黒猫になっちゃったリンウェルの話。※獣化(約8,200字)

11.夜道、街灯、黒猫

 本を閉じて顔を上げると、時計の針は11時を回ったところだった。
 机の端にはオレンジジュースの僅かに残ったグラスと白い皿が寄せられている。朝食のパンくずが散るそれをキッチンに片しながら、リンウェルは大きく息を吐いた。
 ――いい本だった。
 ところどころに散りばめられた奇想天外な仕掛けとあの感動のラスト。主人公の苦難が全て報われるようなハッピーエンドに、自分の胸も温かく優しい気持ちになった。願わくばどうか彼女はあの王子と末永く幸せに暮らして欲しい。
 いまだ冷めやらぬ余韻に浸りつつ、腕を持ち上げてぐぐっと伸びをする。目端に映る窓の外の空は澄んでいて、これまた気持ちがいい。
 昨晩から読み始めた小説は思いの外リンウェルを夢中にさせた。童話と謳いながら随分な厚みをもったそれを見つけたのはただの偶然で、奥の書架に見慣れない表紙を見かけたのがきっかけだった。
 それをその場で開いてみて驚いた。ほんの数行読んだだけで世界に引き込まれる。〈図書の間〉に足しげく通っているはずが、まだこんな見落としがあったなんて。リンウェルはそれを小脇に抱えてスキップ半分で家に帰るや否や、食事や眠る支度を早々に済ませてベッドに寝転がると、思う存分読書を楽しんだのだった。
 そうして気が付いてみたらこの時間だ。睡眠を摂ったのもほんの僅かで、朝から朝食の用意をする以外ほとんど動いていない。それらを惜しんでしまうくらいには夢中になれる本だった。
 とはいえこれほど起きているとさすがに眠たくもなってくる。あくびが大きく一つ出て、視界が微かに滲んだ。幸い今日は休日だ。他に予定もない。昼寝をしたところで誰に咎められるわけでもないだろう。
 リンウェルはベッドに横になると、身体に軽く毛布を掛けた。すると、窓際で日向ぼっこをしていたフルルがひと鳴きする。
「フルルもお昼寝する?」
「フゥル!」
「いいよ、おいで」
 小さな翼をはためかせてフルルが胸に飛び込んでくる。その柔らかい羽を撫でると心が徐々に緩んでいくのが分かった。窓から入ってくる風も心地良い。沈む瞼に身を任せると、リンウェルは数分と持たずに夢の中へと落ちていった。

 次に目を開けると、視界に入ったのは白いシーツだった。咄嗟に寝過ごした、と思ったが、時刻は昼を回って半刻というところだ。思ったより時間は経っていない。
 傍ではフルルが毛布に埋もれるようにして眠っていた。時々身体を前後左右に揺らしながら、小さな寝息を立てている。
 フルル、と声を掛けようとして驚いた。声が出ない。
 あれ、と思って喉に手をやろうとしてさらに驚いた。手が、手じゃない。これは動物の手だ。真っ黒い毛にピンクの肉球。ちょっと力を入れると鋭い爪がにょきっと出た。
 ――どういうこと? 
