人は浮かれるとスキップが出るらしい。
俺は駅からの帰り道を、人目が少ないのをいいことに弾んだ歩調で歩いた。何の変哲もないいつもの通学路が輝いてさえ見える。その理由は放課後、教室を出た際に届いたメッセージにあった。
『今日うち来ない? 誰もいないみたいだから』
続けて首を傾げたフクロウのスタンプが押される。数あるシリーズの中でもリンウェルのお気に入りだ。
俺は思わず二度見した。『誰もいないみたいだから』? 誰も、いない――?
交際を始めて1か月。家が隣同士の幼馴染とはいえ、学年も違えば生活習慣も違う俺たちはなかなか進展がない。それらしいものといえば、この間二人で出かけた時に手を少しばかり繋いだだけだ。それ以外もそれ以上のことも、何も進んでいない。
そうして巡ってきた二人きりになれるこの機会を、俺はまたとないチャンスだと踏んだ。しかもリンウェルの方からそういうことを言ってくるということはその気があるも同然。俺はニヤケそうになる顔を必死にこらえ、ただ一言『行く』とだけ返事をしたのだった。
家に着くなり部屋に鞄を置くと、洗面所へと向かった。鏡を覗いて身だしなみを整える。髪型よし、食べカスなし。ついでにマウスウォッシュも使っておこう。これは念のためだ、念のため。
先ほど寄ったコンビニでは菓子やらアイスやらを適当に買いこんだ。どれもリンウェルの好きそうな甘ったるいやつばかりだ。それらが入った袋を引っ掴むと、俺はこれまたスキップ半分で家を出た。とはいえリンウェルの家は目と鼻の先だ。10秒もかからない。
インターホンを押すと、機械越しにリンウェルの声が聞こえてきた。
「鍵開いてるから入ってきていいよー」
なんて不用心な奴だと思いながらドアを開ける。玄関で靴を脱いだ瞬間、
――パン!
何かの破裂音がした。
「な、なんだ今の!」
驚いてリビングに向かうと、どこか懐かしい匂いが漂ってきた。キッチンには電子レンジを覗き込むリンウェルの姿。
そうしてまたパン、パンと、何かが弾ける音がする。この状況、そしてこのバターのような匂い。
「……ポップコーンか?」
「当たり!」
今度弾けたのはリンウェルの笑顔だった。
「帰りにスーパーで買ったんだ。一回やってみたかったんだよね~」
陽気に言って、リンウェルは再びレンジを覗き込む。きらきらとした瞳にオレンジ色の照明が反射していた。
テーブルの上にはリンウェルが買ってきたと思われる菓子や飲み物の類が並んでいた。ご丁寧にサンドイッチやおにぎりまで用意してある。どうやらこれらは夕飯のつもりらしい。
その奥に見覚えのある手提げ袋が置いてあった。これは駅前のレンタルDVD店のものだ。
「今日は、映画を観ながらお菓子パーティをします」
後ろからそんな声がした。ポップコーンののった皿を手にリンウェルがふふんと鼻を鳴らす。
俺は呆気にとられた。映画? お菓子パーティ? リンウェルはそういうことをするために俺を呼んだんじゃなかったのか。
よく考えてみれば、あのリンウェルに限ってそういうことをするはずがなかった。そもそも家に来ていきなり、はいじゃあそういうことしよっか、となるはずがない。それはおそらく相手がリンウェルじゃなくたってそうだ。
俺は浮かれるあまり勘違いしていたのだ。『誰もいない』という言葉に唆され、てっきりそういうものだと思い込みながら駅前では醜態まで晒してしまった。ひとり鼻歌を歌いながらスキップで歩く男子高校生の姿は、通行人からしてみれば相当滑稽なものに映ったに違いない。
目の前に広がる菓子の海にリンウェルは歓声を上げた。そこに俺が買ってきたものも並べつつ、端末で写真まで撮っている。
「うーん絶景! 毎日やりたい!」
はしゃぐリンウェルを見ていると、なんだか何もかもがどうでも良くなってきた。自分の勘違いも、醜態も、進展だってどうでも良いことのような気がした。
