何やら騒がしいな。ロウがそう思ったのは、図書の間に足を踏み入れた時だった。
そこにはいつものように多くの人がいたが、誰もが皆そわそわとして落ち着かない。本を読むふりをして何度も顔を上げてしまう人もいれば、とうとう我慢できなくなって近くの人に話しかけてしまう人もいた。それを注意する司書の態度もどこか散漫で、形ばかりのものだということは明白だ。いったい何があったんだ。あの不気味なほど静かで、重苦しい空気の漂う空間はどこへ。
皆の視線が集まる先。書架と書架の間を覗いてみてすぐに合点がいった。そこにはこの国の元領将テュオハリムが、優雅な佇まいで何かを覗き込み、穏やかな微笑みをたたえていたのだった。
「それでね、この遺物の模様と、ここに書かれてる意匠がそっくりなの!」
「ほう、それは実に興味深い」
その隣には、これまたごく見覚えのある人物が、興奮した面持ちで手元の古書に夢中になっている。聞こえてくる会話の内容から察するに、2人は例のごとくダナの歴史について語り合っているようだった。
「この前、近くの遺跡でも似てる意匠を見つけたんだ。今度行ったらもう少し詳しく調べてみてもいいかも」
「ふむ。共通点が見つかれば、新たな歴史の謎を紐解く鍵になるやもしれんな。あるいはそれを足掛かりにすることでさらに気付けるものもあろう」
「うんうん、まさに発見の連鎖だね! あっ、そういえばもうひとつ気になる記述があって……」
波に乗り始めた会話は一向に途切れる気配を見せない。しびれを切らしたロウがぎりぎりまで近づいて初めて、リンウェルは本から顔を上げた。
「あ、ロウじゃない。何してるの?」
「何してるのって、こっちのセリフだよ。なんで大将がここに?」
ロウが2人の顔を交互に見やると、リンウェルが「ああ」というような表情をした。
「偶然会ったんだ。ついさっき、そこの廊下で」
テュオハリムが頷く。
「ちょっとした案件でこちらに来ていてね。約束まで時間があったもので、付近を散歩していたのだ」
そこでたまたま図書の間を訪れていたリンウェルと会い、近況を聞くがてら研究の成果報告を受けていたのだという。
「そしたらついつい盛り上がっちゃって。こういう話できる人は身近にあまりいないし」
「リンウェルの研究は新しい切り口で斬新なものだ。此度の考察も実に興味深い」
本当? とリンウェルが嬉しそうに目を細めた。「ありがとう、嬉しいな」
それからリンウェルはロウに向かって「ちょっと待ってて」と断りを入れると、もういくつか遺物や遺跡についての話題を繰り広げた。そうして一段落したところで、手にしていた古書をようやく書架へと戻した。
3人揃って図書の間を出たが、相変わらず周囲の視線は痛かった。ちくちくと刺さるようなそれに敵意は感じられずとも、張りつめた緊張感がひしひしと伝わってくるようだ。
それに気付いているのかいないのか、テュオハリムは素知らぬ素振りで進んでいく。その隣に並んだリンウェルも揚々とした様子で、いまだあれこれと専門用語らしきものをまくし立てていた。
「今度は長く時間を取って、茶を片手にゆっくりと語らおう。いずれこの街に建設予定の『遺物による遺物のための遺物博物館』についても、早めに意見を交わしたいところだ」
「わあ、夢が広がるね! 私もますます腕が鳴るよ! 今度会う時までに、もっと研究進めておくね!」
