『勉強終わったか?』
端末から音が鳴って、表示されたのはあいつの名前と短いメッセージだった。時刻はちょうど11時を回ったところで、それは先ほど自分が指定した時刻でもある。
宿題も終わったことだし、今日はここまでにしておこう。リンウェルはノートを閉じ筆記用具をしまうと、端末を片手にベッドへごろりと寝転がった。
『今宿題終わったところ。何してたの?』
『マンガ読んでた』
『受験生のくせにのんきだよね。テストも近いのに』
『まだ2週間もあるだろ』
2週間も? 2週間しか、の間違いでは? 敢えて言うことはないが、どうにもものの考え方が自分とは異なるようだ。
騒がしくてやかましくてきっとロクな奴じゃない。初めて顔を見たときの第一印象はそんな感じで、キーホルダー引きちぎられ事件でそれは確信に変わった。
それなのに、まさかこうしてメッセージのやり取りをするようになるなんて。
画面にはあいつの名前と、文字の羅列が交互に連なっている。そのログも数回指を動かしたところですっかり遡りきれなくなってしまった。あの朝からはまだそれほど時間も経っていないというのに。
あの朝。あいつに新品のキーホルダーを手渡されて、名前と連絡先を聞かれた日。私はそれまであれだけ目の敵にしていたことなんて忘れて、素直に答えてしまった。
それも致し方なかったと思う。あんなふうに顔を真っ赤に染めて問われてしまったら、断ることなんてとてもできなかった。
あいつの名前はロウ。同じ高校に通う3年生。なんとあの落ち着きの無さで今年受験生なのだというから、私は驚き、憐れんだ。部活には入っておらず、実家が道場をやっているのでそこで武道を習いつつ、それ以外の日はアルバイトをしているらしい。
そんな情報を、こちらから聞かずともロウは勝手に教えてくれた。粗野なように見えて、意外とメッセージはマメに送ってくる。その大半は夜で、夕飯を食べ終えてひと息ついている時に届くことが多い。
あるいは今夜のように勉強時間と重なったりもする。『宿題するから2時間後にね』と返せば、ロウは律儀にもその時間通りにメッセージを送ってきた。よほどヒマなのかな、と思わないこともないが、自分だって勉強を終えたら本やマンガを読む以外に特にすることもないので、メッセージのやり取りは眠気が来るまでの時間潰しとして重宝しているのだった。
一方でロウとの会話を純粋に楽しんでいる自分もいる。自分は結構真面目な方であると自負しているが、ロウはまるで違った。制服は着崩すし、髪型も校則スレスレを攻めている。アルバイトだって特別な事情プラス先生の許可が必要だったはずだけれど、ロウがそれを申請しているとは思えない。つまりロウは自分とは対極な存在なわけで、考え方や価値観も違えば経験してきたことも未知のものばかりだった。アルバイトや日常の出来事を聞いているだけでも新鮮で面白い。今日も新しいエピソードはあるかな、なんて期待することもある。本人には絶対言わないけれど。
今日、学校で友人たちに訊ねられた。
「例の先輩とはどうなったの?」
「あの猫の先輩ね。連絡先聞かれたんだっけ?」
ロウはあの子猫たちの里親を探すため、3年生の教室だけでなく他の学年の教室まで回って声を掛けていたらしい。だからロウの名前は知られていなくとも、〈猫の先輩〉といえば大体の生徒たちは心当たりがある。
そんな〈有名な〉先輩から連絡先を聞かれたと、うっかり漏らしてしまったことがあった。それに友人たちが食いつかないはずもなく、以来定期的にロウとのことを聞かれてしまう。
「どうなったって……別になんともないよ。メッセージのやり取りしてるだけ」
「またまたぁ。こないだ二人で仲良く登校してたじゃない」
「あ、あれは偶然同じバスだっただけだよ」
普段からバスを使う自分とは違って、ロウは基本的に自転車通学だ。天気が悪い時や何らかの事情で自転車を使えない時にだけバスに乗る。
その日も朝から雨が降っていて、たまたまバス停で会った。他愛もない話をしながら、バスの乗車から学校に着くまでの道のりを一緒に歩いていた。ただそれだけだ。
「でもそれって進展アリってことだよね?」
「そうだよね。じゃないと一緒に歩いたりしないでしょ!」
「進展って、ロウとは別にそんなんじゃないし……」
「そんなんじゃないなら何なの?」