何せ俺たちにはまだ時間があるのだ。そう急ぐこともないだろうと、俺はこの夜をリンウェルとのお菓子パーティとやらに捧げることにしたのだった。
「映画はいいけどよ、ジャンルは?」
デッキにディスクをセットするリンウェルに俺は訊ねた。
「SF。ちょっとびっくりする系」
リンウェルはモニターの調整をしながら、さらりと言った。
その言葉に合点がいく。なるほど、だからリンウェルは俺を呼んだのか。
リンウェルはホラーもサスペンスも観るが、一人では観ないと言っていた。恐怖や驚きは誰かと共有してできるだけ和らげたいらしい。
「でもこういうのって、親がいるとこだと観づらいじゃない?」
まあその気持ちは分かる。とはいえ俺とリンウェルじゃ鑑賞するものが少しというか、かなり違うのだろうが。
リンウェルはソファーに腰かけると、そのままもたれるようにしてくつろぎ始めた。そうして左手でぽんぽんとソファーを叩き、「はい、ロウも座って」と、俺を促す。
まるで子供の扱いのようだと思いながら、俺はリンウェルの隣に腰を下ろした。そうしてジュースの入ったグラスに口をつけ、お決まりの広告が流れ始めるモニターに視線を向けた。
リンウェルの選んできた映画は思いのほか面白かった。リンウェル曰く、「ちょっと前に話題になってたやつだよ。見逃しちゃってたから、借りられてよかった」だそうだ。
確かに話題になるだけはあるなと思った。画に迫力があって、ストーリーにも引き込まれる。俳優の演技もいい。悪い演技がどういうものか、俺には分からないが。
あれこれ思うものの、俺はあまり映画事情には詳しくない。映画館だって、誰か――リンウェルに誘われなければ行かない。
つまり今俺がこうしているのはリンウェルの影響によるところが大きい。リンウェルがいなければ俺は映画とはほとんど無縁だっただろう。
逆に、自分が映画を観られる人間で良かったとも思う。もし何を観てもつまらないと思う人間なら、リンウェルはこうして俺を誘ってはくれなかったわけだ。今の穏やかな時間だって存在しなかったかもしれないと思うと、途端にこのひとときが尊いものに思えてくる。
ふと覗いたリンウェルは、相も変わらず真剣な顔でモニターを見つめ続けていた。笑うところでは肩を揺らし、驚くところではびくっとさせながら、胸に抱いたクッションに身を預ける。
時折その腕は菓子の方へと伸びた。どれにしようかと迷う素振りを見せたところで1つを選ぶ。ポップコーンを運びかけた指が口元で止まった。半分だけ開いた唇に、つい視線を奪われる。
そこでリンウェルが唐突にこちらを向いた。
「音量、もう少し上げてもいい?」
「へっ?」
急な言葉に動揺しながらも、ああ、と返事をする。リモコンを手に取る仕草にさえ鼓動を大きくする俺に、リンウェルは何も気が付いていないようだった。
映画も中盤まで進んだ頃、窓の外が暗くなりかけていることに気付いた。部屋の照明を点けようとカーテンを引いた時、「ちょっと待って」とリンウェルが言った。
「暗いままにしておかない? そっちの方が映画館っぽいでしょ?」
どうやら雰囲気を出したいらしい。目を悪くするのではと思ったが、毎晩暗がりの中で端末を操作している自分に言えたことではない。俺はただ、分かったと頷いた。
そうして部屋が徐々に暗くなっていく中、映画はどんどん進んだ。進むうち、なんだか雲行きが怪しくなってきた。別にバッドエンドに向かっているとかそういうことではない。言ってしまえば、主人公とヒロインにそういうムードが漂ってきたのだ。
もともと想い合っていた二人がそういう関係になることに疑問はなかった。むしろ、早くくっついてしまえばいいのにとさえ思っていた。
キスシーンに入ると、ちょっとドキッとはしたが、それでも恋人関係ならよくあることだ。あっちなら挨拶代わりにもするのだから、と言い聞かせつつ、俺は何とも思ってないふりをしてモニターを見続けた。
