祝賀会、なんていうのは耳当たりの良い言葉で、言ってしまえば宴会と何も変わらない。
あろうことか会場――もとはブレゴンの所有する隠れ家だが――は既に酔っぱらったいい大人たちの喧騒で溢れ返り、まともに会話も通らなければ煙草で煙って頭数さえ数えていられない状況だ。
これでは誰が参加していつ帰ったのかなど到底把握できそうにない。それくらい自己申告で済ませてよねと誰にも聞こえない不平を漏らし、事前に記入してもらった名簿をペンで叩きながらリンウェルは溜息を吐いた。
「いやぁめでてえなあ!」
「ようやく悲願叶ったり!」
あちこちから飛ぶ歓喜の声に瓶を弾けさせる音が混じって、辺りはちょっとした演奏会みたいになっている。ただし秩序はまるでない。
よくもまあこんな頭の割れてしまいそうな場所にこれだけの人数が集まったものだなと思うが、今夜に至っては致し方ないのかもしれない。
それもそのはず、紆余曲折を経てカラグリアとシスロディアの正式な交易がようやく始まったのだ。
取り決めの中心となったのはカラグリアの〈紅の鴉〉とシスロディアの〈銀の剣〉だ。お互いに以前はレナへの反抗組織として活動していたが、ダナとレナが融合して以降は領民のまとめ役として先頭に立っている。
橋渡しとなったのは、どちらとも面識のある自分とロウだった。とはいっても自分は〈銀の剣〉に話を通しただけなので大したことはしていないのだが。
ロウの方は〈紅の鴉〉の主要メンバーとともにもっと深く携わっていたようで、ここ最近は両所をせわしく行き来していた。環境も生活様式も異なる領の擦り合わせは自分が想像しているよりずっと大変だったに違いない。会うたびに増えるロウのため息に心配もしたものだ。
その苦労もこうして実り、今ではすっかり大人たちに気に入られ輪の中で飼い犬よろしくもみくちゃにされてしまっている。リンウェルと違って酒が飲める年になったとはいえ、最年少メンバーとして可愛がられているのだろう。
その様子を遠巻きに見る自分も一応功労者としてここへ呼ばれたわけだが、酒の味を知らないお子様は隅で大人しくしているのがいい。そう思ってグラスのオレンジジュースをちびちび煽っていると「暇なら参加者のチェックを頼む」などとすっかり出来上がってしまったブレゴンに言われ、仕方なくペンを持っているというわけだ。
もはやここにいる意味など存在していないのだろうが、向こうで騒ぎ立てる大人たちは自身がどこにいるのかすらもおそらく把握できていない。予算の乏しい祝賀会はきっちり両組織で割り勘ということで、今やただ一人残された立会人としての意義は降り積もる雪よりも重たいものとなっていた。
「おーいリンウェル、ロウが潰れたぞ」
声が上がったのは会が始まってから数時間、宴としてはまだまだ盛りの頃だった。
手を上げていたのは顔を赤くしたネアズだった。もとより穏やかではない目元をさらに鋭くさせ、なんとも近寄りがたい雰囲気を醸している。
呼ばれたリンウェルが人々の間を抜けて輪の中へと押し入ると、そこには壁にもたれるようにして座り込んだロウの姿があった。
「ブレゴンが上の階に部屋を用意してあるらしい。そこに運んでくれ」
「もう、なんで私なの」
「俺たちみんな酔っちまってるからなあ。階段から落っこちたら大変だろう?」
普段とはまるきり違うネアズの口調に真実味を感じ、リンウェルはロウの肩を叩いて揺り起こした。陥落一歩手前というところで踏みとどまってもらい、肩を貸して重たい荷物を引きずるように引っ張っていく。
「ほら、部屋まで歩いてよ。寝られても私じゃ運んでいけないから」
「おう……わるいな……」
夢うつつというよりは夢に浸かりながら歩くロウの覚束なさには正直肝が冷えた。足を踏み外せば諸共階段下へ真っ逆さまだ。
ロウがこんなふうになるなんて珍しい。比較的酒に強いロウは仲間内で飲むときもケロッとしていて、多少顔を赤くしていても足取りまで持っていかれることはあまりなかったはずなのに。
とはいえ一つ大きな仕事を終えたのだと思うと気も抜けるのかもしれない。ブレゴンがあらかじめ部屋を用意していたのは正解だったというわけだ。
「ほら、着いたよ」
部屋のドアを開け、もはや返事すらしないロウをベッドに座らせるとリンウェルは深く息をついた。
