強力な星霊術の副作用で、記憶をなくしていくリンウェルの話。捏造いっぱい/喋るモブ(約16,000字)

太陽の記憶

 拳ひとつ分開け放った窓から、柔らかな風が舞い込んでくる。ひんやりと、まるで雪の結晶みたいに清らかな風は、一瞬にして私の喉元に飛び込んできたかと思うと、そのまま肺の中ですうっと溶けて消えた。
 新しい風だ、と思う。どこかで生まれたばかりの、行くあても知らない風。
 あの日の私も、そうだったのかな。ふとそんなことを思う。なんとなく、気の向くまま足の向くまま、ここへたどり着いたのかな。
 その時のことを、私はもう覚えていないけれど。
 ここはシスロディアのとある地方にある、小さな村だ。険しい山岳地帯のふもとにあるこの村は、レナの支配時代から兵士も〈蛇の目〉もあまり寄り付かなかったなんとも珍しい場所らしい。
 それもそのはず、村は深い森と高い山に挟まれる形になっていて、交通の便が良くないどころかとても悪いのだ。ここへたどり着くためにはズーグルだらけの厳しい道程を乗り越えなければならず、おまけに荒れやすい気候も相まって寄り付く人はほとんどいない。街からの物資が届くのも、お金を出して雇った商隊が数か月に1度訪れるかどうかというところで、都会の情勢とは程遠い、まるで世界から隔絶されたかのような土地となっていた。
 とはいえ暮らしていくのには何の不便もない。基本的な物資は揃っているし、食べ物だってその自然の豊かさゆえ有り余るくらいだった。特にここのミルクを使った料理は絶品で、クリームもチーズも、ほのかな甘みを伴って口の中でとろける。採れたての野菜とチーズを使った熱々のグラタンは、ここに来てからの私の大のお気に入りとなっていた。
〈ただほんの少し、メナンシアのレストランで食べたようなスイーツが恋しくなることもある。〉
〈シンプルなのに、それでいて絶妙なバランスによって成り立っていたあの味は、どうやったら再現できるんだろう。〉
 そんなふうに書かれていたのは、ここを訪れたばかりの頃の日記だ。小さく添えられた挿絵のケーキは華やかで、大きなイチゴが載っていて、確かにこの辺りではなかなか見ないものだった。
〈結局レシピは聞けないままだった。それが少しだけ、心残りかな。〉
 私は誰かにそのレシピを教えてもらう約束をしていたらしい。料理のアドバイスをもらうだなんて、随分信頼していたんだろう。
 今ではその味も思い出せないけれど、頭の中では何度も想像した。1口目は甘くて、2口目はちょっと酸っぱい。3口目でそれが見事に調和して、私はたまらず頬を緩ませる。私にはわかる。今でも、私は甘いものが大好きだから。
 私が住んでいるこの村に、私の過去を知る人はいない。――私自身も含めて。
「フル、フル」
「そうだね、フルルは違うね」
 摺り寄せてきたフルルの頭をひと撫でしてやると、フルルは気持ち良さそうに鳴いた。
 そう、フルル以外誰も知らない。私がどこから来たのか、何者なのか。何をして生きてきて、どうしてここへ来たのか。
 張本人である自分自身でさえも、それを覚えていない。私が知っているのは、この日記帳に書かれている内容だけ。
 ――記憶喪失。
 これまで私の中に当たり前に存在していたすべての記憶は、まるで雪に降られた足跡のように真っ白になって消えてしまった。

   ◇

 最初の異変は、物忘れが激しくなったことだった。
 図書の間や買い出しに出かける時、財布や家の鍵を持ち出し忘れることが多くなった。あるいはその置き場所がすっかり頭から抜け落ち、どこだっけ、どこに置いたっけと部屋中を探し回ることが増えていった。
 それが何かの予兆であるとか、そんなふうに考えたことは一度もなかった。何せ、他には一切の症状がないのだ。前日に食べたものも思い出せていたし、1週間前に読んだ本の内容も記憶していた。うっかり忘れ物が増えたのは、単なる疲れから来るものだろうと思い込んでいた。
 ある日のことだ。私はいつものように図書の間で本を借り、アウテリーナ宮殿を出た。よく晴れた日だったと思う。噴水前の階段を下り、市場に差し掛かろうとしたところで、急に目の前の風景に違和感を覚えた。
 そこはよく見知った風情でありながら、まるで見覚えがなかった。街並みも、立ち並ぶ露店も、なんとなく知っているような気がしながら、ただし記憶の中には記録がない。
 ここは、どこ――?
