男なら誰しも抱く夢がある。
「なあ、頼むよ」
「イヤ」
口を尖らせ顔を背ける仕草をするリンウェルに向かって俺は手のひらを合わせた。もうこれで3度目だ。
「何がそんなに嫌なんだよ」
「だからそれは、いろいろ」
明確に拒否を示しながらも、その理由については明かしてくれない。
なんでだ、何がダメなんだ。一緒に海に行くことに、何をそんなに拒む必要がある。
きっかけは些細なことだった。最近仕事仲間が彼女と海に行ってきたらしく、その惚気話を延々と聞かされた。「彼女のスタイルが良くて」だの「彼女の笑顔が眩しくて」だの、口を開けば彼女彼女とばかり言うものだから他の同僚たちはげんなりしていた様子だったが、俺は違った。素直に羨ましい、とそう思った。
「一緒に海に行こうぜ!」
そう誘いさえすれば、あとはトントン拍子に進むとばかり思っていた。ところがリンウェルからの答えははっきり一言、「イヤ」。
「なんでだよ!」
「なんでも!」
ぴしゃりと言い放たれた拒絶の言葉には驚いた。そんなことを言われるとは露ほども思っていなかった。
「海嫌いなのか? 前は結構楽しんでただろ」
以前旅を終えた後で、皆で海に行ったことがあった。旅の道中で見つけた孤島にはほとんど人の手が入っていない美しい砂浜が残されていて、今度ここへ訪れるときは羽を伸ばしに来ようと約束していたのだ。
その時は忙しい毎日を送る中での久々の休暇ということもあって、存分にはしゃいだ。自分も、もちろんリンウェルもその例外ではなかったと思う。砂浜を駆けまわり、大将が用意してくれた水着で海水浴を楽しんだ。赤く染まる夕陽が水平線に沈むのを見届け、夕飯には当然キサラが釣り上げた魚料理をたらふく食べた。見上げた夜空には今にも落ちてきそうなほどの星たちが燦然と輝いていたのを今でもはっきり覚えている。
どこをどう振りかえっても文句のつけようがない一日だった。同僚の話プラス、その思い出も込みでもう一度海に行きたいと思ったのだ。
「確かにあの時は楽しかったよ。みんなと居れたし、ああいうのは初めてだったから……」
小さく俯いてリンウェルが言う。その言葉尻はどうにも歯切れが悪い。
それに、あの時は、とリンウェルは言うが、今と何が違うというのだろう。
確かに世界は変わって、今も日々変化を続けている。支配を逃れた人々が娯楽というものに目覚めてからは、その発展こそ目覚ましい。最近では各地へ観光や旅行をする人も増えてきた。
海もその行先としては人気がある。もともと海に馴染みのない人間も多いし、やはり美しい風景に心動かされるのだろう。ヴィスキントからは海まで直接向かえる馬車も出ていて、休日ともなれば乗り場に行列ができるほどだ。
今まさに自分がリンウェルを誘っているのもそうした観光スポットとしての海である。遠いガナスハロスのその先の孤島でなく、日帰りもできるお手軽お気軽な小旅行だ。金銭的にも心配はないし、長い休暇を取る必要だってない。
「時間もそんな掛かんねえし、金なら俺が出すし」
「私が気になってるのは、そういうことじゃないの」
俯いたままリンウェルが首を振った。
「そうじゃなくて、変わったでしょ、私たち」
「変わったって、何が」
「その……こ、恋人になったでしょ」
上ずった声がさらに震える。耳まで真っ赤に染め上げて紡がれた「こいびと」の四文字はまだ不慣れさを隠せてはいない。それを可愛い、なんて言ってみたところで怒られてしまうのだろうが。
「比べられたくないの」
「比べる?」
続けて出てきた言葉には繋がりをいまいち見出せなかった。
「だから……その……」
さらにこちらの視線から逃れるようにリンウェルが顔を背ける。そしてぽつりと、呟くように言った。
「海に行ったら、あの時とは違って他にも女の子いっぱいいるでしょ」
リンウェルが怒っているのでなく、哀しそうに見えた理由。
「私、キサラみたいにスタイル良くないし、シオンみたいに肌もキレイじゃないから」
コンプレックス、とでもいうのだろうか。自分の身体をあちこち見回しながら、リンウェルは口を小さく尖らせる。
「ロウが他の女の子見てるの、イヤなんだもん」
なるほど、これが核心か。どうにも嫌だの一点張りで、その先になかなか見えてこなかったもの。果たしてリンウェルに一体どんな秘密が隠されているのかと思いきや、それは情けなくも自分のこれまでの不届きな行いによるものだったとは。