「ああ」とテュオハリムは大きく請け合った。「それを楽しみに、日々の仕事に邁進するとしよう」
これから立て続けに会議だというテュオハリムとは、宮殿の広間で別れた。執務室へと向かうその背中はやはり優雅で、ただ廊下を歩いているだけだというのにも関わらず、多くの人々の目を引いていた。
「久々に会ったけど、元気そうで良かったね」
宮殿を出て、声を弾ませながらリンウェルが言った。
「お仕事は相変わらず大変そうだけど。キサラともなかなか会えないってしょんぼりしてたよ」
しょんぼりはあくまで私の主観だけど、と軽い調子で付け加える。まああながち間違ってはないでしょ、たぶん。きっと。
「でも、おしゃべりもたくさんできて良かった! 周りの視線がちょっと気にはなったけど、テュオハリムは遺物に関してはかなり詳しいから」
「……」
「研究の意見も聞けて良かったな。参考になる文献も教えてもらえたし」
階段を下りたところで、
「ロウ?」
リンウェルがこちらを覗き込んできた。
「どうかした?」
「あ、ああ、いや……」
ロウは咄嗟に首を振った。「なんでもねえよ。ただ、少し腹が減ったなって」
するとリンウェルはどこかほっとしたような顔をして、
「なあんだ、そんなこと。だったら、これから一緒に何か食べに行かない?」と言った。
「私も頭使ったから、お腹すいちゃった」
「頭使ったからじゃなくて、どうせ朝から何にも食ってねえだけだろ。そのうち本より薄っぺらになっちまうぞ」
「何それ、むっかー! 薄っぺらって何よ! ロウのバカ!」
リンウェルはむくれて目を三角にしたと思うと、徐々に人通りの増えてきた広場を脇目も振らずずんずん進んでいった。
その背中を見つめながら、ロウは密かに安堵していた。どうやらここは上手く誤魔化せたみたいだ。
本当は、ずっと考え事をしていた。あれこれ頭の中を忙しくしていたので、リンウェルの話を半分くらいしか聞いていなかった。
それくらい、胸が騒いでいた。図書の間で2人の姿を見かけてから。
いろいろ思うところがあった。またわけわかんない話してるな、とか。あんな分厚い本のあんな小さい字、よく読めるな、とか。
随分楽しそうに話してるな、とか。
ロウは遺物にも遺跡にもそれほど興味はない。たまにリンウェルに頼まれて遺跡調査に同行したり、荷物持ちをしたりするが、その調査内容を詳しく聞いたことはなかった。リンウェルが上機嫌そうに遺跡内を歩いて回るのをただぼうっと眺めているだけで、あとは昼寝をしたり、フルルにおやつを与えたりして、リンウェルが「そろそろ帰ろっか」と切り出してくるのを待っているだけだった。
それを不満にも、不安にも思ったことはなかった。少なくともついさっき、図書の間に向かうまでは。
リンウェルがテュオハリムと楽しそうに話しているのを見て、急に胸がざわざわとし始めた。周囲の人間とはまったく違う意味で、そわそわと落ち着かなくなった。
あんなに目を輝かせているリンウェルは久々に、いや、初めて見たかもしれない。内容はわからずとも、リンウェルが遺物や歴史にどれだけ情熱を持っているか、一目でわかる眼差しをしていた。
俺の前ではあんな顔、しないよな。それも当然のことだ。話を理解できない奴に何を真面目に語ることがある。おまけに聞いている途中で欠伸を連発するなんか論外だろう。
同時に思った。――俺とリンウェルって、共通の話題が少なすぎやしないか?
