帰りのホームルームを終えると、俺は誰よりも早く教室を出た。階段を下り、昇降口を飛び越え、自転車に乗って全速力で校門を後にする。駅に向かうためだ。
今日は3月14日。ホワイトデーだった。
今朝はいつもよりも早く起床し、朝食を食べ、身なりを整えて、それからずっと道路側の窓から隣の家の様子を窺っていた。背後から感じる、訝しげな親父の視線には無視を決め込んだ。
そうしてリンウェルが家を出たタイミングで俺も家を出た。偶然を装い、たまたま時間が重なっただけのようなふりをして。
「おはよう、ロウ。今日はこの時間なんだ」
「お、おう。少し早く目が覚めちまって」
嘘は言っていない。視線を泳がせつつ返答する。
自転車を押し歩きながら、鞄の隙間からその中身を確認した。大丈夫、包装は崩れていないようだ。
もうすぐ大きな通りに出ようという時、俺は意を決して、
「り、リンウェル」
リンウェルを呼び留めた。
「なに?」
振り返るリンウェルに向かって、俺は用意してあったものを差し出した。
「……これ」
包装紙の下は、缶に入ったマシュマロだった。昨日、部活の帰りに駅前の店で買ったのだ。
「バレンタイン、チョコくれただろ。だから、その、お礼っつうか」
そこまで言うので精いっぱいだった。俺はリンウェルの顔も見ることができないまま「ありがとな」とだけ言うと、自転車に飛び乗り、半ば逃げるようにしてその場を後にしたのだった。
思い返してみればなかなかに格好のつかない朝だったのに、学校に着いた俺は何故か達成感で満ちていた。そのまま部活の朝練にも参加し、心地よい汗を流した。着替えと体力を余計に消耗したのにもかかわらず、まったく気にならなかった。これまでにないほど清々しい気持ちだった。
そうして今日1日を気分良く過ごすはずだった。だがそれは昼休みで突然ひっくり返る。クラスの女子たちが話しているのを偶然聞いてしまったのだ。
「ホワイトデーにもらうお菓子にも意味があるって知ってた?」
女子の1人が雑誌を片手に得意げに語りだす。
「何それ。知らないかも」
「クッキーだと『友達でいましょう』で、マカロンだと『あなたは特別な存在です』なんだって」
「ええっ、そうなんだ。私、弟からマカロン貰っちゃったよ~」
きゃあきゃあと話が盛り上がる。
「じゃあアメは?」
「えーとね、『あなたが好きです』だって」
「じゃあマシュマロは?」
マシュマロ。その言葉に心臓がどきりと音を立てる。
「マシュマロはね……『あなたが嫌いです』らしいよ」
「うっそだろ!」
俺は声を上げると同時に立ち上がっていた。それに驚いた女子たちがこちらを振り返る。
「……どうしたの?」
「い、いや、なんでもない」
ふるふると首を振って、俺はそのまま自分の席に着席した。古びた椅子がぎいっと音を立てる。
俺は自分の顔からさあっと血の気が引いていくのを感じていた。なんてこった。まさかお返しのマシュマロにそんな意味が込められていたなんて。
冷や汗が流れて、動悸がし始める。まずいぞこれは、なんとかしないと……。
午後の間中考え続け、思いついたのが「お返しの上書き」だった。今日のうちはまだホワイトデーなのだ。挽回には間に合うはず。
そうして迎えた放課後。駅前に自転車を止めると、俺は早足で店に向かった。昨日、例のマシュマロを買った店だ。
ところがそんな店は存在していなかった。まさか、と思う。
いや、存在はしていた。ただ、昨日まではホワイトデーのフェアをやっていたため、そののぼりが立っていた。今日になってそれが取り払われた結果、俺はその店の存在にしばらく気付けなかったのだ。
その店は今やただの雑貨店と化していた。こちらが元々の姿とはいえ、少し物足りない感じが否めない。
店に入り、周囲を窺ったが、昨日あったようなホワイトデーを謳ったワゴンはどこにも見当たらなかった。どうやら早々にフェアは終了してしまったらしい。
店の棚に並んでいるのは菓子ではなく、女子が好みそうな可愛らしい雑貨の数々だった。何かマシュマロでないものでお返しをしたいとはいえ、これでは一体何を選んでいいのかわからない。この目移りし放題の棚の中から正解を選ぶなんて、経験の浅い自分にはどんな科目の試験よりも難しいことのように思えた。
焦りが足元からじわじわと這い上がってくる。時刻はもうすぐ夕暮れを迎えようとしていた。
自宅の前に自転車を止め、まっすぐ隣の家に向かうと、インターホンの呼び出しにはリンウェルが出た。背後の気配を察するに、家にはほかに誰もいないようだ。
