完全に私の判断ミスだった。
何もかもわかっていたのに。向こうから分厚い雲が近づいてきていることも、それを見たフルルやロウが心配そうにしていることも。
わかっていて、私は自分のわがままを優先してしまった。もう少しで終わるからと、意匠のスケッチを続け、壁に記された古代文字の解読に没頭してしまった。
自分の犯した失態に気付いたのは、ざあざあという音を聞いてからだ。はっとして立ち上がると、遺跡の外では桶をひっくり返したような大雨が降っているのが見えた。そうこうしているうちに風はみるみる強まってきて、建物に繋がる道の先はあっという間に視界が取れなくなってしまった。
「結局降られちゃった……」
私は遺跡の入口から空を見上げながら、思わずため息を吐いた。
「ぎりぎり、間に合うと思ったんだけどな」
「それにしては、随分夢中になってたみたいだったけどな」
隣から訝しげな視線を寄越してロウが言った。
「だから言ったんだ。早めに切り上げて、街に戻った方がいいんじゃねえかって」
「だ、だって、ちょうど乗ってきたところだったんだもん。それに、こんなひどい雨になるとも思わなかったし」
「ひどくねえなら濡れて帰ってもよかったってのかよ。雨具も用意してないくせに」
私はむっとしたけれど、言い返すことはできなかった。ロウの言い分は正しいし、ほとんど図星だったからだ。こうなる前に見切りをつけるべきだった。今日でなくとも、遺跡を調査する機会ならいくらでもあるのだから。
「これじゃあ帰ろうにも帰れないよね。しばらく待機かな」
「まあ、そうなるだろうな」
ロウは困ったように頭を掻いた。
「あーあ、どうすっかな。今日、宿のおっさんに手伝い頼まれてたんだよな」
「えっ、」
私はぎょっとしてロウの方を見た。「何それ、聞いてないよ」
「こんな遅くなるとは思わなかったんだよ。しかも雨まで降ってくるし」
何もかもが予定外、というふうにロウは肩をすくめた。
「で、でもそれなら早く言ってくれれば、」
「お前の調査と、俺の依頼はまた別の話だろ。俺だって、少し急げば間に合うと思ってたんだよ。まあ結局ダメそうだけどな。だからこれは俺の判断ミスでもある」
悪かったな、とロウはあまり悪びれる様子もなく私の肩を叩いた。
「とはいえ、約束は約束だからな。仕方ねえけど、今回は素直に謝るしかねえか」
そんなふうに諦めモードに入ってしまったロウに、私はううんと首を振った。
「それはダメだよ。その人って、ロウもよくお世話になってる人でしょ。今後の信用にも関わるじゃん」
「けど……」
「今からでも、急げばきっと間に合うよ。私も走るから」
幸い、ここから街まではそれほど離れていない。雨で多少道は悪いかもしれないけれど、そんなことも今は気にしていられなかった。
私は持っていたノートやペンを鞄に押し込むと、しっかりと口を閉じた。そしてそれを肩から提げ、ストラップを強めに握り込む。
「じゃあ行くよ! フルルもしっかり隠れててね」
フル! とフードから小さい声が聞こえたのを確認すると、大きく息を吸い込んだ。そうして私はロウと2人、雨の降りしきる山道を駆け出したのだった。
街に着いても、まだ雨は弱まっていなかった。額に張り付いた前髪を指で払いながら城門を抜ける。
私はここまででいいと言ったのに、ロウは「どうせ通り道だから送る」と言って聞かなかった。まったく、ロウは人を待たせているという自覚が足りないらしい。これじゃあ私が全力を出して走っている意味がないじゃない。そんなふうにロウをほんの少し恨めしく思いながら、私はなおも必死で足を動かした。
自宅の前まで着いてから、私たちはようやく息をつくことができた。すっかり濡れ鼠になってしまった上着が水分で重たい。裾もフードも、絞り上げればいくらでも水滴が滴りそうだ。
「じゃあ俺、行くからな。髪も身体も、これ使ってちゃんと拭いとけよ」
ロウはそう言って自分の鞄から白いタオルを取り出すと、私の頭へと覆い被せた。
「え、あ、ちょっと!」
「じゃあな! また明日な!」
再び駆け出したロウは通りを抜け、あっという間にその背中も見えなくなった。やがて辺りには雨が石畳を打ち付ける音だけが響くようになる。
もう、強引なんだから。私は半ば呆れつつ、ロウに渡されたタオルを手に取った。こっちは家に着いたんだから、タオルなんていくらでもあるのに。