少ないどころか、ほとんどないと言ってもいい。旅の思い出やアルフェンたちの話題を除けば、せいぜい戦闘に関することくらいで、星霊術を使う相手にどう対処すべきかアドバイスを貰う程度だろう。
好きな食べ物も趣味も違う。俺とリンウェルは、重なるものが皆無に等しい。
このままだと、いずれ話すことがなくなってしまうんじゃないか。ロウの中に突如として過ったのは、強烈な危機感だった。
話題がなくなれば会話も途切れて、一緒に居てもつまらない奴と思われるんじゃないか。つまらない奴と過ごすよりは自分の趣味に時間を費やしたり、話の合う友人と語らったりする方が有意義というもので、それは誰にでも、もちろんリンウェルにも当てはまることのはずだ。
――このままでいいのか? 誰かが囁く声がする。
良くない。良いはずがない。だからって、いったいどうしたらいいというのだろう。
堂々巡りはたちまちロウの頭を覆った。ぐるぐるとしたそれはなかなか消えない土煙みたいに、いつまでもロウの中で渦巻くばかりだった。
次にロウがヴィスキントを訪れた時、図書の間はすっかり元の様相に戻っていた。利用者は沈黙を守り、足音さえ潜めるようにして書架の間を巡っている。司書たちも部屋中をせわしなく動き回っては、せっせと掃除や整理に勤しんでいるようだった。
やっぱり、この間は普通じゃなかったんだな。辺りを見回しながらロウは改めて思った。そしてこれだけの人間を同時に魅了してしまえるテュオハリムという人物の特異性を実感しては、心の中で感嘆のため息を吐いた。たとえ広場に黄金の彫像と並べてみても、歓声は等しく上がりそうだ。あるいは反応がある分、テュオハリムの方が優勢かもしれない。だったら大将を金ピカに塗れば敵なしだな、などとロウはぼんやり考えた。
しばらく歩き回ったが、リンウェルの姿はどこにも見当たらなかった。頻繁に見かける歴史書の書架の前にも、たまに立ち寄るという物語の付近にも気配はない。珍しくあたりが外れたらしい。この時間なら、ここに来てると思ったんだけどな。
もしやすれ違ったのか。今度は家にでも行ってみるかと、ロウが踵を返そうとした時だった。ふっと耳の辺りに生ぬるい風が吹いた。
「何かお手伝いいたしましょうか~?」
艶めく声で囁いたのは、ツグリナさんだった。ロウは声にならない声を上げて飛び上がり、ほとんど反射的に飛び退いた。
「あらあ、その反応。少し寂しいわあ」
「わ、悪い……」
咄嗟に謝罪するが、はたと思う。あれ、これって俺が悪いのか?
頭に疑問符を浮かべるロウの一方、当の彼女は悪びれる様子もなく、ただ穏やかに微笑んでいた。
「それで、今日は何をお探しかしら~?」
ツグリナさんは首を傾げながら訊ねてきた。どうやらロウがぐるぐると長いこと図書の間を歩き回っていたのを見ていたらしい。
ロウは一瞬口ごもった。確かに探し物はしていたが、対象は本ではないからだ。
どうしようかと迷いながらも、ロウは思い切って今日リンウェルが図書の間を訪れたかどうかを訊ねてみた。司書であるツグリナさんはほとんど毎日ここに出勤しているし、リンウェルとも知った仲だ。あいつが来ていたなら、その姿も見かけているはず。
ところがツグリナさんは、
「リンウェルちゃん? そういえば見てないわね~」と言った。
「いつもならもう来ている頃だけど~」
そうか、来てないのか。珍しいこともあるものだなと、ロウは心の中で首を傾げた。
「でも、そういう日もあるんじゃないかしら~。今日は気分が乗らない、なんてこともあるでしょうし~」
確かに、ツグリナさんの言う通りだ。気分が乗らないかはともかく、今日に限って寝坊したのかもしれないし、あるいはほかの友人との約束があるのかもしれない。
――ほかの友人。ふっとロウの頭の中に、例の悩みが過る。
「じゃ、じゃあさ、あいつが……リンウェルが、最近借りていった本とか知らねえか?」
意を決して訊ねたのは、リンウェルの最大の趣味でもある読書にまつわることだった。
話題がないなら作ればいい。それをリンウェルが興味を持ちそうなことに寄せてやれば、きっと気を引けるはず。