何なの、と聞かれても相応しい言葉が思いつかない。友人ともちょっと違う気がするし、年齢上では先輩後輩というのが正しい気はするが、目上とも思っていない相手に〈先輩〉なんて呼ぶのは気が乗らない。
「えーと、知り合い?」
私がそう言うと、皆きょとんとして、
「何それ冷たーい!」
と笑った。今の関係を表す言葉があるならこっちが教えて欲しいくらいなのに。
ロウならどう答えるだろう、と考えないこともない。「私たちってどんな関係?」なんて恥ずかしい問いは、例えメッセージであっても到底聞けそうにはなかった。
翌朝、バス停に向かうとロウがいた。普段先頭に並ぶのは自分であることがほとんどなのに、ロウが来るとそれは取って代わられる。友人たちと一緒の時はもっと遅い時間に来るのに、一人だとどういうわけか私よりも早い。
「おはようさん」
「……おはよう」
普通に会話をするようにはなったとはいえ、今朝はなんだか気恥ずかしかった。特段変な話をしたわけでもないが、どうにも視線を合わせづらいのだ。おそらく、友人たちに聞かれたことが頭のどこかに残ってしまっているのだろう。
ロウはそんな様子に気づくこともなく、マンガの話やバイト先の店長の話をし始めた。こういういい具合に鈍感なところは助かるな、なんてちょっと失礼なことを思ってしまう。
ロウのアルバイトはテストの関係で来週から休みに入るらしい。終わったらまたいつも通りになって、そのタイミングで給料も入るのだとか。そうしたら、と言葉を切って、ロウはこちらに視線を寄越した。
「二人でどっか遊びに行かね?」
唐突な誘いは私の心臓を大きく鳴らした。
「どっかって、どこに」
慌ててそんな言葉を返しながらも、実際はどこに行くかなんてどうでもよかった。
ロウに誘われてしまった。何を言われたわけでもない、ただそれだけのことにドキドキして心臓が痛い。
「いやまあ、どこでもいいんだけどよ」
映画とか? と例を挙げ始めるロウの声が、激しく鳴りだす鼓動の音で遠くなる。
結局「いいよ」と言うのが精一杯だった。詳しいことはあとで決めようと言われ、ただ頷いた。
テストに向けて勉強に励む中、心はどこか落ち着かなかった。カレンダーを見るたびに〈テスト最終日〉の日付を確認してしまう。遊びに行くのはいつだろう。そこから一番近い休みか、あるいは間近に迫った夏休みの期間か。そんなことを考えるだけで胸が騒がしくなった。こうしている場合ではないと再びペンを握っても、視界の端でまたカレンダーがちらちらと揺れ動いて見えた。
勉強の合間にはロウからメッセージが届いた。遊びに行く先のことや日時についてのものがほとんどで、それを読んではまた緊張した。行先は映画になりそうだった。自分からはそれ以外に提案できるものがなくて、あとは一緒にご飯に行こうという話になった。日時についてははっきり決まらなかった。というのもロウのバイトのシフトがまだ分からないので、テスト後にそれを確認してから検討することになった。
テストが近づく、イコールその日も近づく。逸る気持ちは私のペンを加速させた。試験に近づけば近づくほど集中力も増した。前日にはロウからの『テスト頑張れ』という、まるで他人事めいたメッセージが届いたのもあって、適度に力を抜いて試験に望むことができた。
一度テスト期間に入ってしまえば抜けるのもあっという間だった。最終日の最終科目、数学の試験を終えるベルが鳴ると、全身から力が抜けていくのを感じた。
その後は学校を出て友人たちと駅前に向かった。テストが終わったことを祝して、皆で甘いものを食べることになったのだ。
気持ちも晴れやか、お腹も心も満たされて、あとはもう連絡を待つだけ。そう思っていたのに、ロウから連絡はなかった。メッセージも来なければ朝にバス停で会うこともなく、まるで無風のままだった。
ロウだって受験生なのだし、きっと忙しいのだろう。それでなくともアルバイトもしているのだから時間が取れないのかもしれない。
そう考えてはまた送信ボタンを押すことを躊躇ってしまう。『今何してる?』を消しては『元気?』と打ち直して、それも結局送ることができずに白紙に戻す。そんな独り相撲をベッドの上で繰り返して、虚しさと情けなさにため息が出た。自分からメッセージを送るのがこんなに勇気のいることだったなんて。ただボタンを押すだけのことがどうしてもできない。画面に触れるだけでいいのに、そこに何か一枚板を噛んでいるかのように指を近づけさせてはくれないのだ。