 視線を下げると身体も同様、真っ黒になってしまっていた。正しくは黒い毛に覆われた、何か獣の身体になっている。後ろでひょこひょこ動くのは長い尻尾だった。これまた自在に動かすことができる。できてしまう。
 悲鳴を上げようにも上げられなかった。出るのはか細い「にゃっ」という鳴き声だけで、もしかしてこの声は猫か何かだろうか。
 そこでフルルが目を覚ました。大きな目がぱちりと見開かれる。次第に焦点が合っていく。
 と思うと、
「フ、フギャッ、フリュルルギャ――――ッ!!!!」
 声にならない声を上げて飛び上がった。釣られて大きな声が出そうになった。出ないけれど。
 フルル落ち着いて、私だよ、と言ってみたところで伝わらない。まん丸い目をさらに大きく丸くしたフルルは翼を広げて狭い部屋中を飛び回った。
 待って、と引き留める間もなかった。フルルは僅かに開いた窓の隙間に身体を捻じ込むと、そのまま外へ出てどこかへ飛んで行ってしまった。
 ひとり残されたリンウェルは頭を抱えた。抱えようにも腕が届かないので、実際には立ちすくんでいただけだった。もちろん四つ足で。
 どうしよう。なんでこんなことになったんだろう。考えることがありすぎて、混乱してくる。
 とりあえずベッドを下りて部屋を歩き回ってみた。なんだか変な気分だ。手も足も地面につけながら歩くなんて。
 姿見の前に行くと、そこにはやはり一匹の黒猫が映っていた。これが自分だなんて、ちょっと信じられない。揺らした尻尾がその通り動くのを見れば、この猫は自分で間違いないのだろう。
 どうしてこんな姿になったのかと考えてみて、ふと思い当たることがあった。昨夜読んでいた小説にも黒猫が出てきたのだ。それは主人公が魔女の魔法によって姿を変えたもので、その魔法が解ける前に心から愛する人とキスをしなければならないという話だった。その相手――王子様は呪いでカエルの姿にされていて、彼を探すために紆余曲折を経た壮大な物語が描かれていたわけだが、もし今の自分のこの姿が小説の影響を受けたものだったとしたら――。自分はカエルの王子様とキスしなければ元には戻れないということ? いや、話の本質はそこじゃない。カエルはあくまで演出であって、大事なのは【心から愛する人】という部分のはずだ。
【心から愛する人】。そう言われて思いつくのは、あの頃一緒に旅をした皆だ。自分にとっては家族みたいで、身体の一部と言ってもいいほど大切な人たちだから、きっとそれに当てはまる。
 なら、その中の誰かとキスをしたらいいのだろうか。キスをしたら、元の人間の姿に戻れるのだろうか。なんかちょっと違うような気もする反面、それ以外に思い当たるものもない。いずれにしたってこうして部屋に閉じこもっていても解決はしないだろうと、リンウェルは棚と机を踏み台にして、窓から外へと飛び出したのだった。
 街を歩きながら、誰を当てにしようかと考えた。シオンはどうだろう。動物も好きだし、猫なら可愛がってくれそうだ。抱きかかえられたらその隙を見てちゅっとしてやればいい。成功率で言えばそこそこ高そうだ。とはいえ問題なのはその家の距離だった。シオンたちの家はヴィスキントを出て街道をさらに進んだ先にある。人間の足ならまだしも、猫の姿ではどのくらいかかるか分からない。
 ならばキサラならどうだろう。おそらく宮殿にいるだろうし、距離としてはそこまで遠くない。それに普段からザァレの世話をしているし、黒猫は好きなはずだ。作戦はシオンと一緒で、抱きかかえられたら隙を見て飛び込む。一瞬でも唇が触れれば私の勝ちだ。
 目標は定まった。宮殿のキサラだ。後ろ脚を心持ちちょっと強く蹴り出すと、身体は思いの外大きく前に進んだ。続けて前脚を動かせば飛ぶように走れる。これはいい。猫ってこんな身軽なんだ。
 階段を上り、噴水の横を抜けたところで気が付いた。自分は今猫の姿をしている。猫に対して宮殿の扉が開かれるわけがない。
 案の定、リンウェルが宮殿の門の前に行ってみても、衛兵たちはピクリとも動かなかった。それはそうだ、首輪も付けていない野良猫を中に入れる理由なんてない。
 ちょうどその時、ヴィスキントの住民らしき人が階段を上がってきた。衛兵たちがそれを見て宮殿の大扉を開ける。隙間から忍び込むつもりで駆け出そうとした時、ふわっと身体が浮いた。
「ダメダメ、君は入っちゃダメだよ」
 衛兵の一人が私を抱き上げて外へと運んでいく。