だったらリンウェルが読んでいた本を自分も読んでみるのが手っ取り早いんじゃないか。共通の本を読めば、何かしら話題も生まれるだろう。ロウはそんなふうに考えた。
重なるものが無いのなら、自分から探しに行けばいいのだ。
「図鑑とか、物語でもなんでもいいんだ。知ってたら教えてほしいんだけど……」
「そうねえ……」
ロウは胸の内を騒がしくしながら答えを待ったが、
「残念だけど、それは利用者の個人情報に関わることだから、教えられないわねえ」
と断られてしまった。
「そうか……」
「でも、」
肩を落とすロウに向かって、彼女は再び艶っぽい声で囁いた。
「彼女の好きそうな本なら、わかるかも」
ツグリナさんはあちこちの書架から、何冊かの本を集めてきた。ダナの歴史書と思われる本や、星についての図鑑。あるいは表紙の随分古ぼけた物語など、そのどれもが分厚く、字のぎっしり埋まった本ばかりだった。
「うへえ……」
ロウは思わず苦い顔をした。「これが、リンウェルが好きそうな本……?」
「あくまで個人の意見だけれどね~。でも、なかなかいい線いってると思うわよ~」
ツグリナさんは淑やかに微笑みつつも、その自信を隠さなかった。
まずは定番の歴史書。リンウェルが調べているのはダナの歴史だということで、中でも遺跡について詳しく書かれているものが選ばれた。
「以前彼女に、遺跡に行く時の注意点が書かれているガイドブックみたいな本はないかって聞かれたことがあったのよ~。2人で一緒に図書の間中を探し回ったわ~。懐かしいわね~」
ツグリナさんはどこか遠い目をしたが、なんだそれ、とロウは思った。そんな本あるわけないだろ。もしあったとして、いったい誰が読むんだ。
「残念ながらそういった本はなかったのだけれど、密林でのサバイバル本を紹介したらとても喜んでいたわ~」
それで喜ぶのかよ。つーか密林って、あいつはどこの遺跡に行くつもりだったんだ。
「それでピンと来たの~。きっと彼女は、星を見るのが好きなんじゃないかって」
そうして選ばれたのが2冊目の図鑑のようだ。「彼女、よく星の本の書架でも見かけるから」
「なるほどな。じゃあこの3冊目は?」
ロウが古ぼけた本を片手に訊ねると、ツグリナさんは間をおかず「勘ね」と言った。
「へ?」
「女の勘よ~。リンウェルちゃんはきっと、こういう古臭くて時間の経ってる本が好きな気がしたの」
にっこり笑って言われると、根拠ひとつないその主張がまるで真実であるかのようにも思えてくる。自信は力。力は威力。
ロウは少し考えた後で、その3冊の分厚い本をすべて借りることにした。読める読めないは別にして、リンウェルが普段どういうものを目にしているのか知っておきたくなった。たとえこれらの本を理解できなくとも、リンウェルを理解することには近づけそうな気がする。
それに、これからの話題にできるかもしれないしな。
ロウは鼻歌混じりに図書の間を後にした。胸には重たい本の入った紙袋を抱えているのにもかかわらず、その足取りはやけに軽やかだった。
それからロウと、本たちとの格闘が始まった。ロウは宿の部屋にいる時や、仕事の合間など、暇さえあれば本を開くようになった。
とはいえ普段からよく文字を読んでいるわけではない。ロウが日常で目にするものといえば、仕事内容の書かれたメモや、簡単な書類くらいのもので、これだけ狭い空間にぎっしりと敷き詰められた文字と向き合うことはほとんどなかった。
だからなのか、初めは1行読むだけでも結構な時間がかかった。それから徐々に視線を移す先、数行進んだところで今度は自分が今どの文章を読んでいるのかわからなくなった。慌てて戻ってはみるものの、戻った先の文章も読んだような、読んでいないような曖昧な記憶に陥り、とうとうまた初めから読み直すことになる。
混乱しきりの読書は、ロウの頭上に延々と疑問符を生み出し続けた。もはや見知った単語や地名さえも頭に入って来ない。はて、『しすろでぃあ』ってなんだっけ。
そんなロウを見て、ガナルは可笑しそうに笑った。
「慣れない頭使おうとするからそうなるんだよ。絵本くらいしか読んだことないくせに」
ロウは本を開いたまま、むっと口を尖らせた。馬鹿にされたからではない。ガナルの言っていることがほとんど図星だったからだ。