 私はその見知らぬ街の中を、ただ彷徨い歩いた。確かにこの街のどこかに自宅があるはずなのに、そこへ向かう道程がわからなかった。
 角をいくつ曲がった頃だろう。
「フル? フルル」
 私の不審な行動に気が付いたのか、それまでフードに籠りきりだったフルルが、羽で頬をちょんちょんと突いてきた。家はこっちでしょ、とでも言うように。
 ようやくたどり着いた建物にも見覚えはなかったけれど、鞄の中に入っていた鍵はきちんと鍵穴に収まった。部屋の中に転がる本や私物を見て、私はそこで初めて自分を取り戻したのだった。
 これはただ事ではないと思って医師を頼ったのがその後。けれど、医師たちは揃いも揃って「特に異状はありません」と口にするのだった。
「疲れているんだと思いますよ。世界の星霊力も日々変化していて、身体の方も慣れるのに必死なんでしょう」
 無理をせず休養してください。規則正しい生活を心がけて、食事も忘れないこと。それではお大事に。
 まるで打ち合わせたかのように同じことを言うものだから、私は半ば呆れかえっていた。疲労で帰り道がわからなくなるなんてこと、あり得るだろうか。しかも私はまだ10代で、あちこちを旅してきた経験もある。徹夜を繰り返して意識がもうろうとしている研究員ならともかく、遺跡から遺跡をはしごするような自分が疲労で迷子になるはずがない。
 最後に会ったのは、レナの医師だった。眼鏡の奥のきりりとした視線が印象的で、どこか冷たい感じのする居ずまいだった。
「あまり確信の持てないことは言いたくありませんが」
 ひと通りの質問をした後で、その医師は言った。
「星霊術の副作用による、記憶障害かもしれません」
「え……?」
 私はその言葉を、はっきりとは聞き取ることができなかった。言葉として耳には入ってきていても、その意味を理解することができなかったのだ。
「あなたは星霊術使いですね。それも強力な。それ自体は珍しいことではありません。レナにも強力な星霊術を扱う人間は数多くいますから」
 淡々と、抑揚のない声でその医師は続けた。
「ですが、あなたのようなごく若い星霊術使いは稀です。強い星霊術を扱うには多くの経験と実践が必要になる。そしてそれには本来、同等の時間もかかります」
「あなたはそれを飛び越えてしまった可能性がある。言ってしまえば、あまりに短期間のうちに強力な星霊術を身に着けたため、身体の方が追いつかなかった、ということです」
 頭の中に意味のない音だけが反響して、やがてすっと降りてくる。どの言葉も身に覚えのありすぎるものばかりなのは、何かの悪い冗談なのだろうか。
「とはいえ、断言はできません。何せ過去の症例が少なすぎるのです。加えて種族や才能、年齢、これまでの経緯を見ても、あなたは異例すぎる。私が今こうしてお話している内容も、あるいは誤りかもしれない」
 医師はそう言ったけれど、私はその時点で確信していた。これは記憶障害で、原因は星霊術によるものだ。それを肯定する材料はあまりに多いのに、否定できる理由がどこにも見当たらなかった。
「……どうすれば、いいですか」
 次の瞬間には、そう訊ねていた。
「どうすれば治りますか? これ以上悪化させないためにはどうすればいいですか?」
 医師は黙ったまま、手元のカルテに目を落としている。
「星霊術を使わなければいいですか? 薬を飲めば、治りますか?」
「残念ながら」
 医師が顔を上げた。鋭く刺さるような視線だった。
「快方に向かった例はありません。あくまで記録に残っている限りではありますが、その症状を見出したすべての患者が徐々に記憶を失くし、最終的にはほとんどを失っています」
「そんな……」
「加えて、若ければ若いほど進行が早いこともわかっています。私の見立てによれば、あなたの場合はもって1、2年というところでしょうか」
「……」
 私は思わず言葉を失い、愕然とした。私は、あと1、2年のうちにすべての記憶を失ってしまう……。
「お気持ちはわかりますが、諦めるのは尚早とも言えます。この病は、まだ病とも呼べるかもわからない。何もわからないということは、何もかも曖昧であるということなのです」
 その医師の診察について、最後まではよく覚えていない。ただただ言われたことが衝撃的すぎて、頭が追いつかなかった。
 それなのに、それが突飛なことだとはあまり思っていない自分もいた。大きな力を得るには代価が必要で、それを私は自身の努力であると思っていたけれど、どうやらそれだけでは足りなかったらしい。記憶まで失って初めて同等といえるほどだなんて、自分はなんて力を手にしてしまったのだろう。
 私はその日、一度も道に迷うことなく帰宅した。そうして部屋に着くなり寝室に籠り、静かに、ただ一人きりで枕を濡らしたのだった。

 私が悩んだのは、これをどうやってみんなに打ち明けようかということだった。
 通常の病であれば黙って治療を受けたり、薬を飲んだりしていられたかもしれない。でも今私が罹っているものは違う。徐々に記憶が失われていくとしたら、それをみんなにいつまでも隠しておけるわけがない。