それでも、これはロウの思いやりそのものだ。私は密かに笑みを浮かべながら、そのタオルを顔に押し当てた。ほのかな石けんの香りと一緒に、ロウの匂いも入り混じっているような気がした。
翌朝は、まるで嘘のような晴天だった。青い空はどこまでも澄み渡っていて、辺りにはふんわり羽を浮かすような風が吹いている。雲の影は見当たらず、今日こそは1日すっきりとした天気になりそうだった。
私は朝食を摂りながら、ロウのことを考えていた。あの後、ロウは無事に宿に辿り着いたかな。宿屋の主人の手伝いとやらはきちんと果たせただろうか。あちこちでいくつもの依頼をこなしてきているロウだから、その辺はあまり心配しなくても良いのかもしれないけれど。
むしろ気になるのは、その体調の方だった。あんなに雨に濡れて、さらにタオルまで私に渡したとなると、しばらくの間はずぶ濡れだったはずだ。さすがに宿に着いてからはタオルも借りられそうだけど、その後は面倒だからとかなんとか言って手伝いの方を優先していそうな気がした。普段あまり進んで浴室に入りたがらないところを見ると、きっとシャワーを浴びたのは就寝前だと予想する。それまで髪の毛も身体も濡れたままでいたとして、まさか風邪を引いたりしていないだろうか。
そうはいってもあのロウだ。身体は頑丈だし体力もあるし、おまけに頭は弱いから自分が風邪を引いたことにも気が付いていないかもしれない。たとえ昨夜寒気を感じていたとしても、一晩眠ってすっきり全快、ということも充分考えられた。
だからきっと大丈夫だろう。ロウは今日も元気に私に会いに来てくれる。
それが根拠も何もない、単なる私の願いだと思い知らされたのは、割とそのすぐ後のことだ。
「そういえばあいつ、今朝からくしゃみしてたなあ」
そんなことを聞いたのは、ロウが泊まっている宿の主人からだった。買い出しに出かけた際、市場でたまたま会ったのだ。
「昨日もあの雨だっただろう? 帰ってきた時もずぶ濡れだったし、まさか風邪でも引いたのかと思って聞いたんだ。そしたら、」
「そしたら……?」
「『いや、大丈夫だ』って笑うだけだった。けど、その後は鼻もすする音が聞こえたりしてなあ」
くしゃみだけでなく、鼻まですすっていたなんて!
私は茫然かつ愕然としたところで、行先を肉屋から青果店に変更した。そうして手早く買い物を終えると、急いで自宅へと戻った。
午後になると予定通り、ロウは家に現れた。
「よお。昨日は大丈夫だったか?」
「それはこっちの台詞!」
私は玄関の扉が閉まるなり、ロウの身体に飛びついた。
「おお!?」
咳、鼻水……今のところはナシ。身体をだるそうにしている様子もない。
けれど、額に手を翳した瞬間、
「んん……ちょっと高くない?」
「高い?」
「熱だよ、熱!」
私はロウの腕を引くと、リビングを通り抜けてそのまま寝室へと押し込んだ。ベッドの縁に強制的に座らされたロウは、いまだ事態を把握できていないようだった。
「熱って、誰が?」
「ロウだよ! 他に誰がいるの!」
思わず私は声を大きくした。
「聞いたよ、宿のおじさんに。今朝からくしゃみしてるし鼻もすすってたって!」
私はさっきおじさんから聞いたことをロウに話して聞かせた。
「昨日のあれで、風邪引いちゃったんでしょ!」
語気は強まるものの、私は内心ではすっかり意気消沈してしまっていた。
「ロウが風邪引いたなら、それって確実に私のせいじゃない。雨に濡れて、タオルも奪っちゃって」
私自身が雨を降らせたわけじゃなければ、タオルを無理やり持ち去ったわけでもないけれど、ロウが風邪を引いてしまったことの根本の原因はやっぱり私にあるような気がした。私があそこで早めに帰ることを選択していれば、そもそも雨に打たれることもなかったのだ。
ロウは自分の判断ミスであるとも言ったけれど、それも違う気がした。ロウはきっと、私が調査に夢中になっていて、それに水を差すまいと気を遣ってくれたのだ。
ロウは私が好きな物を誰よりよく知っているから。その上で、私がやりたいことを好きなようにさせてくれるから。――多少自分を犠牲にしてでも。
「本当にごめん。私ってば、いつも自分のことばっかり考えて、今回なんてロウに風邪まで引かせちゃって……」
反省すべき点ならいくら挙げてもキリがない。これではもうほとんどロウにケガを負わせてしまったことに変わりはない。