ゆらゆらと振り子のように上体を揺らすロウはどことなく上機嫌にも見える。普段の姿からは想像もつかないほど大人しいが、酔って喚き散らしたり怒鳴ったりするよりよっぽどいい。
リンウェルが辺りを見回すと小さなテーブルの上のポットが目に入った。中身は氷の入った冷水のようで、さすがこういった気遣いはいかにもブレゴンらしい。
「水いる?」
「……んん……」
グラスに水を注ぎながらロウに問うがいまだ返事はない。眠っているのかとも思ったが、時折薄く開く瞼はどうやら夢の境にいるようだ。
「ねえ」
「……る……」
「え? なに?」
ささやかすぎる返答を今度こそ拾おうと近づいた瞬間、強く腕を掴まれた。それまで微睡んでいたはずの瞳がぼんやりこちらを捉えている。
――ちょっとまって、
過ぎった予感は現実となる。
そのままぐいと引き寄せられ、迫ってきたロウの顔にリンウェルは息を呑んだ。
唇に感じる感触はきっとロウのそれで、今自分が至っている行為はキスと呼ぶのだと理解するのにはやや時間がかかった。
何せ経験が無いのだ、おまけに何の準備もできていない状態で転がり落ちたこの状況に混乱は必至といってもいい。
自覚と同時に鳴り出した鼓動の音は耳元のすぐそこまで迫り、頭の中でなお強く打ち付ける。
「――~~ッ!」
決して油断などしてはいなかったが、戸惑いのさなか挿し込まれた舌に口蓋をこじ開けられると、それがいかに甘かったのか思い知らされた。
容赦なく掻き乱され、あるもの全部持って行かれそうになる感覚は未知のもので、抗う術など当然持ち合わせてはいない。胸も呼吸もひどく苦しい。
崩れそうになる膝を必死でこらえていると、ロウの右手が後頭部へと回った。
さらに強く押さえつけられて酒精の香りがむせかえるほど香ったところで何かガラスのようなものが割れる音がした。リンウェルの左手からグラスが零れ落ちたのだ。
「……ぁ……」
反射的に取った距離がリンウェルを現実へと引き戻した。濡れたブーツのつま先から徐々に水の冷たさが伝わっていく。
「リン……ウェル……?」
再び交わった視線の先では、ロウが大きく目を見開いていた。
それが何を意味するのかなど考える余裕はなかった。今やほとんど体をロウに預け、かつてないほど迫った距離になおも鳴りやまない心臓の居場所を隠すことで精いっぱいだ。
「ロ、ウ……」
名前を呼ぶのがやっとだった。知らず知らずのうちに掴んでいたロウの上衣にはくっきりと皺が寄っていた。
次の言葉を期待しなかったと言えば嘘になる。自分の中で秘めていたそれとぴったり重なると信じて止まなかった。――ロウが俯いて一言、「忘れてくれ」と言うまでは。
その後のことはあまりよく覚えていない。気が付いたら自室のベッドの上だったということは、隠れ家を出てきちんと家まで帰ったということなのだろう。
部屋に投げ捨てられたブーツは左のつま先だけ染みになっていた。どうやらあれは全部夢ではなかったらしい、――残念ながら。
リンウェルはベッドを抜け出すと、重い体をのろのろと窓際まで引きずっていく。カーテンを開けると既に日は高くのぼっていた。
酒を口にしていないはずなのに痛む頭の理由には、鏡を見て初めて気が付いた。
満身創痍、意気消沈。
それでも容赦なくやってくる空腹に抗えず、リンウェルは食料を求めて街に出た。腫れた瞼は氷で冷やし、汚れたブーツは二番手の出動によってなんとか取り繕った。
嫌なことがあった日には美味しいもので腹を満たしたいが、今の自分に自炊する気力はない。気慰みにちょっと奮発してお高めのパンとハム、新鮮そうなレタスを購入し、軽くサンドして食べようかと思案していたところ、背後から声が掛かった。
「リンウェル! 昼の買い出しか?」
明るい調子のしゃがれた声は酒焼け真っ最中のブレゴンのもので、リンウェルは思わず自分の頬が引きつったのを感じた。昨晩、ブレゴンに頼まれた役目を放棄して家に帰ったことを思い出したのだ。
「昨日は真っ先に酔いつぶれてしまってな。いやあカラグリアの連中は強いな!」
とはいえブレゴンが言及してくることもなく、どうやら名簿に不備はなかったらしい。リンウェルがほっと胸を撫で下ろしていると、ブレゴンが思い出したように言った。
「少し昨日の片付け手伝ってくれないか? 時間があったらでいいんだが」
「うん、いいよ。今日は特に用事もないから」