 とはいえ、それを切り出すのはとても勇気の要ることだった。突然友人から「実は私、そのうち記憶がなくなっちゃうの」と聞かされたところで、いったいどんな気持ちになるだろう。しかも治る見込みもなく、時間もそれほど残されていない。自分からそんな告白を受けたみんなのことを思うと、笑えばいいのか泣けばいいのか、まるでわからなくなってしまうのだった。
 ある時、シオンからお誘いの連絡があった。テュオハリムやキサラの時間が取れたので、シオンの家で集まろうというものだった。
 いわば、あの頃のメンバーでのパーティだ。私はこれをまたとない機会だと踏んで、二つ返事で了承した。
 今夜こそはと意気込んで参加したパーティだったけれど、やはり事はそうなかなか上手く運ばなかった。こうした集まりが久々だったのもあってか、場はかなり盛り上がってしまっていた。
 これでは私の決して楽しくもない話なんか切り出せるわけがない。大人組のお酒も進んで、シオンとキサラと私とで用意した料理はもうほとんどが空になっていた。隣の席ではフルルとロウが最後のお肉を取り合っていて、シオンが優雅に15個目のドーナツを摘まみ始めるところだ。向かいでは珍しくお酒を口にしたキサラがほのかに頬を赤く染めていて、テュオハリムがしきりにその様子を気にしていた。アルフェンが会話の片手間にサラダに振りかけたのは、まるで火の粉のような真っ赤なスパイスだった。
 あまりにいつも通りな光景に、私は思わず泣きたくなった。鼻の奥が痛くなって、こみ上げてきた涙を必死に押しとどめる。誤魔化すのも辛くなって、私はアルフェンが食べようとしていたサラダの端を少し摘まんだ。たちまち舌が燃えるように熱くなって、ぎゅっと目をつぶると、そこでようやく涙は奥へと引っ込んでいってくれた。
「もう遅いわね。そろそろお開きにしましょうか」
 シオンの言葉に、アルフェンが立ち上がった。
「片付けはこっちでやっておくから、ロウ、リンウェルを送っていってくれ」
「ああ、わかった。おい、リンウェル。行くぞ」
「あ、うん。じゃあね、みんな。またね」
 手を振って、シオンの家を後にする。空にはたくさんの星と、少しの雲が広がっていた。
 なんだか今生の別れのような気もして、私はまた涙をこらえた。今日までは大丈夫だったけれど、次に会う時はわからない。私はその時、みんなのことを忘れているかもしれない。
 今日見たような光景に、懐かしさを覚えることさえできなくなるかもしれない。記憶を失うとは、そういうことだ。
 なんとか別のことを考えようとして、空を見上げている時だった。隣を歩いていたロウが、首を傾げながら訊ねてきた。
「なんかお前、元気なくねえか?」
 いつもの口調、いつもの呑気な表情だった。
「食いすぎか? それともハライタか? もしかして、最後に食ったサラダのせいだろ」
 だからあれはやめとけって言ったんだ。からかうようにロウは言った。
 私も笑って、いつも通りに応えればよかったのかもしれない。うるさいなあ、そんなんじゃないよと言って、笑ってやり過ごせばよかったのだ。
 けれど、私の口から出たのは、私も予期していない言葉だった。
「ねえロウ」
「ん?」
「もし、私の記憶がなくなっちゃうって言ったら、どうする?」
「はあ?」
 怪訝そうな顔をして、ロウは言った。
「なんだよそれ。何がどうなってそうなんだよ」
「例えば、星霊術の使い過ぎ、とか」
「なんだそれ。そんなの聞いたことねえぞ」
 聞いたことがないものにはなりようがない。そんなふうにも言いたげな口調だった。
「アルフェンみたいに仮面でも被らされたんならともかく。術の使い過ぎでっていうんなら、その辺にわらわら記憶喪失がいることになるだろ」
 ロウの言う通りだ。何も私だけが特別なわけじゃない。術をたくさん使っている人なら、他にももっといるはず。強い星霊術を扱える人も。
 だから私はきっと記憶を失わない。何も忘れない。そう信じたいはずなのに。
「……なあ。なんで泣いてんだよ」
 足を止めたロウと、正面から向き直る。
「……今言ったの、本当のことなのか」
 私は何も言わず、黙って頷いた。
「誰が言ったんだ」
「レナの、お医者さんから」
「いつ!」
「2か月くらい前……」
「なんで言わなかった!」
 ロウが私の両肩を掴んで、大きな声を出した。ごめん、と思わず私は俯いたけれど、ロウは続けて首を振った。
「そうじゃない。独りで抱え込んで、辛かったろって言ってんだ」
 気付いてやれなくて、悪かった。
 心から悔いるようなロウの言葉に、私の目からは涙が溢れた。街道の真ん中、星の瞬く空の下で、私は人目もはばからずに声を上げて泣いた。
 その後、私はロウに連れられてシオンの家に戻ることになった。事情を説明すると、その場がしんと静まり返った。ついさっきまで賑やかにはしゃいでいたのが、まるで嘘みたいだ。
 誰もが言葉を失っていた。息を呑むような沈黙の中に、時計の針の音だけが響いている。
 最初に口を開いたのは、キサラだった。
「それはつまり……これからリンウェルの記憶は、徐々に失われていくということか?」
「そう、みたい」
 私は小さく頷いた。
「にわかには信じがたいことだ」テュオハリムが珍しく、鋭い口調で言った。