「どうしたの? 何か用?」
玄関の扉を開けたリンウェルは不思議そうに首を傾げていた。
「あー、いや、その……」
なかなか次の言葉を紡げないでいる俺に、リンウェルは「とりあえず上がったら?」と促してきた。俺は「おう」と頷き、中に足を踏み入れる。
俺がこうしてリンウェルの家に来るのはそう珍しいことではない。親同士の仲が良い幼馴染である俺たちは、互いの家が第2の家であるかのように過ごしてきた。それは自分たちが高校生になっても変わることなく、今でも家族ぐるみで食事をしたり、一緒に出かけたりすることもある。ついこの間もリンウェルの家で夕飯をごちそうになったばかりだった。
それなのに俺は今ものすごく緊張していた。今朝の比ではない。どうしてこんなドキドキしているんだろう。その答えを俺は知っていた。前を歩くリンウェルの髪が揺れる。
リビングに入ると、電気ケトルから湯気が立つのが見えた。
「ちょうど今、お茶淹れようと思ってたんだ」
ロウも飲む? とキッチンに立ったリンウェルが戸棚からポットを取り出す。トレイに置かれたティーカップの横には、見覚えのある缶が置かれていた。
「そ、それ!」
「なに? これがどうかしたの?」
目の前の缶を手に取り、リンウェルが首を傾げる。
「それ、中見たか?」
「マシュマロでしょ。さっき開けて確認したよ」
俺はがっくり項垂れた。もしかしたら、と一瞬思ったのだが、ひと足遅かったらしい。
「そ、それの意味、知ってるか」
おそるおそる訊ねると、リンウェルははじめ、よく分からないといった表情をしていた。だが「意味」という言葉で何かを察したようだ。
「ああ、あのホワイトデーに貰うお返しにも意味があるっていうやつ? マシュマロは確か……」
思い出そうとするリンウェルを遮って、
「ち、違うからな。俺はそれにそういう意味があるって知らなくて……!」と何とか弁解しようと試みた。とにかく誤解を解きたくて必死だったのだ。
そんな俺の様子を見るなり、リンウェルはくすくすと笑い出した。そして「なるほどね」と言って、改めて缶の中身を覗き込む。
「そんなの気にしなくていいのに」
あっけらかんとリンウェルは言った。思わず、え、と気の抜けた声が漏れる。
「だってロウがそんなの知ってるはずないじゃん。女の子だって知らない人もたくさんいると思うよ」
思えば確かに、クラスの女子も初めて聞いたと言っていたし、話していた方も雑誌を読んで知ったという口ぶりだった。
俺はあの時、ホワイトデーにマシュマロのお返し=嫌いを表すということに衝撃を受けるあまりその真偽を確かめずにいたが、どうやらこれはごく一部の界隈で広まっているいわば流言のようなものらしい。よく考えてみればそれもそうだ。マシュマロにそんな意味があって、それが広く知られているのなら、ホワイトデーフェアのワゴンにマシュマロが積まれているはずがないのだ。
「知ってたって関係ないよ。ロウが選んでくれたってことに意味があるんだし」
それが嬉しいの、とリンウェルは朗らかに言った。
でもそれじゃあこちらの気が済まない。俺は鞄から先ほど購入したものを取り出すと、ずいっとリンウェルの前に差し出した。
「何これ」
「いや、だから、そのままなのもアレかと思って」
お返しの上書きだと言えば、リンウェルは律儀だなあと笑った。
「でもせっかくだし、貰っておこうかな。……あれ、でもこの重さ、お菓子じゃないね」
ぎくりとした俺の様子には気が付かず、リンウェルは包装の青いリボンを解いていく。中から姿を現したのはよくある形のマグカップだった。
「わ、悪いな、そう珍しいもんでもなくて……」
俺は誤魔化すようにそう言った。泳ぐ視線の片隅でリンウェルがふふっと笑った気がした。
「ねえロウ」
不敵に口角を上げながら、リンウェルが言った。
「これにはどんな意味があるの?」
「……へ?」
俺が買ったマグカップを手に、リンウェルがじりじりと迫ってくる。
「マシュマロにはああいう意味があったけど、ホワイトデーに貰うマグカップにはどんな意味があるの?」
なんだそれ、と思いながら、思わず端末を取り出そうとした俺の右手をリンウェルの左手が制す。
「だめ。私はロウに聞いてるの」
「え、えっと、」
これはもはや観念しなければならないか。高鳴る鼓動を抑えながら、俺は静かに息を呑む。
とはいえこいつはおそらく気づいているんだろう。そのマグカップ自体に意味はないってことに。
リンウェルの右手で光る真っ新のそれは、可愛らしいキャンディーの柄を纏っていた。
終わり