 やめて、離して。私はここに用があるの。
 何を言っても「にゃあ」としかならない。脚をじたばた動かしてみても、その手を振りほどくことはできなかった。猫とは人間を前にこうも無力なのか。
 結局その後も機会を窺ってはみたものの、宮殿に入ることは叶わなかった。衛兵がきちんと見回っていることもそうだが、宮殿自体も窓が閉められていたり、抜け道も無かったりで侵入するにはかなり難しいことが分かった。キサラが外に出てきてくれれば、とも思ったが、そもそも今日宮殿にキサラはいるのか、この大扉から出てくるのか、違うところから出入りしているのではないか、などと疑問が次々浮かんできてしまい、それらをぐるぐる考え込んでいるうち、空はオレンジ色に染まり始めてしまっていた。
 ぐうと、お腹が鳴った。空腹も当然のことで、朝食以来何も食べていない。
 一度家に帰ろうと思い自宅へ向かうと、そこで大きな壁にぶつかった。家のドアが開かない。いや、開けられないのだ。
 昼間、自分が家を出たのは窓からだった。棚と机を伝って、半分ほど開いた窓から飛び出したのを覚えている。
 だが家の外側には足がかりになるようなものはない。窓の位置は高く、いくら猫の脚力があっても飛び越えられるわけがなかった。
 愕然とした。人間の姿だけでなく声も食事も、あろうことか家まで失ってしまうなんて。
 泣きたくなった。声を上げてわんわん泣いてしまえたら良かったのに、口から出るのはやっぱり「にゃあ」という情けない鳴き声だけだった。
 とぼとぼと街を歩いていると、ふいに自分の下に影ができた。日もすっかり落ちて辺りは暗くなり、街灯が点いたのだ。もうそんな時間になったのか、と思って上を見上げると、空には星が瞬き始めていた。色の違いがよく分からない猫の目でも星の明かりは見えるらしい。
 その時、
「フルッ! フッフルル!」
「いてっ! なんだよ、引っ張るなって」
 聞き覚えのある声が聞こえた。
 リンウェルがそちらを見やると、そこにはフルルと、フルルに髪を引かれて歩くロウの姿があった。
「フル! フル!」
 フルルはこちらに気付くと、より強くロウの髪を引っ張った。白い翼で私を指し、何かを必死でアピールしている。
「なんだよ……あ? 猫?」
 ロウは私の姿を見つけるとその場にしゃがみ込み、ぬっと覗き込んできた。大きな影に覆われて、思わず身体が縮こまる。
「なんだよ、お前こいつが気になるのか?」
「フルル、フルッフ!」
「へえ、フクロウでも猫が好きな奴もいるんだな。変わってら」
「フルッ!」
「いててて、悪かったって」
 フルルの攻撃を受けた後で、ロウは私の身体をまじまじと眺め始めた。
「首輪は……ついてねえな。野良か? それにしては毛並みもいいし、やせぎすってわけでもないな」
 どうやらロウは、私がどこかの飼い猫じゃないかと疑っているようだった。
「ケガもなさそうだけど……お前、家は? 家族とか仲間とか、いねえのか」
 猫相手に何を話しているのだろう、と思いながら、私は「にゃあ」と鳴いた。いるけどいない、という意味だ。
「そっか、一人か」
 通じたのか通じていないのか、よし、と小さく呟いた後で、ロウはひょいっと私の身体を持ち上げた。
「……にゃっ!」
「ちょっと我慢しろよな」
 ロウはそのまま私を腕に抱くと、人がまばらになった通りを歩き出した。
 どこに連れて行かれるのかと思っていたら、ロウが向かったのは城門の方だった。
「牧場なら寝床も食い物もあるし、他の猫とか動物もいるからな」
 それを聞いて驚いた。実にロウらしい考えだが、そうなったらますます目的からは遠ざかる。むしろ二度とヴィスキントには戻ってこれないかもしれない。
 どうしよう、と顔を青ざめさせていると、
「フル! フルル!」
 フルルがロウの髪を思い切り引っ張った。
「いってえ! なんだよ!」
「フッフル! フルルッ!」
 今にも千切れそうな勢いでそれをぐいぐい引き、なんとか家の方向に持っていこうとする。ロウもフルルの必死の訴えに何かを感じ取ったのか、足を止めた。
「なんかよく分かんねえけど、こっちはダメってことか?」
「フル!」
「つっても宿に猫は連れてけねえし」
「フル、フルルル」
 フルルが翼で方角を示す。おそらく自宅の方向だろう。
「分かったって。家行けばいいんだろ」