「何しろそのような副作用とやらは聞いたことがない。術自体を制御しきれないというのならともかく」
 私の場合は、術を発動することには何の問題もない。術が暴走しているわけでもなく、ただその負荷がじわじわと身体に蓄積した結果のようだった。
「まさかそれが記憶障害という形であらわれるとは……」
「俺の仮面とも訳が違うんだろう。対処法が見つかっていないって、本当なのか?」
 テュオハリムとアルフェンは揃って難しい顔をして、首を捻った。
「シオン。君の周辺ではそういうふうな話を聞いたことがなかったかね。治癒術を学ぶ上で、何か耳にしたことはなかったか」
「……」
「シオン?」
 アルフェンに顔を覗き込まれて、そこでようやくシオンははっとした。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、驚いてしまって……」
 何だったかしら、と再び質問を聞き直して、シオンは首を振った。「ごめんなさい。私も、そういう話は聞いたことがないわ」
「その医者が、出まかせ言ってるってことはねえのかよ」
 やや苛立ったようにロウが言った。「どことも知れないレナの医者なんだろ。詳しく検査したわけでもねえし」
 私が医師の名を告げると、テュオハリムが何かを思い出したような顔をした。
「その名は私も知っている。若くして論文をいくつも取り上げられている、レナでも優秀な医師だ。彼の診断がすべて正しいとは言わないまでも、ただの思い付きや、まるで根拠のないことを述べているわけでもないだろう」
「け、けどよ。そいつも断言はできないって……」
 焦ったようなロウの横で、私の方へそっと腕を伸ばしたのは、シオンだった。温かい指が、私の肩に優しく触れる。
「けれど、あなたには何か確信があるんでしょう?」
 うん、と私はゆっくり頷いた。
 根拠も証拠もない、自分の中にだけ存在する確信。このまま何もしなければ、私は記憶を失くす。何もかもが漠然としているのに、ただひとつその結果だけは確固たるものとして私の中にあった。
 それに実際、この2か月で私の症状は確実に悪化していた。物忘れの頻度も高くなる一方で、その在り処を思い出すのにかかる時間も増えていった。帰り道に迷ったのはあの1度だけで済んではいるが、正直1人きりで出掛けるのは恐ろしくなりつつあった。道がわからないだけでなく、自宅の見分けもつかなくなってしまったら、私はいったいどこへ帰ればいいのだろう。
「私、怖いんだ。記憶を失くすのももちろんだけど、まるで私が私じゃなくなっちゃうみたいで……」
 何があっても私は私。これは旅をする中で、みんなから教わったことでもある。
 でも、その私という器の中身がなくなってしまったら、それは本当に私なのだろうか。たった十数年ではあるけれど、私がこれまで生きてきた記憶を失った時、その私とかつての私は同じ私といえるのだろうか。
「わかってるよ。もし記憶を失くしても、私とみんなとの関係は変わらないって。それだけは本当に、心の底から信じられる」
 みんなは優しいから、記憶を失った私に対しても同じように接してくれるだろう。今日のようにみんなで集まって、街に買い物に出かけて、遺跡探索についてきてくれて、他愛もないおしゃべりに付き合ってくれるに違いない。
「でも、私が私のままでいたい。旅のことも、それからのことも、今日のことだって、全部覚えていたい。みんなとの記憶を持ったまま、この先も生きていきたいの」
 それが、私が私であることの何よりの証拠だから。みんなと一緒に過ごしてきた時間、分かち合ってきた感情こそが、今の私を形作っているのだ。
「ご、ごめんね急に。こんなこと言っても、困らせるだけだよね」
 無謀な願い、わがままであることはわかっていた。苦笑いを浮かべた私に、それでもみんなは一斉に首を振った。
「お前が諦めたら、それこそ終わりだろ。お前が前向きでいるのが一番重要なんじゃねえの」
 ロウの言葉に、その通りだ、とテュオハリムが頷いた。
「優秀な医師が、まだわからないと言ったのだ。これはある意味で希望とも取れる。救いようがないと、とどめを刺されたわけではないのでね」
「まだいくらでも手立てはある、と言いたいのでしょう? だったらそうはっきり仰ってください」
 呆れたようなキサラの隣で、テュオハリムが「そうか」と頷いた。
「リンウェルには辛い思いをさせたかもしれないが、俺は打ち明けてくれてよかったと思っている。俺たちはもう1人きりじゃないんだ。困難なことは皆で考えて、皆で立ち向かおう」
「アルフェン……」
 うん、と私は大きく請け合った。
「リンウェル。私たちはあなたのその力に何度も助けられてきたし、今も同じよ。だからこそあなたの支えになりたいし、遠慮はしないでほしいの」
 シオンは私の両手を取り、こちらの目を真っすぐ見つめて言った。
「何があっても、私たちはあなたの味方よ。だからどうか、一緒に戦わせて。これまでもずっと、そうしてきたじゃない」
 その瞳には、今にも溢れ出しそうな分厚い涙の膜が張っていた。それが零れてしまう前に、私は顔を上げて頷く。