だから私は考えた。私が今からロウに償える方法。ロウの風邪が早く良くなるように、私がしてあげられること。
「というわけだから、ロウにはひとまずここで休んでもらおうと思って」
「へ?」
それまでぽかんとしていたロウが、さらにぽかんとした顔をする。
「私が徹底的に看病するから。ひどくならないうちに治しちゃおう」
風邪は引き始めが肝心、と聞く。今はまだそこまで悪くなってはいないようだし、早いところ体を休ませれば大事には至らないかもしれない。
フルルにも一時的に杜で過ごしてもらうことにしたので、イタズラされる心配もない。宿よりかは幾分広いこの部屋でなら、ロウもゆっくり療養できるはずだ。
「そうはいったってなあ……」
ロウは困ったように眉をハの字にすると、決まり悪そうに頭を掻いた。
「お前が言うほど、具合悪くねえしなあ」
「そんなこと言って、風邪ってみるみる悪化しちゃうんだから。油断しない方がいいよ」
私は物知り顔で言った。
「それに、私に甘えられるのは今のうちだよ。ロウに迷惑かけちゃった分、何でも言うこと聞いてあげる」
「何でも……?」
そこでふと、ロウの目つきが変わった。
「今、何でもって言ったか?」
「う、うん」
私はたじろぎながらも頷いた。
「私にできることなら、だけど。飲んだ瞬間元気になる薬を作れ、とかは無理だよ」
「んなこと言わねえよ。お前は俺を何だと思ってんだ」
呆れたように言った後で、ロウはしばし考え込む素振りを見せた。そして何か思いついたような顔をすると、
「肉料理が食べたい」
と言った。
「えっ? お肉? 風邪引いてるのに?」
「治すには体力つけないとだろ。できれば味濃いーめの、こってりしたやつな」
なんとなく腑に落ちない点はありながらも、私は渋々頷いた。せっかく果物とか野菜とか、栄養になりそうなものを買ってきたのにな。口は曲げつつも文句は言わない。むしろそれらはロウにとってはある意味、元気を奪ってしまうものなのかもしれない。
「それと、喉が乾いたな」
なんせここまで走ってきたからな、と鼻を鳴らすロウに、私は注文通りグラスに水を注いで持ってきた。ちょっと奮発して、砕いた氷も入れてあげた。
ロウはそれをひと息に飲み干すと、「かーっ! 生き返る!」と声を上げた。まるで夜の煙たい酒場にいるおじさんみたいだ。ロウが飲んでいるのはお酒ではなく、ただのキンキンに冷えた水だけれど。
「あとは、そうだなあ」
ちらりとこちらに視線を寄越したロウは、そこで思いがけないことを口にした。
「キス、してもらおうか」
「え……?」
きす……キス!?
予想だにしなかった言葉に、私の声は思わず上ずった。
「な、なんで!?」
「なんでって、何でもするっつったのはお前だろ」
いや、まあそれは確かにそうだけど……。でも、それと風邪を治すのにいったい何の関係があるんだろう。
首を傾げる私などお構いなしに、ロウは自分の膝の上をぽんぽんと叩いた。私は一瞬躊躇いながらも、意を決してロウの脚に跨った。
ロウの首に腕を回すと、至近距離で視線が絡まった。その目はなんだかニヤニヤしていて、どことなくいやらしい。
「……あまり見ないでよ」
そう言っても、
「言うこと聞くのはお前だろ」
ロウは取り合ってくれない。
私は諦めて、自分から顔を寄せた。寸前で目を閉じ、自分の唇とロウのそれを重ね合わせる。
ロウの温かい体温が唇を通して伝わってくる。私の心臓はたちまちどきどきと脈打って、ぽつぽつと体のあちこちに熱を灯し始めるのがわかった。
少し恥ずかしいけれど、ロウとキスをするのは嫌いじゃない。むしろけっこう好きといってもいい。抱き合うより、手を繋ぐより、特別なことのような気がするから。
ロウとの距離が一番近くなる気がするから。それは物理的に、という意味じゃなくて、心と心の距離の話だ。
初めてキスをした時もそうだった。当時の私は、ロウのことが好きで好きで仕方がなかった。少しの間離れてしまうのさえ寂しくて、ロウが帰った後は本を読んだり考え事をしたりして気を紛らわせることもあった。
とうとう辛抱できなくなった時、私は宿に戻ろうとするロウを引き留めてしまっていた。頭で考えたわけではない。身体が、ほとんど反射的に動いたのだ。
振り返ったロウの顔を見て、すぐにわかった。ロウも同じ気持ちでいてくれている。そうして、次に何をするのかも。
