さて困ったぞ。ロウは腕を組み眉間にシワを寄せると、そのまま椅子の背もたれに体重を預けた。
目の前には二枚の紙が並んでいる。一枚は白紙で、もう一枚はそれと同じ紙に丁寧な文字が書き連ねてあるものだ。
『ロウへ』から始まるその手紙は今朝、リンウェルから届いたものだった。大きなダナフクロウがこちらに向かって飛んできたと思ったら、自分の頭の上に止まった。同時に手元に落ちてきた封筒の宛先は自分で、裏には見慣れたサインが記されてあった。
こういったリンウェルからの手紙は以前にも送られてきたことがあった。そのほとんどが近況を知らせるもので、久々にキサラのご飯を食べたとか、テュオハリムの話を聞いたとか、街でシオンたちに会って一緒に買い物に行ったとか、ごく他愛もない話題ばかりだった。
とはいえ日々を慌ただしく過ごしていれば何気ない日常こそ恋しくなってくる。リンウェルからの手紙は懐かしい思い出をよみがえらせてくれるとともに、どこか張りつめっぱなしの心をふっと緩めてくれる、そんな存在でもあった。
だから今日もそういう気持ちで封を破ったのだ。どんなことが書かれているのかと胸を弾ませつつ、手紙を開く。
内容はやはり、近況報告だった。興味深い本を見つけたとか、商人が遺物を売っていたけど高くて買えなかっただとか。近くで遺跡が見つかったといううわさを聞いたから、今度一緒に探しに行こうとも書いてあった。
そうして最後の文章を読んでぎょっとした。
『たまには返事が欲しいです。返信用の紙と封筒を同封するので、絶対書いてね!』
もう一度封筒を覗き込んでみると、確かにそこには白紙が一枚と、真っ白な封筒が折りたたまれて入れられていた。いつもより厚みがあるなと思ったのはこのせいだったのか。
思わずげえっと声が出そうになった。誰かに手紙を書くだなんてこれまでほとんど経験がない。一通りの文字は書くことはできるが、それだけだ。その上文章にするとなると、きちんと書き上げる自信はなかった。
それでもこうして机に向かったのは、窓の縁に居座るこのダナフクロウのせいだ。リンウェルからの手紙を送り届けた後、どこかに飛び去ったと思われたダナフクロウは何故かこの部屋の屋根の上にいた。帰ってみて上から「ホホーゥ」と声が聞こえて、心臓が口から飛び出るかと思った。
どうしてお前はこんなところにいる。ロウが訊ねても、ダナフクロウは「ホホゥ」と鳴くだけだった。空腹により飛び立てないのかとも思ったがどうやら違った。リンウェルから返事をきちんと受け取ってくるようにと言いつけられているらしい。窓辺で首を傾げつつ、こちらをじっと見つめるさまはもはや監視役か何かのようだ。
仕方なしにネアズからペンとインク瓶を借りてきたのがついさっき。あれからロウは二枚の紙を前にうんうん唸ってはいるものの、何も思いついてはいない。次第に溜まってきたもやもやを発散させるように、今は椅子を前後に傾けている最中なのだ。
時折握るペンの感触にはどうも慣れない。その先端を瓶に浸しては滴るインクを、ロウはただ見つめた。どろどろで黒い。それはそうだ。
そもそも自分は字を書くのが得意ではないのだ。下手だし、時間もかかる。それをこの紙一面に繰り広げろというのか。恥を晒すようなものだ。それもわざわざ何時間もかけて。
次に会うのはしばらく先になるかもしれない。そう告げた時、リンウェルは何の反応も示さなかった。
前回メナンシアを訪れた時だ。翌日にはヴィスキントを発つという日、ロウはそれまで散々言いそびれてきたことをようやく口にした。
「仕事、ちょっと忙しくなりそうなんだよな。だから、次いつこっちに来られるかわかんねえ」
視線は泳いでいたと思う。というのも、リンウェルの反応が怖かったのだ。しばらく会えなくなるかもと告げたところで、もしその返事が「へえ、そう」だけだったらむなしいことこの上ない。リンウェルにとって自分の存在はその程度と言われているような気がして。
その一方であわよくば、と考える自分もいた。あわよくば悲しんだり、寂しがったりはしてくれないだろうか。その表情が一瞬でも翳ってくれればそれで充分。
言ってしまえば、期待していた。静かに鳴り響く鼓動は徐々に大きくなっていく。
そうして思い切って持ち上げた視線の向こう。覗いたリンウェルの瞳には、特に何の色も宿っていなかった。
「そっか。お仕事頑張ってね」
ケガだけはしないように、と付け加えられて、それで終わりだった。
それなのに今になって返事が欲しいときた。ロウは憤慨する。あの時は寂しい素振りも一切見せなかったのに、今ごろになって何故。
とはいえそれもほんの少しだけだ。実際はほっとしているところが大きい。自分の存在は忘れられていなかった。返信が欲しいということは、少なくとも無関心ではないのだろう。
だがそれと手紙を書くことはまた別の話だ。書けないものは書けない。野菜を食べるか食べないか、という類の話ではなくて、どちらかと言えば溶岩の上を歩けるか歩けないか、という方に近い。
