求めていたはずの平穏。その心地よさは体温よりやや高い温度で自分たちを浸らせる。これ以上ないほどの安泰を前に変化を求めるのは贅沢だと思いつつも、心はそれをつい望んでしまう。
「ねえ、またこの店?」
「なんだよ、いいだろ」
ヴィスキントの一画にあるこの食堂の入って最右奥、窓際の席。丸い小さなテーブルに向かい合うようにして座る私たちは、週に2,3度のペースでここへと通っている。
「安くて美味いし。肉料理も多いしな」
「いや、まあそうなんだけど」
人通りの少ない路地にあるこの店をロウが見つけてきたのは本当にたまたま、偶然だ。仕事帰りに看板を見かけて、ふらっと立ち寄ったのがきっかけだったのだとか。
「安いのにこんな盛ってくれるんだぜ? 贔屓にするしかねえだろ!」
茶碗に山盛りの白米を示し、満足そうに頷くロウの声が店内に響き渡る。私は思わず身を縮こまらせながらも、自分が頼んだ定食に目を向けた。こちらもまたなかなかの量だ。ご飯少なめ、と確かにそう頼んだはずだったが。
「美味しいのは認めるよ。なんか懐かしい味するよね。でも、なんかこう、もっと刺激がね、欲しいというか」
刺激? と首を傾げるロウに、この意味はどうも上手く伝わらない。しまいには「ならアルフェンおすすめのマーボーカレーが」などと言い出す始末だ。
ああこれはダメなやつだなと、心の中で小さくため息を吐く。お椀の中の味噌汁はいつもと変わらずほっとする味だ。それをどこかでほんの少し恨めしく思いながら、私は熱いそれを静かに啜ったのだった。
店を出た後はもうすっかり日が落ちて、空には星が浮かび始めていた。
「はあー、今日も美味かったなー」
半歩前を歩くロウは、いつものように腹をさすっていた。このセリフもつい先日聞いたものとまるまる同じだ。
「そうだね」
それに気づいた私の声は、自分でもわかるくらいにそっけなかった。その辺に転がっている石を蹴とばすような調子で、まるで感情がこもっていなかった。
「なんだよ、機嫌悪いな」
「別に、そんなことないよ」
嘘ではない。自分では機嫌が悪いつもりは一切ない。ただちょっと、かわり映えのない日常だなと思っただけだ。
「ねえ、今度ほかのお店に行こうよ」
「ほかの店?」
「ほら、こないだできたばかりのレストランとか。料理が美味しいって評判になってるみたいだよ。いっつも同じメニューじゃ、さすがのロウも飽きちゃうでしょ?」
お互いに新鮮な気持ちを味わえる、絶好の条件だ。ロウがそれを受け入れないはずはない、そう思ったのに。
「いや、別にあの店でいいだろ? まだ飽きるまで通ってねえし。そんな金ねえし」
頭の上で手を組みながら、ロウはこれまたそっけなく言った。平穏な日常に敢えて変化を加える必要は無い。そんな口ぶりだった。
何よ、もう。
尖らせた唇にもロウは気づかず、そのまま半歩前を歩いていく。歩調を緩めることもなかったが、向かう先が私の家の方向なので、どうにも腹を立てる気にはなれなかった。
その後もロウから食事に誘われるときは毎度いつもの定食屋だった。メニューが刷新されることも無ければ、ロウがほかの店に鞍替えする気配もない。確かに料理は美味しいし、量に対して価格も安い。文句のつけようがない。その店に訪れる私の心持を除けば。
だからと言えばまことに自分本意ではあるが、つい、魔が差した。同僚の男性が例のレストランに行かないかと言うので、私は迷うことなくその場で了承したのだった。
男性は少し年上で、自分と同様宮殿で研究員をしている。以前から姿を見掛けてはいたものの、話すようになったのはここ最近だ。共通の友人が昼食に彼を連れて来たのがきっかけだった。
彼とは研究内容も近しい者同士、よく話が合った。その日も偶然図書の間で会い、近況報告を兼ねて話をしているうち食事に誘われた。「2日後の夜はどうかな」と示された日程に、私はほんの一瞬頭を巡らせる。その日は確かロウが仕事の打ち上げがあるとかなんだとか言っていた日だった。