 フルルがそこでようやく満足そうに頷いた。仕方ねえな、と言ってロウは踵を返した。
 自分はその間、何もできなかった。ハラハラしながらロウとフルルのやり取りを見ているだけ。フルルは言葉を話せずともあんなに上手くコミュニケーションが取れているのに。猫とはまったく無力なものだ。
「まだ帰ってねーのか」
 自宅に着くと、暗いままの窓を見てロウが言った。帰っていない、というのは私のことだろう。それはそうだ、私はここにいるのだから。
 するとロウは鞄から鍵を一本取り出した。見覚えのある鍵だ。それを鍵穴に差し込むと、がちゃりと音がした。ノブを回し、ぎいと音を立ててドアが開く。
 何が起きたのか分からなかった。どうしてロウが私の家の鍵を持っているのだろう。
 どうやら私を見つける前にロウたちは一度家に来ていたらしかった。フルルがロウを引っ張ってきて、窓から鍵を渡したのだろう。だがその時には既に部屋に私の姿はなかった。
 その後、街で私を見つけたフルルはロウに私を保護させた。途中ロウが牧場に運ぼうとしたのも引き留めて、こうして無事に家に連れて帰ることに成功した。どれもこれもフルルがいなければ叶わなかったことだ。
 思えばあの時、私はフルルがこの猫の姿にすっかり怯えて逃げてしまったのだとばかり思っていた。だが実際はそうではなかった。フルルは猫になってしまった私を何とかしてほしいと、ロウを探して街中を飛び回っていたのだ。
 なんて健気なんだろう。それに気づかず、悲劇のヒロインを気取っていた自分が恥ずかしくなってくる。【心から愛する人】というならフルルが最も相応しい。フルルにキスをすれば一瞬で元に戻れる自信がある。それも今となっては難しくなってしまった。すっかり疲れ切ったフルルは棚のさらに上にある止まり木で舟を漕いでいる。なんとか起きていようとする努力は見受けられるものの、あれでは眠りに落ちるのも時間の問題だ。
 いや、ここからは自分が頑張る番だ。フルルの思いを無駄にするわけにはいかない。なんとかして人間の姿に戻ってみせる。そうしてフルルに感謝を伝えなければ。
 とはいえこの状況ではもうキサラを探しに行くことはできない。夜も遅いし、窓も閉められてしまっては外に出ていく隙がない。
 じゃあ、と考えてどきりとする。じゃあ、ロウとキスをするしかないのだろうか。
 ロウだってもちろん大事な人だ。立ち位置としてはペットかもしれないけれど、それでも家族のような存在であることには違いない。だからきっと私の中の【心から愛する人】には該当する。それなら何も問題はない。
 ならば何故今、心臓が痛くなるのだろう。シオンやキサラの時には無かった、心がぎゅっと締め付けられるような痛み。顔もなんだか熱い気がする。猫の姿だから、赤くなっているかは分からないけれど。
「はあー、どこ行ったんだよあいつ」
 私がこうして頭を悩ませていることも知らず、ロウは呑気な声を出した。部屋の椅子にどかっと座って身体を揺らし、ぎいぎいと脚を鳴らしている。そんな乱暴に扱わないで、と思わず手が出た。ロウの腕に爪が引っ掛かる。
「お、腹減ってんのか」
 なんでそうなるの、と思ったが、それはあながち間違ってもない。夕飯どころか昼食も食べていないのでお腹は鳴りっぱなしだ。ロウには聞こえないくらいの音で本当に良かった。
 ロウはやや悩んだ後で、部屋の保存庫を覗いた。本来なら怒っているところだが、今は緊急事態だから見なかったことにしてあげよう。
 ロウはミルクの瓶を取り出すと、それを皿に注いだ。
「今はこれで勘弁してくれ。明日んなったら、もっと美味いもん食わせてやるから」
 これで勘弁、とは随分だ。私の家の食料なのに。とはいえ少し安心もしている。ここで生肉や生魚を出されても、とてもじゃないが食べられる気がしない。本当ならアイスクリームやケーキが食べたいところだが、それは高望みというやつだろう。
 ミルクを啜ると、かなりお腹も膨れた。満足した、という意を込めてロウの足元に頬を摺り寄せてみる。
「なんだ、可愛い奴だな」
 可愛い、と言われてどきりとしたが、それは猫の姿の自分に向けられたものだ。決して私、リンウェルに向けられたものじゃない。そう思うとちょっと腹立たしくもなったが、ロウに頭を撫でられた途端、それもどうでもよくなった。なんというか、とても気持ちがいい。手のひらの温度と絶妙な力加減がたまらない。いつまでも撫でていて欲しくなる。
