ただ、惜しいと思った。
こんな、遠くの星まで透けて見えそうなほど澄み渡った空の日に、外に出ないのはもったいない。農場まで付いてきたのだって、たまには外で本を読むのもいいかなと思っただけだ。
決して、久々に会えたのが嬉しかったからとか、誘われてつい舞い上がってしまったとか、そういうわけじゃない。そういうわけじゃ、ないけれど……。
視線を上げると、向こうではロウが動物たちに取り囲まれていた。皆が皆、我先にとその足元へ群がっている。とはいえそんな光景もすっかり見慣れてしまった。ロウは初めてこの農場に訪れた時からずっと動物たちの人気者なのだ。
ロウはその一匹一匹に声を掛け、頭を撫でてやっていた。よしよし、元気にしてたか? なんて、まるで知り合いの子供にでも会ったかのようだ。まあロウからすれば、手放しで自分のことを慕ってくれる動物たちにはそれと同じくらいの愛情を感じているのかもしれないけれど。
私はといえば、ロウたちからは少し離れた木の下で本を開いていた。腰を下ろすふかふかの草むらはさながら濃い緑色の絨毯のようだ。微かに髪を揺らす風も心地いい。枯草と、土と、水のにおいがする。生き物たちの活力に満ちたにおいだ。
こんな穏やかな陽気の中で読書をするなんて、なんて贅沢なんだろうと思う。おまけに紅茶の入った水筒と片手に摘まむ用のクッキーまで用意してあるのだから、これ以上のことはない。ないはずなのに――。
私は膝の上に置いてある本から、じりじりと視界を動かしていった。広がる草原に佇む動物たちと、その中心にいるロウを捉える。思い切って本から目を離し、そちらの方を向いてみるけれど、ロウはそんな私の様子には全く気が付いていないようだった。相も変わらず頭を押しつけ合う動物たちを構ってばかり。
私は小さく息を吐いて、再び視線を本へと戻した。仕方ない。付いていくと言ったのは自分の方なんだし、手伝いを邪魔するつもりはない。それにロウが動物に好かれることは良いことだ。そんな天賦の才、誰だって持ちうるわけじゃない。
言い聞かせながら、これと似た気持ちを最近どこかで感じたことがあったような気がした。少し考えてみて、ふと思い出す。あれは少し前、二人で街に買い出しに出かけた時のことだ。
市場を歩いていて、ロウがあっと声を上げた。視線の先にいた男の人もロウの存在に気付いたようで、二人はすぐに駆け寄って話をし始めた。体格のいいその男の人はどうやらロウの元仕事仲間で、かつては各地へ荷運びをしていたらしい。
「足をやっちまって今はもう引退したが、当時はロウに世話になったんだよ。仕事を持ってきてくれたり、商人たちと俺たちの間に入ってあれこれやり取りしてくれたりとかな」
「別に大したことじゃねえだろ。俺だって助けられてたんだから、お互い様だ」
ロウの仕事ぶりを誰かの口から聞くのはそれが初めてだった。へえ、と私が感心していると、今度は後ろから声が掛かった。
「あらあら、ロウじゃない。元気してた?」
肩を叩いたのは青果店のおばさんで、ロウが畑に現れたズーグルを追い払って以来の知り合いらしかった。
「あれからほかのズーグルも来なくなったよ。ロウがバシッとやっつけてくれたおかげだね」
「俺にはそれくらいしかできねえからな。またなんか面倒そうなのが来たら、いつでも呼んでくれよな」
胸を張ったロウに、おばさんが「頼もしいねえ」と笑いかける。
話が盛り上がるうち、今度はロウにカラグリアとの交易で世話になったという商人が現れた。と思いきや、一緒に飼い犬を探してくれたという子供が現れ、さらにロウに荷物ごと家まで運んでもらったという老人までもが加わって、その場にはちょっとした人だかりができてしまった。
誰もがロウに感謝し、その親切を称えていた。お礼だと言って渡された菓子や果物でロウの両手はたちまちいっぱいになる。
私はただただ驚いていた。ロウを慕う人が、この街だけでもこんなにたくさんいるなんて。
その中心で照れくさそうに笑うロウ。まるで太陽みたいだと思った。みんなを明るく照らしながら、元気を与える存在。
私はそんなロウを誇らしく思いつつも、どこか寂しい気持ちも拭えなかった。
ロウが遠い存在になってしまったみたいだった。太陽のようで、惹かれてやまないのに、眩しすぎて近づくことができない。