大丈夫、と笑顔で返事をして、私は図書の間を後にした。罪悪感なんて感じる必要はない。私とロウはそんな関係ではないのだ。
超人気店だとか高級レストランというわけではなかったが、彼はわざわざ予約を入れてくれたらしかった。マメな人だな、と思いつつ、待ち合わせの場所から一緒にレストランへと向かった。
道中、何故だか周りの視線が気になった。ただの自意識過剰であることにも気が付いていたが、どこか後ろめたい気持ちは消えなかった。やや早足になっていたことには、店先で息が上がってから気が付いたことだ。
店の雰囲気は落ち着いていて、とてもリラックスできた。木造りのテーブルや椅子に、ドライフラワーの装飾がよく合っていた。
「感じの良いお店だね」
「そうだね。私、あまりこういうところ来ないから緊張しちゃうな」
「僕も、似たようなこと考えてたよ。いつも食事は適当なんだ」
おそらく気を遣ってくれたのだろうなと思った。彼はレネギスの出身で、身なりもきちんとしている。以前一緒に昼食を摂った時も、その育ちの良さがありありと滲み出ていた。きっとこういう場にも慣れているのだろう。いやむしろ、普段はもっと背筋の伸びるような店を行きつけにしているのかもしれない。
選んだ食事が運ばれてくると、その鮮やかな彩りに思わず目を奪われた。ありふれた皿に茶色い料理が載っているいつもの定食とはまるで違う。野菜がメインの具材に寄り添っているみたいに見え、それにかかるソースさえ見事な色彩の一つになっているのだ。
「すごい……」
「とても美味しそうだ。ほら、冷めないうちに食べて」
勧められるままにフォークを手に取り、具材を口へと運んだ。いっぱいに広がる香りと食べたことのない味に、思わず喉の奥から声が漏れる。
美味しい、ものすごく。食べ慣れない味ではあったが、これが素材を活かした味付けというやつなのだろうなと思った。
「僕のもとても美味しいよ。お肉も柔らかくて、香ばしい」
満足そうに頷きながら、彼が言った。相変わらず丁寧なナイフさばきに彼の高貴な日常を垣間見た気がした。
その後も食事は穏やかに進み、私は最後のデザートまですべてを平らげた。彼との会話も弾み、研究に関しても新たな知見を得ることができた。
何も文句はないはずだ。美味しい食事に豊かな会話。価格だって、そこまで高いわけではない。それなのに、この奥底にこびりついたような釈然としない気持ちは何だろう。
料理は確かに美味しかった。これからヴィスキントで流行りの店になるのだろうなということも、なんとなく予想がついた。
それでもなぜか私の心は満足していない。一見満足しているようで、どこかで何か足りないと思ってしまっている。
「リンウェルさん、どうかした?」
目の前で私に話を振ってくれる彼もまた、とても良い人だ。退屈しないようにと話題を選んでくれて、それでいてこちらを見下したり蔑ろにしたりはしない。丁寧な言葉遣いと心遣いが気持ちの良い人だ。年齢よりもずっと大人びて見えるその所作が人気なのだと、他の同僚が言っていた。
「ううん、なんでもないの」
「もう少し休んでいこうか?」
「大丈夫だよ。そろそろ出ようか」
奢らせてほしいと言った彼の申し出を断って、私は自分の会計を済ませる。ドアを開けて外に出ると、眩しいほどの星明かりが通りの石畳を照らしていた。
「送るよ」
「大丈夫、家近いの。すぐそこだから」
また明日、と半ば強引に別れを告げて、私は通りを歩きだした。彼の視線が刺さらなくなるまでできるだけ早足で道を歩いていると、また少し息が上がってしまった。
夜の大通りにはぽつぽつと人が歩いていた。市場の方では店じまいした店主たちが後片付けをしているのが見える。もう一本向こうの通りでは、酒場が盛り上がりを見せているのだろう。耳を澄ませばその喧騒がこちらにも届いてくるような気がした。
こうして夜道を一人で歩くのは随分と久しぶりだった。この時間、家に帰っていないときは大抵ロウと夕食を食べている。帰り道に星空を見る時も、大体いつも隣にはロウがいた。