ああもう、今夜はダメだ、時間切れ。枕元の時計の針はちょうど天上で重なったところだった。
端末をベッドに投げ出すと、リンウェルは眠る準備に取り掛かった。翌日の授業に使う教科書を揃えて鞄に詰め込む。その奥でロウから貰ったキーホルダーが揺れた。もう一つ、自分が付けていたものは鞄の内ポケットに入れたままだったことを思い出した。
そうした夜を何度か繰り返しているうち、テストが終わってから1週間が経った。答案も全て返ってきて、真の意味でテスト期間が終了した。
リンウェルはその日、図書委員の当番だった。放課後に図書の貸出をおこなって、学校を出た時には空がオレンジ色に染まり始めていた。
バスに人はほとんど乗っていなかった。いつもなら同じ学校の生徒がちらほら見えるものの、今日は会社員らしき人とお婆さんが二人だけ。揺れる窓に頭を寄りかからせていると、あっという間に時間は過ぎた。
最寄りのバス停で下りたのももちろん自分だけだった。バスが通り過ぎ、家に向かって歩き出そうとしたその時、リンウェルは己の目を疑った。
道路を挟んで向こう側、小さな商店の自販機の前にいたのは紛れもない、ロウだった。その傍らには知らない女子。何か飲み物を片手に、二人で親しげに談笑している。
ずきりと胸が痛むのが分かった。反射的にその場を離れなくちゃと思ったのは一種の防衛本能だったのかもしれない。一本早く角を曲がって、路地に入る。
足を早めているうち、鼻の奥がツンと痛くなってきた。噛み締めた奥歯がぎりと鳴る。
この時間ならもう父さんも母さんも帰ってきているだろう。今家に帰ったらすぐに夕飯に呼ばれて、部屋に引きこもることもできない。こんな顔を晒すくらいなら、ちょっと寄り道してでも帰宅時間を遅らせた方がましだ。
そう思って、リンウェルは近くの公園へと立ち寄った。子供たちの姿はないとはいえ、どうにもブランコでは目立ちすぎるので、少し迷って端にある滑り台に座り込んだ。金属の板が夕陽のせいでちょっとあたたかい。
ふうと息を吐くと、先ほどの光景が蘇ってきた。あんな楽しそうに話し込んじゃって。私のことは放置したままで、他の女の子とよろしくやっていたわけだ。なるほどなと色々なことが腑に落ちる。
落ちたはいいものの、気分は良くない。もはや落ち込む。昨日も一昨日も、メッセージを送ることができないで悶々としていた自分が恥ずかしい。いや、送らないで良かったのかもしれない。返信が無視でなく拒絶だったら、それこそ耐えられなかっただろうから。
ため息を落とした足元には、数匹のアリがいた。先頭のアリに次いで二番目を行くアリは迷わずその後ろをついていく。ふとしたところで、二番目のアリがふらふらとし始めた。木の枝で道を阻んで一番目のアリの元へ導こうと思っても、なかなか従ってはくれない。それもそうだ。アリにはアリの意思がある。こちらが無理やり方向を示したところで、進む道を決めるのはアリなのだから。
ぐるぐると渦巻く気持ちを砂に描いていると、視界に見覚えのあるスニーカーが現れた。
「何してんだよ、こんなとこで」
顔を上げるとロウがいた。訝し気な視線を私と、手元の枝に向けている。
「何って、別に」
時間潰し、と私は言った。嘘は言っていない。
ロウは一人だった。さっき見かけた女の子の姿はどこにもない。そのことにまずは少し安堵した。安堵したと同時に、腹の底からふつふつと熱いものが湧き上がってくる。
「さっき一緒にいたの、誰」
え、とロウが目を見開く。
「随分楽しそうに話してたみたいだけど」
嫌な言い方をしたなと思った。それも致し方ない、今自分はとてつもなく嫌な気持ちで満ちているのだから。
「私を放って、他の子と仲良くしてたんだ。連絡のひとつも寄越さないで」
「ち、ちが……誤解だって!」
狼狽えるロウに、立ち上がってまくし立てる。
「舞い上がって損した! 二人で遊びに行こうなんて言うから、勉強もテストも頑張ったのに! ひとりで楽しみにしてた私がバカみたいじゃない!」
吐き出すと、視界の中でロウがぼやけていった。惨めだ、こんな惨めなことってない。期待させられて、裏切られて、それなのに傷ついたのは自分ひとりだなんて。
「そんな楽しみにしてたのか?」
悔しさを堪えながら頷いた。当たり前だ、テスト後の休日には予定ひとつ入れていない。家族からの誘いだってまだ返事を濁してあるのに。
「そ、そっか」
