微かな物音がしたと思うと、眩い日の光が部屋に差し込んでくる。それを瞼の裏で感じ取った私は、反射的に壁の方へと寝返りを打った。続けて聞こえてきたのは、カン、というけたたましい音だった。数秒の間隔をあけて断続的に響く音に顔をしかめると、私は回らない頭のまま腕を宙へと突き上げる。
「……おきた、おきたよ」
その証だと言わんばかりに親指を立て、軽く腕を振ってやると、ようやく音は止んだ。フルルが缶をつつくのをやめたのだ。
ほとんど拷問に近いこの朝の起床方法だが効果はてき面で、キサラに導入されてから約一年半の月日が経った。それでもまだ自然に起きられないのはもはや遺伝か、あるいは染みついた習慣のせいかどちらかなのだろう。
ベッドから起き上がると、私は寝間着のまま壁に掛かったカレンダーへと歩み寄る。今日の日付のところに大きく「☆」印を付けて、そのほかの予定を確認した。今日は「〇」印、ベーカリーの手伝いをする日だ。
それから三つ飛んで下の段、日付の数字がぐるりと大きく丸で囲まれている。その横にある「2年」の文字。今月に入ってからずっと目にしているそれが、あと10日後に迫っている。
2年か。
にねん、にねん、と、ぼんやり繰り返しながら、私は髪の毛についた寝ぐせを撫でた。窓の外が少しずつ騒がしくなってくる。今日もまた一日が始まるのだ。
広場の横のベーカリーは今日も客で賑わっていた。
私はここで週末だけ手伝いをしているが、正式に雇われているというわけではない。シオンがこの店を紹介してくれたのだ。パンが好きで、足繁く通ううちに店主と仲良くなったらしい。
朝はベーカリー、昼過ぎになると小さめのカフェとなるこの店で自分が行うことといえば、会計と簡単な給仕くらいのものだった。それでも若い女性の店主は当然賃金をしっかりと払ってくれるし、余ったからと言ってサンドイッチやバゲットを譲ってくれることもあった。大して売り上げに貢献しているわけでもない自分にこれだけ親切にしてくれる店主には頭が上がらない。もちろん、話をつけてくれたシオンにも。
今日は天気も良く、いつもより客が多いように思えた。昼のピークを過ぎてようやく一息つくと、店主に声をかける。
「来週、お休みを貰いたいんですけど」
カレンダーを指し、頭を下げた。ここに来てもうすぐ1年になるが、休みを貰いたいと願い出るのは初めてのことだった。
「もちろんいいけど、珍しいわね。何か用事でもあるの?」
きっと何の気なしに尋ねたのだろう。そう思うと、店主には二重の意味で申し訳ない気持ちになった。これから返されるであろう反応に、ある程度予想がついたからだ。
「恋人の命日なんです」
できるだけ気を遣わせないようにと、私は精一杯の柔らかい口調でそう口にした。
命日、めいにち。
これまで何度か口にしただけのその言葉が、今日に限ってはこの口によく馴染んでいる気がした。それも月日の経過によるものか、はたまた心境の変化によるものか。
2年前、ロウは事故に遭った。川で溺れている男の子を助けようとしたのだ。
男の子を岸に上げた後で、流れてきた大木ごとロウは濁流に押し流された。前日までの雨で増水していた川の流れは急で、なすすべもなかったらしい。ほんの一瞬の出来事だったと、現場にいた人から聞いた、ような気がする。
というのも、私はあの日の記憶がほとんど無いのだ。知らせを聞いて駆けつけたときにはもう、ロウの姿はどこにも無くなっていた。誰かのすすり泣く声と、辺りを慌ただしく走り回る人たちの怒声が聞こえていたような気がする。目の前では助かった男の子の両親らしき人が、地面に頭を擦り付けるような勢いで謝罪の言葉を繰り返していた。薄情ながら、私はもうその人たちの顔も覚えていない。本当に何も覚えていないのだ。
周囲の捜索もむなしく、遺体は上がらなかった。それどころか身に着けていた衣服の一片すらいまだ見つかっていない。
私もきっと、その捜索に参加したのだろう。一週間だったか、一か月だったか、川の周りや河口付近まで懸命に手がかりを探した。見つかって欲しいような、見つからないで欲しいような、そんな曖昧な気持ちを持っていたんじゃないかと思う。だが結局、何も見つけられなかった。
証拠がないことが何よりの希望。当初は私も周囲の誰もそう信じて疑わなかったが、時間が経つにつれて徐々にその色も水で薄めたみたいに褪せていった。