「みんな……ありがとう」
 そうして滲み出す視界の端を拭って言った。
「私、頑張るね」

 それから私たちの記憶を失わないための奮闘が始まった。
 テュオハリムは様々な伝手を使って、医師や記憶障害の専門家に声を掛けてくれていた。向こうとしても私は興味深い存在だったらしく、診察の依頼を快く引き受けてくれたようだ。
 とはいえそれのほとんどが、よくわからないレナ製の機械に入れられることだとは思わなかったけれど。レナの医師たちは私の体から得たデータを眺めながら、ああだこうだと何やら議論を交わしていた。どうやらダナの魔女は、知識の豊富な彼らであっても首を傾げてしまうような異質な体質らしい。
 アルフェンは、自分も記憶を失っていた時期があることから、カラグリアのドクを頼っていたようだ。診てきた患者の中にほかに記憶障害の者がいなかったかどうかも含め、何度もウルベゼクに通い詰めて詳しく話を聞いていたらしい。
 あるいはメナンシアの図書の間と連携して、そういうものに効く薬がないかどうか調べてくれていたようだった。「ぜひ試してみてくれ」と渡された薬の中には、とても苦いものもあって、舌に少量触れただけで全身に痺れるような衝撃が走った。むしろこれを常用した方が記憶が飛んでしまいそうだなと思ったけれど、それを飲むと記憶云々はともかく、何故か体の調子が良くなったので、私は頑張って飲み続けることにした。
 シオンとキサラはそれぞれの方法で情報を集める一方、私のことをよく街に連れ出してくれた。一緒にカフェに行ったり、あるいは誰かの家に集まっておしゃべりをしたり、それは楽しい日々だった。私が1人で考え込まないようにという配慮もあったのだろう。おかげで3人でいる時は、悪いことを何も考えずに済んだ。
「あら、このケーキ美味しいわ」
 ヴィスキントのレストランで昼食を摂りながらシオンが言った。私たちが3人で集まる時は、料理やスイーツの話題になることが多い。今日話にたまたま上がったのは、ランチのセットに付いてきた食後のデザートだった。
「んん、本当だ。食べるたびに味が違う!」
「これは熟練の技だな。イチゴの酸味に対して、クリームの甘さが絶妙だ」
 ねえこれ、とシオンが声を潜めて言った。「キサラ大先生のお力で、なんとか再現できないかしら」
「むむ……」
 キサラが腕を組んで考え込む。
「食材的には単純よね。スポンジケーキと、クリームとイチゴ。特別なものは特に入っていないんじゃないかしら」
「そうは言っても、これはなかなか厳しいぞ。そもそもお菓子作りは私の本領ではないしな」
「そんなこと言って、もう既に頭の中でレシピを考えてたり? いいなあ。私も知りたいなあ、それ」
「わかったわかった。そこまでいうなら、やってみよう。ただし時間がかかるかもしれないぞ。私は料理人でもパティシエでもなく、一介の元近衛兵に過ぎないのだからな」
 一介の元近衛兵はパティシエのレシピを再現しようなんて思わないはずだけれど。私はシオンと目を合わせてくすくす笑いながら、残りのケーキを頬張ったのだった。
 日常は矢のように過ぎ去って行く。
 私はいろんな医師に出会い、あらゆる治療法を薦められた。試せるものはすべて試した。薬も機械も、ちょっと苦痛を伴うものだって、我慢して治療を受けた。
 ためらいはなかった。記憶を取り戻せるのなら、保っていられるのなら、何でもするつもりだった。どうしてもみんなとの記憶を失くしたくなかったのだ。みんなとは出会ってほんの数年だけれど、今の私のほとんどはみんなとの思い出でいっぱいだった。楽しいことも悲しいことも、思い出せば隣には必ずみんながいた。
 それを思えば、どんな辛いことにも耐えられる気がした。みんなの存在は私の光であり、希望と同じものだった。
 私は治療の記録や日々の気付きを日記帳に書き留めるようになった。今日はどんな先生に会ってどんな治療をしただとか、何を忘れて何を思い出したとか、こうしたら物忘れが減りそうだとか、そんなことを生活の中で思いつくたびに日記帳を開いた。
 あるいはそれを読み返して、記憶の保存にも役立てていた。手を動かして何かを書き留めることは、長期間物事を記憶しておくのに効果的であると聞いたのだ。とはいえ果たしてそれが、私のような記憶障害に効果があるのかはわからないけれど。
 赤い表紙の日記帳はすぐにいっぱいになった。毎日書きたいことが多すぎて、思いつくだけ書き連ねてしまうのだ。
 つまりそれは覚えておきたいことがたくさんあるということでもある。そう思うと、私の毎日はなんて満ち足りているのだろうと幸せな気持ちになった。
 同時に覚悟も強まっていく。絶対に忘れない。忘れてやるものか。私は決意を新たにして、日々の治療に臨んだ。
 私が主に通っていたのは、ヴィスキントにある診療所だった。診療所といっても建物まるまるひとつを改装した立派なもので、そこにはテュオハリムの声掛けにより集められた医師や専門家たちが大勢常駐していた。
 私の診察は特別な検査がない限り、月に1、2度程度の頻度だったが、それには必ずといっていいほど毎回ロウが付き添ってくれた。朝、出かける前に家に私を迎えに来て診療所まで送ってくれる。そしてどんなに時間がかかっても、入口の前で私の診察が終わるまで待ってくれているのだった。