「まあお前がいきなりこんな分厚い本取り出した時は、どっかに頭でもぶつけたかって心配にもなったけどな。中身は相変わらずで安心したぜ」
「うるせえなあ。ガナルだって俺とそう大差ないだろ」
「俺はいいんだよ。どっちかっていうと肉体派だからな。頭の方は、得意な奴に任せておけばいいんだ」
そうだろ? と肩を叩かれたネアズは、今まさに難解な書類とにらみ合っている最中だった。苛々したように机を叩いていた羽ペンの先端が、次の瞬間ガナルの手の甲に深く食い込む。
「いってえ!」
「お前はもう少し勉強すべきだ。ったく、毎度毎度厄介事を運んできて……少しくらい自分で解決したらどうだ」
すげなく言い放ったネアズは、さらさらと慣れた手つきで書類に何かを書きつけた。それは他領に駐在している同志からの物品リストで、可能な限り早めに送ってほしいと頼まれたようだった。
「ただでさえ物も人も足りてないってのに、こんな依頼書を受け取ってくるとはな。いったい誰がやりくりすると思ってる」
「けど、あいつらも国の外で頑張ってるし、少しくらい協力してやってもいいだろ? 食料だって他領との交易で随分増えてきたし」
「だからそれをお前自身で調整しろと言ってるんだ。敢えて俺に持ってくるな」
「だって計算とか苦手だし。在庫管理とかいまだによくわかんねえし」
ガナルは頭の後ろで手を組みながら、呑気に言った。「なあなあそんなことより、釣りにでも行こうぜ。今日は天気も良いし、気分も良いし」
ネアズはため息を吐いて、
「ロウ、お前はこうなるなよ。取り返しがつかなくなるからな」
と言った。
「お前はこいつと違ってまだ若い。これから勉強すれば、いくらでも成長する」
そしていつか俺を助けてくれ。冗談めかしてネアズは言ったが、その瞳に切実さが宿って見えたのは、気のせいだっただろうか。
それ以降、ロウのやる気は再び高まった。自分の成長が、故郷の復興にも役立つかもしれないと思ったからだ。
ロウもどちらかと言えば肉体派だが、それに加えて頭脳派としても仕事ができるようになればこれ以上のことはない。ネアズのように日々書類ばかりを見つめているのは御免だが、簡単な雑務くらいはこなせるようになりたかった。
そのためにはまず、文章を読めるようにならないと。何せ組織同士をつなぐ書類には小難しい用語が並びがちなのだ。それをその場でさらりと読み流して、大まかな内容を汲み取れるようにはなりたい。
ロウは懸命にページをめくった。短期間で紙に幾度も擦り続けた親指は、指紋がすっかり見えなくなるくらいだった。
ロウが図書の間で本を借りてから、もうすぐひと月が経とうとしている。
仕事でヴィスキントに向かうがてら、ロウは図書の間に本を返却しようと考えていた。3冊すべてを読み終えたわけではなく、返却期限が迫っていたからだ。
結局どの本も最後まで読み切ることはできなかった。それどころか半分だって進んでいない。歴史書は案の定だったが、物語も難解で、到底理解には届かなかった。
唯一、星の図鑑だけは少しだけ読み進めることができた。それは他の本に比べて図が多かったからだが、ロウはそうとは気付いていない。自分の読解力が上がったからなのだと信じ、内心で誇らしく思っていた。
ヴィスキントに着いた時、時刻は昼を回ったところだった。依頼を終えたロウがそのまま宮殿へと向かおうとした時、
「あれ、ロウじゃない?」
後ろから声が掛かった。
振り向くとそこには胸に紙袋を抱えたリンウェルが立っていた。フードの端からは、訝しげな視線を寄越すフルルの姿も見える。
「偶然だね。今お仕事終わったの?」
「あ、ああ、そうなんだよ」
答えながら、ロウは紙袋を咄嗟に後ろ手に隠した。どうしてそうしたのかはわからない。ただ何となく、リンウェルにはこの本の存在を知られたくなかった。
「じゃあ、お昼ご飯もまだ?」
「ああ、何も」
ロウが首を振ると、「じゃあさ!」とリンウェルが目を輝かせた。
「これからうちで一緒に食べない? さっき運よく焼きたてのパンが買えたんだよね」