今や積極的に捜索する人もいない。それもそうだ、この世界は人一人の命を待ってくれるほど穏やかではない。段々と自分もそれをロウの「死」として受け入れられるようになってきた。
2年が経とうとしている今ではこう思う。ロウは己の守りたいものを守って逝ったのだ。心残りはあれど、おそらく悔いは無いのだろう、と。
夕方になると私は手伝いを終えて店を出た。向かう先は自宅の次に馴染みのあるヴィスキント郊外の一軒家だ。
「あら、いらっしゃい」
「久しぶり。はい、これ。店長から」
紙袋に入った焼きたてのパンをシオンに手渡すと、向こうから元気の良い声が聞こえてきた。
「あ! リンちゃん!」
部屋の奥からこちらに向かって駆けてきたのは、シオンとアルフェンの一人息子だ。
「リンちゃんだ! どうしたの?」
「パンのお届け物だよ。元気してた?」
「うん! リンちゃんも? げんき?」
「うん、元気だよ」
えほんよんで! と手を引かれ、ドアをくぐるとシオンが困ったように笑っていた。どうやら少し相手をしてやって欲しい、という意味のようだ。
膝の間に彼を座らせ、引っ張り出してきた絵本を読む。これは私が先日、誕生日のお祝いにとプレゼントしたものだ。
「りんごは、あかいろ!」
「わあ、もう読めるようになったの?」
「そうだよ! こっちもよめるよ!」
彼は揚々と文字を読み上げて、次々にページを捲っていく。一通り終わりまで読み上げて、また初めに戻ってそれを繰り返す。そんなやり取りを数度終えたところで疲れ果てたのか、彼は二度三度ゆっくりと瞬きを繰り返した後で、転がるように眠りへと落ちていった。
「ありがとう、リンウェル」
顔を上げると、ダイニングでシオンがマグを持って微笑んでいた。
「おかげで洗い物を済ませられたわ」
「ううん、いいんだよ。シオンもお疲れ様」
すうすうと寝息を立てる彼に毛布を掛けて立ち上がると、そちらへと向かう。椅子に腰を下ろして、シオンの淹れてくれたコーヒーを片手にほっと息を吐いた。
「子供の成長って早いね。こないだ会ったばかりかと思ったら、もうこんな文字が読めるなんて」
「そうね、次々といろんなことを話すものだから、私もアルフェンも毎日驚いているのよ。これじゃあすぐに子供の時期なんて過ぎちゃうわね」
想像すると、ちょっと恐ろしくなった。こんなにもあどけない寝顔を見せている彼が、あっという間に大人になってしまうなんて。その姿が頭の中に想像つかないことが何より恐ろしい。そんなスピードで時間というものは過ぎ去ってしまうのだろうか。
心の中で身震いした後で、私はシオンに言った。
「今度ね、カラグリアに行こうかと思って」
できるだけ自然になるように、喉に力を入れて声を振り絞った。
「ほら、もうすぐ2年……経つから。ちゃんと挨拶してこようかなって」
視線は合わせられなかった。自分がどんな顔をしているのかも、シオンがどんな表情でこの言葉を聞いているのかも、どちらも知るのが怖かった。
マグを置いた手に、ふとシオンの手が重なった。うつくしい指からは、確かな熱を感じる。
「……よく決意したわ」
シオンの声の方が、震えていた。驚いて顔を上げると、シオンは宝石のような瞳に涙の膜を張って、口元を震わせていた。
「でも、いい? 決して、無理しないで」
「うん、……うん、ありがとう、シオン」
強く握られた手が心地よかった。心が解けていくのと同時に、私たちは二人でちょっとだけ泣いた。いまだ夢の中にいる彼を起こさないよう小さな声で、秘密を抱えるようにして小さく小さく泣いたのだった。
私は家に帰ると、机から紙とペンを出してきた。こうしてペンを握るのは久々のことだった。机に向かうと、ランプの灯りの下でロウに手紙を書いた。きっかけはシオンの家を出る時に貰った、彼からのちいさな手紙だった。「リンちゃんへ」と大きく書かれた紙を広げると、そこには一面に花の絵が描かれていた。飛び回る蝶は、私の髪飾りを模しているらしかった。それを見て、ロウに手紙を書こうと思いついた。自分の気持ちを整理するのにも、きっとちょうどいいと思ったのだ。
『ロウへ。
久しぶり。私は意外と元気でやっています。
薄情者なんて言わないでね、これでも結構頑張ったんだから。
ロウがいなくなってから二年、色々なことがありました。