「また帰り道がわかんなくなったら大変だろ。お前が迷子になったらシオンもキサラも心配するだろうし、だったら、俺が送った方が確実じゃねえか」
 ロウはそんなふうに言うけれど、私は知っている。ロウが待つのが苦手だということも、本当は誰より心配しているのはロウだということも。
 じゃなかったら、こんなふうに頻繁にあの遠いカラグリアから訪ねてきたりしない。仕事で向かった先で、腕のいい医者はいないか、あるいはそれに関連した情報を聞き出そうとしたりしない。
 診察が終わるたび「どうだった?」なんて、はらはらした表情で訊ねたりしない。
 まあ、ロウにしてはその様子を上手く隠せている方ではあると思うけれど。
 私は忍び笑いつつ、ロウのそんな不器用かつ忠実しい親切を素直に嬉しく思っていた。
 ロウとはかなりの時間を一緒に過ごした。それはメナンシアに住むシオンやキサラよりも長かったかもしれない。
 ロウは私の診察だけでなく、買い出しにもよく付き合ってくれた。診療所から出た後で、いつものように市場に向かおうとしてロウが言った。
「今日買うものはわかってんのか? それなりに量があるっつー話だったけど」
「うん。だからね、ちゃんとメモ取ってきたんだ。忘れないように」
 そう言って鞄の中を探ったが、肝心のメモが出てこない。財布の中にもポケットの中にも、私が昨夜懸命に書き留めたノートの切れ端は見当たらなかった。
「まさか、そのメモを忘れたってことはねえよな」
「……ごめん」
 堪らずがっくりと項垂れる私の肩を軽く叩いてロウは言った。
「そんな気にすることでもねえだろ。誰だってそれくらい、忘れることもある」
 街歩いてりゃ、そのうちメモの内容も思い出せるかもしれねえしな。ロウはごく明るい調子で笑った。
「それともどうする? いったん家戻ってメモ探すか?」
 ううん、と私は首を振ると、そのままロウと一緒に市場へ向かった。不思議なことに、その日は必要な食材も日用品も、ひとつも買い忘れることがなかった。ロウの言う通り、通りを歩いて商品を眺めているうち、メモに書き出したものを思い出していったのだ。
「ほらな、言ったろ。だからそんなに気に病まなくていいんだって」
 にっと歯を出して笑ったロウの表情がうつったように、私も歯を出してにっと笑った。
 不思議だなあと思う。ロウは私を元気にしてくれる。ロウのそばに居る私は、いつも心から笑えている気がする。
 ロウはそういう魔法の使い手なのかな。もしそうだったら、どんなに素敵なことだろう。願わくば、その対象は私だけでありますように。ロウの隣を歩きながら、私はいつもそんなふうに祈っていた。
 晴れの日もあれば、雨の日もある。
 増えていく治療の一方で、その効果はほとんどあらわれなかった。
 私は物の置き場所や買い物のリストだけでなく、人の名前や顔さえも思い出せなくなりつつあった。よく図書の間で顔を合わせる見知った司書さんでさえ、ぱっと名前が出てこない。数秒経って思い出せたならいい方で、結局図書の間を出るまで思い浮かばないこともしばしばだった。
 今であれば「ちょっと疲れが溜まってて」「ちょっと寝不足気味で」と誤魔化せたとしても、この先はわからない。相手の顔も名前もわからないままコミュニケーションを取り続けるのはとても難しいことだ。私は次第に外出をしなくなり、事情を知る人以外との接触を避けるようになっていった。
 その分1人でいる時間は増えていく。するとまるで笠でもかかったかのように、私の心には昏く、重たい影が差すのだった。
「やっぱりこんな力、なかった方が良かったんだよ」
 ロウと牧場に出かけた時のことだ。私は青々とした芝生の片隅に座り込み、ぼうっと手のひらを見つめて言った。
「初めから星霊術なんか使えなければ良かったのに。それだったら記憶を失くすことも、みんなに心配をかけることもなかった。やっぱりこの力は呪われてるんだよ」
 それを扱える私も。呟いた私に、ロウが強い口調で反論した。
「そもそも、それだったら出会ってすらいねえだろ」
 ロウは私の手を取り、それを自分の手で包み込んで言った。
「シオンの言った通り、俺たちはお前のその力に何度も助けられてきたんだ。俺だって、親父にもうすぐ殴りかかっちまいそうだったところをお前に止めてもらったしな。すげえありがたかったし、今もそう思ってる」
 ロウの手のひらはぽかぽかとして温かかった。
「そんなふうに俺たちがお前と同じくらい大事に思ってるその力のこと、お前が否定するなよ。それは俺たちを否定することとほとんど一緒だろ」
 いつになく真剣なロウの視線は、真っ直ぐ私の心へと突き刺さった。
 私も、私が扱うこの力も、すべてひっくるめて大事なもの。私が私であるために、どうしても切り離せないもの。
 それを最初に教えてくれたのは、確かにロウだった気がする。
「ねえ、」
 私はロウの目を見つめたまま、同じように真剣な声で訊ねた。
「今私のこと、『俺たちが大事に思ってる』って言ったけど、それはロウもそう思ってくれてるってことでいいの?」