裏を返せばそれはリンウェルからの愛情表現でもある。視線が自分以外に向くのが嫌だなんて、なんてたまらない殺し文句だろう。往来にも関わらず出そうになった手を瞬時に引っ込めた自分を誰か褒めて欲しい。代わりに繋いでいたリンウェルの手をぐっと引き上げると、それを両の手でしっかりと握った。
「お前しか見ない」
そうはっきりと言い切る。
リンウェルだけを視界に入れる、というのはさすがにちょっと厳しいものがあるかもしれない。物理的に。
だが例えそうだとしても関係ない。俺にとってリンウェルが世界一可愛いというのは言うまでもないが、目に映っているのは初めからただひとりだけなのだ。
「他の奴がどうとか関係ねえよ。俺はお前と海に行きたいんだから」
「……ほんと?」
「ああ」
「他の子にデレデレしない?」
「しない」
「ドーナツ買ってくれる?」
「ああ、……って、ドーナツ?」
「こないだできたばかりの新しいお店のやつ!」
美味しいって噂になってるんだよね、なんて言いながら、リンウェルは視線をこちらにチラチラ向けてくる。
「ああもう、なんでも何個でも買ってやるから!」
やったあ! と声を上げたリンウェルはようやく今日一番の笑顔を覗かせた。
それを見てほっと胸を撫で下ろすと同時に、軽い疲労感も過る。彼女と海に行く約束をするのに、ここまで苦労することになるとは。
とはいえ言質は取った。夢が叶うまではもう一歩。あとは当日までケガも病気もせず平穏に暮らすだけ。休暇の申請だけは忘れないように。
そしてこちらに向けられる期待の目にも応えなければならない。幸い、昨日給金を貰ったばかりだ。10個でも20個でも、好きな数を言うといい。
いくぞ、と手を引いて向かうのはドーナツ屋の方向だ。それが海行きの馬車乗り場よりもはるかに長い列を作っているとは予想もしていなかった。
そうして誓った愛に後悔はない。失った財布の中身にも損があったとは思っていない。だがこれは――。
「なんでこうなった……」
数日経って迎えた約束の日は朝からまさかの大雨だった。窓から眺めた空は一面重たい雲に覆われていて、どこまでいっても青は見えそうにない。この時期特有の局地的で一時的なもの、というわけでもなさそうだ。
「今日くらい晴れてくれよ……」
せめて曇りでも、という悲痛な願いは届かない。俺の心はこの雨に負けないほどの涙を流しつつある。
「昨日の夜あたりからちょっと怪しかったもんね」
隣で空を見上げていたリンウェルが肩をすくめた。残念だったね、という声は心なしかちょっと弾んで聞こえないこともない。
「俺の夢が……」
「おおげさだなあ。いいじゃない、海は逃げないよ」
そうは言っても、逃げるものもあるかもしれない。例えば、時間をかけて口説き落とした彼女の気分とか。
こちらの言いたいことに気づいたのか、リンウェルはいたずらっぽく笑って言う。
「心配しなくても、ちゃんと約束は守るよ。逆に時間ができたし、ちょっとダイエットでもしようかな、なんて」
「ダイエット?」
もともと風で吹き飛ばされそうな身体をしておきながらこいつは何を言ってるんだ。
「そんなの、必要ねえよ」
俺の言葉にリンウェルは「もう、分かってないなあ!」と頬をぷくっと膨らませる。
「私なりにその気になってるって言ってるの! 彼氏にぷよぷよのお腹見せたくないの!」
彼氏、と自分で発しておいて恥ずかしくなったのか、リンウェルは顔をみるみる赤くした。失言でも何でもないのにあわあわと戸惑う表情がいじらしい。
込み上げてきた愛おしさに任せてリンウェルを抱き寄せる。今日は街中でなく、リンウェルの部屋なので許されるだろう。
急に海とか雨とか、どうでもよくなった気がした。もちろん、二人で行くに越したことはないが。
確かに、海に行けば水着姿のリンウェルを拝めるし、恋人らしく甘い時間を過ごせて、極上の幸せを堪能できていたかもしれない。可愛らしい水着を着て浮き輪を被り、砂浜を駆けるリンウェルはまさに天使そのものだっただろう。
それでも自分にとっては、怒って口を尖らせるリンウェルも、甘いものを食べて嬉しそうにしているリンウェルも同じように天使であることに変わりはない。手にしているのが浮き輪だろうがドーナツだろうが、そこに何の違いもありはしないのだ。
「雨だし、ドーナツでも食いに行くか」
と言うと、リンウェルは歓喜の声を上げた。先ほどのダイエットという言葉を繰り返せばきっと、迷いが出るのだろうなと思った。
終わり