いっそのこと「書けませんでした」とだけ書いて送り返してやろうかとも思った。果たしてそれを見たリンウェルはどう思うだろう。先ほどの自分のような気持ちで手紙を開いてたった一言、そう書き記してあったら。
失望だけでは済まないだろうな、リンウェルの場合は。怒りも加わって、次回顔を合わせた時には口もきいてくれないかもしれない。それだけは避けたい。サンダーブレードよりなにより、無視が一番つらい。
だからと言って不可能を可能にする方法は自分には見つけられなかった。机にめり込みそうな勢いで額を机に押し付ける。
リンウェルも手紙を書く時、こんなふうに悩んだりするのだろうか。いや、あいつは頭がいいから、文章だってすらすら出てくるのだろう。丁寧な字をさらりと書き上げて、手紙を送ってよこす。
とはいえそれにかける時間はゼロじゃない。紙を用意する手間、文字を書きつける時間、それにインクを乾かすのだって。
それだけの時間を、リンウェルは自分に割いてくれたわけだ。訪ねるたび「時間が足りない」と口癖のように言い、〈図書の間〉やら遺跡やらあちこちを跳ねるようにして駆け回っているのに、その合間の時間を自分のために使ってくれた。
今自分がすべきは、それに対する誠意を見せることなんじゃないのか。今までの分、全てを返せるとは思わない。それでも、少しでも気持ちを返すべきなんじゃないのか。
思い立ったら早かった。ロウはペンを手に取り、悩んだ挙句、思いついた言葉を机の上の白紙に書きつけた。
そうして今度はその紙を手に外に出る。日の暮れかけた空は薄暗くなりつつあった。まだ間に合うだろうか。駆け足になるロウの後ろを追いかけるようにして、一匹のダナフクロウが飛び立った。
◇
ちょっと強引だったかな。ダナフクロウを見送ってから、リンウェルは小さく息を吐いた。
とはいえこうでもしなければロウは絶対に返事をくれない。今までだって一度も返信を貰ったことはない。自分がこれだけ手紙を送っているのにも関わらず。
だから一回くらいは強請っても許されるはずだ。本当は一回と言わず、何回、何枚だって欲しいけれど。
正直なところ、リンウェルは後悔していた。前回ロウが訪ねてきてくれた時、しばらく会えなくなるかもしれないと言われたのに、ついそっけない返事をしてしまった。
かもしれない、という言葉に油断していたのだ。どうせそんなことを言って、何かと都合をつけて会いに来てくれるのだろうなと思っていた。あるいはいつもより1週間くらい延びるだけだろう、と。
ところが本当にロウはしばらく姿を見せなかった。街の商人によると、カラグリアでは増えた住民のために大規模な開拓を行っているらしく、力仕事の出来る人は総出で作業に当たっていると聞いた。おまけにそれがいつ終わるのかも分からない。相変わらずの人手不足は補えていないようだ。
それを聞いて、急に寂しくなった。こんなに長い間ロウに会えないのは初めてだ。寂しさプラス、不安にもなった。
心の穴を埋めようと思ったわけではない。ただ、ロウとの繋がりが欲しかった。そうして思いついたのが、ロウから手紙の返事をもらうことだった。
きっとロウは渋るだろうな。覚悟はしていた。文字を書くのは苦手だと言っていたし、ロウが誰かに手紙を書いているところなんか想像もつかない。
だからこそロウからの手紙には意味がある。そんなふうに考えてしまう自分は意地が悪くて、自分勝手だということも重々承知していた。
「フル! フル!」
予想外にそれは早かった。フルルが窓に向かって声を上げる。
大きくなる自分の鼓動をリンウェルは確かに感じていた。ひと息に窓を全開にし、その大きさすれすれのダナフクロウを迎え入れる。
その姿を目にして驚いた。彼の爪が捉えていたのは手紙ではなく、白い紙で包まれた小さな花束だった。ピンクやオレンジ、黄色の花が取り留めもなく束ねられている。その大きさも、種類も、本数もまちまちだ。
花束を手に取ってみると、花を包む白い紙の手触りには覚えがあった。これは自分が同封した返信用の白紙だ。
途端に肩から力が抜ける。どうやらこれはロウからの返信ということで間違いないらしい。手紙でなかったのは大方書けなかったとか、おそらくそういう理由だろう。
それにしても、まさか白紙を花束を包む紙に使うなんて。
「いつからこんな知恵つけたの」
リンウェルは独り言ちる。それはもう、心底悔しそうに。
だってこんなの、ロウらしくない。こんなロマンチックな返事は予想外すぎる。
この花たちはどうしたんだろう。ウルベゼクの花屋で買ったのかな。あるいはその辺でロウが探してきたのかもしれない。手紙を書くロウも想像がつかないけれど、花を探すロウも想像がつかない。そんな想像もつかないことを、ロウはしてくれたんだ。ほかでもない、自分のために。
リンウェルの口からふふっと小さな笑みが零れる。
「大事にしなきゃだね」
それに応えるようにしてフルルが嬉しそうに羽をはばたかせた。
部屋に飾ろうか、それとも押し花にしようか、考えあぐねている時だった。リンウェルはふと紙に染みた黒いインクに気が付いた。
そっと紙を解き、広げてみる。そこには不器用な字で『また会いに行く』とだけ書いてあった。
終わり