リンウェルは自分の持っていた紙袋の中身を広げてみせた。そこには香ばしい香りを放つ丸々としたパンが、自分焼きたてです! とでも言わんばかりにほかほかと蒸気を立てていた。
「いつも売り切れちゃってるから嬉しくて! 早くから並んだかいがあったよ!」
喜びを爆発させてリンウェルは言った。見るからにうずうずとした素振りは、はやる気持ちを抑えきれていないようだ。
ロウはといえば、一瞬戸惑った。これから本を返すつもりだったのに、なんというタイミングだろう。
とはいえリンウェルの厚意を無下にもできない。今ここで「用があるから」と言っては台無しだ。せっかくの焼きたてが、通常仕様のパンに成り下がってしまう。
観念してロウは頷いた。本の入った紙袋を自分の体で隠しつつ、人の賑わうヴィスキントの通りをリンウェルと並んで歩き出した。
リンウェルの家に来るのは久しぶりだった。前回訪れたのが本を借りた日のことだから、もうひと月ほど前のことになるのか。
あの日、リンウェルは思った通り寝坊していた。夜遅くまで本を読んでいて、そのまま机で寝落ちてしまったらしい。
慌ててロウを迎えたリンウェルの頬には、机の上にあった紙の跡がくっきり残っていた。思わず吹き出したところを、フルルのくちばしに成敗されたのだった。
その時と比べると、家具の配置は変わっていないように思えた。壁付けの机と椅子。その隣の本棚。窓際に置かれた鉢植えは、今日も燦燦とした陽の光を浴びていた。とはいえ普段から注意深く観察しているわけでもないので、多少曖昧なところはあるかもしれない。
ただ、相変わらず置かれている本の量は多かった。厚いものから薄いもの、新しそうなものもあれば、今にも朽ちそうな古いものもあった。
やっぱりこいつの読書量は半端じゃない。挑戦した今でこそわかることだが、リンウェルは文字を読む速度に加え、その内容を理解するのも抜群に早かった。何日も前に読んだ本の内容を覚えているなんて、ロウには到底信じられないことだ。自分はつい数分前にどの文章を読んだかさえ曖昧なのに。
ロウはそんなリンウェルを尊敬するとともに、いつか容量を超える読書で脳みそが破裂するのではないかと心配にもなった。
「じゃあちょっと待ってて。着替えてくるから」
リンウェルはテーブルにパンの入った紙袋を置くと、いったん寝室へと消えていった。バタンとドアが閉じた後でガサゴソと物音がし、クローゼットの開く音がする。
ロウはリビングの椅子に腰かけながら、手元の紙袋をどうしようかと考えていた。椅子の下などに置いていてはいずれ見つかってしまうだろうし、胸に抱えたまま食事をするわけにもいかない。当然服の中にも隠してはおけないだろう。
少し悩んで、ロウはそれをリビングの隅の目立たないところに置いた。これならリンウェルの視界にも入りづらく、気付かれる可能性も減るだろう。最も大きな懸念は、自分が帰る時にそれを忘れないかどうかだ。
数十分後の自分に祈りを捧げながら、ロウはぼうっと窓の外に目を向けた。澄み切った空に鳥たちが連れ立って飛んでいくのが見え、拳ひとつ分開けられた窓の隙間からは遠くのがやがやとした喧騒までもが届いていた。ふっと吸い込んだ空気にはやはり焼きたてのパンの香りが混じっていて、同時に自分の腹が情けない音をかき鳴らすのが聞こえた。
やがて背後からガチャガチャと音がして、寝室のドアが開いた。
「ごめん、お待たせ」
普段着にエプロンを身に着けたリンウェルがぱたぱたと駆けてくる。
「髪留め探すのに手間取っちゃって」
前髪をまとめながら、照れくさそうにリンウェルは言った。
どうせまたどこかに転がしてたんだろうなと思いながら、「平気だ」とロウは言った。物陰に転がっていたそれを、これまで何度見つけてやったことだろう。むしろ失くさなくて良かったな、と思っていたら、
「あっ」
カラン、とリンウェルの髪留めが床に転がった。それを拾おうとしたリンウェルが、視線の先の何かに気付く。
「あれ、私パンこんなところに置いたっけ」
ロウが「げっ」と思ったのと、リンウェルがそれに手を伸ばしたのはほとんど同時だった。おいおい、こんなことってあるか。
リンウェルはその中身を見て首を傾げた。「これは……?」