「へっ?」
 ロウは目を大きく見開いて、素っ頓狂な声を出した。
「私のこと、ロウも大事に想ってくれてるの?」
 逃がすまいと視線で捉え続ければ、ロウはとうとう降参したように頭を掻いて言った。
「あ、ああ、そうだよ! 何か文句あんのか!」
 その顔は耳まで真っ赤になっていて、私は思わず声を上げて笑ってしまった。
「ありがとう。少し……ううん、ものすごく元気出た」
 自分は本当に幸せ者だ。私はこれまで何度も思ったことをまた思った。みんなに心配してもらえて、大好きな人にも想ってもらえて。それを実感できただけでも、この病に罹った意義があったかもしれない。
 私たちはその日、初めてキスをした。一緒に家で夕飯を食べた後、ロウがそろそろ宿に戻るというところで、名残惜しくなった私の気持ちがロウのそれと重なった。
 玄関の扉の前、私の頬に触れたロウの指はとても熱かった。吐息が掛かりそうなほどにロウの顔が近づいて、私はほとんど反射的に目を閉じた。
 触れたロウの唇は、とても柔らかくて優しかった。ロウはトレーニングをしていてあちこち鍛え上げているのに、こんなに柔らかい部分があるなんて。
 唇が離れて目が合うと、みるみる恥ずかしさがこみ上げてきた。私はそれを押し隠すようにして、ロウの肩口に顔を埋めた。ロウの匂いがする。太陽みたいにあったかくて、安心するロウの匂いだ。
 どこかほっとしつつ、高鳴り続ける胸を宥めながら思った。今この瞬間のことも、いつか私の記憶から消えてなくなっちゃうのかな。
 こんなふうにものすごくドキドキしているということも、それが眩暈がしそうなくらいだということも、いずれは忘れて思い出せなくなっちゃうのかな。
 いや、そうじゃない、と思ってみる。もしそうだったとしても、それはつまり、私はこのドキドキを何度でも味わうことができるということだ。
「お前、また悲しいこと考えてないか」
 私の背に回した腕を強めながらロウが言った。
「何か寂しいこと考えてるだろ」
 その肩口に顔を埋めたまま、私はううんと首を横に振った。
 この世界に悲しいことなんかひとつもない。私を取り巻くすべては優しくて、眩しくて、あたたかいものばかりだ。そう、まるで太陽みたいに。
 だから大丈夫。私は悲しくも、寂しくもならない。
 私が世界を信じる限り。みんなを信じる限り。
 私がそうと思わない限り。

 記憶は剥がれ落ちていく。まるで壁に敷き詰められたタイルが1枚、また1枚と落っこちていくようなそれは、その止め方を誰も知らない。
 どんな手段も、どんな努力も通用しなくなりつつあった。医師も専門家もほとんどお手上げ状態の中、私とみんなだけが前を向いていた。時間に急かされながら必死に笑顔を取り繕い、ただひたすら足だけを前に進める。
 それでも、背後から迫る限界の足音を無視することはできなかった。
 とある星がきれいな夜、私はふと思い立ったようにクローゼットから一番大きな鞄を引っ張り出してくると、その中にありったけの着替えと日用品と、貴重品をこれでもかと詰め込んだ。最後にこれまで書き溜めてきた日記帳を押し込んで、口を閉じる。
 机の引き出しから取り出したのは、以前から用意してあったみんな宛の手紙だった。それをリビングのテーブルの目立つところに置くと、私は風船のように膨らんだ鞄を手に、フルルだけを連れて部屋を出た。

   ◇
 
 つくりのしっかりとした日記帳も、毎日開いていると擦り切れそうになってくる。
 初めは治療記録ばかりだったそれも、次第に内容は増えて、みんなと旅していた頃の思い出や、あるいは幼少期に暮らしていた雪深い集落のことまでが詳細に記されていた。
 きっと自分が今覚えていることをすべてを書き留めておこうと思ったのだろう。全5冊にも及ぶ日記帳シリーズは、もはやちょっとした伝記のようにも思えた。
 人生そのものを追うかのようなそれを、私はまるで誰かほかの人が書いたもののような気持ちで眺めている。もしくは創作された物語のように、どこか遠いところから覗いている気分だ。
 だって、にわかには信じがたい。まさか、ここに書かれているようなことが、自分の身に、この世界に実際に起こっただなんて。
 何度試してみても、何も思い出せなかった。今の私の記憶はどうやら3日程度しか持たないということも、この日記帳から知った。
 この村に辿り着いてから、私は一日も欠かさず日記をつけていた。朝起きてからしたこと、その日食べたもの、見た風景。そして何を感じ、どう思ったかまでを逐一詳しく。
〈いつ記憶が途切れるかわからないし、覚えているうちに感じたこと、考えたことを書き残しておきたい〉
〈だってそれが私の生きた証になるはずだから〉
 初めてここを訪れた日の夜、私はそう記している。真面目で賢くて、前向きな子だったのだろう。真っ直ぐで素直な筆跡からも、それは見て取れた。
 きっと、それゆえに気付いてしまったのだ。自分が記憶を失くしていくことで、周りがどんな気持ちになるか。どんな表情をするか。
 きっと私は想像してしまった。だからみんなの元を離れてここへ来た。そうでしょう?