すぐ隣で笑っているはずのロウとの距離が、ぐんと空いてしまったかのように感じられた。
ロウは今日もやっぱり太陽だ。あんなふうに動物たちに囲まれて、幸せを振りまいている。勝手に陰を差しているのは私だけ。
ロウは何も変わっていないのに。今朝、私の家を訪れたロウはいつもの調子で農場に行かないかと誘ってきた。「じいさんの手伝いするけど、一緒に来ないか?」と。
弾む気持ちを抑えて頷いたはいいものの、一人でこうして隅に腰を下ろしている様は別々に行動しているのと同じだ。もっと素直になって「私も一緒に手伝う」とでも言えたら良かったのに。
でも、今の私にそれは難しい。というのも、最近私はロウと上手く目を合わせることができない。視線が交わってしまったら最後、考えていることが全部ロウに伝わってしまうんじゃないかと恐れているのだ。
もし私の気持ちをロウが知ってしまったら――。その先のことは恐ろしくって、恥ずかしくって、とても考えられそうにない。少なくとも、今までの私たちのようには過ごせなくなってしまうのだろう。それが何より一番怖かった。
そんな怯えを抱えつつ、私はまたしても向こうを盗み見る。恐怖とはかけ離れた陽気の中で笑うロウはやっぱり何よりも眩しかった。
その時だった。一匹の羊がのそのそと歩み寄り、ロウの足元へと擦り寄った。伸ばした首をロウに撫でてもらって心底気持ち良さそうだ。
いいなあ、と思う。自分がもし羊だったなら、あんなふうに臆することなくロウに近づけたのに。近づいて、頭を撫でてもらって、もっともっとと首を摺り寄せることだってできたかもしれないのに。
でも違う。私は羊として愛されたいんじゃない。そうじゃなくて、もっとこう――。
そこまで考えて、はああと大きなため息が出る。本を閉じて後ろに倒れ込むと、頭に柔らかい草の感触がした。
羊は臆病な動物だというけれど、私はそれ以上に臆病だ。自分の気持ちに素直になるどころか、心の中でさえそれを言葉にできないなんて。
このままじゃこの気持ちを伝えることなんか到底叶わないだろう。とはいえ今のところ、そんな予定はないけれど。
「なんだよ、もう飽きたのか?」
ふと聞こえた声に心臓が跳ねた。視線を上げると、傍に立ったロウが可笑しそうに笑っていた。
「それとも昼寝か? また夜更かししたんだろ」
「べ、別にそういうわけじゃないよ。ただ、天気がいいなって思って」
思わず視線を逸らすと、ロウの気配が近づいた。ロウはすぐ隣に腰を下ろしたと思うと、そのまま頭の後ろで腕を組み、仰向けになる。
「確かに、いい風だな。こりゃ寝ちまいたくもなるぜ」
「だから、寝ようと思ったわけじゃないってば」
私はそんなふうに言いながらも、内心ドキドキを隠せなかった。前は近くにいてもなんとも思わなかったのに。たとえ触れ合うことがあっても気にも留めなかった。
それが今はただ二人で並んでいるだけで緊張してしまう。いつから私はこんなふうに変わってしまったのだろう。
「なあ」
「……なに?」
「昼になったら、どっかメシ行こうぜ」
「どっかって、どこ?」
「どこでもいいけど、やっぱ肉食えるとこがいいな」
「ロウってば、いつも同じこと言ってるよね」
まあいいけど、と言って私は小さく笑う。相変わらずロウは呑気だ。私の気持ちなんかこれっぽっちも知らないで。
知らないからこそ助かっているとも言える。ロウには変わらずいつまでもそのままのロウでいてほしい。
目だけでちらりとロウをみやると、ロウはふああと大きな欠伸をした。そうしてぼうっと空を見つめては、雲の行方を追っている。
そんな横顔に向かってふと問いかけてみたくなる。
ロウは、ほかに誰かをこうして誘うことがあるの? 誰かと一緒に出かけることがあるの?
私の視線に、ロウは気付かない。
ロウにとって私はどんな存在なの? 友達? 元仲間? それとも――。
以前ロウは言っていた。一度は大勢にもててみたい。それでも本当は、誰か身近な人ひとりにもてればそれで充分だと。
ロウにとって、私は身近な存在?
――好きになっても、いいの?
心の中でとはいえ、生まれて初めて言葉にした気持ちはきつくこの胸を締め上げる。
それに似つかわしくない爽やかな風が、頬に散った髪を優しく撫でていった。
終わり