ふと通りを曲がった先で、同じように隣の通りから出てくる誰かの影があった。
「あ」
声が出たのと、その影がこちらを向いたのはほとんど同時だった。なんだか見覚えのあるシルエットだなと思ったその影は、小脇に小さな紙袋を抱えたロウだった。
「お、リンウェル。今帰りか?」
「うんまあ、そんなとこ」
「研究もほどほどにしろよ。夜に一人はあぶねえっつってんだろ」
うん、とか、そうだね、とか、適当に話を合わせながらも、私はやっぱり後ろめたさでいっぱいだった。研究で遅くなったというのは彼との会話内容を考えればまるきり間違っているとはいえないが、隠し事をしてしまっているのは事実だ。
だがそんな私の様子にロウは何一つ気付いていないようだった。ぐちぐちと小言を言いながら歩幅を狭くして、ごく自然に次の角を一緒に曲がってくれる。向かう先はもちろん、私の家の方角だ。
ロウからは、いわゆる酒場の匂いがした。煙草と酒精と、その他あまり気持ち良くはない匂いが混ざった、大人の居場所の匂いだ。
それがロウから香るのはなんだか不思議な気持ちになる。時折覗くロウの横顔が、まるでそれに似合っていないからだ。同時に安心もする。ロウはまだ、そちら側ではない。
その微妙な香りを上書きするかのように、ロウの手元から何かが香った。どうやら小さな紙袋が出所のようだった。
「それ、なに?」
「ああこれか。持ってけって、店主に握らされちまった」
ロウが開いてみせた袋の中には、串焼き肉が数本入っていた。まだ湯気の立つそれはスパイスのいい香りがする。焼きたてのほやほやを持たせてくれたらしい。
「食うか?」
それを見つめる私の視線が相当物欲しそうだったのか、ロウがそんなことを言った。「いいの?」と問いかけつつも、心はすっかりそれに向いてしまっている。先ほどレストランで食べた料理のことも気にならない。「塩とタレ」と問われて咄嗟に、塩、と答えた。
今にも肉汁が滴りそうなそれを頬張ると、思わず頬が緩んだ。噛むたびに弾ける肉の弾力がたまらない。
ロウも、それはそれは豪快に串焼き肉にかぶりついていた。まだ酒が飲めない分、肉料理を好きなだけ食べてきたはずなのに、まだ余裕があるらしい。
「ロウの方も、ひと口ちょうだい。こっちもあげる」
串を交換して、また肉を頬張る。この串焼き肉は見た目が美しいわけでもない。端が焦げたものもあれば、硬くなってしまった部分もあった。それでも何故だろう、みるみる心が満ちていくのが分かる。
「塩も美味いな」
「ね、美味しいよね」
あっという間に串焼き肉を平らげると、満足そうにロウが腹をさすった。気づけば私も同様にそうしていた。ついロウに釣られたのだ。それだけのことで、なんだか可笑しくなってくる。ただ二人並んで串焼き肉を食べて、美味しかったねと腹をさすっているだけの光景が、今はとても尊いもののように思えた。
「ロウ、明日夕飯一緒に食べない?」
いつものあの定食屋で、と言えば、ロウは少し驚いたような顔を見せた。
「いい、けどよ」
「けど?」
「珍しいな、お前がそんなこと言うなんて」
丸くした目を柔らかく細めて、ロウは笑った。
「ほかの店行きたいって言ってただろ。いいのか、あそこで」
「いいの」
いいのだ。そんなこと、どうだっていい。どこの定食屋だろうとレストランだろうと関係ない。
私は気づいてしまったのだ。美味しいご飯を、美味しく食べる秘訣に。
「あんな安くて美味しい店が埋もれてるのは勿体ないでしょ?」
「そうだな。俺たちで流行らせてやろうぜ!」
あの広いとは言えない店が客で埋め尽くされるのを想像する。店主は忙しそうにしているが、喜んでいるようにも見える。
そうなったらいいと思う。それを見た私たちが、したり顔で店の前を通り過ぎるのもいいだろう。
そうして私たちはまた、どこかの店で一緒に食事をするのだ。あれが美味しい、これが美味しいと会話を交わしながら舌鼓を打つ。
向かい合わせに座る誰かの満足そうな表情を見て、私の心もまた、満ちていくのだ。
終わり