だがまさかベッドシーンまであるとは思っていなかった。しかも結構激しい。布の擦れる音がやたら生々しく、演出も相まってかそういうジャンルの映画にしてはかなり官能的な場面のように感じられた。
俺は内心ドキドキが止まらなかった。変な汗まで出てくる。熱いやら寒いやら、よくわからない。まるで全身の毛穴が全部開いたみたいだ。
とはいえここで何か反応するのは負けだと思った。俺は体を凍り付かせ、荒くなりかけた鼻息を堪え、身じろぎ一つしないよう努めた。努めつつ、リンウェルは今何を考えているのだろう、と思った。リンウェルの表情が気になりながらも、あまりの余裕のなさにその横顔を窺うことは結局叶わなかった。
やがて映画はクライマックスを迎え、大団円で物語を終えた。ラスト、怒涛の畳みかけはさすがハリウッドと言ったところだ。
そうはいっても印象に残るのはあの場面だった。そこがこの映画の肝ではないとはいえ、これはもうそういう年齢なのだから仕方ない。
エンドロールが流れる中、部屋に漂う空気には気まずさが混じっていた。いざ映画を終えてみても反応には困った。「良かった」とも「すごかった」とも言えない。どんな感想もあの場面に直結してしまいそうな気がした。あんな場面があるとリンウェルは知っていたのだろうか。
「……なあ」
俺が訊ねようとしたことに気付いてか、リンウェルが先に口を開いた。
「言ったでしょ。親がいるとこだと観づらいって」
クッションに顔を埋めながら、それでも淡々とリンウェルは言った。が、近づいてみるとその頬が真っ赤に染まっていることに気が付いた。
リンウェルの言い草に俺は軽く混乱する。じゃあなんだ、リンウェルはこういう雰囲気になると知っていて、その上でこの映画を二人で観ようと誘ってきたのか。
「私だって、何も考えてないわけじゃないんだよ」
潤んだ瞳のまま、リンウェルは拗ねたように言った。そしてこちらに向き直ると、それまでクッションに預けていた顔をゆっくりと持ち上げる。
途端に緊張が走った。不意に触れたのはモニターのリモコンではなく、リンウェルの手だった。そろりとそれに指を絡めると、リンウェルも応える。
視線が交わった瞬間、まるで時間が止まったようだった。聞こえるのは自分の心臓の音だけだ。世界の音全部を、自分の大きすぎる鼓動がかき消していく。
右手を持ち上げて、そっとリンウェルの頬に触れた。親指でその小さな唇をなぞり、再び視線を合わせる。リンウェルの喉が僅かに動き、息を呑むのが分かった。
いっそう高まった緊張に、俺は意を決した。頬に触れたままぎりぎりまで顔を近づけ、そこでそっと目を閉じる。互いの吐息が掛かるくらいに近づいて、もう唇同士が今にも触れようとしたその瞬間、
――ピンポーン
お行儀の良い音が鳴り響いた。
えっ、と思って、二人で顔を見合わせる。
――ピンポーン
もう一度鳴り響いた音にリンウェルが立ち上がり、部屋の照明を点けた。そうしてすぐさまインターホンを確認すると、
『おーい、二人とも。夕飯買ってきたぞ』
その声を聞いて俺は頭を抱えそうになった。顔なんか見なくても分かる。親父だ。
「うちの親が連絡したのかも。今夜留守にするからよろしくって」
リンウェルが決まり悪そうに言う。
俺は深いため息を吐いた。どっちにしたって過保護すぎるだろう。俺たちもう高校生だぞ。
「あー、くそ」
悪態をつきつつ、ソファーから立ち上がる。そうしてリビングを出ようとした時、
「ロウ」
強く手を引かれた。瞬間、頬に柔いものが触れる。
振り向くと、リンウェルが悪戯っぽく笑っていた。
「続きは今度、ね」
跳ねるようにしてリビングに戻って行くリンウェルを見て、俺はたまらずその場にしゃがみこんだ。
玄関の向こうでは親父の「おーい?」という声だけが聞こえていた。
終わり