実を言えば乗り気ではなかったが、役目を完遂できなかったことへの罪悪感が勝った。自分のジュースの瓶すら片づけなかったことも恥ずかしかった。
隠れ家に着いてリンウェルは二階での出来事を当然ながら思い出す羽目になった。言われるまま忘れようと思っていたからこそ、今まで忘れていたのかもしれない。
「……ロウは、まだ寝てる?」
恐る恐るそう訊ねたリンウェルに何ら違和感を持つこともなく、ブレゴンは「いいや」と答えた。
「朝起きたらもう誰もいなかったよ。用意した部屋を使った形跡はあったが、掃除もされていて綺麗になっていた」
どうやらロウをはじめとした〈紅の鴉〉のメンバーは早々にここを後にしたらしい。宿を他に取っていたのか、あるいは故郷へと戻ったのか、いずれにしろブレゴンはその影も見ていないということだった。
「そっか」
会わずに済んだことには心の奥底からほっとした。一体どんな顔をして会えばいいのか現状全く分からない。
とはいってもやらかしたのは確実にロウの方で、こちらの鉄拳制裁も許される状況にあるのは理解していた。
だが実行に移す気は毛頭なかった。それどころか、声を掛けづらいというなら自分からそうしてやるのもやぶさかでない。
いずれ二人の間に漂うであろう微妙な空気を取り除けるのは時間の経過か、あるいはこちらからの歩み寄りくらいのものだとリンウェルはきちんと理解していた。
◇
リンウェルの決意もむなしく、その機会はなかなかやってこなかった。
大仕事を終えての落ち着きか、ロウがシスロディアに訪れることも少なくなり、シスロデンに来ていてもその話を聞くのは既にロウが去った後だった。
それはリンウェルがカラグリアやメナンシアに行っても同じで、見計らったかのようにロウは別の場所にいた。ロウが世界中を飛び回っていることは知っていたが、こうもタイミングが合わないともしや避けられているのでは、と勘繰ってしまわないでもない。
「ロウの所在だが、今はミハグサールにいるらしいぞ」
そんな話を聞いたのは、リンウェルがたまたまヴィスキントを訪ねているときだった。
これまた偶然同じ店にいたキサラと昼食をとっていると、ロウの話題になったのだ。
「しばらく姿を見せないと思ったら、まさかそんなところまで行っていたとはな」
「キサラ、それ本当?」
リンウェルが気迫のこもった声で迫るとキサラはややたじろいだ。
「あ、ああ……昨日帰ってきた兵士から聞いたんだ。しばらくはニズにいると……」
「ありがとう!」
席を立ったリンウェルは二人分の会計を済ませ店を出た。その足でニズ行きの馬車の切符を購入すると、シスロディアとはまるで反対の方角へと向かったのだった。
リンウェルがミハグサールを訪れるのは数年ぶりのことだった。シスロディアからとなると広大なメナンシアを越えなければならないため、どうしても足が鈍る。
それにニズの住民には何の恨みもないのだが、個人的にはあまり思い出したくない過去もある。傷は塞がりつつあるとはいえ、敢えて棒でつつくようなものでもない。都合のいい理由を付けられずそうやって渋っているうちに時間だけが過ぎてしまったというわけだ。
長らく目にしていなかったニズは大きな発展を遂げていた。市場は活気を取り戻しつつあり、あちこち崩れかけていた街並みも手直しされている。かつての状況を知っている身としてはなかなか感慨深いものがあった。
浸りたい気持ちを抑えて、リンウェルは人通りの多い市場の方へと向かった。人探しをするなら人に聞くのが手っ取り早い。
「変わった髪色の、肩に狼を乗せた人を見ませんでしたか?」
「肩に狼? いやあ、見てないねえ」
果物屋台の店主から生花屋の店番、門の警備兵にまでまんべんなく声を掛けたが、それらしい目撃情報はない。
自分の足でも街中を歩き回ってみたが、その痕跡すら掴むことはできなかった。
あともう少しだけ。もう少し回ってみて見つからなかったらシスロディアに帰ろう。
引き延ばした先でまた延命。そんなことを繰り返していれば、リンウェルがニズに着いてから既に三日が経過していた。
「嬢ちゃん、例の人は見つかったかい?」
「全然。さっぱり」
朝食にしたバナナの皮を指でいじくりながらリンウェルは肩をすくめる。