カラグリアも人が増えていると聞くし、シスロディアにも大きな交易所が建ったみたい。ロウが頑張って話を進めていた件です。〈紅の鴉〉も〈銀の剣〉のみんなも喜んでいることでしょう。
テュオハリムは相変わらず忙しくしているようですが、キサラとはよく会っているみたい。二人の関係を聞いてもはぐらかされちゃうので、まだ観察が必要なようです。
シオンとアルフェンの子どもも、もう二歳になりました。ロウは小さい頃にしか会ったことがなかったよね。私のことを「リンちゃん」と呼んでくれて、とっても可愛いの。思わずなんでも買ってあげたくなっちゃう。なんだか親戚のおばさんみたいだね。』
不思議なほどに言葉が思い浮かんでくる。思いのまま筆を走らせているだけなのに、空白があれよあれよという間に埋まっていく。
これほどまでに溜め込んでいたのかと、我ながら苦笑した。それでもペンを止めることはない。書きたいだけ書けばいいだろうと開き直ると、文脈も言葉選びも無しに私はただひたすら紙にインクを滲ませた。
ヴィスキントを出る日もよく晴れていた。シスロデン行きの馬車に乗り、舗装されていない道の凹凸に体ごと揺られる。膝の上でフルルを撫でていると、旅の道中で野営した時のことを思い出した。
実はメナンシア、ヴィスキントを出るのは約2年ぶりのことだった。つまりはあの事故以来、私は外に出ていなかった。
だからシスロデンにたどり着いた時、本当に驚いた。白い雪に覆われているのは相変わらずだったが、あの寂しげな街並みが見違えるほど美しく生まれ変わっていたのだ。
市場もヴィスキントに負けないほど賑やかになっていて、通りには人が大勢溢れていた。
ロウはよく言っていた。あの街はもっと活気があってもいいはずだと。それがようやく叶ったのだと、果たしてロウは知っているのだろうか。
街を一通り見て回った後は宿に泊まり、次の日にはカラグリアへと発った。カラグリアの変化もまた、劇的なものだった。鉱石の運搬用に使われていた列車を改良して、今は貨物だけでなく客も運んでいるらしい。
気候も徐々にではあるが穏やかになっているようで、住民の数もぐっと増えたと聞いた。作物が育つようになれば、また一段と発展が見込めるだろう。
ウルベゼクの宿で私は新たに手紙を4枚ほど書き足した。シスロディアとカラグリアで見たものを詳しく説明したものだった。ロウはとっくに知っているかもしれないが、書いておくに越したことはないと思ったのだ。
翌日は封をした手紙を持って宿を出た。日差しの強い朝だった。
フルルをフードにに匿うと街を出て、小高い丘を越えてできるだけ高い場所を目指した。できれば風がよく吹く場所が良い。
荒地の丘が、ちょうどそれに適していた。多少砂埃も舞っているが、故郷のカラグリアらしくていいなと思った。
私は鞄から手紙を取り出すと、指先に星霊力を込めた。左手の人差し指からぼぼ、と音を立ててオレンジの炎が上がるのを見て、それに手紙の端を近づける。
「今はちゃんと火の星霊術も、操れるんだよ」
そんなことを独り言ちて、私は笑った。あの頃はどう頑張っても火球にしかできなかった。それが今ではこんな微細な調整だってできる。これもまた、ロウが知らない私だ。
広がった炎は、手紙を欠片も残さず灰へと変えた。空に散っていくそれを眺めながら、私は心の中で祈る。――ダナに還れていますように。
「……ちゃんと届いたかな」
願いと一緒に閉じた瞼の裏で、フルルがひと鳴きする。
「帰ろっか、ヴィスキントに」
私たちの家に。
柔らかい羽を撫でると、またフルルは嬉しそうに鳴いた。次の一歩を踏み出す私を、応援してくれているのだと思った。
帰りはカラグリアから真っ直ぐヴィスキントに向かう馬車に乗った。温かいというよりもはや熱い空気が頬を撫でる。今度は皆で来るのもいいかもしれない。ロウもジルファも喜ぶはずだ。
小さな町での休憩を挟んで、ヴィスキントにたどり着いたのは真夜中だった。昼間と違って、しんと静まり返った街がちょっとだけ怖かった。
荷物を抱えて自宅に入ると、懐かしい匂いがした。慣れ親しんだ、いつもそばにあった匂いだった。
たちまち蘇る記憶に、私は気が付けばその名前を呼んでいた。胸に抱えていた鞄も放り出して、部屋の奥へと駆け出していた。
どこ、どこにいるの。帰ってきたんでしょ。ねえ、居るなら返事して!