緊張でくらくらしながらも、私たちは初めて唇を合わせた。上手く呼吸が出来ていたか、あるいは止まっていたかもわからない。ただ柔らかくて優しくて、それでいてほんの少し切なく思ったのだけ覚えている。
恋って不思議だと思った。気持ちが通じ合うと、互いに考えていることまで伝わってしまうのかもしれない。顔を見ただけ、視線を合わせただけで、相手をどう思っているか、その気持ちの強さまでわかってしまうものなのかもしれない。
だったら、と思って急に恥ずかしくなったのは当時の私だ。堪らず小さく顔を俯かせる。
「どうした?」とロウは不思議そうにこちらを覗き込んできたけれど、とても目を合わせられそうにはなかった。その時の私はきっと、これまでで一番強い想いを覗かせていただろうから。
あの時ほどの情熱はなくとも、今だって私はロウを強く想っていることには違いない。だからこそロウが風邪を引いたと聞けば心配になるし、そばにいたくなるし、どんな些細な願いでも叶えてあげたい気持ちになる。それがたとえ肉料理が食べたいとか、よくわからないことであっても、自分にできることなら尽くしてあげたいと思う。
こうして私はまた何度も思ったことを思うのだ。私って、やっぱりロウが好きなんだな。
ロウも同じだ。私が何度口づけても「もっかい」「まだ足りない」などと言って、腰に回した腕を解いてはくれない。口元には穏やかな笑みをたたえながらも、その瞳は昂る熱を隠せずに、じっと目の前の私だけを捉えていた。
そんな顔されたら、と思う。もっと浸っていたくなる。好きな人に愛されている、というこの空気に。
私は負けじと唇を押し当てた。私だって、ううん、私の方がきっとロウを好き。口にしたところで認めてはもらえないこの想いを、私は自身の熱をもって伝えることにした。
そうしてどのくらいの時間が経っただろう。互いの吐息と熱気で身体が火照り始めた頃、私はようやく気が付いた。
「なんかロウ、元気そうだね……?」
ここを訪ねてきた時もそうだったけれど、咳ひとつしなければ鼻水をすすることもない。思い切って額同士をくっつけてみれば、今は断然私の方が高い体温を持っていた。
そこで頭の中に微かな疑問が過る。
「もしかして、風邪じゃない……?」
おそるおそる訊ねると、ロウは呑気に「ばれたか」と笑った。
「ええっ!」
思わず強い声が出た。
「じゃ、じゃあ嘘ついてたってこと!?」
「嘘どころか、俺は風邪だなんて一言も言ってないぜ。お前がただ早とちりしただけだろ」
曰く、ロウが今朝くしゃみをしていたり鼻水をすすったりしていたのは、宿のホコリによるものらしい。
「昨日、手伝いであちこちの棚を動かしてたんだよ。それで朝になってもまだホコリが舞ってたんだろうな。鼻がムズムズするのなんのって」
客が少なくて助かったよな。あ、今のはおっさんに内緒だからな。告げ口するなよ。ロウはそんなふうに言って、またけらけらと笑い出した。
「なんだ……」
私はなんだか拍子抜けした気分だった。でも良かった。ロウが風邪じゃないのなら。
「お前が『なんでも言うこと聞く』っつーから、ついからかいたくなったんだよ。まあ、本当になんでも聞いてくれるとは思わなかったけどな」
「ひどいよ。こっちは本気で反省して、心配してたのに」
「まあまあ、たまにはいいだろ。すげえ可愛いお前も見れたし。なんならまたやってくれても――」
やらないよ、と私が被せ気味に言い切ると、ロウはちえーとつまらなそうな声を出した。
「つーか、本当に風邪引いてんならこんなことさせるかよ。感染ったらどうすんだ」
「それもそうだね」
「お前の方こそ、ちゃんと断れよな。危機感足りてねえんじゃねえの」
強請ったのはそっちのくせに。私は口を尖らせて、あからさまに抗議した。
それでも、ロウの風邪なら少しくらいもらってあげてもいいかもしれない。一瞬でもそんなことを考えてしまったのは、ロウより私の方が熱を上げてしまっているからかもしれない。
いまだ腕を解かず、にやにやとこちらを覗き込んでくるロウは、私のそんなふうな考えになんてちっとも気付いていないんだろう。
私は少し悔しくなってロウの方へと体重をかけた。
「うおっ」
2人揃ってベッドの上に転がる。そうして互いに髪も服もぐちゃぐちゃにしたまま、顔を見合わせて大笑いしたのだった。
終わり