元々遠征しようと思って家を出てきたわけではなかった。鞄も財布の中身も確認すらしないままミハグサールに飛び込んだのだ。
ところが目的の人物は姿を見せず、飛んでいくのは時間となけなしのガルドで、次第に募る不安はリンウェルを懐ごと縮み上がらせた。
せめて食費だけでも浮かせようと屋台の果物を食事代わりにしていれば、その度に顔を合わせる店主とは今や知り合いになりつつある。屋台のそばのテーブルでため息をつくリンウェルと世間話を繰り広げる店主の構図は、ここ数日何度も目にした光景だ。
「今日は馬車も混むだろうなあ。港に船が着いたっていうから」
今日の便を逃せば次は明後日だ。財布に残ったガルドは帰りの馬車の分を差し引けば一晩の宿代にも遠く及ばない。
万事休す、か。
せめて馬車の席ぐらいは早めに確保しておこうとリンウェルが立ち上がった時だった。
開いた門から入ってきたのはここ数日ずっと探し続けた男の姿、――と、その隣の知らない女性。
男は何か紙を広げながら女性へと首を傾け、女性の方は男の腕に自分のそれを絡ませ妖艶な笑みを浮かべている。
歩きながら言葉を交わす彼らの様子は実に親密そうで、単なる友人関係とは言い難い――ように見えた。
雷が落ちた。あらゆる意味で。
その衝撃はリンウェルから正気を奪った。
湧いた激情はリンウェルを揺り動かし、その矛先は真っ直ぐに目線の先へと向かう。
人々の行き交う通りを早足で縫ってリンウェルは二人の前へと躍り出た。
「リ、ンウェル……?」
なんでここに、というロウの声ももう届いてはいない。隣で首を傾げる女性の姿も視界にすら入っていない。
肩を震わせながら、リンウェルは大きく息を吸い込んだ。
「……キスしたくせに!」
吐き捨てた言葉は遅れに遅れた制裁だった。ココロの拳を振り抜いて、リンウェルはその場から一目散に逃げだした。
ぐちゃぐちゃの泣き顔を晒して街を猛然と駆け抜けるその姿はさぞ住民の目を引いただろう。
今はそんなこと気にしていられない。一刻も早くこの街を抜け出したい。ロウと誰かのいる街の空気なんてこれ以上吸いたくない。
憎い、憎たらしい。ロウがあの女に睦言を吐いていると思うと、忌々しくて反吐が出そうだ。あの夜私に口づけた、あの口で。
――そうだ、私は嬉しかったのだ。あんな酒精まみれで覚束ないキスに胸をときめかせてしまうくらいには、ロウのことが好きだった。
あのとき「忘れてくれ」と言われたことはショックだったが、それはきっとロウの中で申し訳ないという気持ちが勝ったからなのだと思っていた。
あとでひょっこりリンウェルの前に現れて「ごめん」と謝りながらも、改めて気持ちを確かめてくれるのではないかと、そう思っていたのに。
実際は違ったのだ。あの「忘れてくれ」は自分に向けられたものであってそうではなかった。既に恋人のいるロウのために「忘れてくれ」と、そういう意味だったのだ。
馬鹿みたいだ、勝手に想って、期待して。
そして何より、ロウの幸せを願えない自分に一番腹が立つ。
強まった風に髪が舞い上がる。街を出て随分遠くまで来てしまっていたようだ。
「リンウェル!」
風の中で聞こえた声は気のせいではなかったらしい。振り返った先にはロウがいた。軽く息を弾ませて額には薄っすら汗が滲んでいる。
「リンウェル、あのさ……」
「やだ……聞きたくない……」
何もかも聞きたくなかった。ロウからの言い訳も、報告も、謝罪も。
ロウの口から聞いてしまったら、それこそ決定的じゃないか。
手を伸ばして追い縋った犬に手首ごと噛み千切られるなんて、そんなのきっと耐えられない。
「ロウに彼女がいるなんて、知りたくなかった!」
「聞けって!」
肩を揺さぶり必死に訴えてくるロウの瞳はあの夜とはまるで違った。
見開かれた瞳にはっきり自分が映ったのが見えて、リンウェルはようやく我に返る。
「一緒にいたのは〈紅の鴉〉の仲間で、全然彼女とかそういうんじゃねえから……!」
そう言ったロウの表情は真剣そのもので、とても嘘を言っているようには見えなかった。
思い返してみれば、腕は組んでいたもののそこまで甘い雰囲気を醸してはいなかったかもしれない。
どちらかと言えば恋人というよりも家族や親族の類の睦まじさだったようにも思えてきた。
「あの人は親父の知り合いなんだよ」
ロウ曰く、彼女は組織の中でも古参でちょっと変わり者だがなかなか頭の切れる人物らしい。
