたのだ。
 ロウの足元にはもちろん、隣にいた私にも動物たちが群がった。ふごふごと鼻を鳴らしながらも、穏やかなその瞳を見れば何を訴えているのかはおおよそ見当がつく。きっとこれは「撫でて」という合図だ。
 私たちはその期待に応えつつ、一旦は建物に引っ込む。急いで作業着に着替えると、再び表に出て動物たちの相手をした。どの子も、どの種類の動物もかわいい。愛情を注いだ分こちらに返してくれる、とても素直な子たちだ。
 ロウが餌やりをしている間、私は厩舎の掃除をした。腰を痛めているなら、きっとこういった中腰になる作業も辛いに違いない。少しでもおじいさんに楽をしてもらえればいい。
「本当、助かったぜ」
 そう言ったのはおじいさんではなく、ロウだった。一通り頼まれた仕事を終えて、隅の木陰に腰を下ろす。
「お前が手伝ってくれなかったら、もっと時間かかってたかもな。ただでさえあいつらにせっつかれて中断させられるし」
「だから言ったでしょ。大抵のことは1人より2人の方が早く済むんだから」
 私は得意げに言って、鼻を鳴らした。
「でも、私も久々に来られて良かったよ。たまに体動かすのって、疲れるけど気持ちいいね」
 肺いっぱいに吸い込んだ草の青い匂いが、全身に染み渡るようだった。木々の間から差し込む陽の光はぽかぽかとしていて、できることなら今すぐこの場に寝転んでしまいたいくらいだ。
「お前さえ良ければ、また来ようぜ。じいさんの腰も気になるし」
「そうだね。今度はお昼ご飯も持って来よっか。外で食べたらきっと気持ちいいよ」
 そりゃあいいな、とロウも笑った。緑色の風が吹いて、前髪を揺らす。「すげえ風だな」と目を細めたロウが、それを耳にかけてくれる。
 今にもくっついてしまいそうな距離に、ふと胸が苦しくなった。たちまち頬に熱がこもるのがわかる。
 ――今なら。呼吸を止め、思い切って首を伸ばそうとした時だった。
 聞こえたのはガサガサと草の揺れる音と、「ふご」というどうにも聞き慣れない声だった。
「おうおう、どうしたお前? 飯足りなかったか?」
 ピンク色の体躯をしたそれがゆっくりロウに歩み寄り、物欲しそうに小さく鳴く。頭を撫でられながら、ちらりとこちらを見やったその瞳は円らで、何もかもを飲み込んでしまいそうな黒色をしていた。
 私はロウほど動物の気持ちがわかるわけではない。それでも、この時ばかりはピンと来てしまった。
〈この人は渡さない〉
 心なしか、その口元はわずかに歪んでいるようにも見えた。
 一瞬のうちに心に大きな炎が燃え上がった。
(――それはこっちのセリフなんだけど!)
 言いたい気持ちをぐっと堪えて、私は両の手のひらを強く握りしめたのだった。

 帰り道を歩きながら、小さく息を吐いた。ものの見事に反撃は失敗に終わり、ついには動物にまであざ笑われる始末。せっかく周りに人がいない状況まで持ち込めたのに、まさか最後の最後であんな邪魔が入るなんて思いもしていなかった。
 デートとしては申し分なく楽しかったんだけどな。ロウと街を回って、アクシデントとはいえ久々に牧場に行けたのはとても良かった。とあるブウサギと火花を散らし合うことになってしまったけれど、それを差し引いてもとても有意義な1日だった。
 だからこそ、あと1つの目標を達成できなかったのが悔やまれる。それもまったく機会に恵まれなかったわけでもなく、チャンスは何度か訪れていた。それをみすみす見逃して、結局は未達成のまま。それが叶っていたら、もっと清々しい気持ちで帰路についていたはずなのに。私ってこんな臆病だったっけ。もう少し度胸があると思っていたんだけどな。そう信じていられたのは、もしかしたら、信頼できる仲間と旅をしていたからこそなのかもしれない。
 そもそも反撃とか復讐とか、私には向いていないのかもしれない。これまで何度もそう思い立ったことはあっても、それが成功した試しはなかった。せいぜいロウが嫌いな野菜を私の皿にのせてきた時に、代わりに食後のデザートを減らしてやるくらい。もはや度胸があるかないかとか、それ以前の問題だ。
 ついでに言えば、こそこそするのだって決して得意じゃないのだから、今回の作戦は計画の段階で既に失敗だったとも言えた。その時点で気付かなかった私の負け。ロウは何と戦っていたかも、そもそも自分が何かと戦っていたということさえ知らずに勝利を手にしたのだ。ただ不意打ちが上手い、という一点の要因だけで。
 そう思うと、全身からがっくり力が抜けていくようだった。勝敗は決した。一緒に、肩の荷が下りるような心地がする。
 全部終わったのなら、もう好きにしてもいいのでは? 反撃とか復讐とか関係なしに、今日達成できなかったことをそのまま行動に移してしまおう。
 私は家に着くなり荷物をまとめてテーブルに置くと、ロウに向き直って言った。
「ねえ、キスしてもいい?」
 えっ、とロウの目が見開かれるのと同時に、私はその首に両腕を巻きつけた。そのまま体重をかけ、ソファーに雪崩れ込むように押し倒す。
「え、ちょっ……」
「イヤ?」
 私が問うと、ロウはぶんぶんと首を振った。あまりの勢いに垂らした前髪が大きく揺れる。
「そっか」
 よかった、と呟いて、私は唇をロウのそれに重ねた。優しく一度、長めにもう一度。
 柔らかいな、と思ってもう一度口づけた。ロウの匂いがする。理由は上手く言えないけれど、私はこの匂いが好きだ。
 気の済むまで繰り返して、私はようやくロウの上から退いた。そうして開口一番、
「あーすっきりした!」
 と口にした。
「すっきり……?」
 いまだソファーの上で呆気に取られているロウに、私は今朝から考えていたことを打ち明けた。
「ロウが不意打ちばかりしてくるから、同じ目に遭ってほしかったの。でも上手くいかなかったから、もういいやって」
 復讐でも反撃でもないこれが何なのかと問われても答えられない。それでもなぜか心は晴れ晴れとしていた。もはや私はただロウとキスがしたかっただけなのかもしれない。
 爽快な気分の私のそばで、ロウはぽかんとしていた。それも束の間のことで、やがて黙って俯いて口元を押さえ始めた。
「え、ごめん。どこか痛かった?」
 慌てる私に、ロウはそうじゃないと首を振った。
「よくわかんねえけど、とりあえずすげえ破壊力だった」
 よく見ると、その顔は耳まで赤く染まっていた。
 そこでようやくはっとした。私は図らずして最後の最後にまさかの大逆転勝利を収めたのだった。

 終わり

※本屋の通路を塞いではいけません