そういう反応になるのも無理はない。そこにはパンではなく、本が、それも自分が借りた覚えのないものが3冊も入っているのだから。
「えーと……?」
本の表紙を眺めながら、リンウェルは懸命に頭を巡らせているようだった。いつ借りたのか、どう借りたのか、記憶の引き出しを必死に探っているに違いない。
いたたまれなくなって、ロウはとうとう真実を打ち明けた。
「実はさ……それ、俺が借りたんだ」
「……え?」
リンウェルの口がぽかんと開く。
「お、お前との話題が欲しくて、ツグリナさんに見繕ってもらったんだ。お前が好きそうな本、探してもらって」
蚊の鳴くような声は、まるで罪を白状しているみたいだった。悪いことなんてひとつもしていないのに。
「勉強にもなるだろうって思って読んではみたけど、やっぱりさっぱりで……。それで今日、期限もあるから返すつもりだったんだ」
「そうだったの……」
ロウの告白を聞きながら、リンウェルは3冊の本を順繰りにめくった。
「私の好きそうな本、ねえ……ふうん……これをツグリナさんが……」
そっかそっか、と訝しげな視線で眺めつつ、その口は僅かに尖っているようにも見える。
「それで、ロウはどうだったの」
リンウェルは突然顔を上げると、ロウに訊ねてきた。
「え?」
「ロウはどう思った? この本読んで面白かった?」
ロウは思わず口ごもった。言うか、言わないか。言葉が出かかっては喉元へと戻っていく。
「正直に言っていいよ。面白かった?」
「……正直……あんまり」
視線を落としてロウは言った。本当は面白いのかもしれないが、その面白さがわかるまでの到達点に自分の頭では達せなかった。
本を読むというのは、文字を読むことではない。その中身を理解できて初めて成り立つものなのだ。
今回、ロウは初めて『読書』というものを理解した。それを楽しむための要素が、自分にはいくつも欠けているということも。
「本って、難しいんだな。お前が楽しそうにしてるからって、俺も楽しめるかっていうと全然違うし。そもそも言ってる意味わかんねえし。本当に同じ言語使ってるのかって、疑ったりもしたぜ」
「同じ言語であるのは間違いないけど……それでも、私とロウは違う人間なんだから、面白いと思うものも違うでしょ。ロウが肉を好きで、私が甘いものを好きなように」
確かにそうだと、ロウは大きく頷いた。どうしてそんな当たり前のことに気付けなかったのだろう。どうやら自分は目先のことに囚われすぎて、周りが見えなくなってしまっていたらしい。なんちゃらは盲目、というやつかもしれない。はて、なんちゃらって何だ?
「っていうか、話題が欲しくてって何?」急にリンウェルの声色が変わった。「私とロウの間で話が途切れたことがあった? いつ?」
ひと息にまくし立てられて、ロウは面食らった。「いや、ない、と思う、けど……」
「でしょ? だったらそんな思い詰めないでよ。ロウってば、いつもは能天気なのに変なところで心配性なんだから」
ふん、とリンウェルが口を曲げて鼻を鳴らす。
「それに、別に話題がなくたって私は……」
そこまで言って、リンウェルは「なんでもない」と首を振った。
「そもそも! 勉強したいって言うんならもっとやり方を考えないと!」
そう言ってリンウェルが取り出してきたのは、肉料理のレシピ本だった。
「こういうのは、誰にでも理解できるようにやさしい言葉で書かれてるし、それにレシピ本なら、分量で簡単な計算問題もできるよ」
リンウェルは適当なページを開いてみせると、出てきた数字を使ってロウにいくつか質問をした。ロウは頭と指と時間を使いながらも、なんとか正答を導き出すことができた。
「正解! ほら、便利でしょ?」
「おお! こういう使い方もあるんだな! やっぱお前天才だな!」
ロウの称賛に、リンウェルはふふんと得意げに胸を張った。
「それにしても、お前が肉料理の本なんて持ってるの、珍しいな」
「え」
「とうとうお前も肉の魅力に気が付いたか。何をどう調理しても美味いもんな、あれ」
うんうんと頷くロウのそばで、
「ロウってば、やっぱりロウだよね」
リンウェルは小さく肩をすくめて笑ったのだった。
終わり