何故だかロウが少し笑った気がした。笑い事じゃない、と言おうとして、ロウの目つきが急に真剣なものに変わる。
「聞けよ。お前、何か勘違いしてる」
そう言ってロウが鞄からポケットティッシュを取り出した。袋ごと差し出されたそれを受け取って、黙って目元を拭う。
「言っとくけど、あいつは違うからな。お前が思ってるような関係じゃねーから」
ロウは諭すような口調でそう言った。あいつ、という呼び方がそれなりの親しさ具合を示していることに当の本人は気づいていない。
「なら、どんな関係なの」
「どんなって……隣のクラスの奴だよ」
同級生、と言い直して、ロウが息を吐く。
「じゃあ私たちは?」
考えるより先に言葉が出ていた。ロウの目が再度大きく開かれて、えっと短い声を出す。
「私とロウはどんな関係なの? 私のことどう思ってるの?」
「それは……」
ロウが顔を赤く染めていく。あの朝みたいに。それはもうほとんど答えを言ってしまっているようなものだ。
別にロウとあの子の関係を疑ったわけじゃなかった。少しはそういう憶測もしたけれど、悲しかった理由の大半は放っておかれたことに対してだ。
ロウがどういうつもりで名前を訊ねてきたのか、あの日、連絡先を聞かれた時から薄々気付いてはいた。だから真っ赤な顔をしたロウに負けず劣らず、自分も顔を熱くしたのだ。
とはいえあの時は「もしかしたらそうかも」程度にしか思っていなかった。でも今は「そうだったら良いな」と思う。そう願っている自分がいる。
「……言って」
だからこそ口にしてほしい。そうじゃないと変わらない関係だってある。いつまでも名前のつかない関係でいるのは、もう我慢ならない。
「ええっと……」
何度か視線を泳がせるロウを、リンウェルは食い入るように見つめた。心臓が喉元まで迫るのを必死でこらえながら、夕焼けでなく真っ赤に染まったその顔を瞳に映している。
「す、きなので、付き合ってください……?」
しりすぼみな上に疑問形で発された言葉はどうにも格好がつかなかった。やっぱりこの人はかつて想像していたような人ではない。
「うん、」
それでもリンウェルは一歩、ロウに迫ってみる。
「私も好き」
想いを吐き出してみれば胸がすっとした。先ほどまで渦巻いていたもやもやも、身体を熱くしていたイライラも一瞬にしてどこかへ飛んで行ってしまった。
残ったのは胸のドキドキと、頬の熱だけ。痛いくらいに鳴り響くそれはきっと自分だけのものでないと思うと、自然と笑みが零れた。
自宅までの道を――とはいえものの数分で着いてしまうので、遠回りを繰り返しながら――歩きつつ、二人で色々な話をした。
ロウが連絡をくれなかったのには理由があった。ロウはテスト後から今日まで、放課後はずっと補習を受けていたのだそうだ。
「思ったよりも点数悪かったんだよ。次の日から呼び出されて、そんで終わったのが今日」
一緒にいたあの女の子も補習仲間で、打ち上げと称して自販機の飲み物で乾杯していたらしい。長きにわたる地獄を一緒に乗り越えたとあって、それはもう戦友のように感じられたのだとか。
告白も、遊びに行ったときに言うつもりだったのだとロウは言った。
「それまでになんて言おうか考えておくつもりだったのに、お前が予定外に」
「予定外に?」
「……言えって言うから」
そんな脅迫まがいのことはしていない。それに予定が早まったって悪いことなんて何一つないはずだ。ロウの告白がちょっと不格好になっただけで。
家まであと数十メートルというところでリンウェルは足を止めた。鞄から取り出したのはあのフクロウのキーホルダーだ。
「それって……」
「これは私が元々持ってたやつ」
つまりはロウが引きちぎったもの。切れた紐を別のものに取り替えたのだ。
有無を言わさずリンウェルはそれをロウの鞄に括りつけた。可愛らしいフォルムのキーホルダーはロウの革のバッグには見事に似合っていない。だがそれがいい。そうでないと意味がない。
「これ何だよ」
「虫除けに決まってるじゃん」
小さく口を尖らせてリンウェルが言う。彼女になったのだ、これくらいの主張は許されるだろう。「そんな機能があんのか」と感心した様子のロウは、おそらくその意味を正しく理解できていないのだろうけれど。
再度並んで歩き出すと、肩に掛けた鞄がロウの腕に当たった。ごめん、と言いながらも引くことはしない。手を伸ばせばすぐ触れられるこの距離を、もうもどかしく思わなくていいのだ。
終わり