「うにゃあ」
 情けない声が出て恥ずかしくなったが、どうにもこの手には抗えない。
 そういえば、と思い出す。ロウは牧場の動物たちにもいつも追いかけ回されるくらい慕われていた。撫でられた彼らもまたうっとりとしていて、ロウのそばから離れようとしなかった。
 なるほど、そういうことか。今になって彼らの気持ちが分かる。これはなかなか離れがたい。ロウが天性の動物たらしたる所以を身を持って知ってしまった。
 とはいえいつまでもこうしているわけにはいかない。早く人間の身体に戻らなければ。
 ちょっとあざといとは分かっていたが、私は〈アピール〉を試みた。後脚で立ち上がり、前脚をロウの足に掛ける。よじ登るようなポーズをして、まるで〈抱っこしてほしい〉と訴えるみたいに。
「はは、甘えたな奴だな」
 ロウはまんまと引っ掛かってくれた。私を抱き上げたロウは、実に愛おしそうにこちらに笑みを向けた。胸に抱かれると、ロウの顔がすぐそこまで迫る。チャンスだ。
 それなのに身体は動かなかった。少し身を乗り出せば届く距離にロウの唇があるのに、どうしても勇気が出なかった。
「ちょっとごめんな。先に皿片付けちまうから」
 そう言ってロウが私を床へと降ろす。先ほど私が口を付けていたミルクの皿をキッチンへ持っていき、水道を捻って洗い始めた。
 一体自分は何をやってるんだろう。折角の機会だったのに。でも、だって、身体が動かなかったのだ。心臓はまた痛いほど音を立てていた。
 キッチンに立つロウの後ろ姿を眺めているうち、視界がぼやけてきた。うとうととして、目を開けていられない。それも当然か。昼寝をしたとはいえ、あれからずっと街を歩きっぱなしだったのだ。猫は寝子というくらい眠る動物なのだから、突然眠気がやってきてもおかしくはなかった。
 とうとう瞼を上げられなくなって、私は眠ってしまった。身体にまた温かい感覚がしたのを最後に、意識は遠くに消えていった。

 ふと目を覚ましたのは偶然か、あるいは本能的に何かを察したのか。顔を上げると、しんと静まり返った部屋には明かりが点いたままだった。
 立ち上がろうとすると、身体から何かがはらりと落ちた。折りたたまれたタオルは毛布代わりにとロウが掛けてくれたものだろうか。
 何度か目をしばたたかせて視界をはっきりさせる。壁に掛かった時計の針は、ちょうど両方とも天上を指そうというところだった。
 そこではっとした。あの小説の魔法の〈期限〉は、日付が変わる前ではなかったか。
 さあっと血の気が引いていく。まずい、このままでは人間に戻れない。本当に猫のままだ。早く、早くなんとかしないと。
 辺りを見回すと、ロウはベッドで眠ってしまっていた。そこは私のベッドであるとか、今となってはどうでもいい。むしろその方が好都合だ。今のうちにさっさと済ませてしまおう。
 ベッドによじ登ろうとするが、これがなかなか上手くいかない。四つ足で駆けるのは慣れてきたものの、ジャンプをするのはまだ苦手なのだ。
 シーツに爪を立てても今度はそれが引っ掛かって外れない。なんとか縁に前脚が掛けられた時には、数分が経過していた。
 もう少しだ。そう思って身を乗り出す。ロウの顔が迫る。心臓が大きく鳴って、息を呑んだ。もうほんの数センチ、――というところで急に視界が広くなった。
「えっ」
 声が出た。
「……なんだ?」
 目の前でロウの目が開く。
「わあっ!」
「うお、リンウェル!」
 近い! いや、近づいたのは私だけど。
 それよりもどうして。慌てて身体を見回すが、何もかも元に戻っていた。黒い毛もピンクの肉球も、長い尻尾も見当たらない。
「なんで戻ったの?」
「へ? 戻った?」
「キスしてないのに!」
「キス!?」
 え、あ、違うの。咄嗟の言い訳は声にならなかった。声は出るはずなのに。
 時計の針は12時を回っていた。もしかして、キスより先に〈魔法〉が解けたということ? キスしなくても人間には戻れたということ? ならキスって一体なんだったの! 必死で考えていた自分が馬鹿みたいだ。
「な、なあ、キスって……」
 それにこの状況。どうしてくれるの。
 真っ赤になった自分と狼狽えるロウ。どう説明したらロウは分かってくれるだろうか。
 もうどうしたらいいのかさっぱり分からない。
 魔法の解き方も仕組みも教えてくれないのならせめて、魔法が解けたあとの対処法を教えて欲しかった。

終わり