 いわばこれは彼女の最後のわがままだ。それまで絶え間ない努力を続けてきた彼女の「傷ついたみんなの顔を見たくない」という、優しすぎるわがまま。
 それくらいは赦されてもいいのではないかと思う。彼女はそれに見合うだけ、いや、それ以上に充分頑張ったと思うから。
 おそらくみんなも赦してくれているはずだ。今となっては顔も声も思い出せないけれど、私をとても信頼してくれていた仲間たち。背中を預け、心も預け合う仲とは、いったいどれほどの苦難を共に乗り越えてきたのだろう。おそらく、ここに書かれていないこともたくさん起こったのだろうけれど、私には到底想像もつかない。
 今の私にできるのは、それを記録から追うことだけ。その時何を思ったか、考えていたかはわからないし、わかりようもないことだ。
 だからこそ、こうして穏やかな心でいられるのだと思う。人にとって、より悲しいのは忘れることでなく、それをどうしても思い出せないこと。何を忘れたのかも忘れてしまった私は、どう悲しむべきかもわからないまま、今日もまた日記帳を開いている。
 
 今日の風はいい香りがしていた。花か、あるいは草木をもって染め上げたような芳しい香り。
 ひんやりとはしているけれど、こんな日は洗濯物がよく乾く。さっきも、衣類を外の物干し竿に吊るしてきたところだった。ある程度乾いたら、今度は毛布を干すのもいいかもしれない。日射しをたっぷり浴びた毛布に包まれば、今夜は極上の眠りにつけるに違いない。
 今の私も、かつてと同じようにフルルと2人で暮らしている。基本的な家事はできるし、日常の習慣にも何ら問題はないけれど、困ったのは買い出しに出る時だった。何せ人より記憶が曖昧なものだから、家に何があって何がないのかおぼろげなのだ。メモを取っていっても、今度は店の場所が思い出せない。帰り道に迷子になることも増え、さすがにこのままではまずいと、今は近所の人に事情を説明して手伝ってもらうようにしている。それ以降、生活は劇的に改善され、本当の意味で不便も不満もなくなった。同じ洗剤のストックが増えることもなくなったし、朝食べるパンがないと嘆くこともなくなった。
 料理についても同様だった。手に馴染んだものは作れても、少し手間がかかると苦戦してしまう。味付けもいまいちピンと来ないことが多く、料理は大部分を経験に頼っているのだなと、私はここに来て初めて知った。
 とはいえ同じ料理ばかり食べていても飽きてしまうので、これもまた近所の人を頼ることにした。幸いこの村は親切な人が多く、そういった私の急で無茶なお願いにも嫌な顔をする人は誰もいなかった。
 むしろ困っていることはないかと自ら声を掛けに来てくれるくらいだ。私はありがたくその親切を受け取り、この村でごく穏やかな毎日を送れている。誰も私の過去を知らず、詮索することもない。まるでカーテンを靡かせる風のような、静かで優しい日常。
 ちょうど今日も、近所に住む奥さんが買い出しの品と料理を届けに来てくれる日だった。奥さんの料理はとても美味しい。初めて食べるものばかりなのに、どこか懐かしい味がするのだ。
 わくわくしながら日記帳を閉じて、何か飲み物でも飲もうと席を立った時だった。部屋に来訪者を告げるベルが鳴る。
 時計を見ても、まだ昼よりも随分早い時間だった。奥さんが訪れるのは、いつも正午を少し過ぎた頃なのに。
 何か他に用事でもあるのかと思って、私は躊躇わず扉を開けた。するとそこに一人でぽつりと佇んでいたのは、見慣れない男の人だった。
 変わった髪色だな。第一印象は、そんなふうに思った。変わった髪型をしている、とも。後ろに撫でつけられた前髪の中で、髪飾りのついた一房だけが前に垂れ下がっている。
 彼は私の顔を見るなり、その大きな翡翠色の瞳を大きく見開いた。
「やっと、見つけた……」
「え……?」
 何か言葉を発する間もなく、私は彼が伸ばしてきた腕に抱きすくめられた。
 たちまち身体中を駆け巡ったのは、懐かしい匂いだった。私を安心させる、太陽みたいな匂い。
 私は、この匂いを知っていた。その名前の紡ぎ方も。
「…………ロウ…………」
 たちまち鼻の奥が痛くなって、視界が滲んだ。溢れたのは、これまでその流し方さえ忘れていた涙と、ずっとこの胸のどこかに秘められてきた誰かへの想いだった。
 
 終わり