学パロ。ひたすらリンウェルについていくロウの話。匂わせ悲恋。(約3,400字)

17.お財布、電車、喫茶店

 帰宅して制服の上着を脱ぎかけた時、ベッドに投げ出してあった端末の画面が光った。
 着信元はリンウェルで、いったい何の用だと思いながら通話ボタンを押す。
〈もしもし?〉
〈……もしもし、ロウ?〉
〈なんだよ、どうかしたか〉
〈べつに、急用ってわけじゃないけど〉
 数秒の間が空いた後で、
〈……ちょっと散歩に付き合ってくれない?〉
 喧騒に紛れて、そんな声が聞こえた。
 わかった、と即答した後で電話を切ると、もう一度制服の上着を羽織る。鞄の中から財布だけを取り出してポケットに突っ込み、急ぎ足で家を出た。
 リンウェルの居場所はおおよそ見当がついた。電話口の背後で聞こえたがやがやとした騒音はおそらく駅か、その周辺のものだろう。予想通り券売機近くの柱にもたれかかっているリンウェルを見つけると、さらに歩幅を大きくした。
 俺が近づくとリンウェルは手元の端末から顔を上げた。
「早かったね。家にいたの?」
「ちょうど着いたとこだったんだよ。ほとんど引き返してきたようなもんだ」
 そっか、と言ったリンウェルはまだ家には帰っていないようだった。教科書の重みで不格好に引き攣れた鞄を肩にかけ直し、カーディガンのポケットからパスケースを取り出して言った。
「じゃあ、行こっか」
 つかつかと歩き出すリンウェルと連れだって改札を抜ける。見上げた時計の針は午後4時を回るところだった。
 リンウェルが乗ったのは通学に使うものとは別の路線の車両だった。大きい駅を通過するためか、学校帰りの学生やスーツを着た会社員でそれなりに混んでいる。座席は確保できなかったので、俺はリンウェルとドア横の手すりがある位置に身を寄せた。
 ほどなくしてドアは閉まった。電車は左右に大きく揺れながら、無機質で規則的な音を立てて進んでいく。日頃あまり利用しない路線だからか、窓の外に流れる風景はどこか新鮮なものに思えた。実際はよく通う本屋の入ったビルや映画館のある商業施設など、馴染みのある建物ばかりが並んでいるのに。
 ふと視線を落とすと、リンウェルも窓の外に目を向けていた。先ほどまで手にしていた端末はなく、鞄を両手に抱えるようにして半分壁に体を預けていた。ぼうっと外を見つめる様は風景を眺めているようにも見えて、一方でその瞳には何も映っていないようにも見えた。まるで持ち主のいない鏡のようだ。それを覗き込む者はおらず、ただひたすら目の前の光景を映し出すだけ。
 都市部の駅まで来ると、路線を乗り換えることになった。奥まったホームに人の影はまばらで、これから帰宅ラッシュを迎えるというのにまるでどこ吹く風だ。
 10分程度待っただろうか。ようやく現れた車両はこれまた物寂しい雰囲気だった。たった数両しか連なっていないのに満員となることもなく、電車は静かに走り出した。今度こそ窓の外には本物の見慣れない風景が広がっていた。
 しばらく走ったところで、どうしてリンウェルがこの路線を選んだのかその理由がわかった。
 昔ながらの住宅が並ぶ間を抜けると、見えてきたのは海だった。オレンジ色に染まる空から強い光を放つ太陽が今にも水平線に沈もうとしている。海面に反射した光が太陽に繋がる一本道のようにも見えて、俺はなんとなくその景色に懐かしさを覚えた。
「降りよう」とリンウェルが言ったのは、浜辺がもうすぐそこにまで迫る小さな駅だった。ほとんど直結ともいえる石階段を下りると、足元に広がったのは海からの風で中途半端に湿った砂浜だった。
 夏の間は海水浴に来る客で賑わっているのだろう。向こうには海の家らしき小屋もいくつか見えた。冬も間近に迫った今では自分たち以外にほとんど人は見当たらず、遠くに犬を連れた人が歩いているのが見えるだけだった。
 そんな浜辺を、リンウェルはどこか楽しげに、それでいて慎重に歩いていた。革靴に砂が入らないよう気を付けているのか、覚束ない足元に注意を向けつつ、それでいて時折海の方をじっと見つめては潮風に流される前髪を払いのけていた。
 ふと覗く横顔は嬉しそうにも見えたし、今にも泣き出しそうにも見えた。リンウェルが今どんなことを考えて、どんなことを思っているのか俺にはさっぱり見当がつかなかったが、ただ、海を映すその瞳があんまりきれいなので、俺はそれから目を離すことができなかった。