元々ジルファを慕っていたこともあってか、ロウがジルファの息子だと知って色々とちょっかいを掛けてくるようだ。
「そ、そうだったんだ……」
徐々に落ち着きを取り戻すと、リンウェルは自分のしたことに頭を抱えたい思いに駆られた。
「どうしよう……」
街中でとんでもないことを叫んでしまった。頭に血が上っていたとはいえ、大声で公衆に告白するようなことではなかった。
例の女性はとんだとばっちりだ。見知らぬ小娘から誤解された挙句、変な言いがかりまでつけられて腹を立てていてもおかしくはない。
「大丈夫だって、多分。笑ってたし、怒ってはないだろ」
後で説明すんの恥ずかしいけどな、とロウは苦笑いで頭を掻いた。
「なあ、」
沈黙を挟んでロウがこちらへと向き直る。
「自惚れてもいいんだよな?」
もはや否定する余地などどこにもない。
観念して小さく頷いたリンウェルの手を取ってロウは熱い視線を寄越した。
「なら――」
ロウの指に自分のそれを絡めようとして留まった。甘い考えを振り払うように首を振ったのは、今しがたのことを思い出したからだ。
怒り、嫉妬、憎悪。押し寄せた負の感情の波の記憶が、再びリンウェルに打ち返す。
「……私さっきひどいこと考えたの。誰よその人って。別れちゃえって」
ロウが知らない女性と一緒にいるのを見た瞬間、自分の中にどす黒い何かが渦巻くのを感じた。腹の底がかあっと熱くなって、胃が捩じ切れそうになった。
まるで祝福できなかったのだ。あまつさえ不貞があったと本人たちの前で吐き捨て、二人の関係なぞ壊れてしまえと心から呪った。
「ひどいでしょ? 私こんな性格悪かったんだって思ったけど、でも、本気でそう思ったの」
仲の良い友人の皮を被り、内に秘めていたものはとんでもなく醜い欲だ。こんな自分では誰かの隣、ましてやロウの隣に立つことなんてできない。
もっと図々しく生きられたら良かった。皮を被ったままロウの隣で笑っていられる図太さがあったなら、今ここでその手を取ることができたのに。
後悔で塗れたリンウェルの手から何かを諦めるようにロウの指はそっと離れていった。――が、辿り着く先は口元だった。それも、だらしなく緩ませた。
「まじか……」
嫌悪など微塵も滲んでいない。寧ろ抑えきれない思いを漏らしたような声音に、リンウェルは思わず顔を上げる。
「すっげぇ嬉しい」
赤くなった頬はそのままに、覆ったつもりの口元でさえ零れる笑みがそれを隠していない。喜びに打ち震える、というのをロウの肩は見事に再現してみせた。
「なっ、なんで……」
なんでそんなに喜んでるの。性格が悪い女を好きになって何が嬉しいの。
戸惑いを隠せないリンウェルに、ロウはさも当然のように口にする。
「それくらい、俺のこと好きなわけだろ?」
そう言われてみて初めて気が付いた。
祝福できなかったのは悔しくなるほどロウのことが好きだったから。憎んだのはロウの横にいるのが自分ではなかったから。
あの時かけた呪いの強さはロウへの想いの強さでもあったのだ。
「……いいの?」
「いいの何も、何か問題でもあんのか?」
あっけらかんとそう答えるロウに毒気を抜かれた。
自分の中で渦巻いていたもの、寄せ返してきた感情の波はくるくると円を描いて流れていった。まるで排水溝に吸い込まれていくように。
「俺はお前が好きで、お前も俺が好き……なんだよな? なら、それでいいじゃねえか」
私はロウが好き。ロウは私が好き。
最後に残ったのはなんとも単純で明快な答えだ。
それをすとんと飲み込んで、改めてロウの顔を見ると自然と笑みが零れた。
「……やっと言ってくれた」
お前が好きだと、ロウの口から今になってようやく聞くことができた。
思えば遠くまで来たものだ。シスロディアからメナンシアを越え、苦い思い出のあるミハグサールまで男を追っかけてくるなんて。
それも酔ってキスしてきた挙句、忘れてくれなどとほざく男をだ。まったく、物好きにもほどがある。
それでも晴れやかなこの気持ちは、先ほどまで誰かに呪いをかけていたとは思えない。かけられた本人はそのことにすら気づいていないようだが。
「忘れてなんてあげないから」
はっきりとそう宣言してリンウェルはロウの頬を両手で包み込む。あの時汚したブーツで背伸びをして、お伽話よろしく呪いを解いたのだった。
終わり