「ロウ!」
戸棚、浴室、クローゼットの戸を開けた。
居ない、居ない、どこにも居ない。
ロウは居ないのだ。もうこの世界の、どこにも居ない。
当たり前だ。ロウは死んだのだから。2年間、ずっと突きつけられてきたはずだ。
崩れ落ちた膝にフルルが心配そうに頬を寄せてくる。途端に視界が滲み、堰を切ったように涙が溢れ出してきた。
部屋を空けて、今更気が付いた。この部屋にはロウが残り過ぎている。
二人分の食器。二人分の歯ブラシ。二つ並んだ枕。
何一つ捨てられない。忘れられない。ロウがまた、このドアを開けて帰ってくる気がして。
「……ロウ……っ……」
大好きだった。
優しくて、真っ直ぐで嘘がつけなくて。デリカシーが無いと思うところもあったけれど、それを含めて全部全部ロウのことが大好きだった。
どうして死んじゃったの。なんで帰ってこないの。
さよならも言わせてくれなかった。たった一人で、ロウはどこか遠くへ旅立ってしまった。
どうして私を独りにしたの。
返事はない。ロウは返事すらもできなくなってしまったのだ。
ロウが居ない現実を受け入れられず、塞ぎ込んだ私を連れ出してくれたのは、シオンとキサラだった。
ベッドから出てこない私を見かねて、キサラはフルルに目覚ましの任を与えた。カーテンを引き、缶をつついて音を鳴らす。リンウェルが立ち上がるまでやめてはならんと厳しく言いつけた。
シオンは部屋から出ず食事もロクに摂ろうとしない私に、ベーカリーでの手伝いを言い渡した。週末だけでいい、それで今日が何日か把握できるようになって欲しいと、私とベーカリーの店主、どちらにも頭を下げた。
思えばそれらは、私をこの世に引き留めておくための鎖だったのだと思う。何かの間違いがあってはならないと、縛りつけて離れられないようにしたのだ。
そしてきっとそれは正しかった。突然ロウを失った私は、前も後ろも分からなくなってしまった。足元にぽっかり空いた穴に飛び込みたくて仕方なかった。強く結わえられた二人の綱が、それを必死で留めていた。
再び周りが見られるようになるまでに、どのくらいの期間を要したのかは分からない。毎日を生き長らえることに費やしているうち、気が付けばこうして2年もの月日が経っていた。
2年、にねん。
ベッドの横のカレンダーが視界に入る。いつだったかシオンが買ってきて、壁に吊り下げたものだ。
上から下まで並んだ「☆」印。それは私が夢を見た回数、夢でロウに会った回数だ。
ロウは夢の中でだけ私に会いに来てくれる。あの頃みたいに笑って、二人で歩いて、他愛もない話をする。
顔をはっきり見ているわけではない。声だって曖昧な記憶のままだ。それなのに私は、一緒にいるのは紛れもなくロウなのだと断言できる。
二度と醒めなければいいと、何度思ったことだろう。夢の中でロウとずっと一緒に居られたら、どんなに幸せか。
今夜ももう、このまま冷たい床の上で眠ってしまいたかった。私が願えばロウは会いに来てくれる。会えなくて泣いてしまったと話せば、また優しく髪を撫でてくれるに違いない。
そう思って、ようやく気が付いた。
ああそうか、私、まだ受け止められてないんだね。ロウがこの世に居ないことを。ロウが死んでしまったことを。
私はやっぱり弱いままだ。情けなくて頼りない。一人で生きていけるほどの力もないのに、誰かに縋ることもできない。
時が経てば、癒えていくのだろうか。ロウのことをきちんと受け止め、前を向いて歩いていけるのだろうか。
受け止められたら、ロウは夢にも会いに来なくなるのだろうか。
「解放」は訪れるのだろうか。今の私に先は見えない。ただ静寂を携えた暗闇が目の前に広がっているだけだ。
嗚咽の染みた袖口を床に沈め、私は重たい瞼を閉じた。いつか来たるその時が安寧であるよう、今はただひたすら願った。
終わり