 海の家に人の気配はなかったが、周辺の喫茶店は営業していた。これまた浜に近い店を選んで二人で入ると、気の良さそうな女性が席に案内してくれた。海が浜辺ごとよく見える、窓際の席だった。
 飲み物を注文し終わったところで、ようやくリンウェルがまともに口を開いた。
「よくついてきてくれる気になったね。どこに行くともいわないのに」
 第一声がそれだったので、俺は思わず苦笑した。
「おいおい、随分な言い草だな。ちょっとくらい感謝しろよ」
「だって、感謝より先に驚きが来ちゃって。『散歩についてきて』しか言ってないのに、まさかここまでしてくれるとは思わないじゃない?」
 電車も乗り継いで、勝手に海にまで連れてきたのに文句も言わないし、おまけにお茶まで付き合ってくれるなんて。
 ちょっと人が良すぎない? と指摘されて初めて、そうかもしれないという気持ちが芽生えた。
 それでも、自分がこうすることに何の違和感もなかった。むしろそれ以外の選択肢こそ存在しなかったが、さすがにそう口にするのは気が引けたので、俺はからかうように軽く笑って見せた。
「まあ、確かにな。行先次第では帰れなくなってたかもしれないしな」
 そう言ってテーブルに置いた財布を大げさに叩いてみせたが、実際はそこまで中身は寒々しくない。むしろ先日得たバイト代で普段よりかは温かくなっていた。
 俺がここまで来たのには理由があった。それは俺が親切だからでも、金銭に余裕があったからでもない。
 かつて、自分に誓った約束事があったのだ。――リンウェルを一人にしない。
 もともと家族ぐるみで仲の良かった俺たちは、幼い頃からずっと行動を共にしていた。家の周りでも、外出先でも。それが当たり前で、日常だった。
 ある日のことだ。リンウェルが迷子になった。
 祭りか何かの催しがあって、俺が食べ物の屋台に気を取られている際に繋いでいた手が離れてしまった。ほんの一瞬の出来事だった。リンウェルが人波に流されたと思うと、その姿も声もあっという間に消えてしまった。
 木陰に隠れるようにして泣きじゃくっているリンウェルをなんとか見つけ出した時、リンウェルは震える声で何度も言った。
「もう、ひとりにしないで……」
 その時俺は自身に誓った。リンウェルを一人にしない。必ず目の届くところに置いておく。
 それからというもの、俺はその誓いを胸に秘めつつ日々を過ごしてきた。中学に入ってからも、高校生になってからも、できるだけ近い場所でリンウェルを見守ってきた。
 今となってはもはや習慣みたいなものだ。リンウェル本人はといえば、迷子になったこともそんな言葉を吐いたことも、何もかも忘れてしまっているのだろうが。
 目の前で温かい紅茶をすするリンウェルは機嫌が良さそうに見えた。少なくとも電車に乗って外を眺めていた時よりは遥かに穏やかな表情をしていた。
「……何があったか聞かないの?」
 リンウェルはそう言ったが、俺は首を振った。
 リンウェルにどんな事情があろうとなかろうと関係ない。俺はリンウェルが会いたいと言えば会いに行くし、ついてきてほしいと言えばついていくだけなのだ。
 リンウェルは「ふうん」と言って手元の端末に目をやった。そこに何が映っていたのか俺にはわからない。それでもリンウェルはどこか観念したように息を吐くと、「そろそろ出よっか」と言ったのだった。
 外に出ると、辺りは暗くなり始めていた。ぽつぽつと浮かび上がる星は今にも消えてしまいそうなくらい儚い。ほんの瞬きをした瞬間に、どこかへ跡形もなく消え去ってしまいそうだ。
 帰りの電車まではもう少し時間があったので、駅のそばでもう一度海を眺めることにした。あれほど煌々と光を反射していた海も今はそのほとんどが闇となって、わずかに白波が押し寄せるのが覗くだけだ。
 朽ちかけたテトラポットに座ってリンウェルが言った。
「今日はありがとね」
 来てくれて嬉しかった、と口にするリンウェルの表情は暗くてよくわからない。言葉通りなのか、あるいはもっと別の感情なのか。
 最後、波音に紛れて呟くリンウェルの声を、俺は聞いた。
「……どうしてロウじゃないんだろう」
 遠くで列車の訪れを知らせる汽笛が鳴り響くのが聞こえた。

 終わり